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加賀戦闘機隊 撮影時期2021年05月02日 14時43分55秒

昨日、上野公園西郷さん銅像前の末田さんと豊田さんの写真に関して訂正記事を書いたばかりですが、またまた訂正、、、というか、追記です。


先日出した鴨池における加賀戦闘機隊(二階堂中隊)の集合写真&個人写真(おそらく同日撮影)の撮影時期に関して。






この写真を紹介したときに、

五島さんはアルバムには「先任搭乗員」と書かれていましたが、真珠湾の編制表では飛曹長になっています。
アルバムの写真は進級前のお写真ってことでしょうかね。
他にもアルバムの階級が真珠湾時より一階級低い人がいるので進級時期を調べたら撮影時期がある程度わかるのかも。

と書いているんですが、これを見てさっそく連絡をくださった方がいらして。

五島一平さんが飛曹長に進級したのは16年9月15日です。

と。

「じゃあその前の夏ごろの撮影ですかね。甲斐巧さんがマフラーに襟巻なので寒い時期かと思っていましたー」←16年冬頃

なんてのんきに返信していたわたし(^^;)


その後、またまた他の方から連絡をいただいてですね。

五島さんが飛曹長に進級した16年9月15日以前には違いないのですが、じつはもっと前ということがわかりました。



この写真に写っていない二階堂中隊の一員・高橋英市1飛兵(真珠湾時)ですが。
加賀に着任したのが16年4月4日とか!?
ということはこの写真は16年4月4日以前?
それなら甲斐さんのマフラーと襟巻重ね着用も納得です。

が、もしかしたら、高橋さんは着任していたのにたまたまこの日いなかっただけかもしれない。
(写っていないことがそのグループに所属していなかった証拠にはならない)


これ以外にも階級のこともあるので(16年5月1日に1空曹に進級している豊田さんが、自分のことを「二空曹」と書きこんでいる&写真の豊田さんと同期生・石川友年さんの階級章が2空曹に見える)、高橋さんが着任していたとしてもおそくとも16年4月中の撮影。
「いつ以降か」という点に関しては絞れていません。
鈴木さん、豊田さん、甲斐さんが15年10月に加賀に着任しているようなので、いまはおおざっぱに15年10月~16年4月ごろ、みたいな感じです。
花(梅とか桜とか)でも写っていればねえ(^^;)


わたしの場合、ここに書いたことが最終結論ではなく、ここに書いたことがスタートになることが多いので(←見てくださった方からご教示いただける)、「その後どうなったかな?」と、ときどき覗いていただけるとうれしいです、スイマセン、中途半端で(^^;)


ホント、この写真、大好き。
操練、甲飛、乙飛と、出身も違えば年齢も違う搭乗員たちが笑顔で和気藹々、仲の良さが伝わってくる1枚です。


※画像は愛媛零戦搭乗員会ご提供

加賀戦闘機隊2021年04月25日 09時38分57秒

わたし、ブログに豊田一義さん(甲1)宅に遊びに行った話、書いていないですかね。

豊田さんのお名前でブログ内検索をしたら2012年の愛媛の会の翌日朝食時に隣に豊田さんがいて、すでにスーツもネクタイもビシッとした姿で朝食をとられていて、あいさつをしたらきちんと返してくださった、という話しか書いていないような?

その何年後かに豊田さんのご自宅にうかがっているんですけど・・・・。

そのとき、豊田さんがアルバムを保管されているのは認識していました。
スキャナを送り返してしまっていてほぼ手ぶらで行ってしまい、スキャンできなかったんです。
訪問時のことを書いたメモを見つけたのですが、奥様との馴れ初めしか書いていなくてですね。
さらに、お嫁さんと意気投合して話し込んじゃって。
豊田さんの海軍時代のこと、ほとんど聞いていない・・・・(;´・ω・)






今回、愛媛零戦搭乗員会のご厚意で豊田さんのアルバムをスキャンさせていただくことができました。

全部見ました。
どれもこれも貴重な写真ばかり。

中でも衝撃的だったのがこの写真。
豊田さんの書き込み
自筆で「加賀戦闘機ノ勢揃ヒ」
活字で「加賀鴨池基地にて 戦闘機メンバー」

ハワイ攻撃前の訓練時代ですね。
みんなニッコニコで腕を組んだり肩を組んだり、仲の良さが伝わってくる一枚。
楽しそうな雰囲気とは逆に涙がこみ上げてきました、これ。


この集合写真には記名はなかったですが、別に記名ありの個人写真が貼られていたのでそれをもとに、
前列左から
豊田一義さん(甲1) 

北岡誠一さん(操45) 

阪東誠さん(操48)

甲斐巧さん(乙8) 

石川友年さん(甲1)


後列左から
長浜芳和さん(甲2)

鈴木清延さん(操28)

五島一平さん(操19)

稲永富雄さん(乙7)



集合写真と同じ時に撮ったと思われる個人写真、記名ありです。
集合写真の順番で。戦没状況等はわたしの書き込み。
豊田一義さん(甲1) 愛媛
戦後生存

北岡誠一さん(操45) 高知
18年3月11日  瑞鳳  ブナ

阪東誠さん(操48)
戦後生存

甲斐巧さん(乙8) 宮崎
19年6月20日  652空  マリアナ沖

石川友年さん(甲1) 大分
19年7月6日  佐世保空大村派遣隊  厚木基地で殉職

長浜芳和さん(甲2) 福岡
18年9月6日  築城空  殉職

鈴木清延さん(操28) 福岡 ※愛媛出身
17年10月26日  隼鷹  南太平洋海戦

五島一平さん(操19) 熊本  先任搭乗員
16年12月8日  加賀  真珠湾攻撃

稲永富雄さん(乙7) 福岡
16年12月8日  加賀  真珠湾攻撃





加賀飛行機隊行動調書から
16年12月8日  布哇主力艦並ニ飛行機攻撃
二次攻撃隊
大尉  二階堂易
一飛曹 稲永富雄  行方不明
二飛曹 甲斐巧

飛曹長 五島一平  行方不明
一飛曹 石川友年
一飛兵 阪東誠

一飛曹 鈴木清延
一飛曹 長浜芳和
一飛兵 高橋英市


一次攻撃の戦闘機隊は志賀淑雄大尉が率いていますが、顔ぶれからこちらの二階堂中隊の方だと思われます。高橋英市さん(操53)の写真は記名ありの中にありませんでした。



五島さんはアルバムには「先任搭乗員」と書かれていましたが、真珠湾の編制表では飛曹長になっています。
アルバムの写真は進級前のお写真ってことでしょうかね。
他にもアルバムの階級が真珠湾時より一階級低い人がいるので進級時期を調べたら撮影時期がある程度わかるのかも。




※画像は愛媛零戦搭乗員会ご提供
※戦没状況はKさん、Aさんご提供名簿参照

乙8期飛練2021年04月08日 23時34分44秒

乙2期の浅川三雄さんの写真の中にこんな写真がありました。



書き込み等なかったようですが、乙8期の飛練集合写真だと思います。
陸上機操縦の半分だろうか、いや、3分の1? (練習生は20名)
スイマセン、8期の操偵など調べていないのでちょっといまはわかりません。

なんで8期だと思ったか?

名札が読める人がいて「馬場」、「白野」。

これとは別に、浅川教員が練習生と写っている写真が2枚あります。
練習生2人と写っている写真と練習生3人と写っている写真。
そちらも名札が読める人がいます。「馬場」、「金子」。名札が読めない人も含めて、練習生は集合写真に写っている人たちです。
名札は「乙飛金子」「乙飛馬場」って書いてあるのが見えます。階級も「一空」って書いてあります。

時期的なこと、写っている練習生の氏名、「乙飛」、などなど、これらのことから3枚は乙8期の飛練時代の写真で間違いなかろう、と。。


8期生って、辻堂演習写真とか同県人写真とか、いままでは「9期生と一緒に写っている」写真しか見たことがありませんでした。
8期生単独の写真って初めてじゃないかな。
めっちゃうれしいです。


これらの8期生写真はもうちょっとちゃんと見てから紹介しようと思います。
あと陸上機操縦の人数とか、まずそこから・・・・。
個人のお顔がわからないので道はかなり険しいです(^^;)



※画像は2期生ご家族ご提供

北海道出身者 7~9期集合写真2021年01月24日 23時36分32秒

いつもお世話になっている知人から「研究の役立ててください」と何枚か写真が送られてきました。
いつもありがとうございます<(_ _)>

研究、というか、予科練生が好きで写真を見ているだけなんですけど(^^;)




見た瞬間、感激しました。
初めて見る9期生が写った写真や、西澤さんが写った写真などなど。
さらにアルバム台紙に持ち主の書き込みあり。戦友たちへの思いのこもった書き込み・・・・。



今日はその中の1枚、北海道出身者7~9期の集合写真を紹介します。

横須賀の予科練庁舎の中庭ですね。
いままでの例から察するにおそらく7期生卒業に際しての記念の集合写真だと思います。
少人数の場合は中庭で、大人数の場合は庁舎の玄関前で。
何人までが「少人数」で何人からが「大人数」なのか、正確な基準は把握していません、ざっくりです。

北海道出身の場合、前に座っているのが7期生と8期生、後ろに立っているのが9期生です。
前列は両端2人が8期生で、中の4人が7期生です。
8期生はお名前がわからないのですが、北海道出身の7期生4人、8期生2人で人数が合うので、お名前のわからない両端のお2人が8期生と判断しました。

前列左から、
8期生

7期喜多義雄さん
操縦 水上機  15年10月5日 大湊空 潜爆訓練中殉職

7期泉澤勝さん
偵察 中攻  マレー沖海戦参加(『予科練のつばさ』に手記あり)
戦後生存

7期釜田重男さん
操縦 中攻  15年6月10日 13空 重慶

7期小川武夫さん
偵察 中攻
戦後生存

8期生


8期生のお2人は、
小山内信夫さん  
操縦 戦闘機  15年9月30日 大村空 殉職 

小山一男さん    
偵察 中攻  18年11月29日 752空 南洋群島 第4次ギルバート諸島沖航空戦の触接任務 

写真のおふたり、どちらが小山内さんでどちらが小山さんかはわかりません。
8期の同期生会誌によると、小山内さんは頭が丈夫で硬かったそうです。
小山さんは、忍術研究の大家であり、鞍馬天狗研究の大家でもあったそうです。


後列、9期生。左から、






↑ご遺族の方からご提供いただいた写真のページにリンクを貼っています


9期生の「初めての写真」って久しぶりだったので、ちょっと目から汗が出てしまいました。
なんかうれしいです。
なんだろうな、懐かしい人に会ったような?


※7期生の戦没状況は『予科練のつばさ』(七期雄飛会 光人社)
※画像はMさんご提供

乙8期 岡宮祐さん 22020年10月31日 09時52分30秒

岡宮さんのことに関しては以前書いています



そのとき、岡宮さんの最期に関しては行動調書を見て書きました。

岡宮さんは8期生として予科練に入隊していますが、いつからか9期生と合流したようで、9期の霞ヶ浦航空隊時代の末期(15年11月初ごろか?)の写真から一緒に写っています。そこから飛練卒業(木更津大型機操縦)まで一緒に写っています。

9期生全員の顔とお名前がわかったあとも、ずーっと、どなたかわからない状態が続いていたのですが、18年の5月の初めでしたか、Kさんが「8期の岡宮祐さんではないか」とメールをくださって、わたしもKさんから提示された情報を見て「そうにちがいない」と思ったのでブログに書いたというわけです。

ここから先はたぶん、ブログには書いていないままになっているんじゃないかと思います。
検索しても出てこないので。




じつはですね、ブログに書いたひと月後、岡宮さんのご遺族の方がブログをご覧になられたとかでメールをくださったんです。

岡宮さんのことを頻繁に検索されていたのか、それともたまたまそのときに検索されたのかはわからないのですが、書いた直後に連絡をいただくとやはり「お導きに違いない」と思ってしまいます。



行動調書や『予科練外史』(倉町秋次)の記述では岡宮さんは機上戦死したことになっています。
操縦員ですが中攻なので操縦員はメインとサブといて、たとえばどちらか一人が操縦不能になったとしてももう片方が健在であれば飛行機は飛びます。

17年11月12日、ルンガ泊地攻撃の703空・岡宮機は主操縦の岡宮さんが機上戦死した後、副操が操縦し、島に不時着。岡宮さんと同じく機上戦死の梅沢飛長がその地に埋葬された、と理解していました。


しかし、ご遺族の方から聞いた話は違いました。
岡宮さんは不時着時、まだ生存していたそうです。
その後、ペアに最期のことばを残して亡くなったとのことでした。

そのことを戦後、岡宮家に伝えに来てくれた人がいたそうです。

岡宮さんが戦死したときのペア、主偵察員の島崎馨さん(甲3)です。

そのときのことは新聞記事にもなったそうです。



先日、Kさんに『予科練外史』をお借りして読んでいたのですが、前回借りたときに岡宮さん関連の記述を見落としていたことに気づきました。
岡宮さんの戦場での日記が引用されていたのです。
引用されているのは17年8月26日、27日、31日、9月25日、28日、30日、10月3日、5日、21日、25日、11月4日、8日。

8月27日は編制替えがあったらしく「偵察は島崎になるらしい」と、のちに自分の最期を実家に伝えに行ってくれた島崎さんのことを書いています。



戦場でも本を読んでいた岡宮さん。
岡宮さんの書く文章は、なんというか、うまく表現できないのですが独特です。技巧的ではないけど、文学的。
日記には学生時代の淡い恋情についても書かれています。ふつうの青年。
しかし生死観は淡々。本心なのか、そう思い込もうとしているのか。





17年10月21日、当時703空だった9期の伊藤誠一さんがウェーク島からの哨戒中に遭難して、全員が救命いかだで漂流、4日後に救助されたって話を書いたことがありますが、そのとき岡宮さんも伊藤さんの捜索に出ていました。
『予科練外史』に「或る不時着」というタイトルで書かれています(これは以前から把握していたもの)。

そこにも岡宮さんの日記が引用されています。
『十月二十三日、捜索は今日も続けたが、相変わらず見えるのは波頭ばかり。昨日は、ロンギリック、今日はピギンニを低空飛行する。不時着機よ何処へ行ったのか・・・・。もう断念するより外はない・・・・。吾々は海上に不時着したらもう断念するより仕方がない。
二十四日、奇蹟が報ぜられた。全くの奇蹟である。不時着、行方不明機の八名が全員生存していたそうだ。ルオットに向けて十四日に横須賀を出港した補給船「那岐山丸」(十一航艦所属)に救助されて二十五日にルオットに入港するという。あきらめて、今日で捜索は打ち切りという時だったので余計に嬉しかった。救助の電報を受け取った通信長は雀踊りをして喜んだそうだ。
丸三日漂流したのだからよくも頑張ったものと思う。人間は最後の最後まで頑張らねばならぬ。最後の瞬間まで自暴自棄になってはならぬ。人事を尽くして天命を待つ。もし、吾にしてこのことあれば、生きられるだけ生きなければらならぬ。而して後は天の命ずるままに従えばよい
のである』


岡宮さんがルンガの敵輸送船団雷撃で不時着後に戦死したのはこの20日ほどあとです。



※画像は9期生ご遺族、Sさん(甲3教員のご家族)ご提供