Google
WWWを検索 ひねもすを検索

翔鶴の大石さん2021年05月04日 10時45分46秒

昨日、未解決のまま終わった「翔鶴の大石さん」。

起きたら解決していました。

Kさんから、
「翔鶴の大石さんはこの人だと思います」
とメールが届いていました。

ありがとうございます、ホントにいつもいつもスイマセン<(_ _)>

もともとは豊田一義さんのアルバムで認識した人なのですが、「大石兵曹」としか書かれておらず、「どこの大石さん?」と追跡がストップしていた人です。

偶然のことから、谷水竹雄さんの翔鶴時代の写真に写っていることに気づきました。
「大石 一八、一一、一一
赤字は戦死日と解釈。

行動調書で大石さんがどなたか判明するだろうと探したのですが、この日の行動調書を見つけられず、Yさん(お世話になっている戦史研究家。隊史、搭乗員、機体なんでも)に翔鶴戦闘機隊の18年11月11日の戦死者を把握されていないか尋ねてみました。
佐藤仁志飛曹長(操練26)
磯部隆造上飛曹(丙飛6)
立住一男1飛曹(乙飛11)
とのことで。

「うーん、やっぱり大石さんのお名前がない(+_+)」

で、朝起きたらKさんからメールが届いていて、
「翔鶴の大石さんは磯部隆造さん(旧姓大石)のことだと思いますよ」
と。

なんと!?
改姓されていた!

豊田さんの飛練23期の集合写真に写っていたので、当然丙6の名簿は見ました。
ただし「大石さん」を探していました。
まさか磯部さんと大石さんが同一人物だったとは。

よく考えたら、あの頃の人って、いまより姓が変わっている人多い印象です。
結婚とか養子とか。
大石さんの場合、理由はわかりませんが、どこかの時点で大石さんから磯部さんに改姓されて、海軍的には磯部さんになっていたと。
築城時代はたぶん正式に「大石」さんです。作業服の胸に「二飛曹(?) 大石」と書いていあるように見えます。「大石」は間違いないです。

翔鶴時代はわからないです。
谷水さんが「大石さん」と旧姓で認識していただけかもしれません。


Yさんから聞いた戦死時の磯部さんの階級は上飛曹になっています。
翔鶴写真の磯部さんは1飛曹の階級章をつけていますが、Kさんによると18年11月1日上飛曹に進級されているようです。





さっき、豊田さんの写真を見返していて、もう1枚見つけました。
書き込みはなかったけど大石さん。


ちょっと教員(左)と練習生(練成員? 右)には見えないですが。
飛練の教員・練習生ではありえない写真です。
練成部隊なので一人前に扱っているのでしょう。豊田さんと大石さんの間にあまり高い壁はなさそう。




というわけで、翔鶴の大石さんは丙6期の磯部隆造さんのようです。



※画像は愛媛零戦搭乗員会、谷水さんご家族ご提供

翔鶴戦闘機隊2021年05月03日 16時10分59秒

今日の話はいつにもましてややこしくわかりにくい話です、先に謝っておきます、スイマセン<(_ _)>

例によって例のごとく、わたしの絶望的なまでの集中力の無さが幸いした(?)んでは、と思っています。


ことの発端は乙8の甲斐巧さんです。
今回の豊田さんのアルバムのおかげで甲斐さんのお顔が把握できたような気がしたので、手持ちの写真(豊田さんの写真以外)の中に甲斐さんが写っていないか探していました。
可能性が高いのは乙2期の浅川三雄さんの教員時代の写真。霞ヶ浦とか百里原の集合写真が何枚かあり、その中に乙8の飛練と思われる集合写真もあったのでどこかに写っていないかな?と探していました。

集中力欠如①
浅川さんの百里原の集合写真を見ていて教員列に近藤政市さんらしきお顔があるのに気づきました。
「たしか谷水竹雄さんの写真の中に近藤さんの写真があったな。比べてみよう」

集中力欠如②
近藤さんのお顔は確認できました。たぶん、近藤さん。→この話はまた今度
「もっとお顔がちゃんと写っている写真、なかったかな?」
とさらに探していて、谷水さんの翔鶴時代の写真に目が釘付け。

これです。

何度も見ている写真です。
おそらく18年10月ごろの写真。
谷水さんの筆跡だと思うのですが、「翔鶴リフト上」、さらに全員のお名前も書きこんであります。

「川村さんとなっ!?」
目が釘付けになったのはこの人です。
後列左から2人目。


豊田さんのアルバムに貼ってあったこの人ではないか!


書き込みがありました。
「甲七期 川村兵曹」
なので、わたしは自作の注記ファイルに「川村武彦さん 三重」と書き込んでしまったんですが。


「翔鶴の川村さん」を調べたら、甲6の川村正次さんが出てきました。
愛知県出身
18年11月2日  翔鶴  ラバウル

お顔が一緒で、姓が一緒なのでこれは甲6の川村正次さんの可能性大と思っています。



もうおひとり。
後列左から4人目。
大石と書き込んであり、赤字で「十八、一一、一一」と書き込んであります(最初11月11日ではなく2月2日かと思ったのですが、写真が18年10月ごろの撮影としたらそれ以降)。

やはり同じ人が豊田さんのアルバムに。Tは築城空のTでしょうか。富高基地。
これは「大石兵曹と」と書き込みがありました。

「どこの大石兵曹やねん?」って散々調べたのですが、そのときはわかりませんでした。
今回谷水さんの写真のおかげで「翔鶴」「18年11月11日戦死」とわかったので、
「よし、これでどこの大石さんかわかるゾ」
と名簿類や行動調書など調べてみたのですが・・・・。
わかりませんでしたorz



お二人は人数が多い翔鶴戦闘機隊写真にも写っています。

川村さん

大石さん

こちらの写真には7期の檜垣英次郎さんや窪田晴吉さんも下士官で写っていて、18年11月1日より前だとわかります(18年11月1日飛曹長進級)。





これは豊田さんのアルバムにあった写真で、
「富高基地にて 二十三期卒業に際して」
という書き込みがありました。
飛練23期ってことでしょうね。

大石さん、ここに写っているんですよね。
飛練23期の人か?
該当者、いないですよね?
教えている側か?
もっと古い人?

でも翔鶴の写真(18年10月ごろ)の時点で1飛曹ですよね。
わからない(>_<)

ちなみにこの写真、また今度取り上げたいと思っています。



というわけで、乙8甲斐巧さんを探していて、豊田さんアルバムの川村さんが甲6川村正次さんらしいという結論に達したという話です。



※画像は愛媛零戦搭乗員会、谷水さんご家族ご提供

343空戦闘301 清水俊信さん2020年09月29日 08時28分40秒

ちょびちょび書き足していたらホンマにまとまりのない文章になってしまいました。ご容赦<(_ _)>




先日、
「長野さんが写っていた!」
とブログで紹介したこの写真。


Kさんに長野さんの配属先と階級をお尋ねしたので、この写真をメールに添付して送りました。

そしたらですね・・・・。

記名のある方の詳細を送ってきてくださいました!
野々宮正義さん(乙14)
菊池多喜美さん(乙14)
石川菊一さん(乙14)
秋武大治郎さん(丙11)
清水俊信さん(丙11)
だと思います、とのこと。

石川菊一さんはのちに343空戦闘701、20年3月19日松山上空の空戦で戦死されています。




清水俊信さんのことはわたしここに何回か書いたことがあります。
やはり343空の方で、戦闘301、20年4月21日に戦死されています。


すぐに戦闘301集合写真で確認しました。たしかに清水俊信さんと書かれた方と同一人物でした。
書籍でよく紹介されている写真なのでお手元にある方はご覧になってください。前から3列目の右端です。



「何回か書いた」というのは――


K上飛曹が初めてホリブン(堀光雄さん(乙10))に会った日のことを回想してくださったときのこと。
343空が初対面ではなく、19年夏に菅野大尉に率いられて中島飛行機に零戦を取りに行ったとき、高雄空教員の堀さんが横山友一さんと清水俊信さんを連れて零戦を取りに来ていて、それが初対面だった――って話です。

のちに堀さんは高雄空から343空戦闘301(菅野さんやK上飛曹の飛行隊)に転勤してくるわけですが、そのとき一緒に転勤してきたのが横山さんと清水さんだったそうです。

Kさんにも確認しました。
清水さん、19年夏ごろは高雄空で教員勤務。



2010年夏、阿久根の折口浜の林喜重少佐の慰霊碑にお参りに行きました。
慰霊碑の碑文に一緒に戦死した清水さんのお名前がありました。

林さんの戦死之地の碑。
この慰霊碑に関してはここにも書いています。


奥に設置された石碑。







林大尉戦死の日のことは『源田の剣』(高木晃治 ヘンリー境田、双葉社)に詳しく描かれています。

4月21日、早朝からB29来襲、紫電改23機が鴛淵孝大尉(戦闘701)指揮で国分を発進。
戦闘701(鴛淵孝大尉) 10機
戦闘407(林喜重大尉) 4機
戦闘301(菅野直大尉) 9機

途中の経緯は省略。

『林大尉区隊は、鴛淵大尉直率の編隊とは離れて戦闘に入っていた。福山(国分南東)上空高度六〇〇〇で北西進するB-29の一群を発見攻撃のあと、林大尉は単機分離して追撃し、〇七四〇、戦闘三〇一菅野区隊三番機の清水俊信一飛曹(丙11)と協同した。清水一飛曹は、天草上空で主隊からはぐれて出水付近で哨戒中、戦闘四〇七隊長機がB-29の一群を反復攻撃しているのを見て協同したのである。林大尉は、清水機との協同攻撃で一機撃墜を報じたあと消息を絶った。同機はエンジンに被弾して南九州西側の阿久根折口沿岸の海上に墜落し、大尉は頭蓋骨骨折で戦死した。林機は海面に不時着水を企てたが増槽を付けていたので、機首から突っ込んだといわれる。大尉の遺体は地元有志の手により回収され、現地陸岸で荼毘に付された。清水機はエンジンを撃たれ蕨島西方海面に自爆した(志賀少佐『隊誌』記事)』


関係地(わたし作製)
志賀さんは清水さんの戦死地を「蕨島西方海面」と書かれているようですが、こちらで把握した戦死状況が「蕨島北方二〇〇〇米ノ海中突入戦死」だったので、その位置を入れました。
※清水さんは海中突入したときに機体のコントロールができる状態だったのかどうかわからないので「墜落地」にしました。林さんは不時着水を狙った(コントロールできる状態だった)と判断して「不時着地」にしました。



清水さんは3月19日の空戦以来、ずっと菅野さんの列機ですね。


前にKさんが作ってくれた343空飛行隊長の履歴資料があるんですが、
林喜重さん  18年11月5日  厚木空(203空 19年3月まで)
菅野直さん  18年9月15日  厚木空(19年1月1日まで)
おふたりとも、清水さんが厚木にいた時期(18年5月~12月初)、厚木にいらしたようなんですよね。林さんはラバウルからの転勤なので実際に厚木に着任したのがいつかわからないんですが・・・・。
まったく接点はなかったか、あるいは名前や顔を知っているような間柄だったか、それはわからないんですが・・・・。




松本さんが写真に書き込んでいる「戦闘機第一期生」というのがちょっと不明なんです。
11人写っている写真の中で松本さんが名前を書き込んでいるのは上に書いた5名です。
乙14の3人が下士官服、丙11の2人がジョンベラです。
乙14の石川さんは両袖が見えていて左袖に特技章、右袖に善行章1線と1飛曹の階級章がついています。
乙14の野々宮さんも階級章は1飛曹です。袖が見えていない菊池さんも1飛曹でしょう。
丙11のおふたりは特技章は見えませんが階級章は飛長です。清水さんは筑波で中練、大分で実用機を済ませているので特技章はついているでしょう。おふたりともついているとみなしていいでしょう。

この件に関してもKさんと少し話をしました。
「戦闘機第一期生」は飛練生ではないです。
海軍の制度としては一人前の搭乗員のはず。
厚木で戦闘機搭乗員として練成中だったのではないか。
その頃には、飛練を出ただけでは戦地で通用しないような状況になっていたようです。
わたし自身がヒトに説明できるような状況にないですが、まあ、なんとなくイメージとしてはとらえられているようなないような?(^^;)









松本さんの昭和18年11月という集合写真に写っている「清水」が清水俊信さんであるとわかってから、あらためて松本さんの写真を見返してみました。


左、清水さんだよなあ?  ※右は松本さんです。階級章は上飛曹。

清水さんらしき人、飛行手袋にお名前が書いてあるようなのですが何と書いてあるのかわかりません。
あと、左袖には特技章。

この写真、いい写真ですよね。
松本さんの貫禄(?)もよく出ていますしね。
清水さんは椅子には座っておらず、床に膝をついて松本さんの椅子のひじ掛けに腕を乗せているのではないかなと思います。
おふたりは上飛曹と飛長なので、清水さん自らこのポジションになったのではなく、松本さんか撮影者がこのポーズをとるように清水さんに指示したのかなという気もします。




これは時期も場所もわからないんですが、似ているような気がするので出してみます。

居並ぶ練習生らしき人たちの中ほど、目を伏せているのでちょっとわからないんですが・・・・。
こちらに背を向けている背が高いのが松本さんなのかな?


上と場所が違うような気もするんですが

やはり真ん中あたり。違うかな?
右手前に立っている背が高い横顔が松本さん?



松本さんと清水さんが一緒に写っているとしたら18年秋ごろの厚木じゃないの?
って最初思ったんですが、Kさんご教示によると清水さんは飛練(中練)は筑波だそうで。17年7月末から半年ほど。
ちょうどその時期、松本さんも筑波で教員をしているんですよね。

もしかしてその頃から縁があったとか? ※想像です

写っている人たちの階級章などが見えないので時期がまったく絞り込めません。

筑波の可能性もないわけではないのかな?
背後の建物も、わたしが見てもどこの航空隊かわからんのです(´・ω・`)

現時点では「筑波かなあ?」に傾いています。
わたしの印象なんですが、飛練生はマフラーをしていません。特技章をもらったら練成中でもマフラーをしているんじゃないか?
上の2枚に写っている左側の居並んでいる人たちはみなマフラーをしていないです。飛練中なんじゃないか?
右の人はマフラー(襟巻?)もしていて、腕に腕章をつけているので教員だと思います。体格から松本さんではないかと。



確実に「清水俊信さん」なのは記名がある分だけで、あとはわたしが「似ているよな?」と思っている写真です。




松本さん、実家への書簡に何か書いていないかと思って見てみたところ(『ジュンちゃんへ・・・戦争に行った兄さんより』武田信行編、風媒社)、筑波発18年1月21日付の書簡にこんなことを書いていました。
『漸く練習生を一クラスの一部を無事何の事故もなく卒業させる事が出来ました。今日が卒業式です』
清水さんが筑波の次の大分空(実用機)に辞令が出ているのが18年1月23日なので、1月21日、筑波の卒業式だった可能性は大です。やはり松本さんはかれらのクラスの担当教員だったのかも。直接清水さんを担当したかどうかはわかりませんでしたが。

厚木発18年12月31日。
『わたしも軍隊に厄介になって丸五年七ヶ月、多少なりとも軍人にならうと努力して来ました。人に笑われる様な事、恥づかしい事は一度だってした事はありません。戦友にも、下宿の人にも、分隊長、分隊士にも可愛がられて来ました。これで人間として男としての最大の幸福と思ひます。一人前に育てた後輩と共に大東亜戦完遂の為に働かうと決心しております』
すでに清水さんが松本さんの元を離れている時期の書簡ですが(清水さんの転勤先は301空なのでもしかしたら厚木にいたかも)、「一人前に育てた後輩」の中に清水さんが含まれていることはたしかでしょう。


こうして先輩が後輩を育てて・・・・という繰り返しですね。



菅野さんの列機だった清水さんが、松本さんから操縦を教わっていたというのはなんだか不思議な気分です。
菅野さんと松本さんには直接の接点はないと思うのですが(同時期に厚木にいたようですが)、清水さんを通して縁があったような気分になりました(無理矢理感)。


こういう、「じつは・・・・」って縁、たくさんあるんでしょうね。


※画像は9期生ご遺族ご提供

長野喜一さんらしき写真2020年09月25日 19時26分38秒

何度かここに書いている長野喜一さん(操練56期)。
戦闘機搭乗員です。
582空時代のエピソード(乙5角田和男さん手記から)とか集合写真(丙3大澤芳夫さん所有)に写っていたとか、9期の松本勝正さんとツーショットがあったとか、過去にそんなことを書いています。



おさらい。


大澤さんのアルバムにあった集合写真。メンバーから582空戦闘機隊若手とみなしました。

これ、長野さんやんなあ? 満面笑み。
笑顔の写真って、見つけるとめっちゃうれしいです。


これも大澤さんのですが、書籍にも掲載されている写真なので見たことがある人もいるでしょう。





これも大澤さんの。書籍でもよく見る写真です。角田さんの離任に際して撮られた写真だそうです。


ここまで582空です。




で、これが松本さんのアルバムにあったツーショット。

厚木時代か203空時代でしょうか。
18年後半から19年4月ごろまでかなと思っています。

『日本海軍戦闘機隊2』【エース列伝】(大日本絵画)の長野さんの項にはこの写真が使われています。
松本さん部分(左半分)をカットして使用していることに関してはわたしは多少怒っています。





ここまではいままで出していた写真です。


今日、別件で松本さんの写真を整理していまして。


「あれ? もしかしてこれ長野さんじゃないの?」
って写真を見つけました。
(「またいまごろかいっ!?」の突っ込みは受け付けます)


以前から何度も見ている写真なんですよ。
いままでまったく気が付かなかったんです。
笑顔の教員さんをみて、ラバウルの長野さんの笑顔がもわんと浮かんで、
「もしかして長野さん!?」
たぶん、大澤さんのこの写真を見ていなかったらこの先もずっと気づかなかったんじゃないか。


同じ時に撮った「笑っていないバージョン」もありました。


どうでしょうかね、長野さんに似ているように思うんですが。

略帽が永沢くん感というか、富士山感を出していますが、長野さんも(?)静岡県出身のようです(だからなんだ)。






探したらまだありました。
後ろにマフラーをしていない搭乗員が写っている&腕章をしている人がいる(教員?)ことから、厚木空・練習航空隊時代かなと想像。

中央の人がね、
長野さんに似ています。
たばこ休憩中。
左手前の横顔が松本さんではないかと思います。




そしてもう1枚。
松本さんが書きこんだのだろうと思うのですが、
「昭和拾八年拾一月 厚木海軍航空隊
            戦斗機 第一期生ト寫ス」

全員の氏名は書いてありません。

「ふーん」
って、松本さん(前列右端)を見て、氏名の書かれている人を見て、分隊長?の顔を見て、それから氏名の書かれていない人の顔を見て、
「他に知っている人は写っていないな」
で終わっていました。

今日、教員室での教員写真に長野さんらしき人が写っているのに気づいて、
「もしかしてあの写真にも写っているんじゃないか?」
と再度見てみたところ、
中列右から2人目の人。

「おいおい、長野さん・・・・?(;・∀・)」

歴戦の搭乗員らしく軍帽もとんがっています。※イメージです


この人、袖の階級章が見えています。
1飛曹。

ちなみに松本さんは18年11月1日に上飛曹に進級しています。


Kさんに18年11月の長野さんの配属先、階級を尋ねてみました。
長野さんは厚木空で1飛曹だそうです。


というわけで、たぶん長野さんだと思います。


このあと203空、戦闘304飛行隊。

19年11月6日 比島バンバン飛行場で米艦載機の邀撃に上がり戦死




※画像は9期生ご遺族、大澤さんご家族ご提供

台南空の丙3期生2020年07月11日 15時25分04秒

↑たぶん、これ書いていないですよね。


先日、思いがけないところで山内芳美さんを発見してテンションが上がったので書いてみようかと思います。


丙3期の予科練教程は16年2月~4月。
飛練(17期操縦)教程は16年4月~17年3月。
丙3の場合、飛練は操偵で、あるいは操縦だけでも時期や期間が違っていてややこしいです。

予科練教程が短いのは、乙飛や甲飛と違い、これ以前に海兵団で海軍軍人としての基礎教育を済ませているからです。中にはけっこうな一人前の海軍軍人さんもいたりします。


かれらがラバウルの台南空にやって来たのは乙10期生(飛練16期)と同じころなのではないかと思っています。着任日の確たる証拠みたいなものはまだ見たことがないです。


わたしがよくブログに書いている乙9期生(飛練10期)は台南空では若手ですが、特技章付与がかれらより5ヶ月ほど早く、出撃に連れて行ってもらえる若手です。前線基地のラエにも連れて行ってもらえています。
乙10期と丙3期はなかなか出撃に連れて行ってもらえない若手って感じでしょうか。
仕事はラバウルでの哨戒が主だったように思います。




①飛練17期大分戦闘機専修 17年3月31日

②台南空ラバウル 17年8月4日

③251空ラバウル 17年11月



【伊藤重彦さん】
台南空、251空、582空
18年6月5日 ブイン


【岩坂義房さん】
台南空
17年10月15日 ガダルカナル


【笹本孝道さん】
台南空、251空、582空
18年6月30日 レンドバ


【山内芳美さん】
台南空、251空、582空、204空
18年10月17日 ブイン


【八並信孝さん】
台南空、251空、582空
18年6月30日 レンドバ


【平林真一さん】
台南空、251空、582空・・・・戦後生存


【本田秀正さん】
台南空、251空、582空
18年4月7日 フロリダ沖海戦


【明慶幡五郎さん】
台南空、251空、582空、204空、横須賀空
19年7月4日 硫黄島


【沖繁国男さん】
台南空、251空、582空・・・・戦後生存
8月4日集合写真②に写っていてもおかしくないのですが、よくわからないんですよね。これかなあ?


【尾崎光康さん】
鹿屋空、台南空、251空、582空・・・・265空
19年7月8日 サイパン


【不明1】


【不明2】
不明1と不明2の搭乗員は若杉育造さんと長尾信人さんではないかと思っています。
若杉さん
台南空、251空、582空
17年11月13日 ソロモン

長尾さん
台南空、251空、582空
17年11月26日 ドブシール飛行場攻撃


【不明3】
この不明3の搭乗員は本多秀三さんではないかと思っています。
以前、「本多秀三さんは8月4日写真②に写っているかどうか微妙」だと書いたことがあります。それは鹿屋空から台南空への転勤時期がよくわからず「もしかして写っていないのかも」と思っていたからなのですが、Kさんから転勤時期や一緒に転勤したメンバーに関して貴重情報をいただいて、いまは「写っている」方に傾いています。

仮に本多さんも写っているとしましょう。
飛練17期大分戦闘機①、台南空8月4日②、251空11月③、この3枚の写真に写りうる台南空丙3期のお顔不明者は若杉育造さん、長尾信人さん、本多秀三さんの3名になるのですが、「不明1、2が若杉さん、長尾さん」では?、「不明3が本多さん」では?とわけた理由はちゃんとあります。

飛練17期戦闘機の実用機は大分空ですが、その一つ前の教程、中間練習機教程については筑波と百里原にわかれてやっています。この教程は戦闘機だけではなく他機種の操縦専修生たちも一緒です。
で、問題の3名の方ですが、若杉さんと長尾さんが百里原、本多さんが筑波だそうです(Kさんご教示)。
百里原に関しては集合写真を入手できていないのですが、筑波の方は谷水竹雄さんの集合写真があります。

不明3の人、筑波飛練の集合写真のこの人じゃないかと思うんですよね。ちょっと不鮮明ですが。
ちなみに不明1と2の人は筑波の集合写真には写っていないと思います。

という理由で、この人が本多秀三さんでは?と思っているわけです。

「思います」とか「思っている」という段階で出すのは自分的はあまり気が進まないのですが、いくら思っていても前進しそうにないので、ここに書いてみてどこからか情報が寄せられるのを期待したいと。

【本多秀三さん】
鹿屋空、台南空、251空、582空
17年11月14日 ブカ


【徳永辰男さん】
1空、台南空、251空、752空、201空
18年8月12日 チョイセル島
徳永さんはお顔はわかっているのですが、写っているはずの飛練17期大分戦闘機①からも、251空集合写真③からも探し出せていません。
8月4日②には写っていないと思います。


【和野内恭三さん】
台南空・・・・653空(瑞鳳)
19年6月19日  西太平洋方面

和野内さんはわたしが探した限りでは6月10日~23日で台南空の行動調書にお名前が出ているだけで、その前後が不明です。Kさん情報によるとこのあと戦傷で戦線離脱しているとのこと。
②にも③にも写っていないと言い切っていいでしょう。
飛練は筑波→大分なので、どこかに写っているはずですが、この2枚どちらにも写っている人は他にもたくさんいるので、特定(推定)は困難です。



この人たちは予科練的には丙3期で同期生なのですが、入団年は必ずしも同年ではなく、階級から推測するに八並さんが最古参です。

乙飛甲飛と違って丙飛は「同期=同年兵」ではないのでややこしいですね。

さらにややこしいことに、丙3期は飛練が17期と18期にわかれています。
台南空の丙3期生たちは全員飛練17期です。






わたしも坂井三郎さんの『大空のサムライ』を読んで台南空に惹かれた一人ですが、坂井さんが描いている台南空とわたしが自分で思っている台南空にはビミョーなズレがあります。

もちろん坂井さんが描いている台南空は坂井さんがその場にいて体験した台南空の一面に違いないと思うのですが、行動調書を見ていると坂井さんが描き切れていない台南空の搭乗員たちがずいぶんいるんだなあという印象です。

それは集合写真で「不明」とか「一人おいて」と表現されているあの人たちです。

坂井さんが手記で取り上げている人たちは集合写真でもちゃんとお名前を書き込まれていますね。間違っている人もいるみたいですが※わたし調べ

当然かれらも「不明」とか「一人おいて」と表現されるような人たちではなく、誰かの大切な人に違いないのです。

あのときから長い年月が過ぎ、交友が薄かった人は名前が思い出せなくなってしまったとしてもしかたありません。
わたしも中学や高校の集合写真を見せられても、全員の名前は憶えていないと思います。
海軍は転勤も頻繁で、さらに苛烈な前線でのこと、転勤してきたと思ったら戦死・・・・ということもめずらしくなかったはず。

印象が薄い人がいるのはしかたがないと思っています。

それでも、できることならそこに写っているのがどなたなのか知りたいです。
一人でもどなたかわかると写真を見るときの思いも違ってきませんか。
わたしはどなたかわからないまま見るのと、○○さんだと思って見るのとではやはり違います。

本当は推測入りで書くのは大変失礼だとは思うのですが、自分で詰めれるところまでは詰めて出しているつもりです(現時点でわかっている範囲で)。

書いてみて、その人のことを知っている人(ご遺族の方とか)が「あの人、違うよ」とか「あの人、本人です」と反応があるとよいなと思います。



本当は乙9期、乙10期、丙3期以外のクラスも追求したいのですが、何かきっかけ(ご遺族から写真を見せていただくとか)がないとなかなか難しいです。
クラスが偏ってしまっているのはそういう事情ですので、ご勘弁を。


8月4日集合写真に関しては最後に書いた時点から認識が変わっているので、また更新しないといけないと思っています。
丙3期の人たち以外にも、追加訂正したい人たちがいます。


※画像は本田さんご遺族、大澤さん・谷水さんご家族、武田信行氏ご提供