偵27 藤波貫二さん ― 2023年08月04日 17時27分17秒
東京都出身。
海軍に入る前は学校の先生を目ざされていたのだとか。
昭和11年5月10日に発生した龍驤の艦爆の事故調書。
上の調書の藤波さんの前歴欄に「館空艦攻偵察員」と書かれています。
で、「昭和十年十月十八日以降仝(龍驤九四式艦爆第四小隊三番機)右偵察員」と。
なので、藤波さんは昭和10年10月に館空から龍驤に転勤したのだろう、と。
推測込みですが、残っている写真を年代順にならべてみました。
昭和7年 横須賀海兵団入団。


藤波さんの袖は見えないのですが、写っている兵の人たち全員が「横須賀海兵団」のペンネント、さらに袖が見えている人は階級章ナシ(4等兵)なので、たぶん海兵団入団からそう遠くない日の撮影と思われます。入団直後ぐらい?


「横須賀海兵団」。
藤波さんの袖に3等機関兵の階級章がついているので、上の集合写真よりは新しいです。
上の写真にも写っている人もいるし、見当たらない人もいるし・・・・。
「海軍工機学校」。


階級章は見えません。
「海軍工機学校」。


こちらでは藤波さんは3等機関兵の階級章をつけているように見えます。でも判然としません。
工機学校の2枚の写真はどちらが先か後か、これだけではわかりません。
長門。

2等機関兵。左袖には特技章も。
このあと偵練に進まれたようです。
写真がないけれど、偵練27期(横須賀海軍航空隊)。
昭和9年ごろ。
卒業後、延長教育が館山海軍航空隊。艦攻偵察員。

袖の階級章は1等航空兵。左袖には操(偵)練出身者の特技章。
善行章はないように見えるので、~10年前半ぐらいの撮影でしょうか。

こちらは善行章がついているので10年夏ごろでしょうか。
そして昭和10年10月から龍驤、艦爆偵察員。

次なのか、次の次なのかわかりませんが、12~13年ごろ多摩で水偵偵察員。

斉藤さんと。
ヒゲの藤波さん。

すでにベテランの風格を漂わせていますが、よく見ると善行章が1線しかついていないので昭和10年頃から13年ごろの写真のようです。
龍驤か多摩か。
後ろの壁から「龍驤だ」「多摩だ」ってわかる方がいらしたらご一報ください。
先日紹介した家族写真。

お孫さんのお話だと16年撮影ということでした。
奥様が抱っこしている次女さんの生年月日を教えていただいたので、そこから16年のいつごろかわかるとよいのですが、戦前戦中の子どもさんはいまの子どもと発育が違っていたりして、見た目で「何ヶ月ぐらい」とか「何歳ぐらい」って難しいですよね。
わたしは別方面から撮影時期が絞れないか検討中です。
真珠湾攻撃時は蒼龍。水平爆撃隊嚮導機偵察員。(鹿熊粂吉さんご遺族所有)

16年後半。
9月18日~11月の撮影だと思います。
前列右端の田中敬介さん(甲2、17年6月5日 ミッドウェー)は9月17日まで佐藤治尾飛曹長―金井昇1飛曹機(1中隊嚮導機)の電信員でした。18日に「待望の偵察員」になれたとかでペアを離れた旨、金井さんの日記(金井昇さんご遺族所有、Oさんご教示)に記されています。
田中さんが偵察配置集合写真に写っているということはその日以降の撮影ということ。

家族写真。
藤波さんの階級章がよく見えないんですよね。飛曹長かな。
袖に桜がついているので17年の春か秋ぐらいかなあ?
お嬢さんたちが半袖なので、海軍的には1種だけど気候的には半袖で過ごせる時期、ってことでしょうか。

階級章がはっきり見えないですが、飛曹長か少尉でしょう。
詳しい人に見てもらったところ、
「トラックの竹島かなあ?」
と言われたので竹島飛行場の写真を探してみたのですが、こんな風景が見える場所じゃないような気もしました(後ろの山)。
どこでしょうね? 山からわかりそうな気もしますが。
「この山、見たことがある」って方はぜひご一報ください。
ネットで楓島というのも見たのですが、飛行場と山が写っている写真を見つけられませんでした。
後ろに写っている飛行機ははっきり見えないけれど全体の感じから天山っぽいとのこと。

この三種軍装の藤波さんは少尉の階級章をつけていますので、見せていただいた中ではこれが一番新しい写真なのかなと思います。
19年6月29日 攻撃251飛行隊 サイパン
※以前書いたときは「マリアナ」にしていましたが、ご遺族の方と戦史研究家の方の話を聞いて「サイパン」にしました。
※画像は( )以外は藤波さんご遺族ご提供。
金井さん・鹿熊さん遺品に関してはOさんご協力。
偵27 藤波貫二さんの写真 龍驤艦爆隊 ― 2023年07月18日 17時58分37秒
今回送っていただいた藤波さんの写真の中にただ1枚だけあった飛行機隊の集合写真。

ひとめ見て「古いな(^^;)」って写真です。

書き込みもないので、いつの、何の集合写真かわからなかったのですが、ヒント見つけました。

一緒に写っている兵のペンネント、「大日本軍艦龍驤」!!
「そーか、藤波さんは龍驤にもいたのか!」
装備や写っている飛行機がなんか古そうだったので、多摩の前の勤務先かなと思ってとりあえずあてずっぽうで「龍驤 昭和11年」でアジ歴検索したら出てきましたー。
あまりよろしくない。
事故調書。
ひとつひとつ開いていったら、昭和11年5月21日、笠ノ原基地で作成された94式艦上爆撃機の事故調書に藤波さんのお名前が(゚Д゚;)
事故発生年月日及場所 昭和十一年五月十日午前十時四十七分九州東方海上足摺岬一四〇度八〇浬
航空作業種別 聯合艦隊第二回応用教練 敵空母第二次空中攻撃
搭乗員
操縦員 官(職)階氏名 海軍一等航空兵 玉置次郎 総飛行時数四ニ八時間五分 事故発生機飛行時数 一三四時間二五分
経歴(操縦ニ関スルモノ) 第二十四期操練 大村海軍航空隊 艦攻操縦員 昭和十年十月二十六日以降龍驤九四式艦爆第四小隊三番機操縦員 既往ニ事故ナシ
同乗者 官(職)階氏名 海軍一等航空兵 藤波貫二 第二十七期偵練
経歴概要 館空 艦攻偵察員 昭和十年十月十八日以降仝右偵察員既往ニ事故ナシ
(機体、発動機に関する記述、略)
損傷程度 搭乗員 操縦者肺ニ海水ヲ吸込ミタルモ経過良好 偵察者異状ナシ
器材 大破沈没
事故概要 別紙
一、天候気象其ノ他四囲ノ状況
二、搭乗者・任務又ハ指揮者ノ与ヘタル命令注意事項等(事故ト関係アルモノ)
三、経過
四、事故発生時及其ノ直後ノ処置
五、其ノ他必要ト認ムル事項
事故原因
原因二以上ノ場合ニハ第一第二原因等又ハ直接間接原因等ノ如ク併記ス
原因明確ナラザル場合ニ推定原因ヲ記ス
推定原因
(一)、急降下侵入時機首ノ下ゲ方急激ニシテ発動機ヲ停止セシメ燃料過多又ハ過■ト発動機過冷ニヨリ再起動セザリシカ
(二)、着水迄燃圧0ナリシコト確実ナル所ヨリ見レバ「エアロック」ヲ生ジタルカ調圧弁又ハ燃料ポンプ不作動ニ依ルモノト認メラル
責任ニ関スル事項
責任ニ関スル所見処置ナドヲ記ス
(一)、技倆未熟或ハ機構上ノ故障ニシテ事情ヤムヲ得ザル事故ト認ム
(二)、発動機ノ取扱ヒ法及浮泛装置ノ取扱法ニツキ教示ス
所見
本事故ニ鑑ミ必要ト認ムル対■其ノ他意見等ヲ記ス
急降下引起し時発動機停止原因ヲ探究シ対策ヲ講ズルヲ要ス
記事 ナシ
別紙
事故概要
一、半晴 風八〇度六乃至八米 海上波浪アリ
二、敵空母急降下爆撃(擬襲)
急降下爆撃注意事項
(イ)敵を発見セバ主槽ヲ使用シ接敵開始時高々度把柄ヲ全閉トナセ
(ロ)接敵ハ前続機ノ通跡ヲ進ミ急降下進入前燃料加減柄ハ全閉トシ高度一五〇〇米ヨリ次第ニ七〇度トナセ
(ハ)引起シハ機首ノ水平線ニ達スルマデ全力ヲ用ヒ且直進 然ル後燃料加減柄ヲ静ニ出セ
(ニ)再起動セザル時ハ加減柄ヲ一杯絞リタル後更ニ静ニ出セ
(ホ)不時着ノ処置ヲ早目ニナスコト 即チ海上ニテハ浮泛装置ノ嘴ハ開トナシ置クコト 故障復旧ニトラワレズ浮泛装置ヲ直ニ作動シ風ニ向ヒ良好ナル着水トナスコト
三、昭和十一年五月十日午前八時四十分笠ノ原出発 午前十時ヨリ主槽使用燃圧計〇、一八ニテ振ナシ 午前十時四十分敵加賀ニ接敵開始 高度二〇〇〇 高々度把柄全閉 高度一五〇〇ヨリ加減柄全閉 急降下ニ入リ十時四十分爆撃(加賀ヨリ望見セル者ノ言ニ依レバ急降下中機尾ヨリ白キ尾ヲ引キタルモノ九機中二機アリタリ 其ノ中ノ一機ハ本機ナルガ如シ)機首ヲ水平ニ起シタル後加減柄ヲ出シタルモ爆音聞エズ 高度四〇〇米 気速一一〇節 回転八〇〇 燃圧〇 直ニ加減柄ヲ絞リ更ニ静ニ出スモ起動セズ 燃圧ハ手動ポンプヲ作動シタル時ノミ瞬間的ニ上ルモ常ニ〇ヲ示シ回転又八〇〇付近 遂ニ冷静ヲ失シ起動発電機ヲ廻シ注射ポンプヲ衝ク等不要ノ応急操作ヲナシ浮泛装置ヲ作動スルヲ忘レ又追風着水ノ已ムナキニ至レルハ遺憾ナリ
四、十時四十七分不時着水転覆 機体ハ約三十秒後沈没 十時五十七分波間ニ漂フ搭乗員ハ追風ニ救助セラル 其ノ救助振ハ誠ニ機敏ナリ
航空作業種別 聯合艦隊第二回応用教練 敵空母第二次空中攻撃
搭乗員
操縦員 官(職)階氏名 海軍一等航空兵 玉置次郎 総飛行時数四ニ八時間五分 事故発生機飛行時数 一三四時間二五分
経歴(操縦ニ関スルモノ) 第二十四期操練 大村海軍航空隊 艦攻操縦員 昭和十年十月二十六日以降龍驤九四式艦爆第四小隊三番機操縦員 既往ニ事故ナシ
同乗者 官(職)階氏名 海軍一等航空兵 藤波貫二 第二十七期偵練
経歴概要 館空 艦攻偵察員 昭和十年十月十八日以降仝右偵察員既往ニ事故ナシ
(機体、発動機に関する記述、略)
損傷程度 搭乗員 操縦者肺ニ海水ヲ吸込ミタルモ経過良好 偵察者異状ナシ
器材 大破沈没
事故概要 別紙
一、天候気象其ノ他四囲ノ状況
二、搭乗者・任務又ハ指揮者ノ与ヘタル命令注意事項等(事故ト関係アルモノ)
三、経過
四、事故発生時及其ノ直後ノ処置
五、其ノ他必要ト認ムル事項
事故原因
原因二以上ノ場合ニハ第一第二原因等又ハ直接間接原因等ノ如ク併記ス
原因明確ナラザル場合ニ推定原因ヲ記ス
推定原因
(一)、急降下侵入時機首ノ下ゲ方急激ニシテ発動機ヲ停止セシメ燃料過多又ハ過■ト発動機過冷ニヨリ再起動セザリシカ
(二)、着水迄燃圧0ナリシコト確実ナル所ヨリ見レバ「エアロック」ヲ生ジタルカ調圧弁又ハ燃料ポンプ不作動ニ依ルモノト認メラル
責任ニ関スル事項
責任ニ関スル所見処置ナドヲ記ス
(一)、技倆未熟或ハ機構上ノ故障ニシテ事情ヤムヲ得ザル事故ト認ム
(二)、発動機ノ取扱ヒ法及浮泛装置ノ取扱法ニツキ教示ス
所見
本事故ニ鑑ミ必要ト認ムル対■其ノ他意見等ヲ記ス
急降下引起し時発動機停止原因ヲ探究シ対策ヲ講ズルヲ要ス
記事 ナシ
別紙
事故概要
一、半晴 風八〇度六乃至八米 海上波浪アリ
二、敵空母急降下爆撃(擬襲)
急降下爆撃注意事項
(イ)敵を発見セバ主槽ヲ使用シ接敵開始時高々度把柄ヲ全閉トナセ
(ロ)接敵ハ前続機ノ通跡ヲ進ミ急降下進入前燃料加減柄ハ全閉トシ高度一五〇〇米ヨリ次第ニ七〇度トナセ
(ハ)引起シハ機首ノ水平線ニ達スルマデ全力ヲ用ヒ且直進 然ル後燃料加減柄ヲ静ニ出セ
(ニ)再起動セザル時ハ加減柄ヲ一杯絞リタル後更ニ静ニ出セ
(ホ)不時着ノ処置ヲ早目ニナスコト 即チ海上ニテハ浮泛装置ノ嘴ハ開トナシ置クコト 故障復旧ニトラワレズ浮泛装置ヲ直ニ作動シ風ニ向ヒ良好ナル着水トナスコト
三、昭和十一年五月十日午前八時四十分笠ノ原出発 午前十時ヨリ主槽使用燃圧計〇、一八ニテ振ナシ 午前十時四十分敵加賀ニ接敵開始 高度二〇〇〇 高々度把柄全閉 高度一五〇〇ヨリ加減柄全閉 急降下ニ入リ十時四十分爆撃(加賀ヨリ望見セル者ノ言ニ依レバ急降下中機尾ヨリ白キ尾ヲ引キタルモノ九機中二機アリタリ 其ノ中ノ一機ハ本機ナルガ如シ)機首ヲ水平ニ起シタル後加減柄ヲ出シタルモ爆音聞エズ 高度四〇〇米 気速一一〇節 回転八〇〇 燃圧〇 直ニ加減柄ヲ絞リ更ニ静ニ出スモ起動セズ 燃圧ハ手動ポンプヲ作動シタル時ノミ瞬間的ニ上ルモ常ニ〇ヲ示シ回転又八〇〇付近 遂ニ冷静ヲ失シ起動発電機ヲ廻シ注射ポンプヲ衝ク等不要ノ応急操作ヲナシ浮泛装置ヲ作動スルヲ忘レ又追風着水ノ已ムナキニ至レルハ遺憾ナリ
四、十時四十七分不時着水転覆 機体ハ約三十秒後沈没 十時五十七分波間ニ漂フ搭乗員ハ追風ニ救助セラル 其ノ救助振ハ誠ニ機敏ナリ
浮泛装置(ふへんそうち)・・・・艦上機の後部胴体内および主翼付根付近に装備されるゴム布製の装置であり、不時着水した際に機体がすぐに沈没しないよう、浮の役目を果たすものである。エンジンの火災消火用に装備されている炭酸ガスボンベと繋がっており、不時着水の直前にガスを注入して浮嚢を膨らませる構造のものが多用された(柴田武彦2007「日本海軍における搭乗員の安全対策について-救命用装備品の変遷を中心として-」より)。
追風・・・・追風着水は向い風に対する「追い風」。
追風に救助せらるは「駆逐艦 追風(おいて)」のことと思われる
表形式・縦書きのものをずらずらと横書きで書いたので読みにくいかと思います。
表形式のまま手書きを活字に直したものを貼っておきます。
※アジア歴史資料センターHPより活字化
おふたりとも大事に至らず何よりでした。
他の事故例などを見ると不時着水時の衝撃で大怪我、あるいは死亡、また機と一緒に沈んでしまった人などもいるようで、一歩間違えたら・・・・というところだったのではないでしょうか。
事故原因に関しては搭乗員お二人に責任はなさそうですが、機体変調後の対処のしかたにやや問題があったようで「遺憾なり」と書かれてしまっています。
冷静を失し不要の応急操作をなし浮泛装置を作動させるのを忘れてしまい追い風で着水してしまったとか何とか。
浮泛装置の件は操縦員、偵察員、どちらの仕事なのかなと思って調べてみたところ、単座だったら操縦員の仕事になるのですが、複座の場合、上の柴田氏の文献で挙がっている例「昭和 9(1934)年 3 月 6 日に大村海軍航空隊の八九式艦上攻撃機がエンジントラブルで海上に不時着した際には、浮泛装置を作動させようとして偵察員が瓦斯壜の「トグル」を引っ張ったが堅くて動かず、更に力を入れると「トグル」がワイヤーから離脱したため浮泛装置を膨張させることができなかった。」とのことで、この場合は偵察員が作動を担当したようです。
後には改良されて操縦席での簡単な操作で作動させることが可能になったとのこと(のちの97艦攻)。
94式艦爆の場合はどんな機構なのか、わたしにはわかりませんでした。
しかし、こういうことを経験して、いずれどんな修羅場にも冷静に対応できる搭乗員ができ上っていくのだろうなと思いました。
龍驤艦爆隊集合写真に写っている飛行機ですが、Yさんに確認してもらったところ、
「94式艦上爆撃機で間違いないでしょう」
とのことでした。
ちなみに藤波さんのペアの操縦員・玉置1空がどの人なのかはわかりません。
※画像はご遺族ご提供
偵27 藤波貫二さんの写真 大日本軍艦長門 ― 2023年07月17日 13時36分36秒
今回送っていただいた写真の中にこんな写真がありました。

どこかの艦上?

藤波さんをよく見たら、ペンネントに「大日本軍艦長門」!
藤波さんが袖につけているのは、

階級章。

特技章。
島田清守さん(9期)のところにあった海軍々人官職区別章及各章之図より
先日、Kさんから貴重情報をいただいたのですが、何かというと藤波さんの偵練時・偵練前のことがわかる資料。※偵練27期は昭和9年にやっているそうです
藤波さん、偵練卒業時の成績が全体の3番目、成績優秀でした。偵察員としての技量だけでなく人物評価も含めた成績で好成績でした。
さらにその資料には偵練に入る前のことも書かれていて、偵練直前は「長門」にいたそうです。
偵練時の階級は「一等機関兵」。※卒業して「一等航空兵」になったものと思われます
この写真の藤波さんは階級章は2等機関兵、善行章ナシ。
善行章は入団(隊)年がわかっていれば、何線つけているかで写真の撮影期間が絞れたりします。
これ、下士官・兵は海軍にお勤めして3年に1線付与されるものです(何もやらかさなければ)。
藤波さんの善行章に関してですが。
先日ここに出した藤波さんの家族写真。お孫さんによると昭和16年撮影とのことでした。

藤波さん、善行章を2線つけているんですよね。
善行章に関してはもひとつヒントがあって。
以前に、長井分隊長が所持していた蒼龍11分隊の名簿(昭和16年11月1日付)があるって話をここに書いているんですが、その名簿、下士官のお名前の下に善行章の数が併記されていて、藤波さんは山形が3本書かれています(ちなみに11分隊下士官兵で善行章3線は藤波さんだけ)。
藤波さん、16年になって、11月までの間に2線から3線に増えたってことです。
金井昇さんの16年の日記を読んだって話も書きましたかね?
藤波さんと金井さんはともに蒼龍艦攻隊水平爆撃隊の嚮導機偵察員で金井さんの行動(私的除く)はつまり藤波さんの行動とかぶっているだろうと思って読みかえしています。
上の家族写真もおおよそいつ撮影されたものか推定はできそう。金井さんが公務で関東近郊にいる時期とか(藤波さんは東京出身)、内地にいない時期などから。
それらのことからさらに推定すると、藤波さんは昭和7年に海軍に入ったのではないか。
成績優秀、人物評価も高い藤波さんが何かやらかして善行章付与に影響が出ていることは考えにくいので、順調にもらっていると仮定して逆算すると、3線目16年なら、2線目は13年、1線目は10年ってことかな。
長門写真は「善行章がない」&「2等機関兵」などから推定して昭和8年か9年の初めごろの撮影なんじゃないかなと思っています。
※入団年に関してはこれを書いた後でKさんに確認したところやはり「昭和7年」とのことでした。
この写真もYさんに見てもらったのですが、「後ろの短艇に『トガナ』って書いてある」とのご指摘が!

ホントだ!(・∀・)
なので撮影場所もほぼ長門で間違いないのでしょう。
後ろの大きな筒は主砲か。
※画像は藤波さんご遺族、島田清守さんご遺族ご提供
金井さん日記・長井さん名簿はOさん(『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の80年』)ご提供
多摩の斉藤さん ― 2023年07月17日 09時44分18秒
※202307171438追加修正あります→赤字
昨日、偵27藤波貫二さんと一緒に写真に写っているということでここで取り上げた「多摩の斉藤さん」ですが。
昨日、わたしは「知らんけど」と書いちゃいましたが、「多摩の斉藤さん」を知っている人がいました!!
Kさんがブログをご覧になられたようで、
「操練25期の斎藤(斉藤)義兵衛さん」
と。


斉藤か斎藤かはわかりません。本人でも省略して書く人がいますので。
飛行靴には「斉藤」と書いてあるように見えるんですが・・・・。戸籍は「斎藤」だったかも。それはもうわたしには確認できないので。
昭和12年後半~13年前半ごろ藤波さんと一緒に多摩勤務だったようです。
多摩の水偵は1機のみらしく、ペアで飛んだこともあったかもとのこと。
このころの多摩の航泊日誌というのがアジ歴に公開されているのでいくつかざっと見てみました。水偵がどんな任務を行っていたのかは書かれていますが、搭乗員の名前は出てこないので、搭乗員が何人いたのか、どんなペアで飛んだかなどはわかりませんでした。
同年兵ではないようですが、入団1年違いの藤波さんの後輩のようです。
※入団時期は1年も違わないそうで、斉藤さんが約半年遅いだけだそうです。
誕生日も約半年違いで、同年代みたいです(藤波さんの方が早い)。
18年12月15日 938空 ブーゲンビル島南方索敵攻撃(ブカ発進) 未帰還
※画像は藤波さんご遺族ご提供
偵27 藤波貫二さんの写真 タマ ― 2023年07月15日 23時02分05秒
藤波さんのお孫さんが、親戚宅に写真が残っていたと送ってきてくださいました。
たいへん興味深い写真ばかりで。
今日はこの2枚を紹介させていただきます。
飛行服姿の藤波さん(左)。

一緒に写っているのは同僚でしょうか。
艦上に見えます。
装備品に詳しいHちゃんに見ていただいたところ、右の人が上半身に掛けているベルト類は拳銃を携帯するためのベルトだそうです。左わきの下あたりにポシェットみたいなものが見えるのですが、拳銃を入れる拳銃嚢(ホルスター)だそうです。紐の先に拳銃がついているそうです。

同じ紐は藤波さんの左腕の辺りにも見えていて、Hさんは「紐を肩から外して隠しているのかな?」という感想でした。

で、これがいつ、どこで撮られたものか、なのですが。
わたしは艦はさっぱりなので見ても何もわかりません。
が、搭乗員は穴が空くぐらいジロジロ見ますよ(笑)
見つけました!!
どこかわかるヒントを!!
右の同僚さんの飛行靴、左足の内側。

「タ■ 斉(齊?)藤」
飛行靴、右足の内側。

「マ 斉(齊?)藤」
タマの斉藤?
多摩の斉藤さんだ!!
知らんけど(^^;)
スイマセン、多摩の斉藤さん、存じ上げません。
が、どうやら軽巡洋艦 多摩の飛行機隊らしい。
藤波さんが手に持っている飛行手袋にも何か文字が書いてあるのですが、何が書いてあるのか、判読不能です。

同じ人(多摩の斉藤さん)とのツーショットがもう1枚ありました。
左・斉藤さん、右・藤波さん。
階級章とか善行章とか全然見えないんですよねー。
見えれば時期のヒントになるんですが。
ただ、右側に写っているエンジンはいつものYさんに見ていただいたところ、90水偵か95水偵のものでは?みたいな感じでした。
この写真は多摩の艦上だとすると、後部のシェルター甲板かなあ?みたいなご意見。
ふたりの関係性ですが。
斉藤さん、飛行服を着たり、飛行眼鏡を装着されているのでたぶん搭乗員の方でしょう。
もしかしたら藤波さんのペアの操縦員の方かな?
あるいは同年兵ぐらいで仲良しだったのかな?
などなど想像してみたり。
多摩時代らしき写真はこの2枚だけで、2枚とも同じ人と写っているので何かしら強い関係性があったのだと思います。
あーーーー!
ここまで書いて、いま気づきました。
2枚目の写真、おふたりに重なるようにお名前が書いてあります!!
右は「藤波」、左には「斉藤」と書かれてあるように見えます。
色調調整してみました。


やっぱり斉藤さんだそうです。
ブログ書きながら気づくとかね(^^;)