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偵練35期 金井昇さん2021年12月22日 23時17分55秒

14年前、ブログを始めた直後に書いた記事再掲。


『大正8年5月10日、長野県生まれ。
昭和9年6月、横須賀海兵団入団、通信兵を経て昭和11年10月、35期偵察術練習生。12年7月、首席で卒業。
館山、大村航空隊、「蒼龍」、横須賀航空隊、特修科練習生爆撃課程、「赤城」、「蒼龍」・・・・
というところがかれの経歴です。

「水平爆撃の名手」「機動部隊の至宝的搭乗員」「艦隊随一」「蒼龍飛行機隊の象徴」「日本海空軍第一人者」「名人」「海軍の至宝」・・・・かれのことを褒め称えることばを拾っていったらきりがないぐらいいくらでも出てきます。
かれは編隊の水平爆撃の照準を一手に任されている「嚮導機」の爆撃照準手です(九七艦攻)。高度3000㍍ほどのところから、地上の施設や海上の艦船めがけて爆弾を落とすのです。(B29のように雨霰のごとく無差別に落とすのとは違い、1個~数個の爆弾を目標を決めて落とすのですから至難の業です)
「蒼龍」では操縦・佐藤治尾飛曹長とコンビを組み、上に挙げたような賛辞を一身に集めたのです。その爆撃命中率の高さから、山本五十六連合艦隊司令長官や南雲忠一中将から賞状や短剣を授与されたという話もあります。

かれの一世一代の舞台は真珠湾攻撃でした。
真珠湾に向かう蒼龍の格納庫では、四六時中飛行服を身にまとい、愛機の偵察席で爆撃照準の訓練に取り組む彼の姿が目撃されています。(「赤城」水平爆撃隊の嚮導機・渡辺-阿曾コンビのエピソードとして、源田実参謀が「操縦索の張り工合など自分で自分の気に入るように調整し、一度その調整が終わったならば他人がこれに触れることを厳に警戒した。燃料の消費に伴って生ずる飛行機の釣合安定度の変化に関しても、どのタンクがどれだけ減れば、操縦にそう影響するかというようなことを精密且詳細に検討して爆撃操縦に適用した」と述べています)
それだけの成績を残すのは、天性のものだけではなく、不断の努力や研究があったということです。

佐藤-金井コンビは真珠湾でも敵主力艦2隻に命中弾を与える殊勲を挙げました。
『(前略)・・・・全精神を目標に集中して居るので、付近で炸裂する高角砲の音も耳に入らず、目標以外の何物も目に入らず無念無想だた狙って居る。目標のみ目と心に映ず、此の時既に命中の自信を得たり。
今度は絶対に大丈夫と前席に伝え、確信と余裕を以て更に懸命の保針を『頼みます』、心で伝う、以心伝心二人の心は一つになって居るからすぐ通ずる・・・・(後略)』(金井日記)

真珠湾攻撃を終えた機動部隊は12月23日には日本に凱旋帰国する予定でした。
ところが、「蒼龍」「飛龍」の2隻だけが帰途ウエーク島攻撃を命じられ、機動部隊とは別行動になります。
12月22日、真珠湾攻撃から2週間後・・・・。
この日も水平爆撃の嚮導機として出撃した佐藤-金井コンビは、ウエーク島上空で指揮官機と入れ替わった途端、上空の雲間から指揮官機めがけて降ってきた敵戦闘機に銃撃されてしまいます。
おそらく操縦・佐藤飛曹長が被弾したのでしょう。真っ赤に染まった風防の中から、金井兵曹は隊長に向かって笑顔を見せ、手を振りながら海に落ちていったということです。


参考文献:森史朗『運命の夜明け 真珠湾攻撃 全真相』、源田實『海軍航空隊始末記』、押尾一彦・野原茂『日本陸海軍航空英雄列伝』、森拾三・大多和達也手記』






この投稿をした後、『航空母艦蒼龍の記録』に掲載されている金井兵曹の日記も見ることができました。
真珠湾前日、12月7日の日記です。(掲載日記は送り仮名はカタカナ)
『―略―

 晴れの攻撃、皇国の興廃を決する重大なる攻撃を前にして、準備は既に十二分に整いたり。即ち、今迄航海中は毎日布哇(ハワイ)攻略に対する、研究会が搭乗員室において開かれ、われわれ搭乗員は普通の演習より以上に、攻撃について種々知り得て今や何事の不安も疑心もない。

 既に諜報等により敵艦の碇泊位置、数、艦名まで知り得たので、他方又自分個人としての心構え、職務に対する為し得る限りの準備も十分終わり我が愛機の座席には八幡宮のお札を安置し、単冠(ヒトカップ)湾出港以来毎日拝しつつ、「鴻毛の軽き我が身はいかになりますとも必ず投下する爆弾が是が非でも命中させてください」、必ず真心こめてお祈りした。

 飛行長も「長い間飛行出来ないので勘が狂いはしないか」と非常に心配して居られた。飛行長にいわれるまでもなく、これは自分が一番気掛かりになって居る事柄である。

 仕方が無いので幾分の足しになると信じて、毎日座席内に入り照準器を覗く事にした。なるべく実感の出る様にと思って飛行服を着け、伝声管を着け、空中で照準するときの気持になって照準投下の練習をした。馬鹿らしいようにも見えるが真剣だ。

 艦内で出来得る事はその他すべてやった。為し得る事はいかに小さい事といえども皆終わったはずだ。自分は尽くすべきを完全に尽くしたのだ、これ以上いかんとも為し得ざるのだとの確信あり。あとは明日最善を尽くしてやるのみなり。

 ―略―』






金沢秀利さん(乙8、真珠湾時飛龍艦攻電信員)がご自身の手記『空母雷撃隊』(光人社NF文庫)に金井さんのことを書いています。

開戦前、金沢さんは爆撃訓練のために横須賀基地に行きました。そこには、飛龍だけでなく、蒼龍、赤城、加賀、瑞鶴、翔鶴の爆撃機代表も揃っていました。
ちょっと引用。

『金井上飛曹(このころは「上飛曹」ではなく「1飛曹」)は、特修科爆撃同期生中、爆撃技術成績は断然優秀であるばかりでなく、作業の余暇には、読経三昧にふけり、酒杯を手にせず、大言壮語することもなかった。また、訓練中使用する三十キロ演習弾の運搬は主として電信員の役で、偵察員はほとんど休養し、飛行場に弾が来てから、ちょっと手伝う程度が普通であるのに、運搬も弾作りも、投下器に取り付けることもやり、喜怒哀楽の表情を見せない人であった。しかも、柔和な仏像を思わせる―いってみれば、匂うがごとき美男子であった』




技倆だけでなく、人格的にも素晴らしい人であったのは間違いないです。












島田さんの遺品の中に蒼龍艦攻隊宴会写真を見つけたときから、
「この中に金井さんもいるんだよな?」
とは思っていました。


ずいぶん前に知人から見せてもらっていた海兵団時代の金井さんの写真(ジョンベラ)や、『日本陸海軍英雄列伝』に掲載されている金井さんの飛行服写真を見ながら、どこだどこだ?と探していたのですが、わかりませんでした。



先日、BS1スペシャルの『生きて 愛して、そして』の中に金井さんのご実家訪問シーンがあり、お仏壇に飾られたが下士官時代の遺影が映し出されました。

あの写真を見て、ようやく「これが金井さんか!?」と。
トリミングした真ん中の人。
これ、金井さんですよね。

宴会写真でいうと、最前列の左端の方です。
両隣の人はどなたか不明ですが、左は兵、右は下士官ですね。両腕をかれらの肩にまわして上機嫌のように見えます。

金沢さんの回想が本当なら、金井さんはお酒を飲まないということなので、この日ももしかしたらしらふで上機嫌にしているのかも。
「喜怒哀楽の表情を見せない人」なんてことはないですね。笑顔はふつうの青年です。



金井さんの最期は、目の前で目撃してしまった島田さんの日記の記述が一番近いのかなあ、といまは思っています。


※画像は9期生ご遺族ご提供

操練38期 永嶋彌之助さん2021年11月28日 10時56分33秒

浅川三雄さんの15空時代と思われる写真の中に、こんな↓写真がありました。


「漢口飛行場?」
「永嶋?」

15空艦攻隊にお名前はありません。
当時、15空艦攻隊は九江基地だし。

どこの永嶋はん?(^^;)

と思いつつそのままになっていました。


最近、この写真をKさんに見ていただいたところ、
「坂井三郎さんと操練同期の永嶋彌之助さんですよ」
とのご教示が!

「永嶋さん、なんかお名前聞いたことある!」
と思って坂井さんの『写真 大空のサムライ』を見返してみたところ、12空時代の漢口基地スナップコーナーにたくさん写っていました。同じ顔!(当たり前)
戦闘機の方だったのですね。
※坂井さんは「永島弥之助」表記。


浅川さんが他隊の他機種の搭乗員の写真を撮って残していたのは、教員時代の教え子(直接かどうかは不明)だったからと思われます。

操練38期の初練の集合写真も探してみたのですが、ちょっと「これだ!」というのはわかりませんでした。
目鼻立ちがはっきりしていて、『写真 大空のサムライ』の方ではキャプションを見なくても永嶋さんがわかるんですが、操練時代の集合写真はちょっとわからない(^^;)



息子さんがネガから焼いてくださった永嶋さん。



坂井さんは14年10月撮影の永嶋さんが報国号と一緒に写った写真のキャプションに「この直後、爆撃で足を負傷し退役」と書かれています。

Kさん情報でも日米開戦前に負傷退役されたとのこと。



※画像は浅川さんご提供

神雷桜花隊・片桐清美さん2021年10月23日 00時16分07秒

以前に書いた片桐清美さん(丙15)のことを再掲します。




【ピカピカの飛行グツ】2010年3月27日投稿

戦時中、報道班員として神雷部隊の隊員たちに接していた山岡荘八さんの手記『最後の従 軍』(昭和37年・朝日新聞に連載)の中に、「破れた飛行グツ」という話があります。

神雷部隊第5筑波隊の西田高光中尉(大分・大分師範・予13期、20年5月11日特攻戦死)のエピソードです。

ご存じの方も多いと思いますが、かいつまんで紹介。

西田中尉の出撃二日前、新しい飛行靴が配給されました。
すぐに西田中尉は、しばらくあとに残ることになった部下の片桐1飛曹を呼びました。

『「そら、貴様にこれをやる。貴様とおれの足は同じ大きさだ」
すると、 いかにも町のアンチャンといった感じの片桐一飛曹は、顔いろ変えてこれを拒んだ。
「頂けません。隊長のくつは底がバクバクであります。隊長は出撃される・・・・いりません」
西田中尉は傍に私がいたのでニヤニヤした。
「遠慮するな。貴様が新しいマフラーと新しいくつで闊歩してみたいのをよく知っているぞ」
そういってから「命令だ。受取れ。おれはな、くつで戦うのでは無いッ」』

片桐1飛曹は無理矢理ピカピカの飛行靴を受け取らされてしまいました。

西田中尉はバクバクの飛行靴のまま出撃していき・・・・。

あろうことか、その翌々日に、何も知らないかれの母親と妹さん(あるいは婚約者)らしき女性2人が鹿屋に面会にやってきた・・・・。

「破れた飛行グツ」・・・・これは西田中尉のエピソードです。


「破れた飛行グツ」・・・・この話は「西田中尉の霊」と書かれた祭壇の前に女性2人を案内してしまって動揺する山岡さんが、若い娘さんの方から、
「お母さんは字が読めません」
とこっそり聞かされたところで終わっています。
(のちに、お母さんが西田中尉の戦死に気づいていたことがわかる)


しかし、もらった側、「ピカピカの飛行グツ」には続きがあります。

神雷の隊員たちは宿舎のある野里村から外に出ることを禁じられていました。
しかし、かれらは時々こっそりと鹿屋の町に遊びに行っていました。いわゆる「脱(ダツ)」と呼ばれる違法行為です。

山岡さんはそれを見て、
「あれだけ立派に死んでゆく人々に、軍規を犯したという一点のかげりをも心に止めさせてはならない」
と思い、かれらが堂々と町に遊びに行けるように、司令の岡村基春大佐に進言しました。
司令はそのことをすぐに許可してくれたそうです。

もちろん、これは脱走者が出ないという前提。

ところが、山岡さんが肝を冷すような出来事が起こりました。

6月22日午前3時ごろ。
特攻出撃を前に整列してみたところ、隊員が一人足りません。
西田中尉にピカピカの飛行靴をもらった片桐清美1飛曹がいないのです。かれは、今日出撃の桜花搭乗員の一人でした。

山岡さんの回想。
『「おれはここではちょっとした不良さ」そんなことを いい、飛行服の裏に「三途の橋でおけさ踊らん」などと書付けている彼だった。もしかしたら、自分の最後のだて姿を町の女にでも見せに行って、死ぬのがいやになったのでは・・・・』

かれらが堂々と町に遊びに行けるよう司令に進言したのは山岡さんでした。
山岡さんも責任を感じ、必死で片桐兵曹を捜し回りました。

しかし、時間切れ・・・・。

「よし! 代わりを起こせ」
無情にも、急遽、片桐兵曹の代役が立てられることになったのです。

山岡さんは「Nという少年兵」と書いていますが、神坂次郎『特攻 還らざる若者たちの鎮魂歌』によるとこれは小城久作上飛曹(丙11期と書いてあるが、丙10期)。

小城兵曹の回想。
『宿舎で頭から毛布をかぶって寝ていると、急に誰かに毛布をはぎとられ顔の真上から懐中電灯で照らされました。驚いて見上げると「小城、いまから出撃してくれ、片桐がいないのだ。代わりに君が出撃してくれ」という林大尉の声で夢から現実の世界につれ戻されました。身を半分起しながら「はっ」と答えたものの、出撃をする番でないので身のまわりの整理はしていない。 で、一言、林大尉に整理のしていないことを愚痴って身じたくを急いで朝食をとり、別盃の式が行われる広場に行くと、すでに山村、堀江、武井、勝村その他本日の出撃者全員が集まって私が着くのを待っていました。間もなく岡村司令の訓示、別れの言葉、別盃をかわし、再び戻ることのないこの世に別れを告げ、三途の川行きのトラックに乗り込み出発です』

山岡さんは小城兵曹が代役に仕立てられたのを見届けたあとも、まだ片桐兵曹を捜し続けていました。
おそらく自分のためというより、小城兵曹のため、片桐兵曹のため、他の隊員たちのため・・・・。

そして、いままで見なかった壕内入口右そでのわずかな空きベッドに、すっかり武装して桃色のマフラーを巻き、ピカピカの飛行グツを履いたままイビキをかいている片桐兵曹を見つけたのです。

『「あ、こんなところに・・・・おい、出番だぞ」
私が飛びつくようにして起すと、彼は 「あ・・・・」と小さく叫んで時計を見ると、私の方など見向きもせずにそのまま整列に加わった。それっきりだった・・・・』


小城兵曹の回想。
『その時です。乗り込もうと私が片足をトラックの荷台にかけ他の片足がまさに地上を離れようとした時、私の飛行服のバンドに誰か手を掛け、私を地上に引き降ろそうとするのです。振り向くと片桐清美兵曹です。 「小城、俺の番だ、俺の番だ」いうと片桐は荷台に飛び乗り、片手をあげバイバイをし、アカンベーをしました。片桐兵曹は三度出撃しましたが、天候不良、エンジン不調のため引き返していたのを無念に思い、「俺が死んだら三途の川原で 鬼を集めておけさ踊らん」と飛行服の背中に白ペンキで辞世を書いている猛者でした。彼を乗せたトラックは冥土行きの飛行機の待つ列線へと急行、三十分後に敵艦船を求めて飛立ち、ふたたび帰ることはありませんでした』


西田中尉にもらったピカピカの飛行グツ。
もらってから40日あまり。
ふつうに履いていればピカピカのままであるはずはありません。

中尉の形見・・・・と毎日磨き続けていたのか、この日のために履かずにとっておいたのか・・・・。

かれは中尉にもらったピカピカの飛行グツで、全速で駈けていったのです。
友を連れ戻すために。
自分の誇りを守るために。



片桐清美1飛曹
神雷部隊桜花隊・片桐清美1飛曹

福岡県出身。大正11(1922)年生まれ。丙15期。


20年6月22日
第10神雷桜花特別攻撃隊 

この日が最後の桜花攻撃になりました。




参考:文藝春秋編 協力・元神雷部隊戦友会有志『証言・桜花特攻 人間爆弾と呼ばれて』、 神坂次郎『特攻 還らざる若者たちへの鎮魂歌』
片桐兵曹の遺影はご遺族の方のご厚意で掲載させていただきました





【三途の橋でおけさ踊らん】2010年4月23日投稿

片桐清美1飛曹が飛行服の背中に辞世の句を書き付けていたという話――

山岡荘八さんは手記に、『飛行服の裏に「三途の橋でおけさ踊らん」などと書付けている彼だった』と書き、 戦友の小城久作兵曹は神坂さんの本の回想の中で『「俺が死んだら三途の川原で 鬼を集めておけさ踊らん」と飛行服の背中に白ペンキで辞世を書いている猛者でした』と言っています。
                                             →「ピカピカの飛行グツ」


昭和37年8月9日の朝日新聞に掲載された山岡さんの「最後の従軍 破れた飛行グツ」という手記に、「片桐一飛曹のうしろ姿」という写真があります。


(新聞記事の写真を出していたのですが消しました)


この写真がその辞世の句の実際のものです。正しくは飛行服ではなく救命胴衣の背中です。
                                   (記事はAさんにいただいたものです)

文字の特徴から、片桐兵曹自身が書き付けたものと思われます。

一行目は「神雷櫻花」と読めます。
最終行も「片桐一飛曹」
一番下には横書きで右から「岡村一家」と書いてあります。(神雷部隊の司令が岡村基春大佐)

2行にわたって書かれている下の句が、おそらく山岡さんが書かれている「三途の橋でおけさ踊らん」

問題は上の句です。
写真と見比べても、小城兵曹が回想している文句とは合いません。おそらく、小城兵曹の回想は「こういう意味のことが書いてあった」というもの。
実際、何が書いてあるのだろう・・・・とずっと疑問だったのですが、このたび、協力してくださる方がいて、やっとわかりました。

(協力してくださった方の話では、写真が不鮮明で、「三途の橋」の「の」の部分が「代」に見えるみたい・・・・ということだったのですが、山岡さんの手記と 前後の文脈から「三途の橋」と書いてあるんだろうなと思います



片桐兵曹の辞世です。

旅立ちに
米鬼百万共連れに
三途の橋で
   おけさ踊らん







【片桐清美兵曹のこと】2010年6月22日投稿

20年6月22日出撃の神雷桜花隊で特攻戦死した片桐清美兵曹。

同じく神雷部隊に在籍しておられた搭乗員さんのお話によると、
「おとなしい人」
やったらしいです。

「威勢のいいことを言うような人ではなかった」
と。

救命胴衣の辞世の句や、山岡さんの「町のアンチャン」という印象とはちょっと違う感じ。

片桐さんの印象を語ってくださったこの搭乗員さんは、元水上機の方なのですが、
「片桐さんは水上機じゃないような気がする」
と。
水上機はもともと所帯が小さいので、もし、水上機出身だったらわかるんじゃないかなーみたいなお話でした。
もともとの機種が何なのか、いまだに謎です。

「写真見てもらったらわかるけど、顔の細い、男前の・・・・ねえ・・・・」
これは、こちらから「片桐さん、男前ですよね~」って振ったわけじゃないんですよ。
搭乗員さんの方から言い出された片桐さんの印象。
男の目から見ても、男前の人だったんですねえ・・・・。

他にも少し、神之池時代の片桐兵曹のことをうかがったのですが、メモをとっていなかったので、ちょっと違っているかもしれませんが。
あまり脱やらかすような人ではなかったらしいです。
山岡さんが、
「自分の最後のだて姿を町の女にでも見せに行って・・・・」
と心配されたのはもともと杞憂だったのかも。



片桐清美1飛曹

実際にご存じの方にうかがうと、また、ちょっと印象が変わりますね・・・・。


欠損部分があるので、最後の部分だけ・・・・。
片桐兵曹の遺書。

 

此の國の惠をうけて

     二十四年

今ぞかへさん

    櫻花と散りて

靖国の櫻花

   と共に

 

体當り見事轟沈

    夷艦隊

勝鬨の聲

  三途で聞かん

今の今 笑顔で散■

      戦友に

吾も續かん

  醜の御楯と

 

 神雷特別攻撃隊櫻花(隊)

 海軍二等飛行兵曹 片桐(清美)



※写真と遺書はご遺族の方からご提供いただきました












【これは片桐清美さんではないか?】2021年10月23日


知り合いの搭乗員さんの遺品の写真の中にこんな写真がありました。
搭乗員ふたり。
ひとりは手に桜花を。
ひとりは飛行帽に桜花を。そしてつばを留めるスナップボタン?の周囲にも桜花が描かれているように見えます。

裏書きがあって、「(右)宮崎兵曹 丙17 鹿屋」と書いてありました。

右は丙17の宮崎泰弘さんのようです。


左、
「片桐さんじゃないのか?」


左の人物に関しては、裏書きには何も書かれていませんでしたが、わたしは片桐さんではないかと思っています。


霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊教員写真2021年09月09日 16時32分51秒

先日、操練38期の坂井三郎さんが手記に書いている久保教員のことを話題にしたときに触れた教員写真です。


教員6人の無帽写真。

最初見たときは、いつどこで撮られた写真かわからなかったのですが、他の写真をいろいろ見ているうちに操練36期ごろの霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊で撮られたものではないかと思うようになりました。
書き込まれている階級からも、11年11月~12年4月ごろの撮影だろうと思います。


左から
久保啓治さん
操練17期  戦闘機→艦攻操縦  新潟


浅川三雄さん
乙2期  艦攻操縦  福岡


千代田政治さん
操練24期  艦攻→中攻操縦  福岡


藤池喜一さん
操練21期  艦攻操縦  静岡


田中利治さん
操練20期  艦攻操縦  埼玉


村田盛雄さん
操練19期  艦攻操縦  富山
16年4月21日  加賀  殉職





操練36期集合写真から
久保教員

浅川教員

千代田教員

藤池教員

田中教員

村田教員




操練38期集合写真から
久保教員

浅川教員

千代田教員

田中教員

村田教員






操練40期集合写真から
浅川教員

田中教員

村田教員



こんな感じですね。

操練38期集合写真には藤池さんが、操練40期集合写真には久保さん、千代田さん、藤池さんが写っていないようにありますが、他期の担当になっているのか転勤されたのか、そこらへんはわたしは把握していません。




※画像は浅川さんご家族ご提供

操練38期集合写真2021年08月24日 11時00分40秒

浅川さんの写真の中に、操練38期の初練の集合写真がありました。

これは郵送で送っていただいた中にあったので、わたしも最近になって初めて見ました。

背景の建物は、先日取り上げた操練36期・操練40期の集合写真背景と同じ建物のようです。


これ、坂井三郎さんの『写真 大空のサムライ』(光人社)に同じ写真が掲載されていました。
それで操練38期だとわかったんですが(^^;)

そのキャプションには、
『昭和12年6月、霞ヶ浦海軍航空隊初歩練習機教程終了記念。後列、右から2番目が坂井一水。右上の円内は、教官の石川満男海軍中尉。昭和12年4月、事故死』
と書かれています。

手記の方を読むと、この霞ヶ浦海軍航空隊は友部分遣隊(のちの筑波空)のことだとわかります。



坂井さん。




浅川教員。


ちょっと考えてみてください。
わたしは海軍航空隊には『大空のサムライ』から入ったようなものなので、坂井三郎さんというのは台南空の下士官搭乗員の主、泣く子も黙る先任下士、ですよ。
この写真を見ると、その坂井先任にも雛鳥時代があって、さらにその雛鳥が羽ばたくために指導した教員のおひとりが浅川さんですよ。
浅川さん、どんだけベテランやねん、って話です。


ただ、浅川さんは坂井さんの直接の指導教員ではありません。

『大空のサムライ』(光人社NF文庫)。
『つづいて操縦実技の受け持ち教員が発表された。大部分の組が教員一人に対し練習生三名であったが、二名の組も幾組かあった。
私の教員は久保二空曹ときまった。久保教員は、艦上攻撃機(雷撃機)専修の下士官で、昨年までは空母『加賀』に乗っていたとのことである。』


坂井さんの担当教員は「久保二空曹」。

これだけではわたしにはどなたかわからないのですが、浅川さんの写真の中に当時の教員仲間と思われる下士官6名の無帽写真があり、それに階級と氏名が書かれていました。
そこに「一等航空兵曹 久保啓治」のお名前が。
※この写真では浅川さんが三等航空兵曹なので、12年4月以前の撮影と思われます。この写真のことはいずれまた。

この人が坂井さんの担当教員の久保さんかな?
一等航空兵曹になっているんですが。

操練17期、新潟県出身、戦後生存。




この人、操練38期の写真にも写っているようです。


『大空のサムライ』(光人社NF文庫)
『海軍の操縦者は、霞ヶ浦を巣立つと、空母や陸上航空隊の実施部隊に配属になり、第一線機に乗って活躍するのであるが、何年か後には、たいてい一度は霞ヶ浦に帰ってきて、教員となって後輩の指導に当たる。これを私たちは母校への「お礼奉公」といっていた。
久保教員もその「お礼奉公」の下士官で、私たちが二期目だといっていた。体格の立派な眉毛が太い、落ち着いた、見るからに雷撃機乗りといった感じの強者――この強者の兄弟弟子に平山練習生と岡部練習生、それに私の三名がなり、これから初歩練習機教程三ヵ月間をみっちり仕込まれることになった。
昼休みに私たち三人が揃って挨拶にいくと、久保教員はちょうど指していた将棋盤から目を離して立ち上がった。
「外へ行こう」とひとこと言って、私たちを藤棚の下のベンチに連れて行った。
私たちは直立不動の姿勢で、自分の官職氏名を次々に名乗って、
「よろしくお願いします!」といった。すると久保教員は、
「おい、あんまりかたくなるなよ、まあ坐れよ」といってベンチをすすめながら、煙草を一本ずつくれた。
海兵団や砲術学校のように、いきなり気合を入れると思っていたのに、あまりにやさしいので、私はかえってびっくりした。
「あすからの初練期間中、おれがお前たちを受け持つことになった、しっかりやれよ。クビにならなくてよかったなア。厳選に厳選されてきたお前たちに、注意することはないが、あすから、空中で、また、地上で、俺の教えることをすなおに聞いて、それを体得して、この友部における初練教程をみごとパスするんだな。今夜の温習の時間に、始業式のときの司令の訓示を、なんべんも読みかえすんだ。あの訓示を、かたときも忘れずにがんばれよ。ほかの組に負けないようにいこうぜ」
私たち三人はなんどもコックリをしながら、久保教員の、この言葉をかみしめた』


教員にも余裕が感じられますね。
この頃は受け持ち練習生も少なくて、まだ手取り足取りできていたんでしょうね。
のちになればなるほど、期間も短くなり(9期は初練教程すっとばし)、受け持ち練習生も多くなり、教員の負担も激増したように思います。


坂井さんの手記によると、久保教員は霞空の前に加賀にいたということなので、浅川さんの加賀艦攻隊(1回目)の集合写真を探してみたのですが、そこでは見つけられませんでした。
もしかして、違う久保さんなのかな?(^^;)
それとも加賀勤務の時期が浅川さんとは違うのかな?(^^;)

階級のことも気になっているんですが、坂井さんの手記では階級間違いはたまにあるので(^^;)

「私たちが二期目」というのは、浅川さんの操練36期写真に久保さんも写っているので、それが1期目とすると操練38期は2期目で、「なるほど」なんですが。

絶対久保啓治さんだ、とは断言できませんが、現時点では「久保教員」の候補、ということで。








浅川さんの霞ヶ浦海軍航空隊友部分遣隊時代の担当クラスは、写真から推測すると、操練36期、操練38期、操練40期、といったところみたいです。


操練36期
ペア写真から、初練。



操練38期
坂井さん手記から、初練。




操練40期

飛行服写真の背景から、初練。




※画像は浅川さんご家族ご提供