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『局地戦闘機「紫電改」ディテールフォト 川西第5312号機』大日本絵画2020年02月06日 10時07分20秒

マイケル・フレッチャー氏が撮影した写真に、吉野泰貴さんが解説文をつけています。

戦後、横須賀から米国に運ばれ、2008年にレストアが完成した機体。
レストア中に撮られた写真なので、平素は見ることのできない部分まで撮影されています。



プラモデルを作るときに参考にしたらいいだろうな~って写真がたくさん載っています。



操縦席なんか特にそうなんですが、実際ここに座ってこれを操縦した搭乗員がいるんだなと思うと、なんというか、写真なんですが、写っている計器やレバーなどもいとしく感じてしまいます。

機体の他の部分に関しても、飛行隊の整備員たちが日々愛情をこめて整備していたことでしょう。

本当はこういうものは日本で展示?できたらいいんでしょうけど。



尾翼の機番号はヨ‐105で復元されています。
わたし個人的には343空機で復元してほしかったな、と(^^;)






いま国内で見られる実機は愛南町のこの機体だけですよね。
昭和20年7月24日、豊後水道上空での空戦後に不時着水して、その後長年海中に沈んでいた機体です。
不時着したときの衝撃でプロペラは曲がっているし、機体は海中にあったために腐食しています。
この機体しか知らないわたしとしては、本の機体は一から復元した機体?って感じに見えます。すごく状態がいいです。

どんな状態からここまでレストアしたのか。
レストア前の写真はなかったように思いました。見たかったな。





兵庫県の加西には完全復元紫電改もあるんですよ。
川西航空機・鶉野工場があったご縁みたいです。
一度行ってみたいと思いつつ、まだ行けていません。

松田憲雄『雷撃機電信員の死闘』光人社NF文庫2020年01月14日 10時40分54秒

森史郎さんの瑞鶴、読んでいます。
17年10月26日です。瑞鶴の艦爆隊と翔鶴の艦攻隊がホーネットを攻撃中です。
出てくる攻撃隊の人たちがどうなるかわかっていながら読むのはつらい・・・・。



読んでいたら、翔鶴艦攻隊の登場人物に聞き覚えのある人が出てきました。
電信員の松田憲雄3飛曹です。
本棚を探したら手記がありました。
南太平洋海戦時の記述をご本人はどう書いているのかな・・・・と思ってパラパラめくっていたら、9期生のお名前が。

翔鶴艦攻隊時代で、覚えている下士官の人・・・・と名前を挙げている中に村上守司さんのお名前がありました。
松田さんは13年6月に海軍に入ったそうで、13年6月入隊の9期とは「海軍歴同期」ですからね。←※Kさんからの指摘で訂正しました
階級も一緒だし。
村上守司さん。予科練時代。
南太平洋海戦で戦死。



松田さんは南太平洋海戦を生き延び、教員配置に。
大井空上海分遣隊に勤務します。
「上海時代の同年兵教員で、遠藤秋章一等飛行兵曹(乙九期出身)という人がいた。同じ教員同士で気があってよくお喋りをしたのだが、この人は、中肉中背、色白の坊ちゃん風で、おとなしいが一度やりかけたことはやり抜く責任感の強い男だった。
彼は、十九年十一月、海軍飛行兵曹長に任官、終戦時には、第七〇一海軍航空隊「彗星」艦爆隊隊長機の偵察員配置だった。
八月十五日正午すぎ、第五航空艦隊長官宇垣纒海軍中将は、部下特別攻撃隊員の後を追って沖縄の米軍艦船に特別攻撃をかけることを決心して、「彗星」艦爆隊中津留大尉に出撃を命じた。
「彗星」は二座機、操縦は中津留大尉、後席は遠藤だから、長官の乗る席がない。長官は遠藤に、
「自分が乗るから降りるように」と命じた。
しかし、遠藤はこの命令を拒否して譲らない。押し問答の挙句、狭い後席に太った長官と遠藤が同席で出撃、敵艦に突入して戦死したという。戦後、中島、猪口両氏共著の『神風特別攻撃隊』を読んで、このことを知った。
すでに戦いは終わっていた。彼はこれを知りながら、若い情熱の赴くままに長官と行動を共にして散っていったのである。上海時代を知っている私は、
「遠藤、よくやったと言ってやるのが本当だろうが、惜しいやつを死なした、生きていて欲しかった」と語りかけた。」

松田さんは「十九年十一月、海軍飛行兵曹長に任官」と書いていますが、これは間違いだと思います。
遠藤さんは戦死時飛曹長ですが、いつ飛曹長に進級したのかはわたしは把握していません。が、何もなければ9期は20年5月1日に飛曹長進級なので、遠藤さんひとりが19年11月に飛曹長に進級したというのは考えづらいです。
遠藤秋章さん。3飛曹時代。

先日もテレビに8月15日の出撃時の写真が出ていて、遠藤さんの姿がそこにありました。
わたしは松田さんが言われるように「若い情熱の赴くまま」征ったとは思っていません。




それから762空攻撃708時代の記述。
台湾沖航空戦の際、
「攻撃七○八飛行隊でも、藤原などの同年兵や先輩、後輩の多くが自爆した」
と書かれていました。
松田さんの同年兵の「藤原」、フルネームは書かれていませんが、おそらく9期の藤原国雄さんのことと思います。

藤原国雄さん。飛練時代。


9期のことを調べ始める前に読んだ手記はもう一度見直す必要があるかも。
9期生が登場していることを見落としていました。




瑞鶴、南太平洋海戦に戻ります。



※画像は9期生ご遺族ご提供

大友文吉分隊長2020年01月09日 13時58分24秒

今回のタイトルは迷いました。
「大友文吉分隊長」にするか、「森史郎『空母対空母 空母瑞鶴戦史 [南太平洋海戦篇]』光人社NF文庫」にするか。


年末に注文しておいた本を昨日取りに行ってきました。

ネットで注文したら、希望の本屋に届けてくれるというサービスを利用しました。
送料・手数料みたいなものはかかりません。本代だけです。


どうしてこの本を購入したかというと――
平山さんのことを調べていて、どうしてもわからないことがあったからです。この本には書いてあるんじゃないかと思って取り寄せてみました。
結果から言うと、「わかりませんでした」。

何を知りたいのかというと、
南太平洋海戦後、帰ってきた瑞鶴の飛行機隊はどこに行ったのか?
です。

瑞鶴自体はトラック経由で呉に帰ってきたと、ネットにもこの本にも書いてありました。

じゃなくて、飛行機隊、搭乗員たちはどこに帰って来たのか。

艦隊と一緒に呉に帰って来たのか、それとも近海のどこかで発艦して陸上の基地に向かったのか。

アジ歴でも探してみたのですが、わたしの能力では見つけられませんでした。
わたしの検索のしかたが悪いんですよ、たぶん。
以前も、わたしが見つけられなかった資料をKさんが「ここに載っていますよ」とさらっと教えてくださったことが・・・・(^^;)

もし、南太平洋海戦後の瑞鶴の搭乗員たちがどこに向かったのかご存じの方がいたら教えてください<(_ _)>






で、大友文吉分隊長です。

この方です。卒アルから。
9期の予科練時代の操縦分隊の分隊長です。航海の教官。
当時、少佐。

なんで唐突にこの人の名前をタイトルにしたのかというとですね、今回取り寄せた本、読み始めたしょっぱからこの人の名前が出てきて仰天した、と。

1942年9月10日、南雲艦隊がトラック泊地からソロモン海に向かうシーンから話が始まっているんですが、そこに、
『外洋に出て、野元為輝艦長から操舵の指揮を託された大友文吉航海長が、旗艦翔鶴からの速力指示を高い声で操舵員につたえた』
という記述が!

野元艦長というのは瑞鶴の当時の艦長です。ですから「航海長」は瑞鶴の航海長です。

「なんと! 大友分隊長は瑞鶴の航海長になっていたのか!」

ビックリしました。

島田さんの日記(15年11月4日)によると、大友分隊長は9期卒業直前に水路部に転勤されているんです。その後どうなったか・・・・。検索すらしていませんでした。
が、昨日、これの記述を見つけてビックリしたので検索してみたところ・・・・。

戦後もご健在だったらしく、海兵の後輩の方が書かれた故人を偲ぶ手記の中に大友さんのお名前が出ていました。

大鳳にも勤務されていたらしいです。
大鳳はマリアナ沖海戦で森田守さんが発艦した空母です。
そのとき、大友さんもおられたのか?
大鳳時代は副長だったように書かれてあります。

人柄は温厚だったとも。


終戦後は特設潜水母艦筑紫丸の艦長をされていたようなネット記事も出ていました。






島田さんの日記に出てくる大友分隊長関連記事
14年3月1日。
予科練が横須賀から霞ヶ浦に移転。
『運送指揮官大友少佐、補佐官中矢兵曹長指揮によった。』

14年7月16日。
『行軍
六時 湖水にて遊覧船に乗りて香取・香島(鹿島)参拝行軍が実施された。宇土特ム大尉、大友少佐、寺島特ム少尉等教官等交りて水郷の水の都ののんびりした中を取りて参拝した。』

14年9月8日
『近頃時間的観念がないと注意を受ける。整列に遅れたりする者が多いからである。又大友少佐より隊を編制した場合、各自の行動をゆるさない。各自の行動は烏合の衆と同じである。注意を要す。』

15年2月5日
『精神教育
二十一分隊(大友少佐)
我が国は唯今物質的に非常な不自由をしているのである。此れを見るに我が帝国の勢力が此事変に於いて此れだけ衰弱したと考へる者もあるかも知れんが此れは大きな誤解である。』

15年7月22日
『精神教育は大友分隊長の「大死一番」について

15年7月24日
『朝の課業整列の際に大友分隊長より総員に水の節水について自重を望むと!!』

15年7月29日
『精神教育は休暇中の注意事項を話された。
大友分隊長より
㊀機密保持励行の事
㊁女に対する事
以上の事は厳守して萬遺憾なき様にしなければならない。次いで宇土分隊長より以上二項も呉々も注意する様に。また飲食等にも注意する様に!!』

15年9月8日
以前書きました。日曜の外出時のこと。
『隊門を出て自動車に乗ろうと思ったが当直将校大友少佐に歩いて行く様に注意され、本間、大塚、戸川と土浦に徒歩で、土浦で戸川と二人で食べる位の程度で帰る。』

15年9月9日
『精神教育は大友少佐の「公益優先」について。ドイツが如何に滅私的精神が強いか、我が国にのみあると思ったが此れ系統に於いても・・・・。唯国家あるのみのドイツ国民、此れならばこそ落下傘部隊も生れたのである・・・・。』

15年9月19日
『航海
大友教官より教官の説明する時に下を見て本を読んでいる者がある。教官の説明する際はよく聞いていなくてはならない。何にも本を読んで解る所は説明しない、と怒ってしまった・・・・。』

15年10月3日
『航海の時間に大友少佐が「日本精神」と云ふ本、紀平博士の書いたもの、結論は「何クソ」であると言はれた。何事も「何クソ」であればよい・・・・。』

15年10月8日
『航海試験・・・・。
大友分隊長より試験前まで未練そうに何時迠も本を見ている。此れは将来お前達が飛行機に乗り出そうとして教員から射撃方法等習っているのと同じである。此うした事はやめろ・・・・。』

15年11月4日
『二十一分隊長少佐大友文吉 水路部員に栄転されて餞けとして一言訓示。
今迠に又此れから守ってもらいたいのは唯々「和」である。「和」を持って此れから行く様に。』


わたしが大友分隊長に共感した点。
試験前まで未練そうにいつまでも本を見ているって注意されているところ(笑)
春海は試験前だろうが試験中だろうがまったく勉強する様子もなく、駅で水泳部員とTikTokやったりしたあげく散々な結果を持ち帰って来るので呆れるばかりですが。毎回ホントに「実力テスト」状態です( ;∀;)
だからと言って試験日に行きの電車の中で単語帳を見ている高校生「すばらしい!!」と思っているかというとそうでもなく、じつは少し呆れている部分があります。
試験というのはふだんの勉強していることが身についているかどうかを確認する場であって、試験のために勉強するのは本末転倒です。
しかし、いまはこの試験の結果の「点数」が人生を左右することにもなるので、とにかく点を取らねばとそのことに一生懸命になってしまいますよね。
一番いいのはやはりふだんからやっていて、テスト前に慌てて詰め込まない、ってことです。一夜漬けみたいなことや試験直前に単語を覚えるようなことをしてしのいでも、結局身に付きません。実体験です(笑)

あとね、教官が説明しているときは本は見なくていい、って話も。





ここまで書いてきて、またあることに気づきました。
この写真、9期操縦分隊の集合写真です。

この写真に、9期の卒業時のものだと添え書きがあるのを見たことがあります。その添え書きはどなたが書いたのかわかりません。
ただ、軍帽のペンネントが「霞ヶ浦海軍航空隊」なので、「卒業時」ではなく「卒業に近い時期」だろうぐらいに思っていました。
※9期の卒業時の所属は土浦海軍航空隊。


大友分隊長が写っていました!

ということは少なくとも分隊長が11月4日に転勤するより前、の撮影ということになります。

もしかしたら分隊長の退隊に際しての記念写真かもな、という気になっています。





9期生存者が戦後に編集した『九期生名簿』。
ここに倉町先生が文章を寄せていますが、大友分隊長のことはどこにも触れられておらず、予科練退隊後のことは今回検索するまでわたしは知りませんでした。

10期の久保さん宅に遊びに行ったとき、当時の分隊長とは戦後も交流があったという話をうれしそうにされていました。予科練においては親みたいな存在だと思います、分隊長。

9期も大友分隊長と戦後も交流があったんです。写真を探したらありました。
見ているはずなのですが、情報量が多すぎて大友分隊長が写っていることを失念してしまっていました。
昭和40年。9期生が卒業記念に植えた土浦の雄飛の松。

添え書きに「大友分隊長をかこんで」と書かれています。
9期会の旗の左で杖を手に座っているご老人のすぐ後ろの白髪のおじさんがそうなんだろうと思います。
明治32年(1899年)生まれらしいので、昭和40年(1965)は66歳です。
9期生は40歳ちょい過ぎぐらいです。



平山さんのことを調べようとして大友分隊長にいっちゃいました(^^;)
これから瑞鶴、読みます。


※画像は9期生ご遺族、ご家族ご提供

U.S.マリーンズ ザ・レザーネック2019年12月05日 16時52分18秒

こんな本を読みました。

読みました、というか、見ました、というか。





わたしの知らない世界、です(笑)


上田信さんって、戦争モノのマンガとか描いてはる人です。

うちにも上田さんのマンガ、あります。劇画。


さすがに「アメリカ海兵隊」はね。うちの本棚にはいままでありませんでした。お初。



昔からカタカナとか覚えられなくてねー。

この本も、カタカナとかアルファベットばっかですよ(笑)
わたしの頭じゃ覚えるのは無理っぽい。

この本は25年前に出た本の改訂版らしいです。
海兵隊も常に進化しています。 ←知ったか

8年後の盆まねき2019年11月15日 09時40分36秒

先日、以前から交流のあった9期の森田守さんのご遺族の親戚の方からメールをいただきました。


その方は徳島空の白菊特攻隊の慰霊顕彰活動をされています。

戦史研究家の菅原完さんが書いた白菊特攻隊の記事が雑誌『丸』(9月号、10月号)に掲載されたとかで、コピーを送ってくださいました。


「あー、菅原完さんかぁ」

あの人のことを思い出しました。

富安俊助中尉。

13期予備学生出身のかたで、特攻出撃しエンタープライズに突入して戦死されています。

富安中尉機がエンタープライズに突入した零戦であるということを突き止めて記事にされていたのが菅原さんでした。


2011年の暮れに知人の戦史研究家Jさんから富安陽子さんの『盆まねき』という児童書をすすめられて読み深く心に刺さりました。
陽子さんは富安中尉の姪御さんです。特攻で亡くなった俊助さんを思い続ける家族のことをどちらかというとふわっとしたタッチで児童書という形で書いています。
この本や菅原さんの記事のことは2012年1月にブログに書いています。








そのときのブログの冒頭に、わたしは、

『戦史研究家のJさんにすすめられて読んだのです。Jさんもある人からすすめられて読んだそうです。そのある人も、また人からすすめられて読んだそうです。
要するに、口コミというか、読んだ人がことごとく感動して、次々に人にすすめていき、わたしが読むことになった・・・・というわけです。

ですから、いま、わたしは、直接すすめてくれたJさんだけではなく、Jさん以前に「この本、いいよ」とすすめてくれたすべての人に感謝しています。

もちろん、作者の富安陽子さんにも。』

と書いています。






白菊の記事を送ってもらい菅原さんと富安中尉のことを思い出したので、森田さんの親戚の方に、
「菅原さんの富安中尉の記事を以前に読んだことがあります」
とお話をしたところ、どうもそのわたしの発言が菅原さんご本人に伝わったようで、
「どうして富安中尉のことを知っているのだろうか?」
といぶかられたらしく(^^;)

「戦史研究家のJさんからすすめられて『盆まねき』を読んだんです」
とお返事しました。

その後、ご親戚の方の仲介を経て、わたしのところに菅原さんからメールが来ました。



Jさんに『盆まねき』すすめたのは雑誌編集者のS氏。わたしはここまでは把握していました。S氏にもすすめた人がいるってこともわかっていました。菅原さんと話してみてわかったのは、S氏にすすめたのが菅原さんだったってこと!(・∀・)


つまり、

菅原さん→S氏→Jさん→わたし

と『盆まねき』が伝わって来たと(^^;)


そして8年経って、菅原さんとわたしのラインがつながったと。

「線」だったのが「輪」になった、とひとりでよろこんでしまいました(*´ω`)

もちろん菅原さんには直接「ありがとうございました」とお礼を言いました。8年かかりましたが(笑)


いつも書いていますが、亡くなった人がご縁でいま生きている人間がつながっていく――
お導きとしか思えないようなことがたびたび起こります。