昭和16年12月5日「甲板上にて撮影をなす」真珠湾攻撃時加賀艦攻隊集合写真 ― 2025年12月05日 22時43分08秒
真珠湾攻撃を目前に加賀飛行甲板で撮られた艦攻隊搭乗員の集合写真。

艦攻隊総員集合写真。

北島一良大尉分隊集合写真。

鈴木三守大尉分隊集合写真。
もう一枚、牧秀雄大尉分隊の集合写真があるはずなのですが、わたしはお目にかかったことがありません。
以前からこれらの集合写真に関してはブログでたびたび話題にしており、特に飛行甲板中央部の風向標識に関する投稿はぜひぜひ読んでいただきたい記事です。
そこでもちょっと触れているのですが、今日はこれらの写真の撮影日に関して。
風向標識の記事には以下のように書いています(青字)。
『ちなみにこの加賀艦攻隊総員集合写真、書籍には12月7日、真珠湾攻撃の前日に撮影されたもの、という説明があるものがありますが、2021年12月に放送された「真珠湾80年 生きて 愛して、そして」という番組の中で紹介された加賀艦攻操縦員の北原收三さん(操50)の日記に12月5日に「記念写真を撮る」の記載が(ご遺族ご提供、Оさんご協力)。
北原さんは真珠湾攻撃で戦死されているので、日記は当日か遅くとも7日までには書かれていたもので、そういう意味では大変資料的価値が高い記述ではないかと思います。
北原日記の12月5日にはもう一つ注目の記述があって、
「一昨日来の暴風雨静まれども終日曇天小雨模様なり」
これなんですけどね。
総員集合写真を見ると飛行甲板のところどころに水たまりがあるように見えます。前日まで荒れていたらしいので波をかぶった可能性も無きにしも非ずですが、写真の様子からも晴天には見えません。天気の面からも「5日」で矛盾ないように思います。
ちょっと余談ですが、乙9期の島田清守さん(蒼龍艦攻隊)の日記によると12月5日は、
「次第ニ南下スル。昨日迄ノ荒天モ静マリト平常通リ「総員体操用意」ノ號令モカカル。飛行甲板ニ出ルト部隊ハ厳然ト進ム。各艦飛行甲板ニペラノ(不明。部員?)ガ有ル様ダ。攻撃ヲ前ニシテ、昨日、一昨日ト飛行甲板ノ作業モ出来ズ今日カラ一斉ニ初(始)マル。 飛行機ノ試運転ダ。」※( )はわたし注記
蒼龍ではこんな具合です。
蒼龍から見たら他艦も飛行甲板に飛行機を上げて試運転をしていたらしいので、きっと加賀も飛行機を飛行甲板に上げていたのでしょう。そのときに記念撮影もやった、ということだろうと思います。
というわけで、今回の話に直接関係はないですが、わたしはこの写真に関しては「12月5日撮影」説をとろうと思います。
余談の余談ですが、7日も加賀も蒼龍も飛行機を飛行甲板に上げています(北原日記、島田日記)。
お天気情報は北原日記「今日は暫く振りの晴天」。島田日記にはお天気情報なし。
と、ここまで書いてからの追記。
2023年9月に町元善春さんの遺品を見せていただいたのですが、同じ総員集合写真がありました。
どなたが書かれたのかわかりませんが裏に手書きで「昭和十六年十二月七日撮 布哇攻撃前日 加賀艦攻隊総員」と書かれていました。
「やはり7日なのか?」
正直、揺れています。
北原さんが日記に書いている5日に撮影した「記念写真」はこの集合写真のことではないのか?
総員集合写真の撮影日に関しては、機会をあらためてゆっくり考えてみようと思っています。』
北原さんは真珠湾攻撃で戦死されているので、日記は当日か遅くとも7日までには書かれていたもので、そういう意味では大変資料的価値が高い記述ではないかと思います。
北原日記の12月5日にはもう一つ注目の記述があって、
「一昨日来の暴風雨静まれども終日曇天小雨模様なり」
これなんですけどね。
総員集合写真を見ると飛行甲板のところどころに水たまりがあるように見えます。前日まで荒れていたらしいので波をかぶった可能性も無きにしも非ずですが、写真の様子からも晴天には見えません。天気の面からも「5日」で矛盾ないように思います。
ちょっと余談ですが、乙9期の島田清守さん(蒼龍艦攻隊)の日記によると12月5日は、
「次第ニ南下スル。昨日迄ノ荒天モ静マリト平常通リ「総員体操用意」ノ號令モカカル。飛行甲板ニ出ルト部隊ハ厳然ト進ム。各艦飛行甲板ニペラノ(不明。部員?)ガ有ル様ダ。攻撃ヲ前ニシテ、昨日、一昨日ト飛行甲板ノ作業モ出来ズ今日カラ一斉ニ初(始)マル。 飛行機ノ試運転ダ。」※( )はわたし注記
蒼龍ではこんな具合です。
蒼龍から見たら他艦も飛行甲板に飛行機を上げて試運転をしていたらしいので、きっと加賀も飛行機を飛行甲板に上げていたのでしょう。そのときに記念撮影もやった、ということだろうと思います。
というわけで、今回の話に直接関係はないですが、わたしはこの写真に関しては「12月5日撮影」説をとろうと思います。
余談の余談ですが、7日も加賀も蒼龍も飛行機を飛行甲板に上げています(北原日記、島田日記)。
お天気情報は北原日記「今日は暫く振りの晴天」。島田日記にはお天気情報なし。
と、ここまで書いてからの追記。
2023年9月に町元善春さんの遺品を見せていただいたのですが、同じ総員集合写真がありました。
どなたが書かれたのかわかりませんが裏に手書きで「昭和十六年十二月七日撮 布哇攻撃前日 加賀艦攻隊総員」と書かれていました。
「やはり7日なのか?」
正直、揺れています。
北原さんが日記に書いている5日に撮影した「記念写真」はこの集合写真のことではないのか?
総員集合写真の撮影日に関しては、機会をあらためてゆっくり考えてみようと思っています。』
この件は、何か新しいものが出てこないと決着がつかないと思っています。
これ以上いくら写真を眺めても進展しないだろうな、と。
ちょっとだけ進展がありました。
進展というか、援軍というか。
先日知人から本をお借りしたんですよ。
大戸喜一郎という人が書いた『若鷲のふる里』という本です。
甲飛4期の真珠湾戦没者のふる里を訪ねたときのことを随想風に著した本です。
それぞれが育った土地の様子や、両親との面会の様子、本人の幼少期の話など、貴重な内容がたくさん。
著者が訪ねたのは、記載順に書くと、
武田英美さん
外山維良さん
桑原秀安さん
大西俊夫さん
熊本研一さん
坂本清さん
梅津宣夫さん
長井泉さん
の8名です。
かれらのことは別途書きたいと思います。
この大戸喜一郎という人、本の奥付の横にあった著者紹介によると、
早大英文科中退、少年作家として著書あり。海軍省年兵に就いて研究すること既に七年におよぶ。
とあります。
これだけじゃ、なんのこっちゃ全然わかりません。
ネットで検索してみました。1897年生まれ、1961年没らしいです。
著書の画像がいくつか出てきました。『日本海大海戦』『前世界探検』『炭焼キ爺サン』
奥付によると発行は昭和19年9月20日、発行所は輝文堂書房。
ちなみに価格は2円70銭。
今日は長井泉さん。

『若鷲のふる里』の中に、長井さんの真珠湾攻撃時の日記の記述があったのです。
その中に、「甲板上にて撮影をなす」と書いている日がありました。
「こ、これはっ!(;゚Д゚)」
大戸さんが取材し活字化されたもので、日記現物の画像が掲載されているわけではありません。しかも伏字が多いです。日付も伏字、地名も伏字。
長井さんが「甲板上にて撮影をなす」と書いている日も「○○月○日」になっています。
なので、北原さん日記と照合して日付を入れてみました。共通して特定の行事を書いてくれていると日付が特定しやすいです。
その結果、日付的には『若鷲のふる里』に引用されている長井さんの日記は、11月19日~12月5日までと判断しました。
途中、11月23日と24日は抜けています。11月23日・24日というのは単冠湾に停泊している期間です。長井さんが書いていなかったのか、大戸さんが敢えて本に転載しなかったのか、そこはわかりません。
長井さんの日記現物を見てみたいですけどね。
が、現時点で見ることはできないので、『若鷲のふる里』に転記されているものを信じて、ちょっと考えてみたいと思います。
まず、長井さんの日記の伏字の件。
例えば、
○○月○○日 段々と暖かくなったような気がする。四日も島も見えず寂しさ一人身に沁む。(以下略)
○○月○日 遂に○○となる。思ひを故国の上に走らす。(以下略)
こんな感じです。
日付と、何か軍の機密めいたことが伏せられています。
これ、たぶん日付は伏せてあるけれど、内容から察するに、日付順にきちんと並べられているだろうと思いました。
そこで、同じ加賀艦攻隊だった北原修三さんの日記の記述と見比べながら日付を検討してみました。北原さんの日記は日付がきちんと入っていますし、ほぼ伏字なしです。下表で●になっているところはわたしが読めなかった字です。

北原收三さん(操50)
日記に書いている日課を比較検討したら、長井さんの日記はこんな感じで日付が入りました(単冠湾を出港した11月26日~12月7日分)。
日記に書いている日課を中心に抜き出したものです。
よく見たら、大戸さんは日付を伏せているけれど、「十一月三十日」は「○○月○○日」、「十二月一日」は「○○月○日」と伏せた文字数と○の数を合わせていました。ありがとうございます。
※上に引用した太字部分は11月30日と12月1日分です。
とまあ、こんなわけで、長井さんが「甲板上にて撮影をなす」と書いている日は12月5日で間違いないです。
北原さんが書いている12月5日の日記の内容とかなり一致しています。
風向標識の記事で触れた天気についても比較しました。
加賀艦攻隊の長井さんと北原さん、蒼龍艦攻隊の島田清守さんの日記に書かれていた天候に関する記述です。
さらに参考までに、戦史叢書に掲載されていた第8戦隊司令部首席参謀藤田菊一中佐(機動部隊に同伴)の日誌とやらからのお天気情報も併記しました。
これらを見ると12月2日夜ぐらいから荒れ始め、3日、4日は猛烈に荒れていたことがわかります。
3日には加賀で作業中の下士官が海に転落する事故が起きています。長井さんは落ちたのは「下士官一名兵一名」「助けられしとか聞く」と書いていますが、北原さんは「四分隊先任下士官山本一曹」が波に飲まれたとしか書いていません。実際、何人落ちたのか、その後どうなったのか、これに関して調べようとしたのですが、詳細が書かれたものが見つかりませんでした。
とにかくようやくこの荒天が一段落したのが5日。
ただし晴天には戻らず、「風次第に弱くなり、海上平穏となる。雨尚降る」(長井日記)、「一昨日来の暴風雨静まれども終日曇天小雨模様なり」(北原日記)。
この状態で各艦飛行機を甲板に上げ作業をしたようです。それは島田さんの日記にも描かれています。
「次第ニ南下スル。昨日迄ノ荒天モ静マリト平常通リ「総員体操用意」ノ號令モカカル。飛行甲板ニ出ルト部隊ハ厳然ト進ム。各艦飛行甲板ニペラノ(不明。部員?)ガ有ル様ダ。攻撃ヲ前ニシテ、昨日、一昨日ト飛行甲板ノ作業モ出来ズ今日カラ一斉ニ初(始)マル。 飛行機ノ試運転ダ。」※( )はわたし注記
見ていただきたいのは写真の影と飛行甲板の様子です。

どう見ても晴天下の撮影ではないし、飛行甲板には水たまりが残っているように見えます。
分隊集合写真も装備などから同じ日ほぼ時間をおかずに撮られたものと判断しています。いずれの写真も同じ状態です。
藤田参謀がこの日「視界不良」と書いているんですが、加賀艦攻隊の総員集合写真も最前列の人たち(北原さんとか)と最後列の人たち(長井さんとか)の明瞭度を比べると、後列になるほど明らかにもやっている感じがあります。
搭乗員たちの背後の97艦攻もちょっとぼやけています。
5日の天候状態と矛盾ないと思われます。
お天気的な意味では6日も可能性は残っているかと思います。
では巷間言われている「7日撮影」、この可能性はないのか?
北原さんは「晴天」と書いています。
藤田参謀も「天気は益々良」。
戦後に書かれた手記なんですが、金沢秀利さん(乙8、飛龍)は7日の天気を「快晴、視界良好」と書いています(『空母雷撃隊』光人社NF文庫)。
一日中天気がよかったのか、それとも基本晴天で時々曇ってその隙に写真撮影されたのか、いやー、そこがわからないんですよね💦
一日中晴天だったらあの写真は撮れないと思うんですよ。
リアルタイムで書かれた日記の記述的にも、お天気的にも、5日の可能性が高いんじゃないかとわたしは思います。
※画像は8期生・9期生ご遺族ご提供。
北原收三さん日記はご遺族所有、Оさんご協力。
土浦城跡 亀城公園 ― 2025年11月15日 11時10分00秒
先日、ようやく亀城公園に行くことができました。10月30日。
念願でした。
9期生のアルバムに亀城公園でくつろぐ姿が写った写真が貼られていました。



神龍寺の方に「かれらがいた場所に行ってみたい」と話したら「いま風に言えば聖地巡礼ですね」と言われたのですが、まさにそれですか。
聖地巡礼。

現在の太鼓櫓門。
さすがにこの横の土手に登ることはしなかったですが(^_^;)

これも亀城公園なのですが、奥に碑が写っているのわかりますかね?

忠魂碑です。
以前、この忠魂碑については書いています。
が、検索しても出てきません(ノД`)・゜・。
土浦市立博物館の学芸員さんに問い合わせたらわざわざ現地に確認に行ってくださったんですよね。
そのときのことをブログに書いた記憶があるのですが検索で出てきません。
乙9カテゴリを遡ると何時間かかるかわからないのでそのときのことは割愛。

今回、自分で確認に行ってお参りしてきました。

歴史博物館の見学をしたら、そのチケットで東櫓の見学もできます、とのことだったので行って見学してきました。再建櫓ですね。
ちょうど翌日が土浦の花火大会の日だったのですが、100周年とかで記念の限定御城印を販売していました。

櫓入場チケット付きで500円だったかな?
わたしは博物館の方で櫓入館権利を得ていたので、このチケットの櫓入館権利は持ち越しになりました(期限付きの入館券を別に発行してくださいました)。
良心的ですね。
御城に入るのは、神龍寺→土浦市立博物館→亀城公園散策と駅に近づいたので、帰りは駅に近いこの門から出ました。霞門というみたいです。

ちょうどお昼時間だったのでこのまま保立食堂に天丼を食べに行きました。
つづく・・・・
隼鷹を発艦する彗星艦爆 ― 2025年10月07日 17時05分48秒
モデラーでヒストリアンの加藤浩さんの投稿で、マリアナ沖海戦当日に隼鷹を発艦する彗星艦爆の写真の存在を知りました。→ここ
加藤さんもリポストされているので、元ポストを見てみましたが、元ポストの方がどこからこの画像を持ってきたのかまではわかりませんでした。
わたしは空母に詳しくないので写っている飛行甲板が隼鷹かどうかわからないし、マリアナ沖海戦当日かどうかも判断しようがありません。
写っている見送りの様子からすると、大きな戦の出撃シーンには見えます。
そこから発艦しようとしている彗星が写っているのですが、昭和19年6月19日の隼鷹艦上であれば、小瀬本国雄さんと坂田清一さんペアの可能性もあるってことですよね。
小瀬本・坂田ペアでなかったとしても、当日、隼鷹を発艦した彗星ペアのどなたかなのでしょう。
こうやって画像としてみると感慨深いです。隼鷹発艦の彗星隊は半数以上未帰還ですから・・・・。
※202510080846追記 加藤浩さんは、背後に写っている機数から久我・井口ペアの機と推測されていました
昭和19年6月19日 652空 隼鷹発艦彗星隊の編制(アジ歴サイトより作成)
坂田さんの遺品の中にあった652空の艦爆隊と思われる集合写真。
メンバーはマリアナ沖の彗星隊のメンバーとだいぶかぶっています。一部の方が見当たらないですが。
岩井滉三大尉がまだ「岩井中尉」という名札をつけているので、大尉に進級する19年5月1日より前の撮影なのかなと思います。岩国でしょうかね?
坂田さんの写真は戦後に被災してところどころ傷みがあります。
この写真も坂田さんが書き込んでいる搭乗員の氏名やお顔が見えなくなっているものがあります。他の紙が付着して剥がれないような状態です。残念ながら「不明」と書いている方はどなたかわかりません。
※画像は坂田さんご遺族ご提供
『世界の艦船』11月号 海人社 ― 2025年09月25日 19時28分58秒
今日発売の『世界の艦船』11月号。

ここに、「真珠湾攻撃時の航空母艦加賀 飛行甲板 真の姿を探る」という鷲見博さんの記事が掲載されています。
わたしもブログに何度か真珠湾時の加賀の飛行甲板のことに関して書いているのですが、そこからさらにより緻密に検証してくださっています。わたしではわからない資料やCADなど使いつつ。
両方向に開いた風向標識の飛行甲板上の正確な位置もわかったようで、図で示してあります。
※わたしが出していたのはイメージ図です
他にもいろいろ新発見があったようなので、関心のある方はぜひご一読いただけるとうれしいです。
図も多いので、わかりやすいと思います。
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