Google
WWWを検索 ひねもすを検索

蒼龍艦攻隊 12分隊宴会写真と偵察配置集合写真2022年11月26日 12時03分31秒

乙9期島田清守さんの遺品の中にあった蒼龍12分隊(艦攻隊2分隊のうちの1つ)の鹿屋翠光園での宴会写真。
島田さんの日記から、開催されたのは真珠湾に出撃する直前の16年11月12日であるとこともわかっています。



去年末の真珠湾80年の折、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で憎々しい演技で視聴者をイライラさせた比企能員こと佐藤二朗さんがMCを務める『歴史探偵』でカラー化されてとりあげられた宴会写真です。




今年の夏ごろですかね。
蒼龍艦攻隊に関してさらに新しい発見があり、この写真についても若干の追加事項があります。
その件に関しては知人Oさんが調べられていたことで、さらにそれをベースに本を書かれるということだったのでわたしはその本の刊行までここに書くのを控えていました。

刊行されたので、わたしもブログに書くことにします。

新しい発見というのは、この宴会写真にも写っている甲3期の鹿熊粂吉さん(17年10月17日 隼鷹 ソロモン)の遺品の写真の数々です。

島田さんのものと同じ宴会写真が、鹿熊さんの遺品の中にもありました。

そして、写真の中に鹿熊さんの書き込みがあったのです。

書き込みと言っても文字ではなく記号です。
〇がついている人が1人。
×がついている人が6人。


鹿熊さんの遺品現物です。

黒地に黒マジック?で書かれているところもあるのでちょっとわかりにくいですかね。

島田さんの写真の同じ場所に赤で印を入れてみました↓


まず、〇がついている人。
わたしはこれは乙8期の根食貞憲さんではないかと思っていたのですが、他の写真等も検討した結果、鹿熊さん本人だろうということになりました。


そして、×がついている6人。
まず氏名が判明している3人。
金井昇1飛曹

花田芳一2飛曹

小紙彰正1飛



そして氏名不詳3人。






金井1飛曹、花田2飛曹、小紙1飛ときてすぐに思い浮かぶのは真珠湾攻撃の帰途行ったウェーク島攻撃での戦死者です。
97艦攻2機。2ペア、6名の搭乗員です。
1機は爆撃嚮導機の佐藤治尾飛曹長(操)、金井昇1飛曹(偵)、花田芳一2飛曹(電)。
もう1機は栗田照秋1飛(操)、大谷末吉3飛曹(偵)、小紙彰正1飛(電)。

・・・・ということは、氏名がわからない3人は、佐藤治尾飛曹長、大谷末吉3飛曹、栗田照秋1飛ということなのか?

この3名に関してはわたしのもとにお顔がわかる写真がありません。

氏名不詳3名のうち上から2番目の人は長髪で、准士官以上の方だろうとは思っていました。
が、わたしは中島巽大尉では?と思っていたんですよね(中島大尉の写真は書籍で見ました)。
いまだにこの人が佐藤飛曹長なのかどうか、わたしには判断がつきません。

残りのおふたりですが、上の方(下士官の軍帽をかぶっている人)は大谷さんだろうと思っています。
鹿熊さんの遺品の中に、もう1枚、蒼龍関係の集合写真がありました。
艦攻隊(11・12分隊)の偵察配置だけで撮ったと思われる14名の集合写真です。

最初見たときは何の集合写真かわかりませんでした。
ご当人の鹿熊さんは写っている(後列右端)。
さらに前列(イス列)の中央あたり(左から3人目)に金井昇さんがいる、足元に〇つきで。
あ、石井利一さん(乙7)もいるな(前列右から3人目)。
これぐらいはパッと見てわかりました。
「なんか見たことあるんだよなあ」
って人がちらほらいるので本格的に照合を始めて、杉山弘興さん(甲1 後列左から2人目)や吉岡政光さん(偵43 前列左から2人目)、紺野喜悦さん(乙8 後列左から3人目)も写っていることに気づきました。
「もしかして蒼龍艦攻隊偵察員?」

そういう仮定の下で写真を探し照合した結果、写っている14名は下の表の太字の人たちではないかという結論に達しました。偵察配置の下士官兵のみ。
ベースは真珠湾攻撃時の編制表です。3人1ペアで上から操・偵・電の順です。
色分けは気にしないでください。出身別(操練・偵練、乙飛、甲飛)になっています、今回の件とは無関係です。
鶴見さん以下は真珠湾予備員ですが、ウェーク島攻撃時は太字の方は偵察配置。

甲4と乙9を除く、蒼龍艦攻隊偵察配置の下士官搭乗員の集合写真、ということですね。
(甲4・乙9の着任前だったのか、あるいは着任していたけど配置が決まっていなかったのか、写っていません)

ただ、藤波貫二さんと宗形龍恵さん、大谷末吉さんはお顔がわかる写真が見つけられず(宗形さんは書籍の集合写真のみ。お顔小さい)、あくまで他メンバーからの推定です。
藤波さんでは?という方は金井さんの右隣(イス列の中央)に座っています。



で、本題に戻ります。
この偵察配置集合写真の中で「この人が大谷末吉さんでは?」と思われる人が、宴会写真で×がついている人(下士官軍帽の人)によく似ているんです。
この人。

そういう理由で、わたしはこの人が大谷末吉さんなのだろうと思っています。


となると、残る×印おひとりは栗田1飛の可能性が高いということになりますが。
一つ引っかかっている点があります。
ふつうの白シャツを着ていますよね。
この場にいる兵の方々はジョンベラだと思うんです。
ジョンベラを脱いでも中は首元に縁取りがあるTシャツですからね。
「この人は兵階級なのか?」
という疑問が残るのです。
コスプレ(軍服・軍帽取りかえっこ)している人がいるので、「Tシャツまで先輩に脱がされて、かわりにその人のシャツを着せられた可能性」は0ではないですが・・・・。そこまでするかなあ????

わたしね、この人、甲1の杉山弘興さんだと思っていたんですよ。
偵察配置写真のこの人です。


そういうわけで、残る×印のおふたりが佐藤飛曹長と栗田1飛かどうかに関しては、ご本人と確認できる写真が出てくるまで保留にしておきたいです。



鹿熊さんがウェーク島で亡くなった6人に印をつけようという意図があったことは確実だと思うんです。

○×つきの宴会写真と同じページに添え書きがありました。


思い出深い最后の宴會だった。
何時散るか知れぬは兵の常だ。
この和かな顔ぶれも
悲しい哉 今は見え出せない顔もある。
よい人だった。元気な人だった。仲のよい人だった。
今それを思い、亦語る時、
そぞろ涙に暮れるのである。
でも笑ってやらう、それは彼等に対する、せめても
の力づけであろうから。



長くなりそうなので、今回はここまで。
写真の詳細は次回。



※画像は9期生ご遺族、鹿熊さんご遺族、Oさんご提供
大島隆之『真珠湾攻撃隊 隊員と家族の八〇年』講談社現代新書

乙8期 艦務実習 霧島2022年10月07日 09時46分08秒

8期、操縦専修生の半分の艦務実習記念写真のようです。

裏書『実習航空兵記念写真』。



この写真に写っている人たちの氏名を書き込んだ紙がついていて、「実習航空兵」が8期の操縦専修生半分だとわかります。

椅子列は記名がないですが、たぶんこの艦の幹部の人たちじゃないかな?と想像しています。

ジョンベラが8期生で、左の方にいる下士官(3名)が予科練からの引率教員かな? 下士官3名は名前が書いてありましたが、8期の教員氏名を知らないので、「予科練からの引率教員かな?」というのはわたしの想像です。

写っている8期生は操縦専修生で、以前町元善春さんのご遺族の方に見せていただいた卒アル個人写真コーナーから推測するに、操縦分隊全8班あってそのうちの卒アルページ順の後半半分の4班が写っているようだと。
だとしたら教員がひとり足りないのですが(^^;)


練習生のペンネントは「霞ヶ浦海軍航空隊」です。
なのでこれだけでは実習した艦名がわからないのです。
が、写っている練習生の一人、本村静夫さんがどこで艦務実習したかわかっているので、そこから「霧島」。

8期生が艦務実習をしたのは14年6~7月。
このころ霧島艦長は多田武雄大佐みたいですが(wiki)、写っている最高位の人は中佐の階級章みたいだしお顔も多田さんではなさそう。なので、写っているのは副長でしょうか? 当時の霧島の副長は調べていないのでどなたかわかりません。

わたしは軍艦にはまったく詳しくないので、写真からこの艦が霧島かどうかの判別はまったくできません。
ネットでいろいろ画像を検索して見たんですが、そもそも霧島の特徴を知らないんで判断しようもないという(^^;)






この写真で個人的注目は、甲斐巧さんが写っているってところですかね。
真珠湾時、加賀戦闘機隊のあの甲斐さんです。
戦後の同期生会誌の甲斐さんに対する寄せ書きに「2学年の時神経痛で半年働けなくて」みたいなことが書いてあったので、「そんな状態でよく卒業も進級も影響なかったな」と思ったものです。
卒業間際には艦務実習もきっちり参加できるぐらい回復していたんだなと安心しました。








ちなみに艦務実習は学年によって派遣先が違います。

全部把握しているのは9期だけです。
9期は偵察専修生が山城、伊勢、陸奥。操縦専修生が金剛、榛名です。
山城。

島田さんの日記があるので艦務実習中の日程もおおよそ把握できています。島田さんは陸奥です。




8期は操縦専修生の半分が今回の霧島ですね。あと残りの前半分の班は金剛かな。
偵察で扶桑に派遣されている人がいます。





7期の操縦班の一部は伊勢に派遣されていました。
これは艦長の山口多聞さんが写っています。





『予科練外史』では、5期で長門ってのもあったみたいです。





もっと古い人だと、たとえば乙2ですが。
艦務実習は予科練期間中ではなく卒業後、つまり予科練と飛練のあいだに艦務実習期間が設定されているみたいなんです(浅川さん履歴より)。しかも長期間。

浅川さんは愛宕です。





※画像は9期生ご遺族、浅川さんご家族、Mさんご提供。いろいろご教示はKさん。

飛行服の戸塚道太郎少将2022年10月01日 23時03分25秒

わけあって戸塚道太郎さん(兵38)の写真をネットで探していたのですが、wikiの経歴を見ていたら昭和13年に「横須賀海軍航空隊司令」と。

「あれ?(^^;)」

灯台下暗しとはまさにこのこと。
複数の9期生のアルバムに写真が貼ってありました。
「横須賀海軍航空隊司令 戸塚道太郎少将」と名前を書き込んでいる練習生もいました。
追記で「渡洋爆撃の親分とはちょっと驚くだろう」とも。









なんで戸塚さんの写真を探していたかというと・・・・。

ある集合写真に写っている飛行服の少将が、
「戸塚道太郎さんじゃないのか?」
と思い、確認したいと探していました。
顔を見て「戸塚さん?」と思ったのではなく(9期生のアルバムに貼ってあったことは忘れていた)、この集合写真に写りうる「少将」って誰?と考えて戸塚さんに行きつきました。

この人↓
この集合写真で一番のオエライさん。イス列の真ん中に座っています。


注目したのは戸塚少将が飛行服に身を固めていること。
将官の人も移動とかで飛行機に乗ることはあると思いますが、飛行服を着ている写真ってわたしは見たことないです。

さらに階級章。
飛行服にこんな階級章がついているの、わたしは初めて見ました。
軍装などに詳しい知人も「めずらしい」と言っていました。

ちなみに左隣の方は大佐の階級章をつけている人ですが、救命胴衣まで装着しています。また今度紹介します。

この日、戸塚さんがこのかっこうで実際に飛行機に乗ったのかどうかはわかりません。
この集合写真のために着ただけかもしれません。
そこらへんはちょっとわからないです。


この集合写真、写っているのは兵から少将まで。全員飛行服・飛行帽です。
マフラー有り無し、救命胴衣有り無し、落下傘の縛帯を装着している人も。
なかなか興味深い集合写真で、いまどなたが写っているのか調べているところです。何人かはわかったのですが、もともとお顔を知らない人がけっこういて難易度高いです(^^;)


※画像は9期生ご遺族、Oさんご提供

ヤシ写真2022年08月25日 16時18分41秒

みなさん、乙9期、羽藤一志さんのこのヤシ写真、おぼえていますか?



いままで2回紹介しています→1回目2回目

そのときは撮影場所がわかりませんでした。
羽藤さんが下士官に任官していることから、16年10月1日以降であることはたしか。
任官時にいた大分海軍航空隊時代(飛練、戦闘機)か、その次の実施部隊・台南空かなあ???ぐらいの感じで。




甲4福谷知康さんの写真の中に、こんな写真がありました。
アルバム台紙の書き込みは「昭和十七年四月撮影 臺南市ニ於テ」。

福谷さん、ずいぶん軍帽が変形しています。
※標準形は羽藤さん参照

この写真は、善行章がついた記念も兼ねているのかもしれません。
甲4は14年4月1日に入隊しているので、17年4月1日で善行章1線です(3年で1線増える)。
元搭乗員の人にうかがった話では、この善行章があるかないかで大きな顔ができるかできないか、そんな線らしいです。




この写真が撮られたのは、瑞鶴が印度洋作戦を終え馬公に補給に寄港した際(4月18日)でしょうか。飛行機隊は台中に飛んだそうです(森史朗『「敵空母見ユ!」』光人社NF文庫)。
そのときなんですかね?
台中と台南、陸路ではちょっと遠いような感じもしますが・・・・。

と思って、いろいろあさっていたら、岡嶋清熊さん(当時、瑞鶴戦闘機隊)が戦後の手記に、
「昭和十七年(一九四二年)四月中頃、私の所属する第五航空戦隊は、機動部隊として第一航空戦隊、第二航空戦隊とともに印度洋作戦を終えて、艦戦は膨湖島に、飛行機隊は台湾の台南基地に翼を休めていた」
と書いていました(髙橋定ほか『母艦航空隊』光人社NF文庫)。

「艦戦は膨湖島」「飛行機隊は台南」の意味がちょっとわからないんですが、
・艦隊は膨湖島(馬公がある島)、飛行機隊は台南、と書こうとした?
・艦戦(戦闘機)は膨湖島、それ以外の飛行機隊(艦攻・艦爆)は台南、という意味?
どちらにしても、岡嶋さんの記述では艦攻隊の福谷さんは台南という解釈でいいですかね。



こっち採用していいですかね(^^;)
これだけではわたしにはどちらが正しいのか判断がつかないです。
しかし、台紙の書き込みから福谷さんが台南で写真を撮ったことは信用できるので、「飛行機隊は台南基地」を採用しようと思います。



これね、羽藤さんが写真を撮った場所と同じ場所じゃないかと思うんですよね。
後ろに写っているヤシが、なんか似ていません?
同じ木かまではわからないですが、同じ種類ですよね、たぶん。
ちょっとかわったヤシですよね。ヤシに詳しくないので、何という種類のヤシかわからないんですが。


周囲に植えられている低木?もよく似ています。


羽藤さんの写真。

福谷さんの写真。


どこかの公園とか、観光名所みたいな場所でしょうか。
まったく同じ場所に立っていることはないと思いますが、同じ敷地内の可能性は高いかなと思います。
「いや、台南はそこらじゅう、こんな風景だよ」
と言われたら訂正しますが(^^;)


場所までわかるとうれしいんですけどね~
台湾には行ったこともないし、この場所が現存しているかどうかもわからないし、ネットでいろいろ検索しても出てこないし、そこまでの追及は断念しました。





羽藤さんの場合、16年の11月後半ごろ台南にいたようです。
気温を調べてみたら、台南の11月の平均気温は23℃ぐらいだそう。→世界各都市の気候データ
一種ではちょっと暑いんじゃないかとも思いますが、11月後半だったらもう少し気温は低いのかも。

福谷さんは印度洋からの帰りで4月(平均気温24℃ぐらいらしい)なので、まあ内地だったら一種の時期ですが、二種でも「あーなるほど」という感じですか。




羽藤さんも福谷さんも、この写真のあとは内地に戻ることなく戦死されているので、そう思いながら見ると複雑な気持ちになります。



※画像はご遺族ご提供、Oさんご協力

今日は羽藤一志さんの誕生日2022年08月18日 23時37分05秒

大正11年8月18日生まれ。

飛練10期、谷田部中練時代。
左が羽藤一志さん、右が今村文三郎さん。

なぜ、この2人をトリミングして出したかというと・・・・おふたりとも大正11年(1922)8月18日生まれ。
100年前の今日。

偶然でしょうが、集合写真で隣に座っていました。
撮影は16年の前半ぐらいでしょうかね、18歳かな。

戦死したのは羽藤さんが昭和17年(1942)9月13日、満二十歳。
今村さんも18年1月29日なので、満二十歳と5ヶ月。

ちょうどうちの娘も二十歳と5ヶ月です・・・・。