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大和&零戦コースター2017年03月24日 08時42分57秒

昨日、靖国神社・遊就館のショップでコースターを買いました。


大和と零戦。

しかし、これ、マグカップの下に敷くのはしのびない・・・・。


今日の春海2017年02月19日 21時31分54秒

今日は戦史研究家の方3人&搭乗員さんと会っていました。

搭乗員さんに会う前にまずははらごしらえ。
三番街でサンドイッチを食べました。



今日は最初から最後まで海軍の話をしていましたねえ。

世の中には自分の知らないことがいっぱいあるんだな~

不思議なことがあるんだな~

なんて思いながら帰ってきました。











春海がお留守番をしてくれていたので、おみやげを買って帰ってみると・・・・。




家にETがいた!?


アホでスイマセン!( ;∀;)


アホでスイマセン!( ;∀;)


アホでスイマセン!( ;∀;)


※中3です

宇佐航空隊の世界2017年02月18日 20時16分34秒

今日は宇佐の人と零戦Tシャツ屋さんと会っていました。


会談内容はヒミツです。







以前から「読みたい」と思っていた『宇佐航空隊の世界』シリーズ、入手いたしました。

受けとったときに、目次をまず確認。

Ⅰの目次、7期の松浪清さんや8期の賀来準吾さんの手記に並んで、ある手記に目が留まりました。「柳ヶ浦駅に電灯がついた・・・・賀川光夫」。


「んー? なんか知っているぞ、この人。誰だっけ? 予科練の人か? いや、違うな・・・・どこで見たんだっけか?」


帰りの電車の中で、どうしても気になったので、本文を読んでみようとリュックから取り出しました。
そのとき、
「あっ! あの賀川光夫さんだ!!」
やっとわかりました。


考古学者です。

別府大学の名誉教授をされていたのか・・・・。
わたしたちが習った高校日本史に出ていた「聖嶽洞窟」、この発掘に関わった人だったんですね。それはあの事件まで知りませんでした。

「あの事件」というのは――
2001年、賀川さんはある報道に対して抗議の自殺をされたんです。
検索したら出てくると思います。


当時わたしは考古学から遠ざかっていたので、事件のことは当時ニュースで知りましたが、それ以上のことは知りませんでした。
最近になって、その後のことが書かれた記事に触れる機会があって、いろいろと思うところがあったばかりでした。

賀川さん、学徒出陣で海軍に入り、艦攻の偵察員になられたそうです。
宇佐の931空に配属され、終戦直前には、原爆が落とされた直後の広島の偵察飛行任務につき、その惨状をカメラに収めたのだとか。
終戦は宇佐で迎えられたそうです。


そういうことを回想されていました。


あの世代の先生には従軍経験のある人がいるみたいですね。
古代史のすごい先生も、ウィキペディアによると海軍航空隊にいたとか?




『宇佐航空隊の世界』、賀川さんの手記以外にも興味深い手記や読み物がたくさんです。パラパラ見たところ、マンガや料亭なるみの色紙画像もありました。
ゆっくり読ませていただきます。ありがとうございます。


あ、残部、あるそうです。

吉野泰貴『紫電写真集 水上機王国 川西航空機の挑戦』大日本絵画2017年02月07日 16時50分59秒

最近出たみたいです。



吉野泰貴さんが解説をつけている紫電の写真集です。

「こんな写真、どこにあったん!?」

って写真がいっぱいでした。

工場内での写真。組み立て中に撮られていて、内部、細部まで。
特徴的な脚の構造とかよくわかります。プラモ作るときにいいかも。


残念ながら搭乗員関係の写真や戦地での紫電はほとんどないです。
組み立て中の機体中心です。

おもしろかったのは、工場から陸軍伊丹飛行場に運ばれている紫電。
船で運ばれている紫電、陸路、台車?に乗せられて運ばれている紫電。
思っていた以上に完形で(^^;)
いや、逆に、「この部分は取り付けずに運ぶんだな」というのも興味深いです。プロペラを取り付けていないのはわかるんですが、垂直尾翼の方向舵が取り付けられていないです。その真下の尾灯のあたりも取り付けられてないですね。へえー。




9期は紫電乗りはおらんですよね、たぶん。

マムシの銀太2017年02月03日 14時23分39秒

『”マムシの銀太”を自称し、抜群の操縦技量で知られた中攻隊の勇士である』


これは、『日本陸海軍航空英雄列伝』(光人社、押尾一彦・野原茂)の「小林銀太郎飛曹長」の項の冒頭の一文です。


小林飛曹長の写真が添えられています。

「秋桜(?)を手にする小林銀太郎飛曹長」

というキャプションがついています。うつむき加減の横顔で、花を見つめています。


「へえ、”マムシの銀太”に似つかわしくない写真・・・・」

と印象に残っていました。

この本によると大正8年生まれ。埼玉出身。昭和12年に海軍に入り、14年に操練44期を卒業して艦攻操縦員になったんだとか。
赤城勤務ののち、中攻操縦員に転科。
本には出撃記録も併記されていますが、本当に歴戦の勇士です。
雷撃に行って被弾、エンジン発火、片舷飛行のままスコールの中を基地に帰還、数えてみたら被弾80発におよんでいた・・・・ということもあったそうです。



秋桜(?)の小林飛曹長の写真、横顔でうつむいているので、お顔がよくわからないんです。


まあ、でも、”マムシの銀太”でわたしの中では勝手にイメージが出来ていました。
任侠やくざ映画に出てくるような・・・・何というか・・・・(^^;)











先日、島田清守さんの遺品を見せてもらいに行ったとき、小林銀太郎さんの写真があったのでビックリしました。
アルバムに貼られていました。

「海ノ荒鷲 小林銀太郎さん」というシールが左下に貼ってあり、これが小林銀太郎さんだということがわかりました。
階級章は2等航空兵か1等航空兵。


「なんか、イメージ(マムシの銀太)と違う・・・・」



歳は島田さんより2つ上ですが、同郷です。

島田さんの日記にも出てきます。14年3月12日。
小林様ヨリノ二度目ノ入隊以来ノ御便リダ。操縦練ヲ卒業シタ様ナ話ダ。全ク羨シイ。実施部隊デ最早九ヶ月デ一人前ノ飛行機搭乗員ダ。飛行機ノ操縦ハムヅカシイト書イテアッタ。モウ三回死ニソウナッタ(死にそうになった?)ト!! ダガヨク行ッタ。
(館山海軍航空隊第一分隊第四班)



この頃はまだ艦攻操縦員だった小林さん。
「実施部隊で最早九か月」と書いてありますが、操練44期生に採用されたのが13年6月らしいので、14年3月はそこからちょうど9ヶ月ですね。飛行機に乗り始めて9ヶ月・・・・ぐらいの意味で書いたのでしょうか。

やはり飛行機の操縦は命がけです。
「もう3回死にそうになった」
しかし、小林さんの戦歴を見るに、搭乗員になりたての「死にそうになった」と、雷撃行での「死にそうになった」とは別物だったのではないかと想像したり・・・・。


この手紙、とっても読んでみたいですが、先日の訪問時には小林さんからの手紙現物はなかったように思いました。


小林さんは無事に終戦を迎えられたそうです。


※画像は9期生ご遺族ご提供