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丙2期 谷川澄男さん2019年11月01日 22時50分40秒

今年の初め、ある会合で零戦Tシャツ屋さんと二人で受付に座りました。

そのとき、Tシャツ屋さんが、

「実は丙2の谷川澄男さんの息子さんと知り合いまして。谷川さんの写真を送ってもらったんですが、見ますか? 知っている人とか写っていませんか?」
と印刷した写真を見せてくださいました。

山陽丸の搭乗員の集合写真でした。


「あ、森健次さん!」

9期の森健次さん(偵察)が写っていました。


他にもあるということだったので、ぜひその息子さんを紹介してください、とお願いしました。
すぐに仲介してくださって、息子さんと直接連絡が取れるようになりました。

ビックリしたのですが、谷川さんの息子さん、Yさんともお知り合いだったんですよ(^^;)
狭いです(笑)












谷川さんは昭和14年に佐世保海兵団入団。
15年11月に丙2期、土浦海軍航空隊。
16年1月、飛練12期、鹿島海軍航空隊。
16年7月、実用機、博多海軍航空隊。
16年12月、飛練卒業。


呉空を経て17年2月、山陽丸へ。



ソロモンで任務に就いていたのですが(零式観測機操縦員)、昭和18年1月31日、敵機と交戦して被弾・空中火災。
脱出して海に浮いているところを鵯(ひよどり 水雷艇)に救助され、病院船氷川丸で内地に後送。

戦闘詳報
『一月三十一日 二飛曹谷川澄男敵機ト交戦戦傷(顔面右前膊左右下肢等二度熱傷右大腿同下腿爆弾々片創)』

結局、傷が悪化して右足を失うのですが、その後も海軍に残り義足で搭乗任務を続けられたようです。



息子さんによると、足を失ってからの話はあまりされなかったそう。











山陽丸時代。
十七年七月 ジャハ スラバヤ基地ニ於イテ 山陽丸総員

これは以前出した写真です。
何人かお顔がわかる人が写っていました。

古寺慶三さん(8期)

今田敏男さん(10期)

今城金嘉さん(7期)

森健次さん(9期)

谷川さん




昭和十七年十二月 ソロモン ショートランド第一基地ニテ


中列右端、谷川さん。







昭和十七年十二月 ソロモン ショートランド第一基地ニ於テ 山陽丸搭乗員一同


中列右端、谷川さん。

集合写真で見るとかなり大柄な方です。



おもしろい写真、いっぱいあるんですよ。
昭和17年12月のショートランド基地だそうです。
過酷な戦の合間のひとこま。楽しそうです。
いかんせん、谷川さん以外がどなたかわからない・・・・(泣)




見知った方が写っているスナップ写真もありました。
山陽丸の人たちだろうと思うんですが。
谷川さんは写っていないかな。他もどなただかちょっと・・・・。

でも、左端の人。
10期の今田敏男さんだよなー、って見つけて喜んだのでした。

裸だったり、サンダルが転がっていたり、いまから飛行機に乗るような格好でもないです。
オフかな?
ひと仕事終えたところかな?



これまた完全オフの搭乗員たち。これは”入浴中”というくくりでいいんでしょうか。”水遊び”?
谷川さんはいないようにあります。


しかし、今田敏男さんがいるのです!
注目は髪型です!
これがうわさに聞いた「基本坊主、頭頂部だけ伸ばす」っていう、彼の地で流行っていたという髪型でしょうか!?
初めて見ました。
モヒってますよね!?

と思いながら上の写真を見ると、あっちも頭頂部だけ伸びているかも?





見せていただいた谷川さんの写真の中に山陽丸の搭載機の編隊飛行中の写真がありました。
P‐55号機。



P‐?号機。

零式観測機一一型。P‐56号機。



零式水上偵察機一一型。


わたしは飛行機のことはわからんので、Yさんにご教示いただきました。

尾翼に「P‐」って機番号が入っています。ネットで山陽丸の飛行機を検索するとプラモデルが出てきて、記号が違っていたのでYさんに聞いてみました。17年後半以降は「P‐」を使っていたそうです。

ちなみにこの機体は尾翼に「ZⅡ‐56」が入っています。これが17年前半まで使っていた記号だそうです。わたしがネットで見たプラモの記号はこれでした。
機体の色も違いますね、「へえ~」でした。
上の「P‐56」号機と同じ零観なんですかね? 調べていないんです、ひとりごとです。


山陽丸の戦闘詳報を見ると、あと九五水偵もあったみたいです。


ふだん陸上機を見慣れているとフロートの違和感が半端ないです。
こんなものつけていてよく飛べるな~、みたいな?(^^;)

こんな邪魔そうなものをつけて飛んで、さらに波のある水上で離着陸をしているからか、水上機から陸上機に転科した人は操縦がうまかったって、以前、零戦搭乗員の人に聞いたことがあります。





谷川さんの写真、興味深い写真がたっくさんあるんですが、どなたが写っているのかわからなくてですね(^^;)
わかるのが一番いいのですが、わからなくても今回みたいに出すかもしれません。
[丙飛]カテゴリもいるかな?(^^;)


※画像は谷川さんご家族ご提供。飛行機に関してはYさんご教示

乙9期 山田一作さん2019年10月10日 14時10分22秒

昭和13年6月1日入隊の9期生199名の中で、ただおひとり氏名入り班写真に写っていないのがこの山田一作さんです。

なぜか?

わかりません(^^;)


入隊直後の早い時期に撮られたと思われる新潟県出身9期生の集合写真には写っています。



1学年時は4班なんですけどね。
氏名入り班写真には写っていないんです。



島田清守さんのアルバムに貼ってあった写真です。
最初に肉眼で見たときは「こりゃわからんな」と思ったのですが、スキャンしてみたら山田一作さんでした。
軍帽のペンネントは横須賀っぽいです。階級章もないのでおそらく横須賀時代の13年6~8月。



この写真は霞ヶ浦に移転して最初の桜シーズンだと思います。14年4月ごろ。
外出、みな、ウキウキ♪
山田さんもいまーす(赤○)








霞ヶ浦の4班集合写真から。
前列中央の熊谷教員が転勤するのに際して撮られた集合写真です。14年5月。





操偵検査。14年6月。

前列左から柳川健さん(5班)、教員、亀山一郎さん(5班)
後列左から熊谷賢一さん(5班)、島田清守さん(4班)、轟木サトルさん(5班)、山田さん(4班)
こういう構成ですね。





8期卒業に際しての新潟県出身乙飛生の集合写真です。
卒業式当日の9月1日かな?
あ、理由は8期生のペンネントの「横須賀海兵団です。

あれ? 新潟って舞鶴鎮守府の管轄じゃないの?

卒業時(15年11月)はそうなんですけどね。
13年6月に入隊した時は新潟は横須賀鎮守府でした。

14年末に舞鶴鎮守府が復活したため、新潟の人たちは舞鶴管轄になりました。


というわけで(←まとめが雑すぎ(笑))、14年9月に卒業した新潟の8期生たちは管轄がまだ横須賀だったんです。
予科練の場所が霞ヶ浦海軍航空隊にも関わらず8期生が「横須賀海兵団」のペンネントをつけているのは卒業式当日だから管轄の鎮守府の海兵団のペンネントをつけているのだろう、と。
しかしなぜか8期卒業生の中でお一人だけ「横須賀海軍航空隊」なんですよね。・・・・理由はわかりません。
卒業しない9期、10期、11期生は「霞ヶ浦海軍航空隊」のペンネントです。予科練に残った8期の持田竹雄さんも。

ちなみにこれは新潟だけではありません。9期の場合、14年末の舞鎮復活で山形、新潟が横須賀鎮守府から舞鶴鎮守府へ、滋賀、福井、石川、富山が呉鎮守府から舞鶴鎮守府に変更になりました。

なのでこの人たちは兵籍番号が2回変わったんですよ。
入隊時の「横志空」、「呉志空」の番号→14年末に舞鎮が復活したのを機に「舞志空」→16年6月に航空科が飛行科に名称変更したために「舞志飛」。

他の9期生は16年6月の「○志空」→「○志飛」(○は横、呉、佐いずれか)の変更だけです。”だけ”というのもヘンな話ですが(^^;)
16年6月以降に海軍に入隊した兵隊さんは兵籍番号は1つのはずです。





山田さんつづき。
これは15年1月の足柄での艦務実習かなあ、と思っています。



卒業アルバムの寄せ書き。




「おもいで」

「大人しい奴だったが、ラグビーでは、ガンガンぶつかってゆくファイトマン」

「ラグビーの二宮尊道教授を小型にしたようなタイプ」

「越後人にしては烈しい闘志の持ち主。俺が利根に転勤して行ったら艦隊での九期は彼一人、セレター基地で大いに歓迎してくれた。それ以来一緒に行動し、二十年三月二十四日、菊水作戦で彼が「彩雲」を駆って沖縄偵察に出発するのを鹿屋基地で見送ったのが最後になった」





飛練鈴鹿

橿原神宮の北神門にて



これはどこかわかりません。
藤原国雄さんの班写真。



これは隊内かな。
藤原さんの班写真。




飛練博多
卒業式の集合写真。
16年10月末。




博多の飛練を卒業後は讃岐丸。
その後ケガをして、教員などをしながら復帰したみたいです。



20年3月24日  偵察11  沖縄南東方面




わたしは山田さんの戦死状況に関しては把握していません。

同期生の本間猛さん(旧姓・石塚さん)が山田さんと最後に会ったときのことを手記に書いているので、引用させてもらいます。
(光人社NF文庫『予科練の空』)

三月二十四日、級友山田一作との袂別の日となった。もうこのころには、兵馬倥偬(こうそう)の間というか、日にちも曜日もなかった。連日の激戦で彩雲隊も犠牲がつづき、毎日の新旧交替で、隊員の顔も定まらずという感じだった。四、五日も前に新人隊員が転勤して来たなと思うと、その人が索敵飛行に出て一回目の飛行で未帰還というようなことも珍しくなく、朝に新人を迎えて夕に旧人を送るというあわただしい日々であった。山田は共に先任搭乗員の立場にあった歴戦の士で、お互いにちょっとやそっとでは死なないぞ、というような信頼感、安心感みたいなものがあった。だから、その日も特別にどうのこうのということもなく、
「一作、お前、きょう飛ぶのか」
「そうだ、石塚。お前、一昨々日の機動部隊上空通過はどうだった。うまくいったらしいが・・・・」
「おー、あんなことは零式水偵では、とても考えられない話だ。彩雲なればこそだね。一万メートルの上空から箱庭を見る感じだったな」
「そうか、まったく零水偵とちがい、彩雲は高性能だし、航法は、艦に帰るのとちがって九州が目標だし、見張りだけだな。見張り第一だよ」といって飛び立って行ったが、彼はそれっきり帰ってこなかった。
(一作、長いあいだご苦労だったな。ゆっくりと休めよ。いずれ近いうちに、おれもゆくからな)
連日の激しい消耗の中で、淡々とした別れになってしまったが、夜、床につくと、彼にまつわる回想が、つぎつぎに浮かんできた。
昭和十三年の初夏、はじめて追浜で顔を合わせたとき、こいつ、ずいぶんと色の黒い小柄な奴だな、よくこれで予科練にうかったな、色は黒いし、体は小づくりだし、これでは山田一作ではなく黒田小作だな、と思った。そのとき、新聞社が郷土版に載せる少年航空兵の写真を撮っていたが、「新潟県集まれ」というので、集まると、黒田小作も仲間に入ってきた。
「お前、新潟か?」と。私が聞くと、
「●●郡だ。▲▲の近くだ。お前はどこだ」ときた。
「××だ。■■といって、○○の向かいだ」と答えると、
「××の■■と越後の▲▲か。
(ここからさき地元ネタになるので省略。地名はわたしが改変) 因縁浅からずだ。同県人のよしみで、よろしく頼む」と、人を喰った挨拶だ。
ところが、それから予科練、飛練生活と、三年半も生活がいっしょだったが、この黒田小作ならぬ山田一作は学業も優秀なら運動神経も発達していた。ファイトがあって要領もよく、越後人には珍しいセンスの持ち主で、予科練時代から名ラガーとして、彼の俊足とその闘志は、後輩たちの目にとまったはずである。
残り少ないクラスの仲間から、また一人惜しい男が死んでしまい、とうとう自分も一人になってしまった。七年前に二百人が飛行機に憧れて入隊したのに、いま、こうして第一線にいるのは、ひょっとすると、おれ一人ではないだろうか。もうこうなると、生きていても面白いこともないし、同期がみんないっているところにゆくのも悪くないなと思う。しかし、いや待てよ、山田が飛んだのは沖縄だ。太平洋の真ん中ではないから、どこかの島へ不時着してして、そのうち、ひょっこりと、「石、いま帰ってきた。ゆっくり静養してきたぞ」と元気な顔を出さないとも限らない。いやきっとそうだ。現に先日、上別府飛曹長の例もある。などと眠れないまま、あれこれの思いに一縷の望みをつないだ。






あー。
もしかしたら、冒頭に出した写真は、本間さん言うところの「新聞社が郷土版に載せる少年航空兵の写真」なのかも。
これの正面からの写真を9期生のアルバムで見たことがないんです。
斜めから撮った写真は新潟の他に静岡、熊本、香川の分が手元にあります。

静岡

熊本

香川


ここまできてようやく「あー」って腑に落ちました。


島田清守さんの遺品の中に、新聞の切り抜きがあったんですよ。
昭和12年6月に横須賀の予科練に入隊した8期生、地元出身者を紹介した埼玉の新聞の切り抜きです。

これが例の写真の正面版、正式版なんですよ、たぶん。
前列中央の練習生が県名が書かれた紙を持っています。

なんでいままで気づかなかったんだろう?



毎年、入隊直後にこれを撮っていたんでしょう。

9期生のアルバムに貼られていた斜めの写真は脇から予科練の関係者が撮ったのかな?
ちゃんと正面からの正式な分はみなの地元の新聞に載ったんでしょうね。それはわたしは目にしたことがありません。いつの日か見れるといいな。





※画像は9期生ご遺族ご提供。

昭和十七年七月 ジャハ スラバヤ基地ニ於テ 山陽丸総員2019年05月26日 11時30分41秒

以前、岸本正好さんのことを書いたときにちょこっと話題にした山陽丸の集合写真。


裏にタイトルのように書き込んでありました。

写真の持ち主は丙2期の谷川澄男さんです。
14年志願兵、水上機操縦。
戦後生存の方ですが、それはもう壮絶な体験をされた方で・・・・。

谷川さんに関しては別に書きたいと思っています。




その谷川さんの遺品の写真類を息子さんに見せていただきました。
息子さんと縁ができるについてもいろいろ話があるのですが(^^;)
それも、またいずれ・・・・。






17年7月にはすでに岸本さんは転出されているようで、ここには写っていません。
しかし、岸本さん以外に見知った方のお顔が見えたのでご紹介。



御当人、谷川澄男さん
最後列の左から2人目。大柄な人です。




7期 今城金嘉さん

予科練時代の金城さん



8期 古寺慶三さん
予科練は8期ですが、飛練は10期、9期生たちと一緒に写真に写っています。
飛練10期偵察専修の期長です。

博多飛練卒業集合写真の古寺さん



9期 森健次さん

飛練博多卒業集合写真の森さん



10期 今田敏男さん

予科練1学年時の班集合写真の今田さん



他の方もわかるといいんですけどねえ・・・・。
他の写真に、一部名札が読める人も写っているので取り組んでみたいです。
しかし、出身もバラバラの方々なので、なかなか。


※画像は谷川さんご家族、予科練生ご遺族ご提供

再び訂正しました2019年04月06日 23時14分43秒

何度も申し訳ありません。

8期の大本三千人さんですが「4空」と書いていましたが、「千歳空」の誤りでした。
申し訳ありません、わたしが手書きの文字を見間違えていました。
Kさんから「千歳空ですよ」とご指摘いただきまして・・・・。



9期の植田武雄さんが戦死されたときのペアの主電信員でした。


訂正しました2019年04月06日 10時03分13秒

昨日投稿した乙7~9期広島出身者集合写真に関して。
Kさんから情報提供をいただいて一部訂正・追記しました。

8期生に関することです。

大木三千人さんですが。
「大木」ではなく「大本」三千人さんでした。
訂正してお詫び申し上げます。
17年2月1日、4空、タロアで戦死されています。中攻の主電信員。
※4空ではなく「千歳空」でした。

不明と書いていた真田光雄さんは無事に終戦を迎えられたようです。

松本栄治さんはやはり福岡の集合写真に入っている可能性が濃厚です。