宇佐に行ってきました6 ― 2024年11月29日 22時45分54秒
3月に宇佐に行ったときのものです。
1~5はここにリンクがありますのでもし興味のある方いたらご覧ください。
駅館川の海軍桟橋で織田さんと偶然再会し、名残を惜しみつつ別れた後は、若宮神社(グーグルマップでは「若八幡神社」)に連れて行ってもらいました。
境内に予備学生出身士官の慰霊碑があります。
今回の宇佐訪問はここが最後の訪問地でした。
このあとコンビニで飲み物を購入し、柳ヶ浦駅に送っていただきました。
電車の時間までしばしお話。
また会いましょう!
ということで姉妹さんたちとお別れしました。
「ぶぜんながす」は島田さんたちが真珠湾から帰還して宇佐に戻ってきたときに外泊した「長洲」(島田さんは「長州」と記載)です。
現地は海軍桟橋に行くときにちらっと車でかすめたかもしれませんが、立ち寄りはしませんでした。地図で見たら道も狭そうですしね。
次に行く機会があれば自転車でまわってみたいですね。
柳ヶ浦から日豊本線ソニックに乗り別府に戻りました。
宇佐空の搭乗員たちもこのルートで別府に通ったのかな。
別府駅からはバスで観光港へ。
さんふらわあの客室は個室です。ドアのある大きめの部屋の中に何台かのベッドがあり(階段があるつくりの部屋。女性部屋をとった)、そのベッド1台分がカーテンで仕切られて、プライバシーが保たれています。
全室テレビ付き。
モニターで別府の町を眺めつつ出港。
正面左の山は高崎山です。
右手の街並みのどこかに先日書いた木村写真館があるのだと思います。もし、また訪れる機会があれば写真館の場所にも行ってみたいです。当時は海軍さんで賑わったそうです。
夕飯は船内レストランのカレーテイクアウト。
ベッドに持ち込んだら同室の人たちに迷惑だろうと思ってロビーで食べました。
カレーのあとはお決まりのアイス!(*´▽`*)
行きも食べたやつ(笑)
連日やっちまいました。
次乗ったら、また食べると思う(*´▽`*)
これ、どこかな?(笑)
たぶん朝、早く目が覚めて部屋の外に出て撮ったんじゃないかと思います。
明石海峡大橋かな。
明るいんで(!?)、たぶん本州側を見ているんだと思います。
無事に帰ってきました~。
朝ごはんはどうしたかな?
全然記憶に残っていませーん(笑)
搭乗員さんのお孫さん姉妹、織田さん、平和ミュージアムの準備室の方、平和資料館の方、大変お世話になりました。ありがとうございました。
宇佐に行ってきました5 戦争遺跡 ― 2024年11月28日 12時51分18秒
長く書いていませんでした。
4までは宇佐市の平和ミュージアム担当者の方と知人の戦史研究家・織田祐輔さんが案内してくださいました。
おっと!
そういえば織田さんの著書『米軍カラーフィルムが捉えた日本軍の艦船・航空機・軍事施設』が12月に発売されるようです。
頼まれてもいないのに勝手に宣伝しておきます。
前回4は城井の掩体壕で終わっていました。
そこで平和ミュージアム担当者の方と織田さんとはお別れしました。
「ありがとうございましたー(T_T)/~~~」
搭乗員さんのお孫さん姉妹とお昼ごはんに。
わたしの好き嫌いのせいであちこちさまよっていただく羽目に。
大変申し訳ありませんでした<(_ _)>
これは食べられる!!
ネギ焼き(*´▽`*)
ごちそうになってしまいました。
ありがとうございます。
めっちゃおしかったです。
わたしは、姉妹さんたちが織田さんに案内してもらうツアーに便乗――のつもりで宇佐にやってきたのですが、姉妹さんたち、
「ママさんが行きたいところに行きますよ!」
と言ってくださって、あちこち車でまわってくださいました。
住宅が散在するのどかな田園地帯にぽつぽつと戦跡が残っています。
で、まわった戦争遺跡はほぼ駐車場完備・あるいは公的駐車場から歩いて行ける範囲という充実ぶりでした。
案内板も、わかりやすくてきれいな立派なものが。
いや、ホント、最近、近代とか現代の産業遺跡や戦争遺跡なども重要視されつつあります。
宇佐の取り組みは本当に素晴らしいと思いました。
今回わたしは織田さんや姉妹さんの車に乗せてもらったからまわれましたが、あとは公共交通機関利用のおひとりさまがいかにまわるかを考えていただくと文句なしと思います(わたしは最初いつものようにレンタサイクルを使おうとしたけど利用時間や貸し出し場所が合わなかった)。
耐弾式コンクリート造建物やタンク跡
柵の間から中を覗いてみました。
80余年ほど前の建物ですが、何に使っていたのかはっきりとわからないみたいですね。
宇佐市のサイトでは「受信所と考えられている」って書かれています。
このU字の部分にタンクを置いたってことですかね。
見学を終えて次の戦跡へ。
ここは宇佐空の郷に車をとめて歩いて行ったんだったか。すぐです。
こんな案内標識もあります。雷装の九七艦攻。
ふつうの住宅地に、ふつうの住宅のようにあらわれる戦跡。
落下傘整備所
80年を経ても機銃痕が生々しいです。
ここは車で移動。 歩いてもいい距離ですが(^_^;)
発動機試運転場
周りにふつうに家がありますが、当時はここ、航空隊内ですからね💦
あの人たちが飛行服、飛行靴で行き来していたかもと思うと感慨深いです。
休憩用のベンチもあります!
なんと! 海軍機の主翼デザインベンチ!
九七艦攻だよな!
隊の戦跡はこれが最後。
爆弾池。
横に展望デッキがあり爆弾池が見下ろせ、航空隊周辺が見渡せます。
のどかです。
戦跡見学を終えて、姉妹さんたちのおじいさん(戦死された搭乗員)のゆかりの地に向かいました。
駅館川です。
姉妹さんたちのお父さんが子どものころ、父親に釣りに連れて行ってもらった思い出があるそう。
わたしは9期生の「おもいで」に出てくる駅館川が小川のイメージだったので意外と大河で驚きました。
あ、写真の場所は河口近くなんですけどね。
ただ何となく「駅館川に行こう」ってここに来たんじゃなく、ここにも戦争遺跡というか、海軍の関連遺構があったのでやってきたわけです。
海軍桟橋。
ちょっとわかりにくい場所で、他県から来られた姉妹さんたちもカーナビを見ながら「あっちじゃない?」「こっちじゃない?」と迷いながらようやく到着。
しかも道が狭かった(;´・ω・)
車を端に寄せて、お姉さんとわたしが降りて写真を撮っていたら、タイミング悪く車が来ちゃって💦
わー💦
となっていたら、なんと!
ホントに「なんと!」なんですよ。
その車、織田さん(仕事中)だったんですよ(;゚Д゚)
「なんでっ!?」
ってなりました。
偶然ですよ。
仕事で巡回中の織田さんがたまたま通りかかったという。
なんの連絡も取っていませんよ。掩体壕で別れたきり。
そこでもまたごあいさつして、
「さようなら~(T_T)/~~~」
同乗していた同僚の方はさぞかしびっくりされたことでしょう。
つづく。
乙4期 笠原治助さん ― 2024年11月26日 14時21分40秒
蒼龍艦攻隊12分隊の宴会写真に写っているはずなのに、もともとのお顔を知らないので探せずにいた笠原治助さん。
蒼龍艦攻隊12分隊宴会写真。
お顔、わかりました。
”いま”発見した!
というのではなく、ずっと前から知っている方でした。
先日、以前スキャンさせていただいたアルバムを見返していました。
乙7期の中攻操縦員の方のアルバムです。
ホントに、何度も言いますが、何度も見返さないとダメ!
このアルバムも過去何度も見ているはずなんですよ。
なのに今まで気づかなかったんです。自分にあきれ果てています。
右に「中練卒業記念」、下には左から「釜田」「笠原教員」「芦沢」「辻」「14.8.10」。
※日付は間違いではないかと思う。中練(霞空)を卒業したのは14年3月31日
「ふぁっ!?(;゚Д゚)」
ってなりました。
笠原教員の記述にも驚いたんですが、何より驚いたのはこの人の顔、知っていたことです。
「この人が笠原さんやったん!?」
操練43期の大澤昇次さんのアルバムに貼ってあった教員の集合写真です。
この中に笠原治助さんがいることは前から知っていました。
操練43期のアルバムの名簿の教員欄に笠原さんのお名前があったので、
「あの集合写真の中にいらっしゃるんだろうな」
とは思っていたのですが、教員は名札をつけていないので書き込みがない以上わからないです。
7期生のアルバムの書き込みで「笠原教員」と書かれている人、こっちにも写っていました。
いてはる!
笠原3空曹。
大澤さんが霞空にいたのは13年4月から11月まで。
13年から14年ごろに霞空にいた笠原という人で、該当者をいちおうわたしなりに探してみましたが、乙4の笠原治助さんのみではないかと思います。
上にも書いたように7期の中練(霞ヶ浦)の教員なんで、他にも写っています。
7期の教員をされていたころは2空曹に進級しています。
一番びっくりしたのは西澤さんのペアの教員だったこと。
「この教員が笠原治助さんだったのか!」
と、びっくりしたところで蒼龍宴会写真ですが。
あとお顔がわからない准士官以上は中嶋巽大尉、大迫加一飛曹長、笠原飛曹長。
写真の中で「准士官以上の可能性があるけれどどなたかわからない人」は以下の4人です。
①
②
③
④
不明者が3人なのに、准士官以上の可能性がある人が4人💦
白シャツがおしゃれな襟(ウィングカラー)の人①もコスプレの可能性は低いです。たぶん肌に触れるシャツ類は他人の物にわざわざ着替えるというのは考えにくいです。下士官の人でこのタイプのシャツを着ている人は見たことがないので、この人が下士官の可能性も低いように思います。
長髪の人②はたぶん、下士官兵のコスプレではないです。
一番コスプレしやすいのは「上着を羽織る」③④です。
ほかでも軍帽だけ取り替えていたり、上着だけ取り替えている写真は見たことがあります。
③④の2人はいる場所も、下士官兵がわらわらいる場所にいます。
どちらかはコスプレなのかなと思っていましたが、今回霞空での教官時代の笠原さん写真に気づいて、③の人が笠原さんなのでは?と思いました。
教員時代の笠原さんはお顔がめちゃ特徴的で探しやすいのですが、蒼龍の宴会写真ではちょっと感じが違いますよね。フラッシュのせいなのか、無帽のせいなのか?
眉の形や鼻の形は笠原さんとよく似ていると思いますが・・・・。目と口がねえ・・・・。
教員時代の写真で耳が写っている写真があるとよかったのですが、残念ながらわたしの手元には耳が写っている写真がありませんでした。
いちおう、イラストレーターでお顔を重ねてパーツの位置は一致することは確認しています。
しかし、似た他人という可能性もあり得るからなあ。
中嶋巽大尉は吉良敢・吉野泰貴『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』大日本絵画の中嶋さんの項に、19年12月ごろという横空第2飛行隊の集合写真が掲載されていて、そこに写っています。しかし大勢の集合写真で中島さんのお顔がはっきりわからないです。
が、どう見ても①の人ではないだろうと思います。
②の人に似ているような気もします。
大迫飛曹長は前に加賀時代の13年5月の写真をブログに載せたことがありますが(右)、あれ1枚ではどうにも判断に迷っていました。
フォルダ以内をあちこち探してみたところ、もう少し前の加賀の大迫さんの写真がありました(左)。
この方が大迫加一さんです。
どう見ても①の方は違いますよね。
④の人かなあ?
④の人はたしかに飛曹長の軍服を着ているんですが、人数的にこの人がコスプレかと思っていました。大迫さんなのかな?
失礼いたしました<(_ _)>
ということは①はどなた!?
蒼龍艦攻隊12分隊で准士官以上はいちおう、他は、
阿部平次郎大尉
佐藤治尾飛曹長
中村太門飛曹長
揃ったよな?
①の士官らしき人がまったくどなたかわかりません。
艦の幹部の人とか整備の士官とかが飛び入り参加した可能性は?
11分隊から飛び入り参加!?(長井大尉ではない)
場所的にはこの宴会写真の中心に陣取っているんですよね💦
阿部平次郎大尉の肩に親し気に手のひらを添えています。
ちなみにこの宴会に参加した島田清守さんの日記によると、
昭和十六年十一月十二日 於笠ノ原飛行場
午前、飛行作業。 爆撃、発射運動
午后、飛行作業
スペア配置デハ全ク飛行モ出来ナイ。毎日地上ノ
勤務員ト云フ調子デ有ル。
夕食後入湯。十二分隊搭乗員ノ(1字あり?)暮會。
鹿屋ノ翠光園デ七時ヨリ分隊長、
分隊士モ出席サレテ、酒ニ朗カナ氣分ニ成ッタ。
練習生出テ最初ノ会デ浩然ト酒モ飲ンダ。
八時半頃、皆上氣分ニ成ル……、全ク上下ナキ艦隊
ノ會デ或ル。九時頃分隊士ノ自動車デ隊ニ
帰ル……。
こんな感じで、参加者は「分隊長、分隊士」までしか書かれていません。
同じ宴会に出席していた金井昇さんの日記でも出席者は「分隊長以下、各分隊士全部」という表現。
これ以上の詳細は不明。
また宿題ができてしまった・・・・orz
※画像は7期生ご遺族、9期生ご遺族、浅川さんご家族、Wさん、Мさん、武田信行氏ご提供
Оさんご協力(金井日記)
乙8期 行軍 大洗磯前神社 ― 2024年11月12日 10時41分05秒
今日は乙8期の方々の話題ではありません。
どこに誰が写っているかはおおよそ把握できているのでそれはまた今度。
操32期の中島義喜さんの写真の中に、乙8期のこんな集合写真がありました。
どこかわからなかったので、写っているいろんなものに着目してこの場所を探しました。
石灯籠がめちゃ特徴的だと思ったんですよ。
・デカい!
・屋根の下に垂木が覗いている
・猫足の脚がついていて、台座に乗っている
・火袋っていうんですか、透かし彫りになっている
とにかくわたしは見たことがないタイプの石灯籠でした。
この石灯籠からどこかわかるのでは?
と思ったのですが、わかりませんでしたorz
門もかわっているな、と思ったので、「格子」とか「切妻」とか「菊紋」とかいろいろ検索してみたのですが引っ掛かりませんでした。
最後は、
「飛練生が行軍に行きそうなところ」
で、大洗磯前神社の画像を探したら出てきました。
大洗磯前神社随神門。
いまは両側に建物が建っていますが、当時はこんな感じで単独で建っていたようです。
ちなみに、上の石灯籠画像で灯篭の下に座り込んでいるのは乙2松永教員です。
パパに「大洗磯前神社の画像おくれ」と頼んだら、何枚か提供してくれたので出しますね。
数年前の大洗磯前神社随神門。
なんと、この写真に、例の灯篭と同じものが写っていました!
ネットで神社の写真を探したら、何基もあるみたいなので、乙8写真の灯篭そのものではないのでしょうが、これと同じものですね、あのデカい石灯籠。
パパが撮っていた画像の中に、海岸の岩場の写真もありました。
パパがね、
「教員の岩場写真と同じ場所やん」
って言うんですよ。
しかたがないので検討しました。
赤丸で囲ったところに穴ぽこがあるんですが、
これが、
教員写真のコレじゃないかって。
「そういえば・・・・」
浅川さんの百里原時代の写真にも大洗の岩場らしき写真があったんですよ。
これも、穴ぽこが空いているぞ!(・∀・)
穴ぽこだけ並べてみました!
無理矢理感が否めませんが強調してみました。
この線はわたしの心眼込みなので、異論は受け付けます。
3枚が同じ場所だとして、図を作ってみました。
Googleearthをもとにして略図を作ってみました。上が北。神社は道路を挟んで左の方。
岩場の状態は潮の干満で変わると思うのであくまで「Googleearthをもとに」ということで。
パパ写真の奥に写っている神磯の鳥居はネット情報だと昭和31年説、34年説、38年説があって、わたしには判断できませんでした。が、どうも戦後は間違いなさそうです。
神磯顕彰之碑のほうは、これまたネット情報ですが碑文に昭和31年とあるとか何とか。
たぶん浅川さん写真の右方岩場の先端のところにいまの神磯の鳥居があるんだと思います。
教員の岩場写真では写っていない場所ですね。
パパの岩場写真に教員たちを合成した画像も作っているのですが、不謹慎だって怒られそうなのでこれは自分だけでってことで(^_^;)
※画像は中島さんご家族、浅川さんご家族、パパ提供。
筑波空教員 岩場写真 ― 2024年11月10日 14時28分42秒
先日、乙6期山岸昌司さんが写っていた、ということで操練32期中島義喜さんの筑波空教員時代の写真を紹介させていただいたのですが。
関係者(?)の間で「岩場写真」と呼ばれいているこの写真。
後列の左端に中島さん、その右の方で左隣の教員の肩に腕を回しているのが山岸さん、ぐらいしかわからず。
撮影時期も場所も不明で、「雰囲気から大洗の海岸かな?」とわたし個人の印象を書いています。
わからないなりに出してみるもんです。
なんと!
「うちの祖父が写っています」
とコメントをいただきました。
前方の中央で腕を組んでいるこの方!
乙2期の松永喜三男(きさお)さんだそうです!(*´▽`*)
お孫さん、よくこんな小さな画像でわかったなあ、と思ったら、送ってきてくださった松永さん遺品の写真の中に同じ写真がありました。
しかも松永さん、裏に状況を書き残してくださっていたようで、
「大洗行軍記念 14年9月24日」だそうです!(・∀・)
ありがとうございます! めっちゃうれしいです!
いや~、わたし、この教員たちの顔ぶれから乙8の大洗行軍時の写真じゃないかと思っていたんですよ(めちゃ後出し感)。
中島さんの写真に何枚か乙8期の写真があって、その中に寺社で撮られた集合写真がありました。ネットでいろいろ検索して探したところ、大洗磯前神社でした。
8期の写真は教員もけっこう真剣に見たので、この岩場写真、「8期の教員とかぶっているな」とは思っていました。
ちゃんと照合しなければと思っていた矢先、松永さんのお孫さんからコメントをいただき、同じ写真が残っていて裏書があることがわかり、時期的に8期教員で矛盾がないようだ、と。
松永さんのことは同期生浅川さんの息子さんにもお伝えしました。
たいへん喜ばれていました。
写真・資料等ご提供いただいたので、松永さんの個人記事も書きたいと思っています。
※画像は中島さんご家族、松永さんご家族ご提供