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百里原8期飛練の浅川教員ペア写真2022年01月04日 13時02分17秒

乙2浅川三雄教員の百里原時代のペア写真に、8期飛練生と一緒に撮ったものが2枚ありました。


練習生2人と。


去年6月にこの写真を取り上げたときは後ろ左の金子一郎さんのことだけ書きました。
『イスが浅川三雄教員(乙2)、後ろ左が金子一郎さん。右が高■さん。
手元の予科練名簿では8期の高■さんは8人いて、わたしはまだ操偵すらわけられていないので、この方がどなたかはちょっと保留ということで』


高■さん、判明しました。
高崎外茂次さんでした。
石川県出身。中攻操縦でしょうか。

20年8月4日  951空  東シナ海





こちらは中仮屋さんのところで出しましたか。練習生3人と。


左から、馬場時治さん。
名札の文字が見えているため判明。
兵庫県出身。中攻操縦。

17年2月20日  4空  ニューギニア沖航空戦



名札が見えず不明。
今回、町元さんの卒アルで判明しました。
高橋清さん。
宮城県出身。中攻操縦。

18年1月4日  705空  ニューギニア東方  索敵中行方不明



右端が中仮屋国盛さん。
鹿児島県出身。戦闘機。戦後生存。




一種の集合写真や飛行服の集合写真、偕楽園でのオフショット集合写真もそのうちちゃんと紹介しようと思います。





ところで上に「8期はまだ操偵すらわけられていない」と書いていますが、今日、まさに今日、全員の操偵が判明しました。
町元さんのご遺族の方が送ってくださった卒業アルバムの個人写真の台紙1ページ分が1班でした。いままで操偵が判明していた人たちを当てはめていったらきっちり操偵でわかれていたので、不明の人たちは同じ台紙の人が操縦なら操縦、偵察なら偵察と判断してよいものと思います。

ちなみに6期と7期の卒アル個人写真コーナーは「横須賀鎮守府操縦」「横須賀鎮守府偵察」といったように、鎮守府別操偵別で掲載されていました。
8期は2学年時(操偵別)の班ごとに掲載されていました。
9期:10期は個人写真コーナー自体がありません。ただし、9期は個人写真コーナー用は写真は撮っていました
↑この時点から増えているので、また特集したいと思います。



※画像は浅川さんご家族ご提供

乙8期 町元善春さん2022年01月02日 14時41分40秒

去年の12月8日は真珠湾攻撃80年ということでテレビやネットニュースなどで盛んに特集が組まれました。

わたしは遺族でも関係者でもないですが、そんなわたしのところにも真珠湾80年の余波が・・・・。

9期島田清守さんの日記のことや、島田直さんの加賀艦攻隊集合写真の件などで、仲介、というんでしょうか。ご遺族の方を紹介してほしいとか、写真を使わせてほしいとか。


そんなこんなで、数ヶ月前から加賀の艦攻隊集合写真を見る機会が増えまして、いろんな情報を取捨選択しつつわたしなりに人物特定を試みていました。
そのことは先日ブログに書きました。

そのときは個人個人をトリミングして出したのでわかりにくかったと思いますが、実はこんなシーンが写っていました。

前、乙8期・町元善春さん(偵察、宮崎)
後ろ、同じく乙8期の久恒吾市さん(偵察、大分)
ふたりとも九州出身なので、予科練の休暇で帰省するときなどは途中まで汽車で一緒にワイワイ帰っていたのかもしれません。
さらにふたりとも偵察員なので、飛練に上がってもそれは続いていたかも。


写真のおふたり、真珠湾出撃直前(12月5日らしい)の加賀艦攻隊総員のオフィシャルな集合写真なので表情は若干硬いですが。
久恒さんが町元さんの肩に手をかけています。
写真全体を見渡してみたところ、他人の体に触れているのは久恒さんだけ、他人に触れられているのは町元さんだけです。
おそらく久恒さんの方から町元さんの肩に手をかけたのだろうと想像できますが、それをした久恒さんの心境、また後ろから久恒さんに肩に手をかけられたときの町元さんの心境、どんなだっただろうと・・・・。




真珠湾攻撃出撃前夜のことが『予科練外史』(倉町秋次)に加賀艦攻隊電信員だった渡辺禎夫さんの回想として掲載されています。
渡辺禎夫さん(加賀艦攻隊集合写真から)

『前夜は眠れた
同期生と特別糧食の葡萄酒を呑み、(「加賀」の八期同期生は渡辺、町元、田中、甲斐の四名)予科練、飛練の思い出を語り合った。
夢も見なかった。誰のことも思い出さなかった。
遺書は二日前に書いておいた。戦死しても力を落とさないように、父母の御恩を感謝する、ということを書いた』
田中一則さん(加賀艦攻隊集合写真から)

甲斐巧さん(訓練時の加賀戦闘機隊集合写真から)

この回想内の( )部分。本に書くにあたって倉町先生が注として加えたものか、渡辺さんの回想時点で入っていたものかは不明ですが、実際の加賀八期生はあとおふたり、艦攻隊の久恒さんと艦爆隊の西森俊雄さん(操縦)。
西森俊雄さん(百里原飛練集合写真より)

倉町先生がお二人のことを失念してつけた注なのか、渡辺さんが前夜一緒に葡萄酒を呑んだ同期生が田中、町元、甲斐だけだったのか、そこらへんはわたしにはわかりません。




町元さんは真珠湾攻撃時、雷撃隊第2中隊長・鈴木三守大尉の電信員でした。操縦員は乙3の森田常記飛曹長。
乗機はAⅡ-356号機。
ご存じの方もいるかと思いますが、鈴木大尉機は雷撃時に撃墜され、自爆。
数日後に米側に機体を引き上げられました。ご遺体もともに・・・・。

鈴木三守大尉

森田常記飛曹長

『予科練外史』より。
『森田常記飛曹長(乙三期)、町元善春二飛曹(乙八期)の最期はすさまじかったという。一緒に行った二番機の田中一則二飛曹(乙八期)の後日の話によれば、分隊長の鈴木三守大尉とペアで出撃、戦艦に対して雷撃に入った直後被弾、火達磨になりながら魚雷を発射してそのまま艦橋に自爆を遂げたという』

八期同期生会誌の町元さんの項に田中さん手記よりの引用があります。
『港内の敵戦艦に雷撃した瞬間前方の一番機が被弾で火炎を靡かせた。町元機だ夢なれ・・・・ 神に祈るも空しく一発心中雷撃を敢行した町元機はよろめく機首を引き起こし命中を確認するや「フォード島」に痛烈なる体当りをなす、時将に午前三時二十八分、「町元喜べ我が奇襲は見事成功せり」』

鈴木機の最期に関しては複数の目撃談が残っていて、被弾して火を吹き海面に激突した、というものもあります。
機体も海中から引き上げられているということで、「艦橋に自爆」や「フォード島に体当り」より海面に激突したものと思います。







去年暮、12月8日より前でしたが、8期生のご遺族の方ら連絡をいただきました。
その時点ではどなたのご遺族の方か知らずにやりとりをしていたのですが、あとになって町元さんのご遺族の方とわかりました。

前に書いたかもしれませんが、やはり同郷の方はつねに気になる存在ですので、町元さんと聞いてもうなんとも言えない気持ちになりました。
特に加賀艦攻隊集合写真に取り組んだあとだったこともあり。




町元さんの予科練卒業アルバムが残っていたんですよ。
年末のお忙しいときに卒アルの個人写真を撮影して送ってきてくださいました。

上にシレッと西森俊雄さんの画像を出していますが、町元さんの卒アルのおかげで百里原8期飛練の20名は判明したと思っています(まだ最終確認はできていません。数名、照合に自信のない人がいる)。

いままでブログで取り上げた中で、他にも8期に関しては保留になっている方がたくさんいます。
県別集合写真の8期生だけがお顔がわからないとか、「このおふたりのうちどちらかが〇〇さんなのだろうけど、わかりません」とか。
それらはちゃんと解決しましたので近々アップしようと思っています。
町元さん、ご遺族の方、ホントに感謝感謝です。





町元さんの人柄に関しては同期生会誌にも書かれていませんでした(人柄以外のことが書かれていた)。
同期生の書きぶりからはどちらかというといじられキャラなのかな?という印象。


『予科練外史』の8期操偵検査の項に町元さんに触れた記述がありました。
操偵検査のため友部分遣隊(のちの筑波空)に向かうのどかな田舎道シーンです。
『馬を引いた若者を見て、町元善春練習生は家からの便りを思い出した。今年は仔馬が二頭生まれたとあったが、昨年の今ごろは自分も仔馬を引っぱり回して遊んでいたっけ・・・・・と南九州の故郷の様がふと心をよぎった』

8期は5月に操偵検査をやっているので、この場合の「昨年の今ごろは・・・・」は予科練入隊の前の月ということになります。




16年12月8日  加賀  真珠湾攻撃




※画像は9期生ご遺族、浅川さんご家族、愛媛零戦搭乗員会ご提供

あけましておめでとうございます2022年01月01日 22時38分08秒

今年もよろしくお願いいたします。






お正月と言えば。
浅川三雄さんの写真の中に、「昭和十四年度 正月」という上のような写真がありました。
前後の写真などから「昭和十四年の正月」ではないかと思っています。

前後に貼られている写真は笠間時代なんですよね。
筑波空本隊勤務時代の正月ではないのか?。
浅川さんは昭和13年11月末に15空から戻ってきて霞空友部分遣隊に転勤、そのあと12月15日に筑波空が独立したので14年のお正月は筑波空勤務です。

ちなみに昭和14年度の正月(昭和15年1月1日)はどうされていたかというと、百里原です。
百里原の可能性ももちろんあるのですが、前後に貼られた筑波空時代の笠間や練習生の写真などから昭和14年1月1日では、と想像しています。


この正月写真の後笠間の町並みや下宿の人などの写真が並び、続いて出てくるのがこの写真。
この写真のこと、書きましたかね?

「一期甲飛飛練ノ連中」ですよ、ビックリしました。
豊田一義さんのクラス。
甲1は13年12月中頃から約一ヶ月、筑波空で初練をやっています。

甲1の個人写真を入手して照合を試みたのですが、現時点でまったくできていません。
元にした写真が小さい印刷物なんで難易度高いです ←言い訳


後輩にも丁寧な浅川さんにしてはめずらしく「連中」なんて書いていますが、わたしは逆に愛情というか親近感の現れだろうと思っています。
6期の山岸教員などは9期生に対しては「練公」ですからね(笑) 乙飛の後輩なんで。
休みの日に、浅川さんの下宿に遊びに来た甲1飛練の人たちなんでしょうね。なんとか頑張りたいと思います。


※画像は浅川さんご家族ご提供

茨城県出身乙8期生2021年12月17日 10時30分29秒

乙9期萩谷幾久男さんの遺品の中に茨城県出身乙8期生が写った集合写真が3枚ありました。

乙7~乙9期生。
おそらく7期生卒業にあたって。
横須賀海軍航空隊、13年8月?

乙8~乙10期生。
霞ヶ浦海軍航空隊。
11期生が写っていないので、14年3月~5月ごろか?


乙8~乙11期。
霞ヶ浦海軍航空隊。
おそらく8期生卒業に際して。14年8月?

8期生は8名です。
小川政次さん
川井裕さん
小林保夫さん
須藤市郎さん
高野義雄さん
豊田三夫さん
根食貞憲さん
樋口金造さん

最初にこの写真を出した時は、「8期生はどの人が何さんなのか、まったくわかりません」みたいな感じで出していたと思います。

今年は真珠湾攻撃から80年目を迎えたということでいろいろな方面で取り上げられ、そのさざ波がわたしのところにも寄せてきまして。
これらの写真に関して検討し直すことができました。

まず、川井裕さんから。
あの日、たまたまヤフーニュースを開いたら、わたしの画面に川井さんの記事が表示されていました。
そこに、飛行服姿の川井さんが掲載されていたのです。
そのおかげで集合写真のどの人が川井さんかわかりました。
左から古い順(上に出した集合写真の順、以下同じ)。
真珠湾時、赤城艦爆隊。偵察員。

17年8月24日  翔鶴  ソロモン


  

真珠湾攻撃出撃組の写真を探す過程で特定(推定)した人たち。

蒼龍艦爆隊・須藤市郎さん(操縦)。
須藤さんはだいぶ前からわかっていました。

9期生のアルバムに貼ってあった剣道写真に、須藤さんがお名前入りで(^^;)

今回は、「須藤さん、じつは浅川教員の百里原飛練集合写真にも写っていた!」って話です。
なんでいままで気づかんのよ!?っていうぐらい須藤さんです。

19年6月24日  横須賀空  硫黄島



同じく蒼龍艦爆隊・高野義雄さん(偵察)。
高野さんは探すのに使った写真が雄翔館の遺影なのでここには出しません。
先日、島田さんの日記のために16年12月の編制表を入力していて気づいたのですが、高野さんはこせやん(小瀬本国雄さん、『激闘艦爆隊』の手記あり)のペアだったのですね。いまさらでスイマセン。

17年6月5日  隼鷹  アリューシャン



真珠湾時翔鶴艦攻隊・樋口金造さん(偵察)
樋口さんも参考にした写真が雄翔館遺影なので。

19年6月19日  652空  マリアナ沖




豊田三夫さんも、雄翔館に遺影がありました。
中攻操縦。

18年1月5日  705空  ソロモン
と、同期生会誌に書いてあるのですが、705空の行動調書では、18年1月25日に対「ガ」島戦闘機誘導任務で行方不明になっています。
こちらが正しいかと。



昨日わかった人。
蒼龍艦攻隊(水平爆撃)・根食貞憲さん(操縦)
氏名不明だったのですが、数日前、この人が浅川さんの百里原飛練集合写真に写っていることに気づきました。

飛練集合写真。

Kさんにご教示いただいて、この人が根食貞憲さんだろうという結論に至りました。
その時点で茨城県乙8期不明者は根食さん、小川政次さん、小林保夫さんの3名になっていたのですが、小川さんは蒼龍艦攻隊(雷撃)で電信員、小林さんも偵察員のこと。百里原操縦飛練の集合写真に写りうるのは根食さんのみということで、根食さんと判断しました。

ということは、おそらく島田清守さんの蒼龍艦攻隊十二分隊宴会写真にも写っているはずなのですが、????です。
「これじゃないのか?」という方はいらっしゃるのですが、どうでしょうか?
位置的には、島田さんの真後ろ、乙7の石井利一さんの左横に写っています。
乙7、8、9の雄飛先輩後輩がかたまっているということで、わたし的には「おお!」な立ち位置なんですが。
無帽でフラッシュが当たっているので、ちょっとよくわからないですかね。

19年10月12日  K262  台湾沖航空戦



残りのお二人、小川政次さんと小林保夫さんは照合できる写真が見つからず、現時点でどちらが小川さんで小林さんなのか、不明です。


小川さんは真珠湾時蒼龍艦攻隊(雷撃)の電信員。
17年6月5日  蒼龍  ミッドウェー海戦

小林さんは偵察員ということしか把握できていません。戦後生存者です。




※画像は予科練生ご遺族・ご家族ご提供

操練38期 永嶋彌之助さん2021年11月28日 10時56分33秒

浅川三雄さんの15空時代と思われる写真の中に、こんな↓写真がありました。


「漢口飛行場?」
「永嶋?」

15空艦攻隊にお名前はありません。
当時、15空艦攻隊は九江基地だし。

どこの永嶋はん?(^^;)

と思いつつそのままになっていました。


最近、この写真をKさんに見ていただいたところ、
「坂井三郎さんと操練同期の永嶋彌之助さんですよ」
とのご教示が!

「永嶋さん、なんかお名前聞いたことある!」
と思って坂井さんの『写真 大空のサムライ』を見返してみたところ、12空時代の漢口基地スナップコーナーにたくさん写っていました。同じ顔!(当たり前)
戦闘機の方だったのですね。
※坂井さんは「永島弥之助」表記。


浅川さんが他隊の他機種の搭乗員の写真を撮って残していたのは、教員時代の教え子(直接かどうかは不明)だったからと思われます。

操練38期の初練の集合写真も探してみたのですが、ちょっと「これだ!」というのはわかりませんでした。
目鼻立ちがはっきりしていて、『写真 大空のサムライ』の方ではキャプションを見なくても永嶋さんがわかるんですが、操練時代の集合写真はちょっとわからない(^^;)



息子さんがネガから焼いてくださった永嶋さん。



坂井さんは14年10月撮影の永嶋さんが報国号と一緒に写った写真のキャプションに「この直後、爆撃で足を負傷し退役」と書かれています。

Kさん情報でも日米開戦前に負傷退役されたとのこと。



※画像は浅川さんご提供