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龍驤の山内敏昭さん2020年03月31日 10時07分09秒

Kさんからまたまたご指摘をいただきまして。
毎度毎度調べ不足で情けない限りですorz
ありがとうございます。



先日、龍驤の大畠久利さんの最期を目撃して倉町先生に伝えた人がいるようだ、という話を書きました。

「山内さんかな?」
と。

山内さんじゃありませんでした。
山内敏昭さん

山内さんは大畠さんが戦死する前に龍驤から八幡丸(のちの雲鷹)に転勤していました。
17年7月。


なので、倉町先生に伝えた人がいるとしたら山内さん以外の予科練関係者でしょうか。


※画像は9期生ご遺族ご提供

乙9期 大畠久利さん2020年03月26日 22時01分10秒

お名前の読みは「おおはた ひさとし」さんかなと思います。

九期生名簿では和歌山出身、ご本人の寄せ書きも「紀州」になっているのですが、わたしが把握しているところでは広島出身です。
『予科練外史』の名簿でも広島出身です。ただ、倉町先生は「和歌山の産」と書いています。
本籍と実際の住所の違いかな? 


偵察、艦上機。

入隊時の氏名入り班写真、14班。




以下、ラグビーの試合を観戦中の大畠さんですが、上の2枚と下の1枚は別の試合かも。



↓大畠さん部分拡大




操偵検査。


予科練卒業直前。


おもいで
同県同市の出身で、入隊のときも汽車で一緒に行ったね。重厚そのものの人格、いつも敬服していた。戦死の公報が入ったとき、君の実家のお兄さんが俺の家に知らせてくれたとか。あとで聞いて感無量だった。

入隊時隣班の伍長だった君。優秀だった。君の人格にはいつも頭が下がったものだ。

分隊でも兄貴の風格があった。「キューリキューリ」と皆から言われても笑って黙認する君だったね。
普通学は非常に優秀だった。

国語の岡教官「九期にはなかなか良い名前があるな。コメモリのボクだとか、オオハタケのキウリなんか誠に秀逸だ」彼は大人の風格があって靴下の穴など、てんで問題外。









飛練鈴鹿。
奈良行軍。

運動会。

倶楽部かな?

博多飛練。
卒業集合写真より。

本間猛さん(旧姓石塚)の『予科練の空』に大畠さんのことが書かれています。

「9期には、なかなかよい名前の持ち主がいるね、ことに大畠久利とか、米盛朴なんてのは秀逸だし、また、大石芳男とか加藤勝正なども、歴史的なよい名である」と、国語の岡教官から褒められたが、これらの人々は、名前もよかったが、みんな、その人となりも個性が強く、怜悧な頭脳を持っており、その働きも立派であった。
 大畠久利は痩身長躯で和歌山の産、世俗に超然としたところがあって、みんなに、キュウリ、キュウリと呼ばれても、笑って対応している。トン・ツーの無線通信には特異な才があったとみえて、いつも満点だし、それでいて服装などにはとんと無頓着、背が高いのでズボンはツンツルテン、靴から約十七センチもあがっていても、沓下に大きな穴があいていても平気であった。授業中に居眠りもよくしたが、それでいて頭は犀利で、普通学はいつもトップ・クラスであった。級友は、彼が居眠りしながらも、教官から指名されると、的確な答弁をする才能に驚いていた。
彼は昭和十七年八月二十四日、航空母艦「龍驤」で第二次ソロモン海戦に参加し、ついに帰らなかった。「龍驤」も、この海戦で、ガダルカナル北方海域で沈んだ。

ズボンがツンツルテン・・・・という逸話を実証しようと足元が写っている写真を探してみたのですが、特にズボンの丈に違和感はありませんでした。
どこかの時点で急に身長が伸びてサイズが合わなくなっていた時期があったのかもしれませんね。写真には残っていませんでした。




予科練卒業時の寄せ書き。
お名前はないんですが、たぶん「久利」(音でキュウリ)と「胡瓜」を掛けているのだと思います。






17年8月24日  龍驤  ソロモン

と、わたしはブログの戦没者名簿に書いています。


九期生名簿にもそう書いてあります。(場所は「ソロモン群島」)


けっこう確度の高い資料には、
「ガダルカナル基地を強襲 敵戦闘機と交戦中被弾自爆戦死」と書かれています。



龍驤は17年8月24日の戦闘行動調書が残っています。
そこにはガ島に出撃した艦攻6機の搭乗員の氏名が出ていますが、そこには大畠さんのお名前はありません。

「どうなっているんですかね?」
といつものようにKさんに尋ねてみたところ、『予科練外史』にこんな記載があるとご教示いただきました。

第二次攻撃隊員の大畠久利二飛曹(実際は3飛曹)(乙九)は「龍驤」が攻撃を受けた時、甲板で待機していた。上空直衛の戦闘機に、敵機の方向を知らせるために、発着甲板上で布片を持って合図をしている作業中に爆弾を受けたのであった。遺体の顔面は識別困難なほどに負傷していたという。

『予科練外史』の9期関連箇所は全部チェックしているつもりだったのですが、ここは見落としていました。
あらためて衝撃を受けています。

「空だ!!男の散るところ」

予科練卒業の寄せ書きにそう記した大畠さんの最期が、艦上で爆撃を受けて・・・・だったとは。


倉町先生がこの話をどうして知っているのか、つらつら考えたのですが。
もしかしたら山内敏昭さんが一緒にいたのかな?
とも思いました。
6月の龍驤の行動調書に、山内さん、大畠さんのお名前も見えます。
山内さんは10月26日の南太平洋海戦で瑞鶴艦攻隊から出撃して戦死されているのですが、いつ瑞鶴に転勤したのかは、わたしはつかんでいません。
もしかしたら、8月24日、第二次ソロモン海戦、龍驤沈没時は山内さんは大畠さんと一緒に龍驤で待機をしていた(ガ島攻撃6機の編制には入っていない)のかな、という気もしています。
山内さんが大畠さんの最期を目撃し、直接か間接か、倉町先生に伝わったのかな?
それとも他の予科練出身者が先生に伝えたのかな。


※画像は9期生ご遺族、ご家族ご提供

中名主巽さん 追記2020年03月20日 13時20分06秒

中名主さんの投稿の後、Kさんからいろいろとご教示いただきました。

1081空の戦死者を調べてくださったようです。
九期生名簿に記載されている戦死日、3月28日には1081空の戦死者は見当たらないそうです。
4月28日に分隊長の鈴木繁雄大尉(予10)が戦死されているそうなんですが、戦死状況が中名主さんの戦死状況と同じかと思われますので(一式陸攻での作戦空輸の帰途、上海・新竹間で敵機発見電の後行方不明)、中名主さんは鈴木分隊長のペアで、やはり中名主さんの戦死日は3月28日より4月28日の方が可能性が高いかと。



あと、「おもいで」の記述に関しても。

「おもいで」のひとつめの回想は偵察の高坂浪次さんの回想です。
高坂さんも中攻の偵察員のちケガで離脱のち輸送部隊になっています。
その輸送部隊の1001空で中名主さんと一緒になったようですが。
時期「18年の春」と書いていますが、1001空は開隊が18年7月1日だそうで。
高坂さんの記憶違いでしょう。
1001空にふたりがいつ着任したか。辞令上はふたりとも18年9月で、高坂さんの方が1週間だけ早い、ってのが真実のようです。ただし、実際にふたりがいつ顔を合わせたのか、そこまではわかりません。
なので「18年の秋」ってのが正しい記述かな、と思います。

で、一年後に中名主さんが厚木空に転属になり・・・・って書いていますが、中名主さんが1081空に転勤したのは19年10月なので、18年9月10月に再会したとしたら矛盾のない話です。
1081空はこのころ厚木にいたんですかね。
10期の久保さんも1081空にいてはったみたいなんです。
アルバムの中に「大和の下宿」と書かれた写真がありました。

で、以前久保さん宅に遊びに行ったときに、久保さんに中名主さんのことを聞いているんですよね。
そのとき書いたノートが出てきました。
それによると、久保さんは「9期の人で夜間戦闘機に襲われて戦死した人がいた」と答えてくれています。
「9期の人」という表現で、それが中名主さんなのかどうかわからないのですが、わたしが現時点で把握している中では、9期で1081空で戦死されているのは中名主さんだけです。




高坂さんは、中名主さんが1081空で3期の坂野井少尉(「坂井少尉」とタイプミスしていたので訂正しました)操縦のダグラスDC3で散華・・・・と書いているんですが、Kさんによると坂野井少尉は中名主さんが1081空に転出した直後に1001空で戦死されているらしいんです。
なのでこのあたりは記憶の混同があるのかなと思います。
戦後、20年経って編集された同期生会誌ですからね。



※画像は9期生ご遺族ご提供

訂正しました2020年03月15日 22時19分50秒

中名主さんの戦死日ですが。

「九期生名簿」では20年3月28日になっています。

これ以外の情報を持ち合わせていなかったのでそのまま記載していたのですが、Kさんが「20年4月28日」という情報をお持ちでした。


現時点でどちらが正しいのか判断できないのですが、「九期生名簿では3月28日」と併記することにして、「4月28日」に訂正しました。

今後、新たに資料が出てくるとよいのですが・・・・。


乙9期 中名主巽さん2020年03月14日 23時04分58秒

※Kさんご指摘で戦死日を訂正しました。

鹿児島出身、偵察、中攻。



なかみょうず、と読むという情報もあります。
ただ、これもご遺族情報ではないのでわかりません。

中名主さんの写真、あまりないんですよね。

入隊直後の氏名入り班写真。
16班。



東京行軍、海軍館前。


操偵適性検査。


香取神宮。


艦務実習、足柄。



おもいで
昭和18年の春に左肩をいからして一○○一空に転属してきた、由来一○○一空は不具者部隊の別称もあったぐらい、身に欠陥のあるもののみの部隊だった。君も木更津基地への雨中の着陸時久留里町付近の鉄塔に接触負傷したとかで、肩を痛めたとのこと。以来君は隣分隊の先任電信員。寝食を共にすること一年、君は選ばれて厚木空へ転属となり三期坂野井少尉操縦のダグラスDC3で九州西海域で散華したとか? 君の「えくぼ」は魅力的。

予科練で英語の教科中「中名主ズブック」は今でも忘れられない。十八年暮れ俺が佐病入院中君も入院して桑島・山下・俺・君の四名で記念写真を撮った。時々出しては君を偲んでいるよ。

入隊当時の隣班。まじめな態度が今でも目に浮かんでくる。そしてたくましい若き武人であった君。






飛練鈴鹿。
春日大社南門。

飛練宇佐時代は写真なし。

大型機講習木更津。
修業記念集合写真。

↑この写真撮影の直後、予科練の倉町先生が実施部隊に赴任中の9期偵察員たちと偶然汽車の中で遭遇。
そのとき、かれらにひとこと書いてもらったとかで、『予科練外史』に掲載されている九期留魂録に中名主さんのことばもあります。
(直筆の画像あり)

微力をば君に捧げて倒れるは
        大和男子の誉なりけり
                    中名主巽


高雄空、4空、702空、ケガをして輸送部隊(1001空、1081空)に。



20年4月28日  1081空  新竹→上海 行方不明
※「九期生名簿」では「20年3月24日」


※画像は9期生ご遺族、ご家族ご提供