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乙9期 石井三郎さんと南弘明さん2020年06月12日 15時52分51秒

9期戦没者紹介、最後のお二人です。

今回は変則的にお二人を一記事に書きたいと思います。
※6月13日追記あり(赤字)



石井三郎さん。
東京出身。
偵察、中攻。
入隊時氏名入り班写真。6班。

南弘明さん。
石川出身。
偵察、中攻。
入隊時氏名入り班写真、8班。


お二人は1学年時6班と8班なので、同じ分隊(37分隊)で同じ組(2組)です。





石井さん、横須賀時代6班写真。



横須賀、水泳優勝記念写真。2組(5~8班)

石井さん。

南さん。
ちなみにお二人とも1学年時の水泳レベルは”赤帽”です。カナヅチ。




操偵検査。
石井さん。

南さん。







石井さん、霞ヶ浦時代6班写真。





卒業間際、土浦時代班集合写真。





飛練鈴鹿時代
運動会優勝記念写真。

石井さん。

南さん。


同じく運動会時の優勝写真。こちらは島田清守さんが所有していた班写真。
南さん。

上の写真の教員がいないバージョン。
南さん。


奈良行軍、橿原神宮北神門。
石井さん。

南さん。



熱田神宮。
石井さん。



飛練大分。
石井さん。
南さんは実用機飛練は宇佐なので写真はありません。



大型機講習。
石井さん。

南さん。






おもいで
【石井三郎さん】
少年航空兵という名前は君のための名なのだ。誰からも愛され親しまれそして成績も優秀だった。

当時鹿屋航空隊で一緒だった。シンガポール爆撃の合間にサイゴン外出が許された。そして広東生まれの○○子さんという十七歳の少女に同市の日の丸食堂で愛をささやいた。「姑娘とはかわいいもんだ」としみじみ告白した君だった。

小粒で辛いファイトマン。その意地の強さには舌を巻いたものだった。

2つ目の「当時鹿屋航空隊で・・・・」の回想は高坂浪次さんのモノですが、「当時」がいつを指しているのかわかりません。「シンガポール爆撃」「サイゴン」と言っているので、17年の初めごろの話ではないかと思うのですが、その当時、石井さんは千歳空で南洋方面です。
17年4月に石井さんが鹿屋空に転勤してきて再会したと思われますが、それ以降は、サバン(高坂さんは一時ラングーン)、ラバウル・・・・17年9月末に高坂さんが戦傷で戦線離脱・・・・。
というわけで、姑娘の話は石井さんではなく、別の人と勘違いされているのではないかという気もします(^^;)
あるいは、石井さんの思い出だとしても、時期や場所を取り違えているとか・・・・。
ちょっとわかりません。




【南弘明さん】
君の毛筆はクラス随一だった。予科練卒業時の例の記念アルバムの寄せ書きの中の若鷲の若の一文字は君の揮毫によるものだ。九期の名と共に永遠に記念されるであろう。

大人しいゼントルマン。君は洗練されていた。あの若さでみんなそうだが人柄というものはおそろしいぐらいにいつまでも脳裡に残るものだ。





「若」だと思うのですが、くさかんむりの「一」を書いていないのには何か意味があるのかな?


この寄せ書きの中に「南」の署名があるのですが、どれが南さんのことばなのかよくわかりません。
すぐ上の「公明正大」か?






16年12月末、木更津の大型機講習終了後、実施部隊は石井さん・千歳空、南さん・元山空に着任。
17年4月にお二人そろって鹿屋空に転勤して再会。




鹿屋空同期会。17年5月1日。

後ろ右端でおねーちゃんと仲良くしているのが石井さんです。

中列左端、南さん。









この同期会直前の話が、『予科練外史』(倉町秋次)に出てきます。

十六期生が辻堂演習に出発した四月十三日、昼食後の休憩時間に速達便が届いた。私は、在勤中、横須賀時代、霞ヶ浦時代を通して、卒業生からこんな風変わりな手紙をもらったことはなかった。
前略
本十三日丸勢旅館にて待つ
一八三○迄に御来訪を乞ふ
報告は対面の後
第一次凱旋の九鷲
      南 三飛曹
      石井三飛曹
      古田三飛曹

先生は旅館での再会が待ちきれなかったのか、駅の近くの三叉路で待ちかまえていました。

どんな顔で出て来るだろうか・・・・私は最も親しい人を迎える時に起こる爽快な胸の動揺を覚えた。
駅を出た群衆の流れは、客を待って停車している木炭バスの所で二つに分かれた。右側の大きい方の流れの中に浮かんで二、三十人の黒い軍服の一団が近づいて来る。と、黒い塊の一角が崩れて、一人の下士官が走って来た。陽に焼けた顔の真中が綻びて、白い歯並みが近づく。私も急いで三、四歩近よった。
「還って来ました。」
と元気な声が叫んだ。大翔三千浬、若鷲は赤道を超えて還って来たのである。
「お還り。」
と言って、私は無量の感激を拳にこめて、肩をぽんと叩いてやった。
「南も、石井も来ているんです。」
古田保雄は、流れていく人混みの中に目を走らせる。戦友が見つからないのをまるで自分の責任ででもあるかのようにいらいら捜す。三人は改札口を出る時、ばらばらになったのだという。会えるにきまっているのに、一秒でも早く会わせてやりたいと焦る心遣いが嬉しかった。

古田さん。木更津修業時。
鹿屋空同期会写真にも写っています。後列の左から3人目です。


やがて石井さんと南さんとも合流できました。

私たちは肩を並べて歩き出した。私を中に挟んで、両方から押し合うようにして歩く。歩きながら語る。時々、左にいた者が右に来たり、右の者が左に割り込んだりする。
公魚屋の前まで来た時、わずかな爆音が聞こえて来た。機影は立ち並ぶ屋根にかくれてまだ見えない。私はふと立ち止まった。三人も止まっていた。
「おい、今のは何かわかるか。」
と訊ねると、
「小型じゃないな!」
と首を少し傾げながら一人が呟いた。
「双発だな・・・・」
「そう・・・・。一式らしいな・・・・」
と三人めが自信あり気に言った。
その言葉が終わるのを待っていたかのように、夕日に映える茜雲の中から双発の一式陸攻が勇姿を現した。
「今に脚を出すぞ。」
と一人が言った。

先生としては三人の成長が嬉しい瞬間だったでしょうか。
先生は三人をごはんが食べられるお店に連れて行きます。

凱旋祝いにしては余りにもお粗末至極であるが仕方ない。それでも、逞しい食欲を発揮してくれて、彼らは最初の内地帰還の喜びを語る。
「富士山が見えた時は嬉しかったですよ。家に帰ったようでした。四、○○○米の高度で飛んで来たのですが、素晴らしい雲の上に見えたのです。機上で踊り上がって手を叩きました。」
丼を下に置くと、その時の感激を胸に浮かべて、機上で叩いた歓喜の拍手を、割箸を手にしたまま再現する。
「そうです。富士山が見えてから二十分も飛んでやっと内地の海岸線が見えだしました。」
「カムラン湾まで来て、日本の着物を着た人を見た時は、トッテモ嬉しかったです。」
と、「トッテモ」の所に力を入れていう素直な表現が若々しい。それを聞きながら私は、彼らが飛んで来たコースを頭の中で辿っていた。
「カムラン湾?」
と、ちょっと首をひねると、
「そうです。あのバルチック艦隊が(日本海海戦の時)最後に寄港した所です。」
箸を動かす手を休めて、チャブ台の上に指先で印度支那一帯の地図を書いて説明してくれる。
つい一週間前まで飛び廻っていた戦地の感激がもくもくと額をもたげて来たらしく、じれったそうな顔をして、
「向こうの話もいっぱいあるのですが・・・・ここではどうも・・・・」
といった素振りを見せて左右を見廻す。

カムラン湾の話をしているのは元山空にいた古田さんと南さんではないかと思います。

場所を変えて聞こうかということになり、倉町先生は自分の下宿に連れて行きます。

街ではさほど気付かなかったが、どの頬も陽に焼けている。さっき歩きながら誰かが「赤道を十回往復した」と言っていたが、この黒さは確かに赤道の下にあった顔色だ。私は部屋の一隅に積み重ねてある座布団をとって勧めながら、
「井上は何処かに転勤したのかい。」
と訊いた。井上とは彼らと一緒に戦地に発った一人だ。

この続きはここに書いています。

井上さんはこの2ヶ月前にすでに戦死されていました。

井上さんの戦死を聞き、先生の脳裏に九期の偵察員たちを見送った日の追憶がよみがえってきます。
九期留魂録の下りです。


留魂録に残されている南さんのことば。

サイゴンの空へ    南 弘明



古田さん、石井さん、南さんに再会した下りの最後に、登場人物のその後も紹介されています。

南 弘明 石川県出身。七五一空所属。十八年二月四日、○四一八、ニューカレドニア北方哨戒索敵のためバラレ基地を発進、○八四五以後連絡途絶え、戦死。

石井三郎 東京都〇〇〇出身。七五一空所属。昭和十八年十一月十七日、第五次ブーゲンビル島沖海戦にて、敵機動部隊攻撃のため、一三一五、ブナカナウ基地を発進、未帰還戦死。



わたしも9期戦没者のページには、
南さん
18年2月4日  751空  ニューカレドニア島北方海域

石井さん
18年11月17日 751空  ブーゲンビル島

と書いています。

というか、「書いたままにしています」と言うべきか。



お二人が亡くなった日はこの日ではありません。

どうも、倉町先生もご存じなかった様子です。少なくとも、『予科練外史』を書かれた時点では、海軍的な戦死日しか把握していなかったようです。

同期生も同じで、昭和40年に同期生会誌・九期生名簿を編纂した時点では、お二人が亡くなった状況を誰も何も知らなかったように思えます。



南さんの時間は18年2月4日で止まっていませんでした。
石井さんの時間も18年11月17日で止まっていませんでした。


わたしもずっと、九期生名簿に書かれた戦死日がお二人の戦死日だと思い込んでいました。
違うということに気づいたのは、佐藤暢彦さんの『一式陸攻戦史』潮書房光人社を読んだときです。



ソロモン航空戦(三)の章の中に、
「そしてすべての空が失われた――七五一空・結城邦重(旧姓・桑折)上飛曹の場合」
という小見出しのついた一節がありました。

乙10期の桑折(こおり)邦重さん。飛練時代。

そこには桑折さんの体験談が書いてありました。
※当時の名前が「桑折」だったので、ここでは引用以外は「桑折」表記にします。

「(第五次ブーゲンビル島沖海戦で)撃墜された後は、救命浮舟に七人が摑まって一二時間以上漂流しました。気が付くと二隻の敵駆逐艦が我々を取り巻くように停まっていました。『死して虜囚の辱めを受けず』という言葉が頭に浮かんで、救命胴衣を脱ぎ、褌一丁になって水を飲んで死のうと海面下に潜ったのですが、なかなか死ねない。苦しくて海面に顔を出したところをゴムボートの爪竿で叩かれ、意識朦朧となったところを捕らえられてしまったんです」
結城邦重上飛曹が米軍の捕虜になったときの様子だ。

18年11月16日午後11時15分、桑折さんは、デング熱で搭乗不能になっていた蔵増飛曹長の穴埋めに入り、ふだんと違うペアと組んで、ブナカナウから出撃しました。
敵機動部隊への雷撃です。

それが石井三郎さんが主電信員を務めるペアでした。

操縦員   桑折邦重上飛曹  ※蔵増飛曹長のかわり

偵察員   横山一吉飛曹長
偵察員   塙正義1飛曹
偵察員   朝倉信義飛長

電信員   石井三郎上飛曹
電信員   渕之上美雄1飛曹

搭整員   岡本利雄上整曹


(11月17日)午前二時二十分、指揮官機が大きくバンクをしながら右旋回を開始、上飛曹機は振り放され単機となり、計器飛行に切り替えた。暗黒の海面を煌めく火炎や曵跟弾から敵艦の位置を推測、同時に「突撃」を受信、眼下の曵跟弾の束の根本に向かって降下を開始した。後席に座る偵察員の横山飛曹長が、上飛曹の腰バンドをがちゃがちゃと装着してくれた。
緊張が極限まで近づいたとき、ガガーンという衝撃音がしてエンジンがウワーンと唸り声を上げた。機体が旋回し始め、それを水平に引き戻そうとしたとき、海面に激突、上飛曹は操縦桿か計器盤に頭を打ちつけたらしく、気を失った。魚雷は投下されないままだった。
※「上飛曹」は桑折さんのことです。


横山飛曹長の腕時計は午前三時十三分で止まっており、これが撃墜された時間だったのかもしれない。その後、結城上飛曹ら七名のペアは漂流の後、米駆逐艦に捕らえられてしまう。米国各地の捕虜収容所を転々とし、結城上飛曹が浦賀に上陸したのは、昭和二十一年(一九四六)一月二日のことだった。





なぜ、この文章(石井さんのお名前はまったく出てこない)を読んですぐに石井さんと桑折さんが結びついたのか、いまとなっては思い出せません。

9期生の戦死時の行動調書は、公開されている分はすべて印刷してファイルに綴じているので、石井さんの戦死時のペアの操縦員が桑折さんだったと記憶していたのかもしれません。

「桑折さんが捕虜生還? じゃあ、石井さんは?」

2015年9月17日にKさんに送ったメールが残っています。

『10期の中攻操縦員の桑折邦重さん、ご存じですか?
751空の18年11月17日(出撃は16日)の攻撃で未帰還になっているんですが、実は撃墜されペア7名全員で12時間以上漂流して米駆逐艦に拾われて捕虜になっているようなんです。
佐藤暢彦さんの本では7名とも捕虜になっているように書かれているんですが、そのときの主電信員が9期の石井三郎さんなんですよ。石井さんの戦死日は18年11月17日です。

石井さん、どうなったかご存じないですか?

10期の同期生会誌の桑折さんのところにはこの件に関しては何も書かれていません。
桑折さん、何かどこかに書かれていないですかね?』

いつもこんな感じでKさんに頼っています、スイマセン<(_ _)>


このメールに対するKさんからの返信で、初めて石井さんも一緒に捕虜になったことを知りました。

石井さんがその後どうなったのかも、Kさんのメールに書いてありました。

そのときの顛末が渡辺洋二さんの「敵国からの凱旋」と、淵之上美雄さん(甲8)の手記(同期生会誌)に書かれているとご教示いただきました。


渡辺洋二「敵国からの凱旋」(『重い飛行機雲 太平洋戦争に本空軍秘話』文春文庫)
張りめぐらされた未帰還機の網を、きわどくくぐり抜けてきた横山上飛層にも”その日”は訪れた。
十一月一日付で准士官に進級し、蔵増飛曹長と同室になってから半月。機動部隊発見の報告が十六日の夜に入り、七五一空を含む雷装の攻撃隊が出動にかかる。水上偵察機が敵上陸部隊のLSTを空母と誤認した、第五次ブーゲンビル島沖航空戦の始まりである。
三小隊一番機のペアは、操縦員・桑折邦重上飛曹、偵察員・横山飛曹長、電信員・石井三郎上飛曹および淵之上美雄一飛曹、搭乗整備員・岡本利雄上整曹、攻撃員・塙正義一飛曹および朝倉信義飛長の七名。攻撃員は新しくできたポジションで、射撃専門の銃手をさす。

中略

大きな衝撃音とともに右エンジンから発火、速度が急落した。敵弾が当たったのだ。
桑折上飛曹の懸命の操縦の効果なく、高度が下がり、尾部が海面を打った。頼みの綱の左エンジンもやられて火を噴き、一式陸攻三一二号機は魚雷を抱いたまま海にすべりこんだ。

中略

ブーゲンビル島沖タロキナ沖に着水して数分後、横山飛曹長がわれに返ったとき、陸攻はまだ海面に浮かんでいた。
コクピットから翼上に出てみると、まわりはもう明るい。海水につかった左腕の航空時計がちょうど午前三時で止まっている。彼と前後してペアが機内から出てきた。
淵之上一飛曹のほかは、皆どこかケガをしていた。重傷は、頭部と額に裂傷を負った岡本上整曹と、両足を複雑骨折した塙一飛曹。ちぎれかかった塙一飛曹の右足を、淵之上一飛曹が切断処置をほどこした。
ブイと呼んだ救命筏をふくらませ、塙一飛曹を横たえて、取りはずした七・七ミリ機銃を持たせる。魚雷は落下しており、暗号書の始末も確認。やがて三一二号機は機影を海中に没した。


この時点で、石井さんもケガを負いながらもまだ生きていたことがわかります。

漂流している間、敵機に見つかって一連射かけられたり、上空を一式陸攻や九九艦爆が通過するものの気づいてもらえなかったり。

そして、とうとう米駆逐艦が向かってくるのが見えました。

機長としての責任から、横山飛曹長は「敵につかまるより、自決しよう」と決意を表し、全員が賛同した。さいわい機銃も拳銃もある。目的を果たすのは困難ではないと思われた。
まず淵之上一飛曹が「私からお願いします」と願い出たように、横山氏は記憶する。甲飛の後輩だから、という意味が含まれていた。淵之上氏の回想では、飛曹長が「フチよ、お前いちばんに死んでくれ」と言ったことになっている。どちらにせよ、理由は同じだ。

しかし、横山飛曹長が引き金を引いても弾は出ませんでした。次に塙一飛曹、やはり不発。横山飛曹長も不発。海水で炸薬がしけって発火しなかったそう。

敵艦からカッターが降ろされ、三名ほどの兵が乗って漕ぎ寄ってきた。なんとしても捕らわれの身にはなれない。胴衣をはずして水を多量に飲み、水中に潜って溺れ死のうとしたが、苦しさで無意識に浮き上がってしまう。
このとき、ブイの縁につかまっていた深傷の岡本上整曹の姿が消えた。ここで力尽きたのは、ある意味で幸せだったとすら思える。

中略

溺死をはかって疲れはてた六名を、米兵は竿の先に付けた輪を首にかけて引き寄せた。カッターに上げられたとき、あらがう体力も気力も残っていなかった。

中略

駆逐艦では塙一飛曹に手術がほどこされた。彼以外は見張り付きの船倉に入れられ、ガダルカナル島へ。到着したのはヘンダーソン飛行場に近い収容所だった。

この時点で一緒に行動していたのは、横山飛曹長、石井さん、桑折さん、淵ノ上さん、朝倉さん。
しかし、このあと、12月の中頃になって、横山飛曹長以外の下士官兵たちは後方の収容所へ移されました。

そして、横山飛曹長も年明けの1月12日、一緒に捕虜になっていた陸軍の林少尉と別の収容所(ニューカレドニア・ヌーメア)へ移動します。

横山飛曹長と林少尉がヌーメアに移された理由の一つに、同地の別の収容所における下士官・兵の脱走未遂事件があった。今後、こうしたことのないように、米側は二人をまとめ役にしたい意向をもっていた。
ヌーメアに来て一週間ほどで、トラックで一時間のその収容所へ向かう。到着後まもなく、事件にからんでペアだった石井上飛曹が死んだと聞かされた。

横山さんに事の顛末を知らせたのは、ペアで後輩の淵之上さんです。

搭乗員が主体の海軍の捕虜たちは飛行場に侵入して飛行機を奪い、北部ソロモンをめざす。残る海軍と陸軍捕虜はヌーメア港の潜水艦で脱出する計画だった。ところが一人の海軍下士官が米側に通報したために、脱走計画はつぶされてしまった。
この責任をとって、海軍側のリーダーたちがテントの中で血しぶきを散らせて自決した。このうち七五一空の搭乗員が五名で、石井上飛曹が含まれていたのである。









この機のサブの電信員だった淵之上美雄さんの手記はさらに生々しいです。
ところどころ渡辺さんの戦記と齟齬がありますが、わたしはどちらがどうだと判断できないのでそのまま書きます。


やっと大型艦の真上を航過した瞬間右エンジンに被弾、真赤な炎の舌が見える。左に横滑べり飛行を二度ほどすると尾部で波頭を打つ。その直後直撃弾があたったか大きな音と共に眼前が真赤になり海面に衝突、失神してしまった。左エンジンの脱落した海中の左翼の下に投げ出され、海中で海水を呑んで気が付き体を曲げ脚で機体を蹴ったところで操縦席のところに浮上し右主翼上に出た。横山機長の発射用意の命令で魚雷発射の手動索を腕に巻き付けていたまでは記憶ある。あのまま死ねば死も苦にならないが、蘇生した時からまた生への執着が出て、敵艦のいる区域より脱出しようと全員で協議、泳いでいるうちにブーゲンビルの島影が漸く黎明の空に浮かび上がって来た。確認距離約三千メートル位、再度機内に入りゴム製の救命ボートを持ち出して空気を入れ、拳銃一挺と七・七ミリ機銃一挺、弾倉一箇をボートに積み、主翼上で岡本上整曹と二人で塙兵曹の右足を小生の短刀で切断、大腿部を止血し左脚の骨折部をマフラーでしばり塙兵曹をボートに移した。その時切断した右脚と共に短刀も海に投棄した。岡本先任の頭部もマフラーでしばり全員ソロモン海に飛び込み脱出開始。しばらくして愛機三一二号機に米艦より機関砲で攻撃している様がよく見える。間もなく愛機は真赤に燃え出したのを確認した。三一二号機は永遠にソロモン海に海没した。

この時の全員の状態も記されています。

機長横山飛曹長(二甲飛)、頭部負傷、搭発先任下士岡本上整曹(十志整)頭部裂傷、操縦桑折上飛曹(現結城)(乙十期)顔面負傷、電信石井上飛曹(乙九期)頭部及び腕負傷、攻撃塙一飛曹(十五志丙)両足骨折、右脚切断処置、副偵朝倉飛長(十六志丙)顔面及腕負傷、副電小生無傷、・・・・


渕之上さんの手記にも上空を味方の九九艦爆二機と一式陸攻一機が通過したが見つけてもらえなかったという話が出てきます。そして、

午後頭上五百位をまた二機通過、皆でマフラーを振ったところようやく発見され喜んだのも束の間、低空に降下してきたのが何と星マークの米軍機。二航過して日本軍と判明したのか三度目は銃撃してきた。一発が岡本先任下士官の頭部に当り先任下士官は硬直したまま海中に没した。漂流中よく小生を励まし温厚な人でした。静岡県〇〇出身新婚三か月とか、どうせなら独身の小生に当ればよかったのに、全ては神の意のままの運命だなと思いました。
※原文では○○は地名

岡本上整曹の最期、渡辺洋二さんの戦記とは違います。
あちらでは米駆逐艦のカッターに収容されそうになったときに力尽きて海没したことになっています。

夕暮近くにまた米軍機一機飛来、ゴムボートの近くに物量投下、時限爆弾かもしれぬと思いながら無傷の小生が近くまで泳いで注意しながら英語のコンビーフ、チョコレート、ウイスキー等の単語で判読、全員空腹のためルーズベルトの差入れを心よく受け入れた。

ホッとしたのも束の間、向こうから駆逐艦が一隻やってくるのが見えました。
横山分隊士の訓話のち、全員自決することに。
しかし、横山分隊士の拳銃が不発。
七・七ミリ機銃もこれまた不発。

次に全員で大日本帝国万歳をして舌を噛み、海中に没するも死ぬ事はできない。

必至で死のうとするペア。
石井さんの顔が浮かんで涙が出そうです。
上にも書いたように、石井さんは海軍に入ったときはかなづちでした。予科練での鍛錬を経て泳げるようになっていたのでしょう。
溺死はできませんでした。

そのうち駆逐艦と一緒に来ていた魚雷艇が目前まで迫ってきました。
まず、重傷の塙兵曹が収容されました。

小生と石井兵曹は魚雷艇のスクリュウに体当りを試みるもスクリュウを停止し浮流、こんどは急発進して二人共大波の如きウエーキにはね返され万事休す。

結局この魚雷艇に収容のち、駆逐艦に移されました。

横山分隊士、石井上飛曹、桑折上飛曹、朝倉飛長、小生の五名は艦底の鉄格子の部屋に収容され、塙兵曹は病室に収容された。日系二世のM・Pの言によればガダルに連行後全員銃殺の由、覚悟を決めた。

駆逐艦の艦底やガダルカナルの収容所で、先に捕虜になっていた航空隊の面々との再会などもあるのですが、ここは割愛させてもらいます。

小生のペアの乙九期石井上飛曹、七甲飛S一飛曹、T飛長等六名が小生等より先に十二月初旬に仏領ニューカレドニアのヌーメアの収容所に移送された。次いで十九年二月横山飛曹長、桑折上飛曹、朝倉飛長、小生、陸軍Y少尉、軍医のI中尉と後便でニューカレドニアに移送された。

この部分も渡辺洋二さんの戦記とは食い違いがあります。
が、石井さんが先にニューカレドニアに移されたことは間違いなさそうです。
これが運命の分かれ道になったのだなと思います。
後便の横山さん、桑折さん、朝倉さん、淵ノ上さんたちは生還されました(朝倉さんはネット情報)。

何んと驚いた事に、そこには海軍の搭乗員たちがそろって自決していた。原因は収容所脱走計画が内部告発で米軍側に通報されたためであり、ヌーメア港の米軍潜水艦と収容所裏山の向側の飛行場の飛行機を奪取して脱走する計画であったため、陸軍側が海軍にのみ有利で陸軍側が残されるおそれありとして反対していたので、米軍側への通報も陸軍側と思われたのが何んとニュージョージアで捕った海軍陸戦隊の古参下士官のK兵曹とわかり、責任上先の海軍側の人々が昭和十九年一月九日頃自決したのである。テント内側に血痕多数あり。

この記述に続いて自決した人、自決をはかって助かった人たちの氏名が列記してありました。

川口一飛曹(七五一空) レンネル海戦
那珂一飛曹(七五一空) レンネル海戦
東 上飛曹(七五一空) レンネル海戦十二志操練
南 上飛曹(七五一空) 乙九期
石井兵曹(七五一空) 乙九期 ろ号作戦第五次ブーゲンビル海戦小生機主電上飛曹
佐藤靖男(翔鶴艦攻操) 七甲飛、ろ号作戦第二次ブーゲンビル海戦
荻野恭一郎上飛曹 零戦十一志操練、小生鈴鹿二十七期飛練当時の飛行分隊教員
佐藤上曹 駆逐艦暁の先任伍長 二次ソロモン夜戦
徳永飛長(翔鶴艦攻偵) ろ号作戦第二次ブーゲンビル海戦
※那珂一飛曹は「那賀」、東上飛曹は操練ではなく「丙2」(Kさんご教示)


このうち東さんと徳永さんは米軍の救助により一命をとりとめたそうです。

米軍が救助した、ということは、責任を取らせて自害させたということではなく、かれらが自ら死を選んだ、ということなのでしょうか。


ここに「南 上飛曹(七五一空) 乙九期」と書かれているのは南弘明さんのことです。

一緒に自決した川口條太郎上飛曹、那賀福夫上飛曹、東豊次1飛曹は18年2月4日、バラレから哨戒索敵に出て未帰還になったときの南さんのペアです(階級は当日の行動調書による)。


石井さんと南さんは仲良しだったと思うんです。
内地帰還時に一緒に倉町先生を訪ねているぐらいなので。

海上に不時着後、米軍につかまるまいと自決しようとし、失敗して、絶望の中連行された収容所で、9カ月前に戦死したと思っていた南さんと再会できたときはどんなに喜んだか。
しかし、捕虜の身。自分たちの運命を呪ったことでしょう。

が、心強かったと思いますよ。一緒になれたことで。



そして、最期、自決するとき、二人は何を思ったろう。




2015年にわたしが『一式陸攻戦史』の記述を見つけてKさんに問い合わせをしたとき、同時にネット検索であるサイトを見つけていました。
ニューカレドニアにある捕虜墓地に葬られている人が列記されたサイトがありました。
Kさんに送ったメールにアドレスを貼っているのですが、閉鎖されたのか、現在は閲覧不能になっています。

そこにあった「捕虜収容所埋葬者リスト」に、
「イシイサブロ 44年1月9日 ニューカレドニア」
「ミナミハルミ 44年1月9日 ニューカレドニア」
という記述があった、とKさんに書き送っているんですよね・・・・。

イシイサブロさんはおそらく石井三郎さんでしょう。
ミナミハルミさんが南弘明さんかどうかはわかりませんが、一番近いお名前はこれだったんでしょう、これをKさんに書き送っているんで。


現地に行って確認できたら一番いいのですがそれもかなわないので・・・・。


当時見つけたサイトを信じるとしたら、いまもお二人はニューカレドニアの墓地に眠っているということでしょうか。






南弘明さん
18年2月4日 751空 ニューカレドニア島北方海域で行方不明のち捕虜、ニューカレドニア・ヌーメアにて自決(19年1月9日?)

石井三郎さん
18年11月17日 751空  ブーゲンビル島付近で撃墜されのち捕虜、ニューカレドニア・ヌーメアにて自決(19年1月9日?)



※画像は9期生ご遺族、ご家族ご提供