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乙9期生存者2020年06月19日 23時06分59秒

ここでいう「生存者」は20年8月15日に生存していた9期生です。※遠藤秋章さん除く
→遠藤さんは戦没者に入れています

戦没者は戦没順に記載しましたが、生存者の方は亡くなられた正確な日付を知らない人もいますので、鎮守府・兵籍番号順に記載します。黒字・・・操縦、青字・・・偵察 敬称略

【横須賀】
高坂浪次  中攻
田中茂雄  艦爆
野村 茂   戦闘機 29年没
藤代 護   水上機
杉本 栄   中攻 39年没
亀山一郎  艦攻
山田茂雄  飛練中に疾免(17年)  
三浦光雄  中攻

【呉】
白木令一  飛練中に辞めている?(不明)
西本宗方  中攻
上原定夫  戦闘機
綿村亀次  戦闘機 疾免(18年)
河村徳市  中攻
石田 勝   飛行艇
松本佐市  戦闘機
竹田俊司  予科練か飛練中に疾免(17年)

【佐世保】
下釜又男  水上機
一瀬一之  予科練中に疾免(16年)
森 健次   水上機
隅倉 慧   水上機
山下栄松  戦闘機
山村喜郎  中攻 25年没
永田 正   飛行艇
阿部健市  戦闘機
斎藤理吉  飛行艇

【舞鶴】
関川文雄  艦攻 戦傷により兵免(18年)
石塚 猛   飛行艇


以上、『九期生名簿』にお名前がある方々です。


この方たち以外に、「予科練中に辞めてしまって『九期生名簿』にお名前がない方」と「予科練や飛練中に8期から合流した方」も何らかの紹介ページを作りたいとは思っています。


旧い友達 予科練の人々 200人の中から僅か24名が生存した
(我ら9期生が卒業記念に植えた松ノ木を背に大友分隊長をかこんでお互い20年振の再会である)






予科練の先生だった倉町秋次さんが昭和40年に編まれた『九期生名簿』に寄せられた文章の一部です。

九期の名簿を前にして想う  予科練雄飛会副会長元海軍教授 倉町秋次

九期の生存者が少いことに気づいたのは、もう十数年も前からであった。いろいろ所用を帯びて、全国から上京してくる人たちの、誰に尋ねても九期生の消息を知っている者はいない。私は、第一回全国大会の前あたりまで九期の生存者は、全国で四名位しかいないと信じていた。それが、今回幹事諸君の鏤骨の苦心の集積によって、二十四人も生きていてくれたことが確認されたことは、闇空に二十四の明星の輝きを仰ぐような喜びを覚える。微笑を伴わない喜びである。
二百人入隊した蕾の花の君たちが、今は、たった二十四人しか残っていない。十人のうち九人が散り、一人しか残っていないのである。二十四人が生き残っていてくれたことを知った感激、この心の震えは、喜びのためであろうか。悲しみのためであろうか。
思えば諸君は、予科練が横須賀から土浦に移り、予科練習部が土浦海軍航空隊と呼ばれるようになって、初めての卒業生であった。卒業を記念して、今なお緑を誇る雄飛の松を、庁舎の玄関前に残して去ったのである。あの数百年を経た老松を湖岸から玄関先まで、えんやえんやと引上げた二百人の花の若武者たちが、今はたった二十四人しか残っていないとは・・・・。二十四人では、あの松の根本を飾るロータリーを手をつないで囲んでも囲みきれない数であろう。

<中略>

英霊の求めたものはなんであったか。
英霊たちは戦いによって散華したが、求めたものは戦いそのものではなく、戦いを越えた彼方に輝く平和の灯であり、日本の安寧と民族の幸福を守るということであった。私たちは、この英霊の悲願を守りぬくために各自の職域に於て最善を尽し、自らに厳しく他との融和を図り、徒らに大言壮語することなく、地味に正しく努力を続けて生きたい。
名簿は立派に整い、待望の慰霊碑も、この五月には古巣の霞ケ浦湖畔に建つ運びとなった。真に喜ばしいことである。しかし、慰霊の道は、これから始まるのである。
吾らお互いにその生涯を終るまで、英霊たちが一瞬の火花とささげた赤誠を、十年二十年胸底深く燃やし続けて、援け合い励まし会って生きていこう。そして心を澄まして声なき声に耳を傾けたとき、常に英霊たちの喜びの声が聞こえるように生きていきたいものである。

乙飛卒業生に囲まれる倉町先生(前列中央のネクタイ姿)。
17年12月19日、大井空の乙飛卒業生たちと。




※画像は9期生ご家族ご提供
※名簿のベースは『九期生名簿』、吉良敢氏のご協力により追加訂正等しています。

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