Google
WWWを検索 ひねもすを検索

乙9期 田中茂雄さん2020年06月28日 10時53分24秒

千葉県出身、操縦、艦爆。



入隊時氏名入り班写真、7班。


操偵検査。



3学年時の班解散会と思われます。
田中さんは真ん中ですね。中腰になっていて、松本勝正さんに寄りかかられています。


予科練卒業間際の操縦専修生集合写真。





飛練谷田部。
飛行服の集合写真から。



池田さんのアルバムに貼られていました、担当教員(イス)を囲んでのペア写真でしょうか。
前列左から西山昇さん、教員、新井正美さん。
後列左から池田和義さん、田中さん、鹿島長重郎さん。


谷田部の修業記念集合写真より。


予科練卒業アルバムの寄せ書き


飛練大分(攻撃機)。



飛練木更津(中攻)。
卒業。

その後、佐伯航空隊に移り艦爆操縦への転科教育。


池田さんのアルバムにあった写真です。
刻印があり、大分佐伯の宇和写真館。

以前この写真を「35空の9期生」として紹介したことがあるのですが、田中さん、和田邦介さん、村田耕一さんは35空なのですが、後ろで立っている池田さんが33空でした。
佐伯で転科教育中か、あるいは実施部隊に配属が決まり戦地に行く直前に記念に撮った一枚か。


これも池田さんお持ちだった写真です。
同じく佐伯の宇和写真館。



池田さんの遺品のアルバムには戦後の田中さんの写真も貼ってありました。
戦後、池田さんの実家に田中さんがお弔いに訪問されたこともあったそうで、そういう関係で戦後の写真も貼られていたのでしょう。


田中さんは最初の実施部隊は35空(行動調書にお名前あり)なのですが、その後のことがよくわかりません。
956空という情報もあるんですが、日付が「ん?」で、わたしはわかりません。

17年5月に35空の行動調書にお名前が出てきてからあと、行動調書にお名前を見つけることができません。
が、阿部芳包さんに寄せた「おもいで」に「病み上がりの俺が赴任した百里ヶ原で常に兄貴だった」と書かれているので、阿部さんが百里原で教員をしていた18年12月~19年6月ごろのどこかの時点で田中さんも百里原にいたことは確かなようです。


戦後は中心になって九期会を運営されていたようで、残っている会報は田中さんの手書きです。
戦後の九期会の写真にはほぼ写っています。あまり変わられていないです。
田中さんが亡くなったときに奥様から生存九期生に送られたお手紙もありまして。
御夫妻で九期生の慰霊に尽力されていた様子がうかがえます。


※画像は9期生ご遺族、ご家族ご提供

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック