乙9期 阿部健市さん ― 2021年02月16日 13時42分59秒
大分県出身。
生存者の方です。
艦爆操→戦闘機。


1学年13班。
1学年時代の班写真はこれしかありません。

操縦分隊時代。


これも操縦分隊時代。


何か組み立てているのか、分解しているのか。
メンバーは操縦分隊員。名札から3学年。
お顔がわかるのは、池田さん、安達さん、岡本さん、永田さん、村田さん、山田さん、山口さん・・・・あたり。


土浦時代(予科練卒業間際)の班写真。
上の実習写真のメンバーもここに写っています。


3学年班の解散会のようです。
教員がいるのにけっこう羽目をはずしちゃっています(笑)


予科練卒業時の寄せ書き。
飛練。中練は筑波空。


イスに座っている教員・山岸昌司さん(乙6期)の遺品の写真です。
まさか9期生たちの教員をされていたとは。
山岸教員は筑波時代、日記をつけていてかれら(練公)との訓練のことも書いています。
後列練習生左から大石芳男さん、高島巌さん、阿部さん、上原定夫さん。
日記の中に『1月7日 后半単独を許した 少しも危なくはなかったがまだどうもAとTには安心出来ぬ』という記述があったんですが、たぶん、Aは阿部さんでTは高島さんだと思うんですよね。
訓練のペア写真が残っているために全然イニシャルトークになっていないというね(^^;)
このあと、宇佐空で艦爆操縦の実用機訓練を受けて飛練を卒業した後、佐世保空(出水、大村)で戦闘機に転科。
実施部隊は22航戦司、鹿屋空、751空、253空。
18年5月6日、怪我をしてラバウルで入院。
18年5月ごろにラバウルに再進出してきた251空の遠藤桝秋さんに寄せた「おもいで」(「九期生名簿」)に、
『俺がラバウル病院に入院していた時面会に来てくれるよう伝言したが会えず残念だった』
と書いています。
伝言が伝わらなかったのか、再進出した直後でいろいろ忙しくしていたのか。

その遠藤さんは、翌月7日のルッセル島攻撃で戦死。
阿部さんは病院船で内地に送還され、その後は戦闘機乗りとしては復帰かなわぬまま終戦を迎えたようです。
阿部さんは戦後に手記を書かれています。
戦後の戦友会の写真にも写っていますが、阿部さんは全然変わっていない印象です。
※画像は6期生・9期生ご遺族、ご家族、武田信行氏ご提供
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