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西澤1飛曹の神業操縦2009年01月13日 13時50分01秒

チョー手抜き西澤1飛曹
西澤さんの性格ばかり書いて、戦闘機乗りとしてどうだったかは後回しになっている感のあるママのブログ。

本当は西澤さんが「気の重いヤツだった」とか「狷介だった」とか「皮肉屋だった」とか、「泳げなかった」とか「マムシの黒焼きかじっていた」とか、そんなことが言いたいわけでなく。

西澤さんがいかにすばらしい零戦乗りだったか、いつかここでそれを大いに語りたいと思っていました。
今日から語り始めることにしました。

一度に書くと、また、
「ママ、海軍のことになると長すぎ(-.-)」
とブー垂れるやつがいるので(約1名)、何回かに分けて書くことにします。

1回目の今日は、台南空時代の西澤さんの神業操縦を偲ばせるお話。

以下のお話は、『攻防 ラバウル航空隊 発進篇』森史朗 に出てくるお話ですが、最初にお断りしておきますが、「西澤さんである」とは断言できない話です。

米航空史家マーチン・ケーディン『ZERO FIGHTER』の中に出てくる、爆撃隊の操縦士の証言らしいのですが・・・・。

『われわれが、ニューギニアの北東海岸から右に旋回しようとしていたとき、再びあの零戦が突進してくるのを見つけた。彼は右横方向から浅い急降下で近づいてきた。すごい速度だった。旋回しているかと思うと、突然、おどろくべき速度でうなりを立てて、われわれの上空にやってくる。手をのばせば、とどきそうな距離まで肉薄してきた。彼はほんとうのプロだ。弾薬を浪費するようなことはしなかった。すべるように目の前に現れた。横滑りをしているのではない、全速力を出しながら、滑り込んでくるのだ。いや、まったくのベテランだった。
新米はたいてい遠くから弾丸をまき散らす。だがこのプロは、近接射撃に最良のチャンスを狙っていた。しかし、こちらの出方を読んで、接近できないと諦め逃げようとした。
私の上部砲塔の射手ジョンストンがこの零戦を狙っていた。ジョンストンは、零戦が突然パッと上に下に動いたと思うと狂ったように捻りまわるので、機関砲で追うことができなかったと報告した。』

森さんはこの凄腕零戦搭乗員のことを「おそらくは西澤1飛曹であったかもしれない」と書いていますが、前後を読んでみても、西澤さんである証拠は何もなさそうです。

この話は、17年5月28日にラエに来襲したB26を笹井中尉や坂井さんが追っ払った話の続きに出てくるので、いままで、ずっと、そのときの話だと思っていたのですが、自分で調べてみると、西澤さんはこの日、中島飛行隊長とともにモレスビー攻撃に出撃していて、B26邀撃には参加していませんでした。

この証言をした人がいつ凄腕零戦に襲われたのか、書かれていないのでわからないのですが、もし、28日だとしたら、モレスビー攻撃に行かずに基地に残って邀撃に上がったうちの誰か、ということになります。
28日以外のことだとしても、当時、台南空には坂井さんや太田さんなど、技倆的にも、しつこさにも定評のある搭乗員がわんさかいたので、西澤さんだとは限りません。

まあ、でも、西澤さんの戦いっぷりを想像するにはもってこいの描写。
文中「逃げようとした」という部分が妙に引っかかります。「逃げようとした」ではなく、「出直そうとした」ってことで。
どっちでもいいですが、「ムリはしない」というところが老練な感じがしますねー。
森さんじゃなくても、「西澤さんに違いない」と思いたくなるような操縦ぶりです。

前に、西澤さんと練戦乗りたい♪なんてアホなことを書きましたが、↑こんな操縦をされたら、振り落とされるか、酔って目が回って気絶するか、とにかく、無事に地上に戻れそうにありません。

流星2009年01月09日 13時11分50秒

ベテラン艦爆兄ちゃん小瀬本國雄さんの『激闘艦爆隊』、読み終わりました。

小瀬やん、もともと艦爆乗りで、99艦爆、彗星艦爆に乗って戦っていたのですが、本土防空戦においては乗機を流星(改?)に変え、木更津基地の攻撃第5飛行隊(K5)で終戦まで戦い続けます。

流星という飛行機は、雷撃も爆撃もできる兼用機です。翼が「へ」をひっくり返したような特徴のある形をしています。

終戦の頃には飛曹長になっていた小瀬やんにも特攻命令が下されました。
8月14日。
攻撃待機を解いて、宿舎に帰ろうとしていたところを、隊長に呼び止められます。
「明15日午前10時、敵機動部隊に対し、特攻攻撃を決行してもらいたい」

小瀬本機の機長である偵察員の山木中尉はいつもと変わらぬ表情で、
「承知しました」

そこで、1番機小瀬本國雄飛曹長(操)・山木勲中尉(偵)、2番機縄田准二1飛曹(操)・中内理1飛曹(偵)の2機が第7御楯隊第4次流星隊として編成されました。

小瀬やんのようなベテランでも、なかなか眠れないまま翌朝を迎えてしまったそうです。
(小瀬やんには恋人がいたような・・・・)

15日、10時50分、離陸。
2機は敵機動部隊目指して南東方向に向かいました。

小瀬本機、途中で脚故障。
脚の収納ができなくなってしまったのです。脚が出たままだと、スピードが出ません。
機長の山木中尉と相談して、いったん、2機揃って基地に引き返そう、ということになりました。

小瀬やんは列機の操縦、縄田兵曹に引き返しの合図を送ります。
「了解」
と応じてきたので、小瀬本機は反転します。
そして、振り返ってみて驚きました。引き返しを了解したはずの列機の姿がなかったのです。
縄田機はそのまま敵機動部隊を目指して行ってしまったのです。

小瀬やんは、合図を見間違えるはずはない、と言っています。
なら、確信的に、命令違反をして行ってしまった、ということです。
「にっくきアメ公をおれの手で沈めてやる!」
と怒りに燃えて向かっていったのか、それとも、
「いま、戻っても、遠からずまた行かされる・・・・なら、いっそ、もう、今日・・・・」
そう思って、引き返さなかったのか・・・・。
縄田兵曹、中内兵曹ともに戻らなかったので、いまとなってはかれらの気持ちはもうわかりません。

脚故障でスピードのでない小瀬本機は追いかけていくこともできず、単機、木更津に戻ってきてしまいました。

そして、1時間もしないうちに玉音放送を聞くことになったのです。

「縄田よ、中内よ、許せ・・・・」
小瀬やんは胸も張り裂けんばかりだったでしょう。
特に縄田兵曹は、宇佐空の教員時代、小瀬やん自らが手をとって教えた教え子でもありました。

玉音放送の2時間前に特攻出撃させる・・・・。
隊の上層部は知らなかったのでしょうか?
かれらが突入する頃には戦争が終わる、ということを知らなかったのでしょうか。

祝!! 小川村!!\(^O^)/2009年01月06日 19時35分48秒

西澤さんのふるさとである長野県小川村がにほんの里100選に選ばれましたっ!!

わーっ\(^_^)/

どんなところか知りませんが、おめでとうございまーす(^O^)。

ママは少しでも西澤飛曹長に近づくため、「小川村」と名のつくものは見境なく手に入れます。

全国うまいもの市で見つけた「小川の庄」の「おやき」は当然。

↑ときどき生協で見かける小川村のごはんの友。これは青唐辛子味噌ですね。正直言って、ママ、苦手です(^^ゞ でも、「小川村」なので買います。買って、辛いの我慢して、味わいながら食べます(>_<)。西澤飛曹長に思いを馳せながら、涙を流しつつ、食べます(T_T)。

だって、「西澤飛曹長も食べたかも!?」ってもの、食べたいんですよお(o^^o)。

現段階のママ調査で、確実に西澤飛曹長がこれを食べたっ!とわかっているものは、「マムシの黒焼き」のみです。
さすがにママでもマムシの黒焼きにはチャレンジする勇気はありません。
なので、「おやき」とか、「青唐辛子味噌」を食べて、それで西澤飛曹長と同じものを食った気分になる、と・・・・。はははっ(^o^)。

(注:「青唐辛子味噌」、おいしいか、おいしくないかと聞かれれば、間違いなく「おいしい」。でもママ、辛いのが苦手なんですよ~(T_T))


『テレビ朝○系列では11日から毎週日曜日午後6時56分~7時に「にほんの里100選」を放送する。』らしいので、はりきって見るぞ~!
小川村、録画するぞ~!

新春初妄想2009年01月06日 09時46分58秒

画像はイメージ
いつも見ているブログに、
「飛行機怖いけど、坂井三郎さんの操縦なら乗ってみたい」
ということばがあったのに刺激され、ママもつい、
「わたしも飛行機怖いけど、西澤さんの練戦乗ってみたい」
と書き込んでしまいました(^_^;)。

すると、ブログ主さんから返事があり、
「西澤さんなら安全かも。菅野さん操縦だと酔いそうだ」
と。
思わずレスしそうになったママですが、ひとのブログであまりにも妄想全開のことを書くと顰蹙を買うかも知れないので、こっちに戻ってきました(笑)。

そーなんですよー。
ママ、西澤さん操縦の零練戦に乗ってみたいんですよー。
あれなら、自分で操縦しなくていいし、しかも、操縦桿とフットバーは前後席で連動しているらしいので、そこに触れていれば西澤さんの神業操縦が体感できるんですよ!! 大分空の西澤さんの生徒、うらやましーっ!!!
宙返りしてっ! ロールしてっ!! きゃーっ♪
(新春早々阿呆ですいません・・・・)

ところで、万人(?)が「酔いそうだ」と評する菅野さんですが。
酔うだけですめばいいんですけどね、あの人に乗っけてもらったら生きて再び地上に戻ってこれるかどうか。何といっても「デストロイヤー菅野」ですから。
いや、でも、飛行機壊し大王だったにもかかわらず、その都度無事だったってことは、とっておきの技術を持っていたのか、それとも悪運が異様に強かったのか。
怖いけど、怖いもの見たさ、ジェットコースター気分で乗ってみたい気もする。
(注;ママ、ジェットコースター乗れません)

↑これは実現不可能な妄想に過ぎないのですが、ホリブン操縦の旅客機。こっちは可能でした。
何年まで操縦桿握っておられたのかわかりませんが、ママが生まれたときはまだ現役パイロットだったのはたしかです。
ハイジャックされたのが45年なので・・・・←もう、ええって?

でも、あの当時って、一般人がそう簡単に飛行機旅行できる時代でもなかったのかなあ。ママが憶えている飛行機旅行の最初は小学校上がる直前ぐらいの大阪行きです。航空会社は憶えていません。もし、全日空だったら、ホリブンの可能性も零ではないと。
ただ、あのときは帰りだったか、雲の中入って、ものすごく揺れて、酔ったか、酔いかけたかして、半死半生でした。子供だったので、ちょっとの揺れがすごく怖かったです。

あれがもしホリブン操縦の飛行機だったら、嬉しいけど、一生のトラウマってことで(^_^;)。

宇佐空相撲大会2009年01月03日 10時18分54秒

19年12月宇佐空相撲大会
深井さんから、宇佐空相撲大会時の深井中尉の写真がある、と聞いたときは、つい、
「深井中尉のまわし姿かっ!!」
と不覚にも興奮しかけたママですが、実際は、↑こんな写真でした。

深井中尉は教官なので、実際にまわし姿になって相撲を取る立場にはなかったようです(^_^;)。

このときの相撲大会のことは、生徒であった14期予備学生にとっては忘れられない出来事だったらしく、どこかしこに、このときの記述が出ています。

東大出身予備学生・艦攻専攻の大石政則少尉の日記(西日本新聞社『ペンを剣に代えて』)によると、これは19年11月14日のことらしく、
『待望且気がかりな相撲競技の日となった。飛行学生と予備学生の対抗競技は因縁付きのもの、且背後には兵学校出と予備学生とは暗黙の対立抗争を控えているだけに、いよいよ負けてはなら悲壮なものである。
1245、分隊対抗競技始め。一分隊(艦爆の練習生)が優勝。最後に飛行学生と予備学生との対抗競技となるや、一場しんとして今まで盛んに叫ばれていた拍手も笑声もぴたりと鳴りを沈め、本当に殺気が充ち充ちていた。互に名乗り合う声も相手を投げ殺してやるぞという様にさえ感じられた。勝ってくれ勝ってくれと私は祈った。
二組ずつ(7×2)で競技をやるのであるが、一組は四対三にて勝ち、二組は五対二にて負け、我の一組と彼の二組と戦い、四対三にて予備学生に凱歌は上った。まことに村瀬、白崎両選手のお陰と言う他はない。勝った、本当に手の舞い、足の踏む所もしらなかった。敗れなば、飛行学生は以前にも増して圧倒して来るだろうし、指導官の方からもどんどん締められるであろう。夕食は祝宴となった。瀬島中尉、井岡大尉、中村少尉、上大迫少尉他、整備の少尉二名来られた。優勝賞品としてビール多数あり、楽しき夕べであった』

大石少尉の日記によると分隊対抗では1分隊(艦爆練習生)が優勝した、となっています。
深井中尉の相撲大会写真には「1分隊優勝」というタイトルとついていて(すいません、どなたがつけたタイトルか確認していません)、最前列に座っている選手らしい7人の真ん中の一人が賞状のようなものを持っていることから、やはり、この写真のメンバーが優勝した1分隊(艦爆練習生)と思われます。「練習生」ということは予科練の人たちということになります。

この相撲大会のことは須崎勝彌『カミカゼの真実』の中にも出てきます。大石少尉の日記にも出てくる、早大出身の村瀬少尉が大活躍をしたんだとか。

大石少尉の日記も、『カミカゼの真実』もそうですが、1分隊優勝より、予備学生(14期)が飛行学生(兵73期)に勝ったということが何より印象に残っているようです。
まあ、そのことの背景に関しては今日の趣旨ではないので書きません。

で、すっかり、影が薄くなってしまった「1分隊優勝」ですが。
深井中尉の教え子・練習生たちの詳細は現在不明ですが(すいません、真剣に調べていません。いや、まだ手が回っていません)、椅子席中央に座っている教官たちの詳細はやや判明しています。
第一種軍装姿の4人のうち、一番右が深井良中尉(兵72期・艦爆操)、その左、艦爆隊隊長、宮内安則大尉(兵66期)、その左、瀬島基太郎中尉(兵71期・ママ調べでは偵察員ということなのですが・・・・)。一番左の方、わかりません。
深井中尉以外の宮内大尉と瀬島中尉はママが推測したのですが、深井さんが元宇佐空の教官の方に確認してくださった所、そうでしょうということでしたんで、たぶん、そうでしょう。
瀬島中尉は大石日記に出てくる、祝宴に顔を出した「瀬島中尉」と同一人物と思われます。瀬島中尉は14期指導官附らしいです(←具体的にどういうお仕事なんでしょうねー?)。

この瀬島中尉なんですけどねえ・・・・。
また後日話題にすると思うので、みなさん、お顔を忘れずに憶えておいてください。

いま、写真眺めていて気がついたんですが、瀬島中尉、右手の薬指を負傷されていますねー。どうしたんでしょうねえ?
ちょっとした切り傷程度には見えませんが。
ママ、こういうの、気になってしょーがないんですよねー。

まあ、怪我のことは今後の宿題ということにして・・・・。
今日は別に相撲の話がしたかったわけではなく、みなさんに瀬島中尉の顔を見ていただきたかったということです、はい。