隼鷹の甲斐巧さん ― 2023年06月25日 10時02分36秒
まったくの別件で知人Hさんとちょっとやりとりしていたんですが、そのときに、
「乙8の甲斐巧さんが写っている写真ってなかったですか?」
って聞いてみたら、探してみますと言われて、しばらくして「ありました」と送ってきてくださいました。
「おおおおお!」
送ってくださった写真は隼鷹艦戦隊の集合写真で、見たことがある写真でした。
戦後の戦友会発行の書籍に掲載の写真と同じものでした。
わたしが見たものは全員の名前が下の余白に書かれていたもので、甲斐さんのところにもちゃんとお名前が書かれていました。
それと同じ写真でしたが、今回送っていただいたものはHさんが持ち主の方から直接借りてオリジナル写真を複写したもので、書籍の写真のようにドットではありません。
写真に直接お名前が書き込まれていますが、何人かお名前がありません。
甲斐さんはありました。

甲斐さんや、甲斐さんや。
でもなんか、書籍の写真とちょっと違うような気がしました。
うまく言えんけど。
オリジナルのなめらかさとドットの写真の違いかな。なんかビミョーに表情が違うような気がする。
と思って拡大して見比べていたのですが、いくら見ても違和感の正体がよくわからない。
他の部分を見てみたら・・・・。
「あ! 甲斐さんの指が!」

↑書籍の写真

↑今回のオリジナル写真
前に座っている搭乗員で隠れている甲斐さんの手が、書籍の写真と今回の写真で見えている範囲が違う!(゚Д゚;)
他の搭乗員はどうだ?
と思ってよく見てみたら、姿勢が違う人とかいました(^^;)
甲斐さんはほぼ同一姿勢。前の搭乗員が動いて、指の見えている範囲がかわってしまった、って感じでしょうか。
1枚撮った後続けて、「もう1枚」と言って撮ったんだろうなと思います。
ということで、この2枚は別の写真であるということがわかりました。
こういうのめっちゃうれしいんですよ。
人生のある一瞬を切り取った写真。
それを焼き増しして2枚―――もたしかに意味があります。どなたが所有していた写真であるかとか、あるいはまったく同じ写真であってもどなたかの書き込みがあるとかないとか。
今回は違う瞬間を切り取ったものであったとわかってすごく喜んでいます。
わかるかな~、この感じ。
※画像はHさんご提供
乙1~9期 操偵検査、艦務実習の時期 ― 2023年05月04日 15時11分26秒
前回、「ほぼ完成」と出したのですが、知人が期間に空欄があるのに気づいて情報提供してくれました。
期間も埋まりました。
ありがとうございます!(・∀・)
これ、一番簡易版です。
もっと詳細にやろうと思ったら、
・操偵検査の時期、場所
・艦務実習の時期、派遣された艦
・飛練(初練・中練)の航空隊、期間
こういうのを調べられたらいいのですが。
現時点でわたしが把握しているのは9期だけなので、ボチボチやります。
ちなみに9期を詳細に書くとこんな感じ↓
時期は書き込んでいないですが、
予科練入隊・・・・13年6月1日
操偵検査・・・・14年6月ごろ(1学年の終わりごろ)
艦務実習・・・・15年3~4月(2学年の終わりごろ)
予科練卒業・・・・15年11月30日
飛練操中練・・・・15年11月30日~16年5月末、実用機・・・・16年6月~10月末
偵中練・・・・15年11月30日~16年7月末、実用機・・・・16年8月~10月末
※Tさんご教示感謝です
加賀艦攻隊 鈴木三守大尉分隊集合写真 ― 2023年01月05日 11時08分47秒
乙8期の町元善春さんのご遺族の方から、加賀艦攻隊・鈴木三守大尉(兵64)の分隊集合写真を提供していただきました。

各人の装備等から、この写真は16年12月5日(北原收三さん日記による、「7日撮影」という話もあり)、真珠湾に向かう加賀飛行甲板上で撮られた艦攻隊総員集合写真と同じときに撮られたものと判断しました。

加賀艦攻隊総員集合写真
町元さんの写真ですが、まず、呼称に関して説明します。
この写真に写っている一番エラい人はイス列中央の飛行隊長・橋口喬少佐(兵56)です。
次が橋口少佐左隣りの分隊長・鈴木三守大尉。
最初、この写真のことを「橋口分隊集合写真」と呼んでいたのですが、こういうのに詳しいいつものYさんに加賀艦攻隊の構成に関して尋ねてみたところ、橋口少佐は飛行隊長で、その下に3人の分隊長たち(北島一良大尉(兵61)、牧秀雄大尉(兵61)、鈴木三守大尉)がいて、さらに各分隊長の下に分隊士たちがいて、分隊員がいる構成――というのを図入りで説明してくれました。
それが艦内編制で、その艦内編制をばらして編制し直したのが攻撃隊編制になるとのことでした。
(著書の『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』大日本絵画に見やすい説明があります)
そういうわけで、この集合写真は艦内編制の鈴木三守大尉の分隊に、飛行隊長の橋口少佐が加わったものである(橋口隊長は攻撃時は鈴木分隊の分隊員とペアを組んでいるので、ここに加わっているのでしょう)。なので「鈴木分隊集合写真」という名称にしました。
Yさんに説明していただいた艦内分隊に関してもちょっと書きたいことがあるので、もう少し整理してからアップしたいと思っています。
ちなみに加賀艦攻隊艦内3分隊のうち、すでに北島分隊集合写真は書籍などでも紹介されています。

北島分隊集合写真。
これも同じときに撮られたものでしょう。
3分隊中、2枚の分隊写真があるということで、残り牧分隊のメンバーはおおよそ推定できています(まだ不明者がいるので完全ではない)。
鈴木分隊の集合写真、細かく見ていくとたいへん興味深いものが写っています。

カウリング下の機番号。
プロペラで一部隠れていますがどう見ても「56」。
これは鈴木三守大尉・森田常記飛曹長(乙3)・町元善春2飛曹の真珠湾時搭乗機と言われているAⅡ-356号機のようです。
真珠湾で撃墜され、数日後に湾内から引き揚げられたと言われている機体です。
(この時の状況に関しては諸説あるようです)
他の2枚(総員、北島分隊)はちょうどこの部分は搭乗員たちで隠れていて見えません。
なので、同じ機体なのか、違う機体なのか、それは判断できません。
飛行機の塗装の塗りむらなので判断できないか拡大して見てみたのですが、わかりませんでした。
可能性としては、
・各分隊長の搭乗機を背後に配置して記念撮影した
・同じ機体の前で全部の集合写真を撮影した
などが考えられると思うのですが、実際どうなのかわかりませんでした。
この写真からは他にも判明したことがまだあるので、それに関しては後ほど書きたいと考えています。
それと総員集合写真の訂正版、遅れていて申し訳ないです。
また、町元さんご遺族のご厚意で、写っている島田直さんのご遺族に写真を送らせていただいたところ、初めて見る写真だとかでたいへん喜ばれていました。ありがとうございました。
※画像は町元さんご遺族、9期生ご遺族、大澤さんご提供
蒼龍艦攻隊 偵察配置集合写真 ― 2022年11月29日 14時47分40秒
鹿熊粂吉さん(甲3)の遺品の中にあった蒼龍艦攻隊偵察配置の集合写真と思われる1枚。

お顔がわかった人たちから推定して、写っているのは下表の太字の人たち、偵察配置の下士官の人たちだろうと。
ペアは3人一組。上から操縦、偵察、電信。色ベタは出身別(操練・偵練、乙飛、甲飛)なのでお気になさらず。

前列左から(上から氏名階級(出身期)、入隊年月、蒼龍分隊、消息)

加藤豊則1飛曹(甲2)
13年4月
11分隊
19年10月15日 K406 台湾沖

吉岡政光2飛曹(偵43)
11年6月
11分隊
戦後生存

金井昇1飛曹(偵35)
9年6月
12分隊
16年12月22日 蒼龍 ウェーク島攻撃

藤波貫二1飛曹(偵27)か?
11分隊
19年6月29日 K251 サイパン
藤波さんは乙5の大多和達也さん(『予科練一代』光人社NF文庫)の蒼龍時代のペアの偵察員です。手記にもたくさん登場していますが、お顔がわかりません。
写真がおそらく「蒼龍艦攻隊偵察配置の下士官たち」と思われること、また座り位置からこの人が藤波さんでは?ということになりました。

石井利一1飛曹(乙7)
11年6月
12分隊
19年2月23日 321空 マリアナ

宗形龍恵2飛曹(偵43)か?
12分隊
19年10月14日 K263 台湾沖航空戦 索敵未帰還
宗形さんは川崎まなぶさんの『マリアナ沖海戦』(大日本絵画)に千歳搭乗員集合写真が出ているんですが、個人が小さくてお顔がよくわかりません。「別人だ」というほどではないですが「この人に間違いない」ということも言えないような写真です。
12分隊の宴会写真に写っているはずなのですが、現時点で見つけられていません。
もしかしたら鹿熊さんの後ろからお顔半分だけのぞかせている下士官帽の人かな?とも思っているのですが、ちょっとわからないです。

田中敬介1飛曹(甲2)
13年4月
12分隊
17年6月5日 蒼龍 ミッドウェー海戦
田中さんはもともと佐藤-金井機の電信員だったみたいです。夏に田中さんが偵察員として他ペアに移り、かわりに花田さんが佐藤機の電信員に入った、と(金井日記)。
後列左から

田村重年2飛曹(甲3)
13年10月
11分隊
戦後病没

杉山弘興1飛曹(甲1)
12年9月
12分隊
19年4月30日 K251 内南洋

紺野喜悦2飛曹(乙8)
12年6月
11分隊
17年10月17日 隼鷹 ソロモン

安藤百平3飛曹(偵49)
12年
11分隊
戦後生存

大谷末吉3飛曹(偵49)
12分隊
16年12月22日 蒼龍 ウェーク島攻撃

佐野覚1飛曹(甲2)
13年4月
11分隊
19年11月25日 K256 比島

鹿熊粂吉2飛曹(甲3)
13年10月
12分隊
17年10月17日 隼鷹 ソロモン
紺野さんと鹿熊さんが戦死されたこの攻撃は森拾三さん(『奇蹟の雷撃隊』光人社NF文庫)が右手を失ったあの攻撃です。投弾やりなおしで艦攻隊に多大な犠牲が出た・・・・。
これから書こうとしている蒼龍艦攻隊から隼鷹に移ってこの攻撃で戦死された方も多いです。
太田五郎1飛曹(乙6)
鹿熊粂吉1飛曹(甲3)
丸山忠雄1飛曹(甲3)
紺野喜悦2飛曹(乙8)
田辺正直2飛曹(甲4)
土井敬二2飛曹(甲4)
若宮秀夫2飛曹(甲4)
岩田高明2飛曹(甲4)
江塚寿2飛曹(甲4)
浮ケ谷弘3飛曹(偵52)
川島甲治2飛曹(操50)
西田孝雄3飛曹(偵47)
並び順の話をすると、階級だけなら1飛曹の杉山さんなどは「この人が前に来た方がしっくりくる」って気もするんですが。
前列は11分隊偵察班先任下士(藤波さん)、12分隊偵察班先任下士(金井さん)をまず中央に。そして雷撃隊偵察員+予備員宗形さん。
後列が水平爆撃隊偵察員と予備員紺野さんと田村さん。
みたいな感じで並んでいるのかな?
予備員の宗形さんが前列、紺野さんと田村さんが後ろ、というのは、もしかしたら真珠湾前の訓練時、宗形さん雷撃チームで、紺野さんと田村さんが水平爆撃チームだったりしたのかななんて想像したりもしています。いや、ただたんに(藤波さんか金井さんに)「もう一人座れるぞ。だれか前に来い」と言われて宗形さんが「じゃあわたしが前行きます」となっただけかもしれませんが。
前列、後列それぞれの中では中央から端に入隊年順に並んでいるのではなかろうか、と思います。入隊年を把握できていない人もいますが、階級から察するに。
※画像は鹿熊さんご遺族、Oさんご提供、出身期の一部はKさんご教示
大島隆之『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の八〇年』講談社現代新書
蒼龍艦攻隊 12分隊宴会写真と偵察配置集合写真 ― 2022年11月26日 12時03分31秒
乙9期島田清守さんの遺品の中にあった蒼龍12分隊(艦攻隊2分隊のうちの1つ)の鹿屋翠光園での宴会写真。
島田さんの日記から、開催されたのは真珠湾に出撃する直前の16年11月12日であるとこともわかっています。

去年末の真珠湾80年の折、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で憎々しい演技で視聴者をイライラさせた比企能員こと佐藤二朗さんがMCを務める『歴史探偵』でカラー化されてとりあげられた宴会写真です。
今年の夏ごろですかね。
蒼龍艦攻隊に関してさらに新しい発見があり、この写真についても若干の追加事項があります。
その件に関しては知人Oさんが調べられていたことで、さらにそれをベースに本を書かれるということだったのでわたしはその本の刊行までここに書くのを控えていました。
刊行されたので、わたしもブログに書くことにします。
新しい発見というのは、この宴会写真にも写っている甲3期の鹿熊粂吉さん(17年10月17日 隼鷹 ソロモン)の遺品の写真の数々です。
島田さんのものと同じ宴会写真が、鹿熊さんの遺品の中にもありました。
そして、写真の中に鹿熊さんの書き込みがあったのです。
書き込みと言っても文字ではなく記号です。
〇がついている人が1人。
×がついている人が6人。
鹿熊さんの遺品現物です。
黒地に黒マジック?で書かれているところもあるのでちょっとわかりにくいですかね。
島田さんの写真の同じ場所に赤で印を入れてみました↓
まず、〇がついている人。

わたしはこれは乙8期の根食貞憲さんではないかと思っていたのですが、他の写真等も検討した結果、鹿熊さん本人だろうということになりました。
そして、×がついている6人。
まず氏名が判明している3人。

金井昇1飛曹

花田芳一2飛曹

小紙彰正1飛
そして氏名不詳3人。



金井1飛曹、花田2飛曹、小紙1飛ときてすぐに思い浮かぶのは真珠湾攻撃の帰途行ったウェーク島攻撃での戦死者です。
97艦攻2機。2ペア、6名の搭乗員です。
1機は爆撃嚮導機の佐藤治尾飛曹長(操)、金井昇1飛曹(偵)、花田芳一2飛曹(電)。
もう1機は栗田照秋1飛(操)、大谷末吉3飛曹(偵)、小紙彰正1飛(電)。
・・・・ということは、氏名がわからない3人は、佐藤治尾飛曹長、大谷末吉3飛曹、栗田照秋1飛ということなのか?
この3名に関してはわたしのもとにお顔がわかる写真がありません。
氏名不詳3名のうち上から2番目の人は長髪で、准士官以上の方だろうとは思っていました。
が、わたしは中島巽大尉では?と思っていたんですよね(中島大尉の写真は書籍で見ました)。
いまだにこの人が佐藤飛曹長なのかどうか、わたしには判断がつきません。
残りのおふたりですが、上の方(下士官の軍帽をかぶっている人)は大谷さんだろうと思っています。
鹿熊さんの遺品の中に、もう1枚、蒼龍関係の集合写真がありました。
艦攻隊(11・12分隊)の偵察配置だけで撮ったと思われる14名の集合写真です。
最初見たときは何の集合写真かわかりませんでした。
ご当人の鹿熊さんは写っている(後列右端)。
さらに前列(イス列)の中央あたり(左から3人目)に金井昇さんがいる、足元に〇つきで。
あ、石井利一さん(乙7)もいるな(前列右から3人目)。
これぐらいはパッと見てわかりました。
「なんか見たことあるんだよなあ」
って人がちらほらいるので本格的に照合を始めて、杉山弘興さん(甲1 後列左から2人目)や吉岡政光さん(偵43 前列左から2人目)、紺野喜悦さん(乙8 後列左から3人目)も写っていることに気づきました。
「もしかして蒼龍艦攻隊偵察員?」
そういう仮定の下で写真を探し照合した結果、写っている14名は下の表の太字の人たちではないかという結論に達しました。偵察配置の下士官兵のみ。
ベースは真珠湾攻撃時の編制表です。3人1ペアで上から操・偵・電の順です。
色分けは気にしないでください。出身別(操練・偵練、乙飛、甲飛)になっています、今回の件とは無関係です。
鶴見さん以下は真珠湾予備員ですが、ウェーク島攻撃時は太字の方は偵察配置。

甲4と乙9を除く、蒼龍艦攻隊偵察配置の下士官搭乗員の集合写真、ということですね。
(甲4・乙9の着任前だったのか、あるいは着任していたけど配置が決まっていなかったのか、写っていません)
ただ、藤波貫二さんと宗形龍恵さん、大谷末吉さんはお顔がわかる写真が見つけられず(宗形さんは書籍の集合写真のみ。お顔小さい)、あくまで他メンバーからの推定です。
藤波さんでは?という方は金井さんの右隣(イス列の中央)に座っています。
で、本題に戻ります。
この偵察配置集合写真の中で「この人が大谷末吉さんでは?」と思われる人が、宴会写真で×がついている人(下士官軍帽の人)によく似ているんです。
この人。

そういう理由で、わたしはこの人が大谷末吉さんなのだろうと思っています。

となると、残る×印おひとりは栗田1飛の可能性が高いということになりますが。
一つ引っかかっている点があります。

ふつうの白シャツを着ていますよね。
この場にいる兵の方々はジョンベラだと思うんです。
ジョンベラを脱いでも中は首元に縁取りがあるTシャツですからね。
「この人は兵階級なのか?」
という疑問が残るのです。
コスプレ(軍服・軍帽取りかえっこ)している人がいるので、「Tシャツまで先輩に脱がされて、かわりにその人のシャツを着せられた可能性」は0ではないですが・・・・。そこまでするかなあ????
わたしね、この人、甲1の杉山弘興さんだと思っていたんですよ。
偵察配置写真のこの人です。

そういうわけで、残る×印のおふたりが佐藤飛曹長と栗田1飛かどうかに関しては、ご本人と確認できる写真が出てくるまで保留にしておきたいです。
鹿熊さんがウェーク島で亡くなった6人に印をつけようという意図があったことは確実だと思うんです。
○×つきの宴会写真と同じページに添え書きがありました。
思い出深い最后の宴會だった。
何時散るか知れぬは兵の常だ。
この和かな顔ぶれも
悲しい哉 今は見え出せない顔もある。
よい人だった。元気な人だった。仲のよい人だった。
今それを思い、亦語る時、
そぞろ涙に暮れるのである。
でも笑ってやらう、それは彼等に対する、せめても
の力づけであろうから。
何時散るか知れぬは兵の常だ。
この和かな顔ぶれも
悲しい哉 今は見え出せない顔もある。
よい人だった。元気な人だった。仲のよい人だった。
今それを思い、亦語る時、
そぞろ涙に暮れるのである。
でも笑ってやらう、それは彼等に対する、せめても
の力づけであろうから。
長くなりそうなので、今回はここまで。
写真の詳細は次回。
※画像は9期生ご遺族、鹿熊さんご遺族、Oさんご提供
大島隆之『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の八〇年』講談社現代新書