Google
WWWを検索 ひねもすを検索

特技章2018年04月13日 20時31分07秒

※Kさんからご指摘を受けて2220に一部修正しました。
 「飛練4期は普電練49期」と書いていましたが、「飛練4期は偵練52期」が正しい、とのことでした。






特技章の話、前に書いたかもしれないのですが、最近、自分のサイトを検索しても記事をよう探さない・・・・orz
探している記事が出てこないんですよ・・・・。
書きすぎなんでしょうか?(^^;)


特技章とは。
6期の先輩、岩井勉さん(戦闘機)のことばをお借りしましょう。
(飛練の霞ヶ浦航空隊を卒業し、延長教育の佐伯航空隊へ向かう汽車の中)われわれは京都まで食堂車のテーブル四卓を占領し、ビールで乾杯しながら走った。われわれの左腕には飛行練習生教程卒業の特技章である荒鷲と錨のマークが付いている。予科練入隊以来三年三ヶ月にして、ようやく特技章が付いたのだ。これで押しも押されもしない一人前の海軍軍人である。海軍ではこの特技章がものをいうのである。
(中略)
われわれは一般客に左腕を見てもらいたかったので、食堂車の椅子に腰をかけるときも、左のマークが見えるように工夫して席をとった』(岩井勉『空母零戦隊』文春文庫)

左袖につけるので「左マーク」とも呼ばれています。






先日、山口良一さんの写真を見せてもらいに行ったとき、一番最初に見せてもらった写真がこれでした。

山口さんの家族写真です。ご両親、お兄さん、姪御さん姉妹(お兄さんのお嬢さんたち)。
姪御さんはこの写真を撮ったのは、山口さんが予科練に入ってすぐの頃だったと思われていたそうです。
ジョンベラなので(^^;)

たしかに、ジョンベラは兵階級の軍服なので、「新米」のイメージがあるのかもしれません。


が、姪御さんのお孫さんはさすがに「この顔は新米っぽくない」と思われていたそうです(笑)
たしかに(^^;)

よく見るとですね、この兵隊さん、全然新米じゃないんですよ。

右袖には山形の善行章1線、その下に一等航空兵(16年6月1日に航空科から飛行科に変更、それ以降は「飛行兵」「飛行兵曹」)の階級章、そして左袖に航空の特技章をつけています。

そのときに説明したのですが、善行章というのは海軍に入って3年経ったら1線もらえるもの(6年で2線目、9年で3線目・・・・と増えていきますが、予科練生は多くても2線で、3線目が付く前に兵曹長に進級するのがふつうです)。
つまり、この写真は乙7期の山口さんが11年6月1日に海軍に入って3年以上経っている状態。14年6月1日以降。
特技章が付いているので、「練習生ではなく一人前の搭乗員です」と説明してきました。
(7期が一等兵に進級したのは予科練卒業と同日の13年8月15日)

しかし、家に帰って来て、
「はて? 7期はいつ特技章をもらったのだろうか? 山口さんのペンネントは大分空・・・・」

わたしが考えてもわかるわけないし、ネットで調べたって出てこないのでKさんに尋ねてみました。
いつも自分を正当化してスイマセン。


7期は中練卒業時にもらっています


とのことでした。
そのときに、5期の角田和男さんと6期の岩井勉さんも手記に中練修了時点で特技章をもらったと書いていますよ、とご教示くださいました。

どちらも読んでいるんですけどね。
読んだときはまったく特技章に関心がなかったので記憶に引っ掛かっていないんでしょうね。
いつもスイマセン(´Д`)

7期が特技章をもらったのは中練修了時の14年3月31日。
山口さんは延長教育は大分海軍航空隊です。艦攻補習生。
その次が木更津海軍航空隊です。14年9月2日付。
しかし、それ以前の8月12日から11月4日まで、という期間で大型機特別教育を受けていると履歴上に書かれているので、9期と同じであれば、籍だけ大分で、8月12日から木更津に移動している可能性もあるのかな?と思っています。

上の写真は、14年の夏休暇で帰省したときのものしょう。日付まではわかりません。






さらにKさんにいろいろ尋ねてみたんですが。

「予科練」の教程と「飛練」の教程は海軍の搭乗員になるためのひと続きのものです。
飛練を終えて、ようやく一人前の搭乗員の証・特技章をもらえるのです。

昭和5年、予科練制度が始まったとき、すでに搭乗員養成コースの先輩制度として「操縦練習生(操練)」や「偵察練習生(偵練)」の養成コースがありました。
これは海兵団から海軍に入った人の中から試験で選抜、航空兵になるための訓練をさせるものです。
もともと兵科だった人や整備、主計科だった人などもいます。

どうも、かれらと区別するために、たとえば第1期飛行予科練習生(のちの乙飛予科練)が飛練に進んだときには第1期「飛行練習生」という呼び方をされ、それが甲飛制度が始まるまで続いたと。
昭和12年に入隊した第1期甲種飛行予科練習生たちは飛練に進んだら第1期「甲種飛行練習生」になったのでしょうが、履歴を見たことがないのでわたしにはわかりません。

ちなみに、わたしが実際に見たものですが、甲飛制度が始まって以降に飛練生になった乙6期(13年1月から飛練)と乙7期(14年8月から飛練)出身の搭乗員の履歴にはそれぞれ「第6期飛行練習生(操縦専修)」「第7期飛行(操縦)練習生」と書かれてあり、「乙種」である旨は記されていません。
『日本海軍戦闘機隊2【エース列伝】』の巻末付録に、8期の初練修業記念集合写真が掲載されていますが、そこには「第八期乙飛初練修業記念」と書かれています。



しかし、この制度も昭和15年10月1日に変更になったようです。
詳細は知りませんが、いままで操練、偵練、飛練(予科練生のつづき)とわけていたのを、全部ひっくるめて「飛練」にしたようなのです。

何が変わったか。
ひとつは、特技章のデザイン。それまで操練・偵練の特技章と飛練の特技章は別のデザインでした。
それが飛練の特技章デザインに統一されたそうで。
島田清守さんの15年10月6日の日記にもそのことに触れられた箇所があります。
予科練生としては、そのつづきの飛練終了時にもらえる特技章に誇りを持っていたようです。特技章を見ればひと目で「予科練出身の搭乗員」とわかりますからね。操練・偵練が同じデザインになったのが不満だった様子です。
が、Kさんに言わせると、この統一は操練・偵練側からも不満が上がっていたそうです(^^;)
お互い、自分のところに誇りを持っている――よいことだと言っておきましょう。
飛練の特技章のデザインはまさに山口さんが左袖につけているマーク、あれです。
15年10月の統一以前の操練の特技章は、『日本海軍戦闘機隊2【エース列伝】』の半田亘さんが下士官二種軍装につけています。
あと、坂井三郎さん(戦闘機)が『写真 大空のサムライ』で、同じく下士官二種軍装につけています。

そして、もうひとつ大きなこと。
いままでは操練〇期、偵練〇期、飛練〇期(第〇期飛練、甲種第〇期飛練)・・・・と、コースによって期別を振っていたのを、飛練〇期(第〇期飛練)にまとめてしまったのでした。

新たな飛行練習生課程が15年10月から、ということでしたが、すでに飛練で訓練中だったクラスはさかのぼって期が変更されたようです。飛練1期は甲飛3期、飛練2期は偵練51、飛練3期は操練54期、飛練4期は偵練52期、飛練5期は普電練52期、飛練6期は操練55期、飛練7期は操練56期、飛練8期は普電練52期、飛練9期は甲飛4期、飛練10期は乙9期・・・・とこんな感じで続いていきます。
※秦郁彦/伊沢保穂『日本海軍戦闘機隊2【エース列伝】』大日本絵画の巻末資料より

ただ、これ、「は」の右と左はまったくイコールとはかぎりません。
例えば乙8期の先輩が何らかの理由で同期と一緒に進級できずに飛練10期に編入されている・・・・あるいは乙9期がやはり一緒に進級できずにあとの飛練クラスに編入されている・・・・という場合もあるので、あくまで「飛練10期は乙9期が主体」ぐらいの意味です。





冒頭の話題に戻ります。

特技章はいつもらっているのか。

新飛練教程以前の乙5、6、7期は、どうも中練修了段階で特技章をもらっていたみたいですね。
その過程だけを「飛行練習生課程」と呼んでいたようです。
8期はわたしは資料を持ち合わせていないのわかりません。法則?にしたがえば、やはり中練終了時(15年3月30日)にもらっているんでしょうか。

新制度の飛練10期である乙9期は、特技章は中練終了時点ではなく、延長教育(実用機教程)が修了した時点でもらっています。
9期の時点では延長教育修了までが「飛行練習生課程」になっています。

ちょっと表にしてみました。試作品なので転載禁止で。クリックしたら拡大します。
6期、7期、9期だけです。他クラスのみなさん、スイマセン。
しかも、これはそのクラス全員に該当するものではありません。
ご提供いただいた複数の予科練出身戦闘機・艦攻・艦爆操縦の人のものを参考にしました。
善行章や特技章付与日、進級日は期で基本的に同じはずです。
が、中練修了や実施部隊に出た日などが、操縦と偵察で違っていたり、さらに、操縦の中でも陸上機操縦と水上機操縦では違っていたり。さらに陸上機操縦の中でも、小型機と大型機の操縦では違うとか。
本当はちゃんと期ごとに操偵別、機種別にやったらいいんですが、能力不足ということで今回はここまで。
もっというと、もともとの目的が山口さんのご遺族の方に説明してあげようと思って作ったものなので、参考までに前後の期はこんな感じです、ってだけの表です。

薄い黄色のベタ背景は飛練時代、黄色い外枠は延長教委育(実用機)時代です。




これは6期の飛練(初練・中練)卒業時の集合写真です。@霞ヶ浦航空隊
撮影日は書かれていなかったですが、13年8月16日ということになりますね。

いままで気に留めていなかったのですが、よく見たら特技章をつけていました。
この日、もらったものです。



9期は中練卒業時点では特技章はもらえておらず、延長教育終了時に初めてもらっています。
一番古い写真は16年10月30日、攻撃機操縦・大型機講習@木更津の卒業時集合写真。
みんな袖が重なっていて、ちゃんと特技章が見えている人が少ないんですが・・・・。
村田耕一さんの特技章。この日にもらったもの。仮留めなのか、浮いています。



こうしてみると特技章をもらえるまで、乙6期は海軍に入って3年と2ヶ月半、乙7期は2年10ヶ月、乙9期は3年5ヶ月。それだけみても、クラスによって違うことがわかります。



※画像や履歴などは6期生、7期生、9期生ご遺族ご提供。制度や進級関係の話はKさんご教示

諏訪訪問2018年03月29日 12時58分10秒

23日、長野に行ってきました。
名古屋発、8時ちょうどのしなの3号で。


途中、藤原国雄さんのご実家の近くも通過しました。


なんか山がすごかったです。


気づいたら、雪国になっていました。

雪が積もっていたのは↑ここまで。ここから先は雪は積もっていませんでしたし、この日は寒くはありませんでした。




今回の第一の目的地はこちらでした。
長野県某市某所のお社。
たぶん、ふらっと行って見つけられる場所ではありません。

左端に写っている「祭祀碑」と書かれた石碑は戦没者の慰霊碑です。裏に地区で亡くなられた戦没者の方々のお名前が刻まれています。

17年10月26日、南太平洋海戦で翔鶴で戦死した村上守司さん(艦攻・電信員)のお名前が刻まれています。









九期生名簿に昭和40年時点のご遺族・生存者の住所が書かれています。
村上さんの昭和40年時点のご遺族住所は「ここだ」という場所はわかっていましたが、そこに現在ご遺族の方はおられず、わたしは追跡はしていませんでした。


村上さんが戦死したときのペアの操縦員。
乙6期の山岸昌司さん。


わたしは、村上さんがご縁で山岸さんの姪御さんと知り合いになったわけですが。

山岸さんからしたら、おじさんと一緒に亡くなった村上さんは他人とは思えないような存在だったでしょう。

村上さんは同じ乙飛の後輩でもあります。しかも同郷。


わたしがあきらめているにもかかわらず、山岸さんはどうしてもお参りしたいと村上さんのご縁の方を探し続けていました。

が、うまくいきませんでした。


村上さんの故郷の遺族会の会長さんも協力してくださったらしいですが、見つからなかったそうです。


最近?、遺族会の会長さんが交代されたのか、新しい会長さんになられたそうで。

県内の慰霊祭で顔を合わせたときに、山岸さんと新会長Nさん(海軍のお父さんが戦死)のふたりで村上さんのお話をされていたそうです。

そしたら――。

まさに、これこそお導きだと思いますが。

ふたりが話している近くに、たまたま村上さんの出身地区のご遺族の方Kさん(陸軍のお父さんが戦死)がいらして、「村上守司」という名前を聞いてピンと来られたそうです。
「お名前が刻まれた慰霊碑がありますよ」
そこでつながって、今回の長野訪問になりました。


当日は、山岸さんとは村上さんの地元駅で合流。
そこに地元のNさんとKさんが車で迎えに来てくださっていました。

すぐにお社に連れて行ってくださいました。
上に出した写真の場所です。
たぶん地図にも載っていないお社だと思います。
地元の方々で大事にしているお社です。
中に戦没者の氏名、生年月日、戦没状況などを書いた木札を入れてお祀りしているそうです。

お父さんがここに祀られているKさんは、いまもこのお社の近くにお住まいです。
村上さんが当時住まれていた家はKさん宅からほんの目と鼻の先でした。歩いて1、2分ぐらいの場所。
「ここに住まれていたんですよ」
というところに連れて行ってくださいました。いまはもう村上家はそこになく、家も建て替わってまったく関係ない方がお住まいでした。
Kさんは村上さんの家族関係や生まれ年などもご存知でした。
ただ、昭和5年生まれのKさんは、大正11年生まれの村上さんに会った記憶はないそうです。
村上さんが予科練に入隊した昭和13年には8歳ですからね。当時の記憶はあるのでしょうが、一緒に遊ぶような年齢差でもないですから、村上さんのことが記憶にないのかもしれません。



お参りしたあと、山の中腹にある諏訪湖の見える蕎麦屋さんに連れて行ってくださいました。

素晴らしい景色を眺めながら、おいしいお蕎麦。





わたしは、今回は完全に便乗で、山岸さんが全部セッティングしてくださって、地元のご遺族の方々のご厚意でお参りできたわけですが。

お参り後まですっかりお世話になってしまいました。

山を下りてきて、わたしの念願だった諏訪大社にも連れて行ってくださいました。


秋宮。






山岸さんは電車の時間があったので、このあと駅で別れました。



山岸さんと別れたあとも、

「車でないと行けないから」

と、諏訪大社・本宮と前宮をまわってくださいました。

本宮。





八ヶ岳連峰。



前宮。






思いがけず3ヶ所の諏訪大社をまわることができました。

春宮が残っているので、それは今度。







村上さんという人は、わたしにとっては古い人です。
9期のことを調べるきっかけになった羽藤一志さんのアルバム。
羽藤さんが1学年時に同班だったことで、村上さんのお顔は最初期から認識していました。
ただ、どなたかわかるまでには時間がかかりました。
2015年に、藤原国雄さんの長野出身者集合写真を見てようやく「この人が村上守司さんではないのか?」というところにたどり着けました。
その直後に、生存者の方が保管されていた氏名入り班写真ではっきりと村上守司さんがわかりました。

お参りできてよかったです。
お墓参りはできませんでしたが、育った場所に行けたということが。
こんな景色を見ながら育ったのか、というのが実感できました。
Googleストリートビューでウロウロするのとは全然違いますからね(^^;)
景色を見て、空気に触れて、ヒトに触れて。




今回は山岸さんとNさん、Kさんにお世話になりっぱなしでした。
何もせずに、一番、いい思いをしてしまったような(^^;)
本当にありがとうございました。


※、画像は6期生・9期生ご遺族ご提供

先輩たちのラグビー写真2018年02月01日 14時55分52秒

わけがわからないまま書いてしまいます。

というのも、いつわかるのか、自分でもわからないからです。



インフルで寝込んでいる間に、7期の山口良一さんのご遺族の方から連絡をいただきました。
いっぺんに元気になりました!(・∀・)


最初のメールは、
「良一さんの情報をお持ちではないですか?」
というようなメールだったのですが。

申し訳ない話ですが、わたしは7期生のことはほとんど無知で、山口良一さんのことも存じ上げませんでした。
で、すぐにいつものKさんに情報を求めたところ、中攻の操縦員であるということと、出身地情報をいただけました。

ご遺族の方には、
「お顏がわかる写真(複数)や履歴(勤務航空隊など)があれば見せていただけないでしょうか」
と返信したところ、すぐに撮っていろいろ送ってきてくださいました。

その中の一枚がこれです。

予科練時代のラグビー部写真だそうです(添え書きあり)。

後列左から4人目が良一さんで、さらにご遺族の方は、
「後列右から2人目に鈴木軍治さんも写っています」
と。

「あっ!?( ゚Д゚)」

ホントだっ!

鈴木さんだ!

ラグビー部だったのか!


なんで鈴木さんがわかったんだろう?
とも思ったのですが、あとでいろいろ判明しました。
他にも良一さんと鈴木軍治さんが一緒に写った班写真(名前入り)をお持ちで、さらに、良一さんが鈴木要さんという同期生と一緒に写った写真もお持ちで、「7期の鈴木さん」に詳しくなられていたのでした。
※7期にはもう一人鈴木文雄さんがおられます



わたしの方も、良一さんが写っていそうな写真を探して送らせてもらいました。




そのときはそれで終わっていたのですが、翌日、この写真を見返していて、大変なことを見落としているのに気付きました!

またかいっ!

と突っ込みましょう。








同じ写真をわたしも持っていました!!w( ̄▽ ̄;)w

7期なら、西澤さんの遺品だな?

いえ、違うんです。

西澤さんはたぶんラグビーしません。いや、わかんないけど。 ※イメージです


これは実はですね。
6期の岩井勉さんのアルバムに貼ってあった写真なんです。
戦闘機乗りの、『空母零戦隊』の。

後列左から5人目、岩井勉さんなんですよ。

岩井さんの方はアルバムに添え書きはなかったように思います。
スキャンしてきた範囲では見当たりません。

なのでこの写真、てっきり6期のラグビー部だと思っていました。

しかし、山口良一さんのご遺族の方から「良一さんと鈴木軍治さんが写っています」と送られてきた写真と同じもの・・・・。


山口良一さんと、

鈴木軍治さん。




「そうか! 濃いジャージが7期生で、薄くて横線が入っているジャージが6期生だな!」

と、自分で納得しました。


ところがですよ。

よく見るとなんか岩井さんだけジャージが違うんです。
胸に横線が入っているように見えないし、ズボンも白いズボンをはいているように見えます。
※横線組のズボンは黒っぽい。

「もしかして岩井さんは審判で入ったのだろうか?」


横線ジャージの人たち、一人もお顏がわからないんですよ。

『予科練外史』によると6期と7期は対外試合の記録がないらしいので、予科練以外のチームの可能性は低いです。
横線ジャージには胸にかわいい飛行機マークが入っています。アップリケ?
たぶん予科練でしょ、これ。
甲1の可能性もあるのかナア?


8期ラグビー部が同じデザインの横線ジャージを着ている集合写真があるんですが、お顔が当てはまらないし・・・・。
予備学生との試合らしいです。
10期の藤本久夫さんのアルバムに貼られていました。

8期、井手峰雄さん。


『予科練外史』にもこれと似たようなジャージを4期生が着ている写真が載っているので、予科練伝統のジャージなのかもしれません。


ちなみに9期がこのジャージを着ているのは見たことがありません。
9期ラグビー部、村田耕一さん。
9期は良一さんや鈴木軍治さんが着ている単色タイプのジャージです。





いまのところ、自分の中では、濃いジャージも横線ジャージも7期で、岩井さんは審判・・・・みたいなところに傾いています。

お一人ずつお顔を照合して〇〇さんに違いない、とやらないとわからんですわ(;´Д`)

わかったらまた書きます。



最初は「良一さんの情報をお持ちではないでしょうか?」というメールだったのですが、いまはこっちがいろいろと7期生のことを教えてもらっています(^^;)



山口良一さんに関しては個人記事を書きたいと思っています。

鈴木さんも、今回ご提供いただいた情報も加えて早く出せるように。



※画像は6期生ご家族、7期生・9期生・10期生ご遺族ご提供

香川県乙飛戦没者慰霊碑2017年11月29日 06時03分19秒

香川県高松市の田村神社に「海軍少年飛行兵之碑」という慰霊碑があるそうです。
予科練生のご遺族の方が写真を撮って送ってきてくださいました。



裏面には香川県出身乙飛戦没者のお名前が刻まれています。
氏名しか書かれていないので、手持ちの予科練名簿(知人のAさん作成)参照、わかった範囲で。
8期、9期、10期は同期生会誌参照。
※敬称階級略
※配置は操偵別のみ


【2期】
寺井 栄 19年6月15日 艦爆偵
新名善清

【3期】
川﨑 昇
佐野 進

【4期】
浜中 寛

【5期】
大林行雄 17年6月5日 ミッドウェイ 飛龍 艦攻操
武田忠義

【6期】
森下 武

宮武義彰 18年10月1日 ソロモン 582空 艦爆操

【8期】
林 忠雄 18年11月30日 ソロモン 751空

【9期】
大山輝一 17年4月4日 ポートダーウィン 高雄空 陸攻偵

四宮与三郎 18年7月1日 レンドバ島 251空 戦闘機

立井義春 18年11月8日 ソロモン 702空 陸攻偵

高橋兼春 20年4月12日 沖縄 951空 陸攻偵

鶴見堅三 20年4月5日 沖縄 攻撃703 陸攻偵

藤井国男 17年9月15日 ソロモン 東港空 飛行艇偵

【10期】
伊藤 勲 17年11月12日  582空  ソロモン 戦闘機

今田敏男 20年2月6日 ボルネオ 381空 戦闘機
川渕義秋 17年6月5日 ミッドウェイ 飛龍 艦爆偵

鎌田 久 20年4月24日 比島 操縦
金丸春男 19年5月1日 南洋群島 551空 偵
高橋通夫 17年10月25日 ソロモン 14空 飛行艇偵

平田義之 17年8月23日 ポートダーウィン 三沢空 陸攻操

【11期】
橋本満明
野口泰弘
立住一男 18年11月11日 ラバウル 翔鶴 戦闘機
藤川一郎
石川 庵
横井徳一
眞鍋綱夫
小西範秋
和泉 哲

【12期】
只野岩太郎 20年4月16日 901空 艦攻偵
丸尾政信
真鍋正範
山崎輝雄
竹本耕三
真鍋鶴夫
横山恒雄
横山 亨

【13期】
関 正信
中村芳春
宮本 泰
後藤 茂
玉茂礼弘
金山英敏 20年4月22日 奄美大島東方海面 252空K3

【14期】
田中義雄
岩崎幸夫
矢野文夫
池上信義
福田 操
福一 要
長井良一
松下小次郎
伏見 清 19年6月11日 サイパン 261空 戦闘機

【15期】
池田義行 19年2月23日 サイパン 201空 戦闘機
光行 明 19年8月2日 テニアン島 761空 偵察
横井正之 18年12月3日 タロキナ付近 582空 偵察
中山正雄 19年2月 マリアナ方面
松田 弘 19年10月 比島クラーク
河内司郎 19年7月8日 サイパン島 偵察
豊田 恵 19年9月2日 ダバオ 954空 操縦
徳永彰平 19年6月15日 テニアン北東海上 523空 偵察
藤田敏雄 19年1月7日 ニューブリテン島 204空 戦闘機
辻 照雄 19年3月7日 南洋方面 761空 操縦
音泉 昇 19年7月3日 301空 戦闘機
田中喜芳 20年8月9日 本邦南方海面 752空K5 偵察
景山 武 19年11月1日 本州南方 偵察
高橋三郎 19年4月19日 インド洋
三木正信 19年4月30日 トラック方面
佃 吉治 19年6月19日 マリアナ 652空 偵察
田中 巧 19年2月18日 南洋方面 偵察
松岡三夫 19年8月18日 東シナ海 931空 偵察 
宮本 弘
合田 武 19年6月2日 ニューギニア 381空 戦闘機
岡田寿恵義 佐伯空 操縦
尾野 勇 19年7月8日 サイパン島 
諏訪種彦 20年3月1日 851空 偵察

【16期】
宮武 薫
三谷健一
久住一美
今井義隆
津郷寿恵儀
磯崎定義
矢野義明
氏家 弘
植田久雄 19年10月11日 台湾方面 762空K708 陸攻偵
二川義弘
篠原芳郎
植村孝雄 20年4月7日 沖縄本島周辺 706空K405 陸爆偵
大西一夫 20年4月7日 沖縄周辺 K251 艦攻偵
多賀文夫
蜂須賀幸雄
小山照夫 20年2月21日 硫黄島周辺 601空K1
中川 勇
岩松繁己

【17期】
中桐一夫
山下幸信 20年6月22日 沖縄本島周辺 721空K708 陸攻偵
竹安末雄 20年6月28日 沖縄本島周辺 福山空 操縦
辻 忠弘 20年4月1日 沖縄本島周辺 721空K708 陸攻偵
遠山 明 20年8月9日 本州東方海面 601空K1 操縦
内海 清 20年4月21日 沖縄本島周辺 721空K708 陸攻偵 
竹原 修
篠原 修
川崎正行
土井 弘
勝浦繁信 20年4月27日 762空 陸攻
田中敏雄
篠原耕治
細川茂二郎
石田光則
喜久間諄造
北原幸一
川合 淳
奥野克夫
田中義一 
山崎正一 20年6月7日 沖縄 765空 戦闘機
鳥居一善

【18期】
大野 勇
森野繁夫
合田一二郎 ?20年4月12日 沖縄本島周辺 宇佐空 艦攻偵
大谷康佳 20年4月16日 沖縄本島周辺 姫路空 偵
河田忠男
森近浅太郎
上川安則 20年4月7日 601空K1
土井定美
東山 稔 20年4月6日 沖縄本島周辺 宇佐空 艦攻
富山 枝 20年4月16日 沖縄本島周辺 宇佐空 操縦

【19期】
齋賀秋吉

入江辰夫 ?

【3期】
佐藤茂行

【16期】
山下徳雄
多田輝市


データの「予科練名簿」はもう何年も前にもらったもので、もしかしたらAさんの方ではあれから追加修正などしているかもしれませんが、わたしのほうではこれ以上のことは把握していません。





この碑には殉職者は含まれていないようですね。
予科練の水泳授業中に殉職した10期の白川登さん(15年8月22日)や出水空で殉職した寺元繁雄さん(艦攻操、18年12月28日)のお名前はありません。
寺元繁雄さん



9期の桑島武一さん(戦闘機)も戦傷、のち兵役免除。郷里に帰った後で亡くなっているのでここにお名前はありません。


















春、桜の頃の様子も送ってくださいました。









全国には何か所か9期生のお名前が刻まれている慰霊碑があるのですが、香川高松の神社にこのような慰霊碑があることは知りませんでした。

香川はいままで25年ぐらい前に1度、職場の旅行で行ったきりです。
この慰霊碑のことを聞いて、行ってみたくなりました。






※画像は予科練生ご遺族、久保さんご提供

乙6期 宮武義彰さん2017年08月02日 00時00分45秒

今朝、何気に松本さんの書簡集を読み返していました。

そしたら、飛練谷田部時代に実家に出した書簡に、

『教員(担任の)は香川県出身の人で、我々の先輩の人です。六期生で神戸の藤田数雄さんと同期生です』

と書かれてあるのが目に留まりました。

「なにっ!? 飛練の教員が6期生!?」

文中の「(担任の)」は編集の武田さんが入れたのか、元から入っていたのか、わたしは書簡原文を見ていないのでわかりませんが、おそらく3~4人の練習生に一人ついてくれる担当教員のことをさしているのだろうと思いました。



松本さんの飛練時代のペア写真を先日初めて目にしました。

「あそこに写っている教員が、この『香川出身の6期生』だろうか。調べたら、お名前がわかるかも」




で、すぐに予科練名簿で6期生の香川県出身者を探しました。

岸本佐市さん、中数賀巌さん、宮武義彰さん、森下武さん。


「宮武義彰さんっ!?」

いくらぼけていても宮武さんのお名前は忘れません。少し前にここに写真を出したばかりだったので。




宮武義彰さん。


中西クロちゃんの遺品中にあった写真ですが、ご本人直筆と思われるローマ字のサイン(Y.Miyatake)が入っていて、それでこの人が「宮武義彰」さんであることがわかりました。

香川県出身の乙6期生ということしかわからず、この写真を「横須賀の写真館で撮られたもの」と紹介したときに、わたしは「この人の詳細は把握していません」とぬけぬけと書いています。

いまとなっては恥じ入るばかりです。






もわもわ・・・・っと、あの写真と宮武さんの個人写真が結びつきました。



「うわあああああ!!!! 松本さんの教員は宮武さんだ!!」





あの写真↓

松本さんのアルバムにあった飛練谷田部時代のペア写真です。


練習生は、後列の3人。左から、
松本勝正さん


村田耕一さん


久米武男さん



そして、イスが教員。

「これは宮武さんじゃろ!!」


教員の階級章
1等航空兵曹(1空曹)です。

6期生は16年5月1日に1空曹に進級しているので、15年12月~16年5月末まで谷田部で飛練教育を受けていた飛練10期生の教員として矛盾はありません。
もし宮武さんだとすると、この写真の撮影期間は16年5月1日から卒業式の5月28日までの約ひと月の間、と限定できます。
宮武さん、襟巻を巻いていて一見寒い時期かなと思えますが、階級章からは16年5月です。

余談ですが、教員の目印、腕章(紐?)も巻いています。
ちなみに、みなさんが興味あるかどうかわかりませんが、救命胴衣の股間紐は一点結びです。





こちらにも。
飛練10期生たちは海兵団ごとのペンネントをつけているので、飛練谷田部の卒業写真だと思われます。
5年前から手元にあった写真。


宮武教員はこれですよね。

5年以上前から見ていたと言っても、さすがに冒頭の写真とは結びつきませんでした。




いちおう、わたしの中では、お顔から、
「飛練谷田部時代の松本さん、村田さん、久米さんの担当教員は乙6期の宮武義彰さん」
と結論付けたのですが、他人の空似ということもあるので裏は取りました。
※「裏」=いつものKさん


艦爆操縦員です。

18年10月1日に582空で戦死されていることもご教示いただきました。


ここまでわかるといろいろ出てくるのです。家にあった書籍などから。あー、恥ずかしい。


以前ここで紹介したことがある操練出身の山川新作さん(艦爆操縦)の手記『空母艦爆隊』にも宮武さんのお名前が何度も出ていました。
山川さんは宮武さんとは隼鷹でご一緒だったようです。

集合写真も手記に載っていたのでスキャンして拡大してみました。宮武さんらしき人、発見。



17年10月26日の南太平洋海戦時のことも詳細に書いてありました。
そのときの隼鷹3次攻撃の際の記述に宮武さんのお名前が出ていました。

3次攻撃隊の編制
[制空隊(戦闘機)]
志賀淑雄大尉
村中一夫1飛曹
小野善治飛曹長
長谷川辰蔵2飛曹
北畑三郎飛曹長
石井静雄2飛曹

[攻撃隊(艦爆)]
木村光男1飛曹(操) 加藤舜孝中尉(偵)
山川新作3飛曹(操) 西川強2飛曹(偵)
宮武義彰1飛曹(操) 木村昌富飛曹長(偵)
小瀬本国雄3飛曹(操) 佐藤雅尚2飛曹(偵)

すでに他隊の攻撃で動けなくなっているホーネットにとどめを刺しに行きました。
発艦後、二時五十分ごろ、ホーネットを発見。

『「打て!」二百五十キロ爆弾は機を離れた。私は目がくらむほど操縦桿を引いた。
ガッと吹き上げる火柱と黒煙、隊長機とほとんど同じところに炸裂した。おどり上がるほどうれしかった。やっと任務は果たした。海面すれすれに避退に移る。ふり仰ぐ空に宮武機がついで突入した。ふたたび火箭はいっせいに宮武機に、また一部はわが機に迫ってくる。
向かってくるときにはただの点にしか見えないが、横から見ると火網の中に突っこむように見える。
「がんばれ! 宮武兵曹」
避退中のわが機には、ほとんど敵弾は来ない。宮武機はぐんぐん降下してくる。機体が大きくぐらりと揺れる。ハッと思った瞬間、爆弾ははなれて機首が上がった。ほとんど一、二番機とも同じところに吸いこまれていく。断末魔にあえぐホーネットに立ち上がる火柱。
小瀬本兵曹が急降下に移った。猛烈にしゃにむに撃ち上げる放火の中に、禿鷹のごとく勇ましく舞い降りてくる』(山川新作『空母艦爆隊』光人社NF文庫)

4機の艦爆が放った4発の爆弾はいずれも命中したと書かれています。

宮武さんのあとから降爆した小瀬本さんの手記『激闘艦爆隊』(朝日ソノラマ)も同じような記述になっています。

『「トツレ」(突撃準備隊形作れ)で編隊を解散し、四機の単縦陣を作り、高度五〇〇〇メートルで接敵に移った。
間もなく「トト・・・・」(全軍突撃せよ)が下令された。砲火を撃ち上げる敵艦艇の両舷側は真っ赤である。
やがて指揮官機は熾烈な敵砲火の中を、必中の執念を燃やし急降下に入って行った。上空から見ていると火の塊の中に飛び込んで行くようであった。私たちの目には一斉に一番機に注がれた。獲物を狙う鷹のように真っ逆さまに突っ込んでいく。やがて一番機が投弾した。
続いて二番機山川機が急降下に入った。――中略――
今度は二小隊長宮武機が急降下に入った。「宮武兵曹、ニ小隊長機の面目にかけても頼みますよ」と祈る気持ちで見守った』

こちらも4機の4発の爆弾はホーネットに全弾命中したと書かれています。



行動調書にも、
「航空母艦命中弾4発大火災 右ニ大傾斜ス」


宮武機は被弾6発ながらも無事帰艦、他の3機も無事に帰艦しました(戦闘機も全機帰艦)。


まあ、なんといいますか。
よくみなさん、「海軍って狭い」と言われますが。
ホーネットの動きをとめた翔鶴艦攻隊には6期の山岸昌司さんがいて(電信員は9期の村上守司さん)、最後の一撃を与えた隼鷹艦爆隊には同期生の宮武義彰さんが。
もちろん、他のたくさんの搭乗員たちの攻撃もあってのことですが、今日は宮武さんのことを追っていて、
「あ、こんなところで、こんな人とつながっていたんだ」
としんみりしてしまいました。
※山岸さんのことはこのへんから後に書いています。







宮武さんはのちにラバウルの582空に転勤。

転勤時期が不明です。
行動調書を見ると、18年8月は隼鷹隊で出撃しているようなので、それ以降の転勤かな?
582空の山本司令の日記の18年9月1日に、編成替アリ、と書かれているので、もしかしたら、そこで隼鷹の搭乗員が582空に移って来たのかもな、とわたしは想像しています。もっと調べたらわかるのかもしれません。
隼鷹艦攻隊の佐々木隆寿さん(9期)もそのころ582空に移っていますが時期がわかりません。宮武さんと同じタイミングかもなあ。わかったらまた書きます。

582空の艦爆隊といえば、冒頭の宮武さんのサイン入り写真を持っていた中西クロちゃんがいた隊です。
クロちゃんは18年6月16日のルンガ沖航空戦で戦死されてしまったので、宮武さんが着任したときにはすでにいません。
それ以前に隼鷹隊はこの方面で作戦しているので、クロちゃん戦死の報はすでにお耳に入っていたとは思いますが・・・・。

今日は、Kさんに宮武さんの最期が582空だったと聞かされて、クロちゃんのことを思い、そのことでもしんみりとしてしまいました。
機種も同じ。写真を持っていたぐらいだからきっと仲が良かったのだろうなあ。
クロちゃんのことは[乙6期]のカテゴリに書いているので、よかったらみてください。ここらへんから「乙6期 中西義男さん」シリーズがあります(ページが前後している可能性あり)。





18年10月1日  ビロア輸送船団及び陣地攻撃  行方不明




行動調書では行方不明になっていますが、7期の松浪清さん(582空艦爆隊、先任搭乗員、偵察)の手記『命令一下、出で発つは』(光人社NF文庫)には「宮武機のことではないのか?」という指揮官機の最期が詳細に書かれています。
ただ、この日の行動調書には「配置不明ニシテ一次、二次ノ何レニテ戦死セルヤモ不明」と書かれてあり、操縦員の宮武さんが偵察欄に、偵察員の指揮官・桜山中尉が操縦欄に書かれていたり、出撃していたはずの松浪さんペア(操縦・金縄兵曹)のお名前がなかったり。混乱していたようでよくわかりません。



※、画像は6期生、9期生ご遺族ご提供