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加賀飛行機隊 16年1月2022年10月23日 21時14分07秒

※202210271040追記があります。赤字。


先日の戸塚道太郎少将の飛行服写真は加賀飛行機隊の16年1月の集合写真からです。
「初飛行」らしいです。飛行初めっていうんですか。
この写真は野原忠明さん(操45)の遺品の中の1枚で、ご遺族の方が大事に保管されてきたものです。

もうちょっとわかってから出そうかと思っていたのですが、ここのところ行き詰っているのでもう出しちゃいます。

ここに写っている中で一番のお偉いさんは先日紹介した戸塚少将。


階級章がスゴイですねー(;・∀・)
わたしがいままで見た飛行服姿の中で、一番高位の階級章です。

で、次が大佐の階級章をつけているこの人だと思うんです。戸塚少将の左隣りに座っています。
山田定義大佐ですね。のち25航戦、西澤さんたちの親分。
当時加賀艦長。

救命胴衣までつけているので「えー!」と思いました(語彙力)。
わたしがいままで見た救命胴衣姿の人で一番高位の人。

艦長の左隣りにふたり中佐がいます。階級的には副長では?と思うのですが(氏名は把握)、その方のお顔がわからず現時点では保留。
艦長の隣の人。

さらにその外側の人。




戸塚さんの右隣りに座っている人も幹部だと思うんですが、階級章が見えません。
襟巻をして、一見搭乗員風です。飛行眼鏡がないですが。

この人の外側(右隣り)に飛行長の柳村義種中佐らしき方↓が座っているので、それ以上の立場の方と思うんですけどね。
この人が副長だろうか?




柳村義種中佐。
加賀飛行長。
だと思うんです。
252空司令時代の集合写真のキャプションが正しければ。





階級章は写っていませんが、柳村さんの一つ外側に座っている人。
これ、源田実少佐じゃないですかね? 
写真を何枚か見たんですが似ているような気がします。
『海軍航空隊始末記』(源田さんの著書)を読むと、このころ、一航戦の参謀ですよね。一航戦司令官の戸塚少将が写っているので、源田さんがいても不自然ではない。
源田さん、救命胴衣・飛行眼鏡だけではなく襟巻まで着用してフル装備です。雰囲気だけだと現役の飛行機乗りです。
343空司令時代のエピソードにも「自分で操縦して・・・・」みたいな話があるので、”雰囲気だけ”じゃないですね。






ここから先は搭乗員の方々なのでお顔だけ。
舟木忠夫少佐(兵64)。
飛行隊長兼分隊長。艦戦。


橋口喬少佐(兵56)。
飛行隊長。艦攻。

真珠湾直前の加賀艦攻隊集合写真の橋口さん。


西原晃大尉(兵58)
分隊長。艦爆。

13年5月、加賀飛行機隊総員写真(浅川さん所有)の西原さん。


牧野三郎大尉(兵60)。
分隊長。艦爆。


佐藤正夫大尉(兵63)ですかね????


イス列でわかったのはこの方々です。
橋口さんと西原さん以外は書籍の写真と見比べてのことなので・・・・。どうですかね?





イス列の方々に注記を入れてみました。
この集合写真、イス列の方々、めっちゃ序列順に座っていると思うんです。
こういう集合写真の序列順というのは、イス列中央が一番エラい人。そこから外側にむかって階級が下がっていくと。
中央が戸塚司令官(少将)、隣が山田艦長(大佐)、そして脇に中佐や少佐といった幹部らしき方々。さらに脇に飛行隊の飛行隊長、分隊長。こんな感じかな。

牧野大尉の外側のおふたりは飛行隊の分隊長だろうか?
わたしがピックアップした中に、牧野さんの後輩の分隊長がふたりいるので、そのふたりの可能性が大いにあると思っているのですが、いかんせんお顔がわからないorz
竹内定一大尉(兵62)と山上正幸大尉(兵63)なんですが、どなたかお顔をご存じないですか?
3列目の中央にも大尉さんがおふたりいるので、もしかしたらそちらかもしれません。


源田さんの『海軍航空隊始末記』にこんな記述があります。15年終わりごろから16年初めごろにかけての記述の中にある一節です。
加賀の艦攻隊や戦闘機隊には、先人未到の境地を開拓するために、万難を排して目的に邁進する「躍起者」が相当いた。被照射中の雷撃は容易なものではないが、努力によって解決出来ないものではない。竹内定一大尉、鈴木三守中尉などという命知らずの猛者が、従来の八百長的雷撃から、真に実戦的な雷撃法を確立すべく毎夜のごとく猛訓練を続けた。延岡市にある旭ベンベルグの工場に依頼して各種の光芒遮蔽ガラスを用意して実験を進めた。当初は短時間の照射で中止し、光芒数もせいぜい二本か三本であった。それが回数を重ね経験を積むに従って腕前を上げ、年度も後半期になると、我々が待望した無制限照射も、加賀攻撃隊の集団雷撃を阻止することは出来ない程に成長した。
その間において、この夜間雷撃を推進する中心人物であった竹内定一分隊長が、夜間訓練のための発艦に当ってエンジン故障のため海中に墜落し、尊い犠牲となったことは痛ましい限りであったが、後に残った人々は、いささかも士気を沮喪することなく、竹内分隊長の屍を越えて前進した。


竹内大尉(16年2月22日 事故死)はこの集合写真に写っているんじゃないかと思うんですよね。

※竹内大尉の殉職に関して、知人Oさんから新たに情報提供がありました。
防衛研究所の殉職者名簿には「16年2月21日」に殉職されたという記載があるそうです。わたしはこれは見ていませんでした。
わたしはアジア歴史資料センターの叙位に関する資料の中に、竹内大尉が16年2月22日に従六位に叙されたという資料があったので、この日が亡くなられた日なのだと解釈してブログにそう記述しました。
現時点(10月27日)でどちらが正しいのか、わたしには判断がついてません。




「この人たちが写っているのだろう」
という人たちを何人かピックアップして写真も集めたのですが、比較してもよくわからないんですよ(^^;)
とくに書籍の写真なんかは。

「えー? どの方かなあ?」
って感じです(^^;)


以下、画像の色味で判断してください。
黄色っぽいのが16年1月加賀飛行機隊写真から。
赤っぽいのが真珠湾直前の加賀艦攻隊集合写真から。



鈴木三守中尉(兵64)と三上良孝中尉(兵65)はわかりました。
鈴木さん。



三上さん。

これぐらいはっきりしているとわかりやすいんですが。

写っているのでは?って方で他にお顔がわかっている士官の方は、二階堂易中尉(兵64)、渡部俊夫中尉(兵65)、福田稔中尉(兵65)、坂井知行中尉(兵66)、相川嘉逸中尉(兵66)、下田一郎中尉(兵66)などいるのですが、もとにした写真が書籍の写真だったり、いまいち鮮明でなかったりして見つけられずにいます。

相川嘉逸さんなんか、ネットでいくら検索してもお顔が出てこず諦めていました。
別件でYさんにお尋ねごとをしたところ、
「彗星の本(Yさん著作)、手元にない?」
と言われ、
「あります」
肝心の質問ごとは解決しなかったのですが、全然別のページに自転車にまたがる相川嘉逸大尉(523空飛行隊長)の写真が!!
ただ、書籍の写真だし、飛行帽&ちょっと小さい写真で、うーん、「かなりMMKだったろう」(個人の感想です)とは思ったのですが、加賀の集合写真の「この人だ!」ってところには至っていません。








3列目に注記を入れてみました。
3列目の右の方に下士官の吉野治男さんがいるのですが、ここはちょっとイレギュラーかなと思います。なので、吉野さんの両隣の人たちももしかしたら下士官兵の人かも???? 階級章は見えません。


それ以外は基本的に序列順では。
中央に大尉さんがふたりいます。
大尉さんたちの左が鈴木中尉(兵64)で、反対側の右が三上中尉(兵65)なので、大尉さんたちは兵63期かそれより上の人なんですかね。
鈴木さんと三上さんの外側の人たちはおふたりの同期か、それより後輩の人たちかなと思います。
空曹長の方がどこにいらっしゃるのかよくわからないんですよね。3列目の端の方なのかな? それとも4列目以降にいるのか? 


2列目(イス列)紹介部分に、
「山上正幸大尉(分隊長)、どなたかお顔をご存じありませんか」
と書いたところ、知人Tさんから情報提供がありました。
その情報を検討した結果、
3列目の中央にいる大尉さんおふたりのうち右の方が山上大尉だろうと。

なので3列目はこういう状態で並んでいるということになります。






下士官兵の搭乗員たち。
写っている人で、たぶん間違いないんじゃないかという人だけ。

加賀戦闘機隊(真珠湾時二階堂易大尉中隊)の面々。
甲斐巧さん(乙8)

稲永富雄さん(乙7)

鈴木清延さん

五島一平さん

豊田一義さん(甲1)

石川友年さん

長浜芳和さん

戦闘機隊の人たちは最前列の左の方に固まって座っているのですが、ヒトに指摘されるまで全然気づきませんでしたorz
豊田さんの写真なんか穴が空くほど見ているはずなのにorz
甲斐さんなんか救命胴衣の記名がはっきり「甲斐三空曹」と読めるのにorz

というか、加賀戦闘機隊、ブログで取り上げています。
ここら辺に書いています→加賀戦闘機隊加賀戦闘機隊 撮影時期

ほぼ、真珠湾時の二階堂中隊です(豊田さんは転出)。
16年1月写真では、この写真に写っている北岡誠一さんと坂東誠さんが写っていないようにあります。




艦攻隊の人は、真珠湾直前の集合写真でかなり探したので、わかる人もちらほら。
松本光さん(乙7)


卒アル


王子野光二さん(乙7)


卒アル


田中一則さん(乙8)




吉野治男さん(甲2)





中川一二さん(操48)
この人、救命胴衣の記名が見えています。「中川三空曹」。

真珠湾直前艦攻隊のこの人ですよね。



この人も救命胴衣の記名が見えています。山本■■■。三空曹かな?
山本静男さん(偵43)か?





この方、救命胴衣の記名が見えています。
「増田一空曹」と書いてあるように見えるのですが。
艦攻隊の増田吉蔵さん(偵51)でしょうか。なら二空曹とかいてあるんですかね?

真珠湾直前の艦攻隊集合写真ではこの人が増田吉蔵さんらしいのですが、
似ている気もしますが。

偵練51期まで16年1月写真に写っているんですかね。そこでちょっと引っかかっています。
(乙は8期まで、甲は2期まで写っている)





町元善春さん(乙8)によく似ている人も写っているのですが、うーん、どうかな????
卒アルの町元さんとはめっちゃ似ている思うんですが・・・・。







「真珠湾直前の艦攻隊集合写真に写っている人だなあ」
って人も何人かいます。







他人の空似かもしれませんが。
似ているなあ、と思いながら見ています。






艦爆隊の方はお顔がわかる人がほとんどいないのですが、ご当人の野原忠明さん(操45)は他の写真と見比べて、この方だろうと思います。


あと、『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』に写真が出ている中島文吉1空曹(乙4)はこの方かな?
4列目の中央あたりにいらっしゃいます。
階級章は見えません。



この集合写真、わたしからしたら搭乗員のバランスがとっても悪いです。
飛行隊の集合写真って一般的には士官は少ないです。多くが下士官兵。しかしこの写真は他の写真に比べると士官の比率がとっても高いように感じます。
色分けしてみました。はっきりしているだけで下の図のような感じです。
黄色・・・・搭乗員ではないであろう士官
緑・・・・搭乗員であろう士官
青・・・・准士官かも?
赤・・・・下士官兵搭乗員
氏名とお顔から判断した人と見えている階級章から判断した人がいます。

士官の人がイス列(2列目)だけではなく立ち列(3列目)にまでいて、たくさん写っています。3列目の色がついていない人たちもどなたかわからないだけで士官の搭乗員だろうと思っています。


イス列の源田さんと艦爆の牧野大尉のあいだの人(2列目右から4人目)、緑にしていますが(この人は少佐じゃないか?)、搭乗員なのか幹部の人なのかわかりません。
あと、イス列で色を付けていない人が1人いますが(右端)、3列目まで士官がいるのでおそらくイス列は全員士官と思います。階級章が見えないので色を付けていないだけです。
准士官の方々が・・・・いるのかいないのか。いないはずはないと思うんですが、はっきり階級章が見えている人、あるいはお顔でそれとわかる人がいません。一人だけ、「もしかして准士官の階級章?」って人がいるのですが一部だけしか見えていなくてちょっとはっきりしません。4列目の左端の方にいる青い方です。







さらに機種別で色分けしてみました。はっきりわからない人もいます。
※山上大尉を加えたものに差し替えました

青・・・・艦戦
紫・・・・艦攻
オレンジ・・・・艦爆

艦爆隊の人のお顔がほぼわからない(T_T)

艦戦、艦攻、艦爆全員でこれだけということはないと思うんですよね。搭乗員全員は写っていないんじゃないかなと思っています。
どういう事情で全員写っていないのかはわかりません。
もしかしたら、搭乗員は2回にわけて撮っている可能性もあるかなと思っています。
准士官以上は2回分とも全員写っているけれど、下士官兵はたとえば1回目には艦戦のA大尉の中隊だけ、艦攻のB大尉の中隊だけ、艦爆のC大尉の中隊だけ。2回目に艦戦のD大尉の中隊、艦攻のE大尉の中隊、艦爆のF大尉の中隊――って感じで。
いやいや、もしかしたら3回撮っていて、飛行機隊総員で撮った写真もあるかもしれません。あまりにお顔が小さくなってしまうので、顔が判別できる人数でわけた、とか?
いやいや、さらには艦戦隊、艦攻隊、艦爆隊、という単位でも撮っているかもしれません。


どなたかこれと同じ幹部(戸塚さんや山田さんなど)が写った加賀集合写真を見たことはないですか?


参考までに、昭和13年5月の加賀飛行機隊の総員集合写真です(浅川さん所有)。
これはイス列中央の3人以外は飛行機隊の人たちです。
総員だとこれだけいるんで。

16年1月の加賀飛行機隊写真はどういう理由で人数が少なくて、写っているのはどういうメンバーなのか、気になっています。


ひとりであーだこーだ考えていても前進しないので出してしまいましたが。
今後何かわかったら(訂正含む)また追記するか書き直すかします。



※画像は9期生ご遺族、浅川さんご家族、Oさん、愛媛零戦搭乗員会ご提供
Oさん、Tさんご教示

三菱の庭ニテ2022年05月24日 15時58分53秒

甲1豊田一義さんのアルバムに
『三菱の庭ニテ』
と書かれた写真が2枚貼ってありました。
そのうちの1枚。

ぱっと見て、豊田さんはすぐわかりました。
左の後方の人。


あと、これ、長浜芳和さん(甲2)ですよね。




真ん中の人、これ、甲斐巧さん(乙8)ですかね?

甲斐さん、わかりにくいんですよね(^^;)

貼ってあった場所が富高時代のコーナーだったので漠然とこれも富高時代かなあと思っていました。


もう1枚の三菱の庭。
こちらには長浜さんは写っていません。

豊田さん

甲斐さん?




ちなみに16年春ごろの加賀戦闘機隊の写真にも3人が写っています。


豊田さん

長浜さん

甲斐さん



上にも書きましたが、貼ってあった場所から富高時代だろうと思っていたのですが、最近は、

もしかしたら加賀かもな――

という気になっています。




三菱の庭写真のこの人(いずれも左端の方)、




加賀の稲永富雄さん(乙7、真珠湾湾攻撃で戦死)じゃないかなという気がしてきました。

加賀の集合写真では後列右端です。

卒アル写真(Oさん撮影)。

稲永さんだと富高ってことはありえないんで。

他にも、
「これ、加賀戦闘機隊の人かな?」
って人がいるんですよね(上の加賀戦闘機隊集合写真には写っていない)。
ちょっと自信がないんで出しませんが。

いま、9割ぐらい「加賀時代」に傾いています。



※画像は愛媛零戦搭乗員会、7期生ご遺族ご提供

乙8期 町元善春さん2022年01月02日 14時41分40秒

去年の12月8日は真珠湾攻撃80年ということでテレビやネットニュースなどで盛んに特集が組まれました。

わたしは遺族でも関係者でもないですが、そんなわたしのところにも真珠湾80年の余波が・・・・。

9期島田清守さんの日記のことや、島田直さんの加賀艦攻隊集合写真の件などで、仲介、というんでしょうか。ご遺族の方を紹介してほしいとか、写真を使わせてほしいとか。


そんなこんなで、数ヶ月前から加賀の艦攻隊集合写真を見る機会が増えまして、いろんな情報を取捨選択しつつわたしなりに人物特定を試みていました。
そのことは先日ブログに書きました。

そのときは個人個人をトリミングして出したのでわかりにくかったと思いますが、実はこんなシーンが写っていました。

前、乙8期・町元善春さん(偵察、宮崎)
後ろ、同じく乙8期の久恒吾市さん(偵察、大分)
ふたりとも九州出身なので、予科練の休暇で帰省するときなどは途中まで汽車で一緒にワイワイ帰っていたのかもしれません。
さらにふたりとも偵察員なので、飛練に上がってもそれは続いていたかも。


写真のおふたり、真珠湾出撃直前(12月5日らしい)の加賀艦攻隊総員のオフィシャルな集合写真なので表情は若干硬いですが。
久恒さんが町元さんの肩に手をかけています。
写真全体を見渡してみたところ、他人の体に触れているのは久恒さんだけ、他人に触れられているのは町元さんだけです。
おそらく久恒さんの方から町元さんの肩に手をかけたのだろうと想像できますが、それをした久恒さんの心境、また後ろから久恒さんに肩に手をかけられたときの町元さんの心境、どんなだっただろうと・・・・。




真珠湾攻撃出撃前夜のことが『予科練外史』(倉町秋次)に加賀艦攻隊電信員だった渡辺禎夫さんの回想として掲載されています。
渡辺禎夫さん(加賀艦攻隊集合写真から)

『前夜は眠れた
同期生と特別糧食の葡萄酒を呑み、(「加賀」の八期同期生は渡辺、町元、田中、甲斐の四名)予科練、飛練の思い出を語り合った。
夢も見なかった。誰のことも思い出さなかった。
遺書は二日前に書いておいた。戦死しても力を落とさないように、父母の御恩を感謝する、ということを書いた』
田中一則さん(加賀艦攻隊集合写真から)

甲斐巧さん(訓練時の加賀戦闘機隊集合写真から)

この回想内の( )部分。本に書くにあたって倉町先生が注として加えたものか、渡辺さんの回想時点で入っていたものかは不明ですが、実際の加賀八期生はあとおふたり、艦攻隊の久恒さんと艦爆隊の西森俊雄さん(操縦)。
西森俊雄さん(百里原飛練集合写真より)

倉町先生がお二人のことを失念してつけた注なのか、渡辺さんが前夜一緒に葡萄酒を呑んだ同期生が田中、町元、甲斐だけだったのか、そこらへんはわたしにはわかりません。




町元さんは真珠湾攻撃時、雷撃隊第2中隊長・鈴木三守大尉の電信員でした。操縦員は乙3の森田常記飛曹長。
乗機はAⅡ-356号機。
ご存じの方もいるかと思いますが、鈴木大尉機は雷撃時に撃墜され、自爆。
数日後に米側に機体を引き上げられました。ご遺体もともに・・・・。

鈴木三守大尉

森田常記飛曹長

『予科練外史』より。
『森田常記飛曹長(乙三期)、町元善春二飛曹(乙八期)の最期はすさまじかったという。一緒に行った二番機の田中一則二飛曹(乙八期)の後日の話によれば、分隊長の鈴木三守大尉とペアで出撃、戦艦に対して雷撃に入った直後被弾、火達磨になりながら魚雷を発射してそのまま艦橋に自爆を遂げたという』

八期同期生会誌の町元さんの項に田中さん手記よりの引用があります。
『港内の敵戦艦に雷撃した瞬間前方の一番機が被弾で火炎を靡かせた。町元機だ夢なれ・・・・ 神に祈るも空しく一発心中雷撃を敢行した町元機はよろめく機首を引き起こし命中を確認するや「フォード島」に痛烈なる体当りをなす、時将に午前三時二十八分、「町元喜べ我が奇襲は見事成功せり」』

鈴木機の最期に関しては複数の目撃談が残っていて、被弾して火を吹き海面に激突した、というものもあります。
機体も海中から引き上げられているということで、「艦橋に自爆」や「フォード島に体当り」より海面に激突したものと思います。







去年暮、12月8日より前でしたが、8期生のご遺族の方ら連絡をいただきました。
その時点ではどなたのご遺族の方か知らずにやりとりをしていたのですが、あとになって町元さんのご遺族の方とわかりました。

前に書いたかもしれませんが、やはり同郷の方はつねに気になる存在ですので、町元さんと聞いてもうなんとも言えない気持ちになりました。
特に加賀艦攻隊集合写真に取り組んだあとだったこともあり。




町元さんの予科練卒業アルバムが残っていたんですよ。
年末のお忙しいときに卒アルの個人写真を撮影して送ってきてくださいました。

上にシレッと西森俊雄さんの画像を出していますが、町元さんの卒アルのおかげで百里原8期飛練の20名は判明したと思っています(まだ最終確認はできていません。数名、照合に自信のない人がいる)。

いままでブログで取り上げた中で、他にも8期に関しては保留になっている方がたくさんいます。
県別集合写真の8期生だけがお顔がわからないとか、「このおふたりのうちどちらかが〇〇さんなのだろうけど、わかりません」とか。
それらはちゃんと解決しましたので近々アップしようと思っています。
町元さん、ご遺族の方、ホントに感謝感謝です。





町元さんの人柄に関しては同期生会誌にも書かれていませんでした(人柄以外のことが書かれていた)。
同期生の書きぶりからはどちらかというといじられキャラなのかな?という印象。


『予科練外史』の8期操偵検査の項に町元さんに触れた記述がありました。
操偵検査のため友部分遣隊(のちの筑波空)に向かうのどかな田舎道シーンです。
『馬を引いた若者を見て、町元善春練習生は家からの便りを思い出した。今年は仔馬が二頭生まれたとあったが、昨年の今ごろは自分も仔馬を引っぱり回して遊んでいたっけ・・・・・と南九州の故郷の様がふと心をよぎった』

8期は5月に操偵検査をやっているので、この場合の「昨年の今ごろは・・・・」は予科練入隊の前の月ということになります。




16年12月8日  加賀  真珠湾攻撃




※画像は9期生ご遺族、浅川さんご家族、愛媛零戦搭乗員会ご提供

あけましておめでとうございます2022年01月01日 22時38分08秒

今年もよろしくお願いいたします。






お正月と言えば。
浅川三雄さんの写真の中に、「昭和十四年度 正月」という上のような写真がありました。
前後の写真などから「昭和十四年の正月」ではないかと思っています。

前後に貼られている写真は笠間時代なんですよね。
筑波空本隊勤務時代の正月ではないのか?。
浅川さんは昭和13年11月末に15空から戻ってきて霞空友部分遣隊に転勤、そのあと12月15日に筑波空が独立したので14年のお正月は筑波空勤務です。

ちなみに昭和14年度の正月(昭和15年1月1日)はどうされていたかというと、百里原です。
百里原の可能性ももちろんあるのですが、前後に貼られた筑波空時代の笠間や練習生の写真などから昭和14年1月1日では、と想像しています。


この正月写真の後笠間の町並みや下宿の人などの写真が並び、続いて出てくるのがこの写真。
この写真のこと、書きましたかね?

「一期甲飛飛練ノ連中」ですよ、ビックリしました。
豊田一義さんのクラス。
甲1は13年12月中頃から約一ヶ月、筑波空で初練をやっています。

甲1の個人写真を入手して照合を試みたのですが、現時点でまったくできていません。
元にした写真が小さい印刷物なんで難易度高いです ←言い訳


後輩にも丁寧な浅川さんにしてはめずらしく「連中」なんて書いていますが、わたしは逆に愛情というか親近感の現れだろうと思っています。
6期の山岸教員などは9期生に対しては「練公」ですからね(笑) 乙飛の後輩なんで。
休みの日に、浅川さんの下宿に遊びに来た甲1飛練の人たちなんでしょうね。なんとか頑張りたいと思います。


※画像は浅川さんご家族ご提供

甲斐君 俺2021年08月18日 23時39分00秒

この話覚えていますか?

甲1期の豊田一義さんのスクラップブックに、何も貼られておらず書き込みのみ残っていたページがありました。



「甲斐君」というのは乙8期の甲斐巧さんのことだなと思いました。



豊田さんにとっては同年兵であり、加賀時代の同僚。

そして、スクラップブックのページの位置から、ここに貼られていたのは築城空(富高)時代の写真ではなかったか、と思いました。


アルバムもバラの写真も全部探しましたが、ありませんでした。


これもご縁だ、あきらめよう。


と思ってあきらめていたのですが。




昨日、知人から久しぶりにメッセージをもらい、そこに写メが添付されていました。

なんでも久しぶりにわたしのブログを見てくださったようで、甲斐さんの投稿を読まれたみたいなんです。

「もしかして、ここに貼られていたのはあの写真じゃないのか」

台紙の甲斐君と俺の配置を見てピンと来たとか。

その人は複製を所有しておられて、写メを送ってきてくださったのです。

わたしもそれを見た瞬間に「これに違いない!」と思いました。


どなたがお持ちかも教えてくださったので、そちらに連絡してスキャン画像を送っていただきました。

掲載も快諾していただきました。

右が「甲斐君」、左が「俺」です。


豊田さんからもらったそうです(^^;)

豊田さんがどうしてこれをあげてしまったのか。
わたしなりに想像していることはあります。根拠がないんで今回は書かんときます。



※画像は愛媛零戦搭乗員会、Sさんご提供。情報提供はMさん。ありがとうございました。