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予科練時代の西澤さん2009年01月02日 09時33分11秒

すいません、正月早々、「どうでもいい戦史シリーズ」。
みなさんには、どーでもいいことですよね、西澤さんの予科練時代のことなんて。

西澤さんの予科練(乙7)の同期生が書き記していることです。

・西澤さんはいつも青白い顔をしていて、あだ名が「青びょうたん」だった。

・西澤さんは精力をつけるために、実家から送られてくるマムシの黒焼きをかじっていた。

・西澤さんは海軍のくせにカナヅチで赤帽だった。
(ただし、卒業する頃には遠泳も泳げていた)

・西澤さんは性格的にはおとなしく目立たない方だったが、同県人の小林くんとはよく喧嘩をしていた。


おもしろいですよねー。
意外なこともあり、「ああ、なるほどー」なこともあり。

顔色が悪かったってのは坂井さんも書いていることなので。
海軍に入ったばかりってのならわかりますが、ラバウルとか、あんな赤道直下にいたら、普通日焼けすると思うのですが、それでも青白かったってのは相当ですよね。本当にどっか悪かったのかな?
でも、海軍、ちゃんと健康診断しますよねー?

マムシの黒焼きはねえ・・・・(^_^;)
それをかじっている西澤少年、あまり想像したくない。
でも、きっと、息子を心配するお母さんのお心遣いなのですよねー。

予科練時代カナヅチだったらしいですが、17年4月28日にサラモア沖に不時着水したときは救助がくるまで泳ぎ切っているので、よろしんじゃないでしょうか。溺れない程度に浮かんでいられればよし、ということで。
でも、泳げなくても海軍入れるんですねー。

ふだんは口数が少なくても、異常な負けず嫌いで、勝敗のことになると取っ組み合いの喧嘩までするってのも坂井さんが書いているので、そこら辺も予科練時代から変わらない、ということで。
ところで、西澤さんの予科練時代の喧嘩相手、小林くんって、どんな人だろう? 何が原因で西澤さんと喧嘩していたんでしょうねえ?
今度「小林くん」のことも調べてみるかねえ。

参考:『予科練の翼』光人社

堀教員2008年12月30日 17時24分55秒

1こ前に、西澤さんの練習航空隊教官時代のことをちょっと書きましたが、不親切だったので、説明を加えておきます。

海軍では、飛行機の乗り方を教える立場の人を、階級によって呼び方を変えていました。
准士官以上(飛曹長、少尉、中尉、大尉・・・・)は「教官」と呼びます。
下士官の場合、「教員」です。

逆に、教えられる立場の人も名称が違います。
兵学校出身や予備学生出身の少尉や中尉は「学生」と言います。
予科練出身の人たち(まだ「兵」かな?)は「練習生」です。
(↑合ってますよね?)

西澤さんの場合、時期から察して、准士官である飛曹長に進級後に、大分で教えていたようなので、「西澤教官」ということです。

ホリブンは大村、三亜、高雄、と練習航空隊を渡り歩いたようですが、その間、おそらく2(1)飛曹~上飛曹までの下士官時代なので「堀教員」です。
ホリブンが高雄で教えていたのは13期予備学生ではないかと思います。高雄時代の同僚が、ホリブンのことを「学生分隊の先任教員」と書いていることから察してですが。
ですから、ホリブンは上飛曹でありながら、少尉(?)に操縦を教えていたことになります。
もちろん、学生ができないからと言って、
「飛行機に乗るなんざ3年はええんだよっ! 出直してこいっ!!」
なんて言えるはずがありません。
もし、学生がミスをしても、
「非常に言いにくいのですが、そこはそういう操縦をされたら危ないですよ(^_^;)」
みたいな感じだったのでは、とママは妄想します。

でも、飛行機の操縦は命がけなので、いくらやさしい堀教員でも、やってはいけないことをしたときはもっと厳しく叱責していたのかなあ?
いかん、いかん、また妄想に突入しそうだった・・・・(-_-)

ちなみに、このホリブンの同僚の人ですが、もちろん、この人も高雄で教員をされていたわけですが(練習生分隊)、実戦部隊に配属されてから、おそろしく着陸が下手な部下がいたので、
「おまえ、そんな着陸、誰に教わったんじゃ!!」
と叱りつけたところ、その部下に、
「あなたに教わりました」
と言い返されてしまったそうです(笑)。
ネタかな?と思えるぐらいおかしな話です。

西澤教官2008年12月30日 10時57分50秒

最近、パパママ家の年末騒動ばかり書いていてつまんないので(←ママが)、無理矢理西澤さんネタっ!!

西澤さん、モノの本によると18年11月頃から19年の2月ぐらいにかけて、大分空で教官をしていたらしいんですよね~。

練習航空隊時代の記録って、存在しないのでしょうか、この間、謎です。

写真は見たことがあります。
練習生(飛行学生?)に何か説明しているのかな? サングラスかけた横顔の写真。横着せずに正面から撮れって話です、カメラマンよ。

武田信行氏の『最強撃墜王』にも、西澤さんの教官時代のことがちょいと触れられているのですが、まあ、教員・教官、飛行練習生・飛行学生の区別がつけられていないような感じなので、読んでもあまり、具体的なことはわかりません。

ママは、西澤さんがいったい誰に操縦を教えていたのか、そこら辺が知りたいんですよね~。

西澤さんの同期生が書いた「同期生エース西沢の風貌」という文章中に、はっきり「飛行学生戦闘機専修者の教官」と書かれているので、可能性としては39期か40期の飛行学生・・・・?


教官時代の西澤さんのエピソードとして必ず語られることがあります。
『西澤飛曹長は子守のような新しい任務がいやでしょうがなかった。練習生に対してほとんどこらえ性がなく、ほとんどの練習生を飛行機に乗るなんて3年早いと不合格にしたという』(「日本海軍航空隊のエース」)

同じような話が『最強撃墜王』にも出てきますが、
「飛行機に乗るなんざ、3年はええんだっ!!」
と罵られた飛行学生(?)はいったいどなたはんなんでしょう?
ご本人の名誉のためにあまり追究しない方がいいのでしょうが、でも、西澤さんの名誉のためにもひとこと言いたい。

いくら西澤さんが皮肉屋でも、飛行学生に向かって↑こんなこと言うかなあ???
戦闘機では西澤さんの方がベテランですが、飛行学生の階級はすでに中尉。飛曹長の西澤さんがいくら癇癪を起こしたからって、↑んなこたあ、言わんと思うのですが。

あ、自分の後輩たちである「練習生」になら言うと思いますよ、きっと面と向かって。

飛行学生に対して、こんなことを陰でコソコソ言っていた西澤さんはあまり想像したくない・・・・。

うーん・・・・。本当に言ったのか?
言ったとしたら、誰に向かって言ったのか?

こんな些細なひと言にこだわっているから、西澤さんが教えていたのが「飛行学生」なのか「飛行練習生」なのかはっきりさせたいんですよねえ。

で、西澤さんが教官勤務をいやがっていた、ってエピソードはいったいどなたの証言なのでしょう?
「3年早い」発言はいったいどなたが聞かれたのでしょうか?

西澤さんならいかにも言いそうな台詞ですが、それも相手によると思うので、やっぱりそこら辺はっきりさせたいんですよねー。どなたか、西澤さんの教官時代の詳細、ご存知ありませんか?

18年5月14日オロ湾在泊艦船爆撃隊直接掩護2008年12月19日 11時01分19秒

今日は、かわいい春海ちゃんのどんな話かな~???
と期待しながらブログを開いてくれた人が、
「もうええっちゅうねんっ!!」
と叫んでいるのが聞こえてきそうな今日この頃。

すいませんが、今日も戦闘機隊の話です。
夕方か夜にでもスイミングの背泳ぎ認定の結果を書きますので、ちょっとお待ちを・・・・。

従来、西澤廣義上飛曹機と言われてきたUI-105号機について、先日、妄想てんこ盛りで「林喜重中尉機」と断定してしまったママですが。
その後、重大な情報を発見しました。

今日はその件に関する報告です。
(でも、ママにとって不都合な情報なので、本音のところは握りつぶしてしまいたいっ、読まなかったことにしてしまいたいっ)

大野竹好中尉(兵68期)の手記に、5月14日、オロ湾攻撃についていった際の詳細な記述がありました(先に読んどけ、っちゅう話ですが)。

『隊長、向井大尉は9機を率いて中攻隊の左上方、一分隊長・木村大尉は6機を率いて中攻隊の前に、二分隊長・鴛渕中尉、三分隊長たる私、四分隊長・大宅中尉は各6機を率いて中攻隊の左に、後左上方に、後右上方にぴたりと隊形を整えた』

重複しますが、もう一度、あの日の編制表を示しておきます(階級略)。
大野中尉の解説(中攻隊との位置関係)を交えて。

隊長直率9機・・・・左上方
向井一郎
坂上忠治
八尋俊一

磯崎千利
山本末廣
中西 貢

田中三一郎
松吉 節
小竹高吉

第一分隊6機・・・・前方
木村 章
遠藤桝秋
小西信雄

橋本光輝
中山義一
塚本秀夫

第二分隊6機・・・・左
鴛渕 孝
西澤廣義
関口栄次

香下 孝
四宮与三郎
安藤宇一郎

第三分隊6機・・・・後左上方
大野竹好
米田 忠
松本勝次郎

林 喜重
辻岡 保(引き返す)
増田勘一

第四分隊6機・・・・後右上方
大宅秀平
山崎市郎平
池田市次

近藤 任
石崎博次
直島喜平

↑こんな感じでしょうか?第二、第三、第四分隊の中攻隊との位置関係、これでよいのでしょうか。大野中尉の文章からはそうとしか読めないのですが。

これは、中攻隊が爆撃進路に入るときの描写です。
目的地に着くまでの間、どのような隊形で飛んでいたのかまでは書いてありません。まあ、でも、爆撃進路に入るからといって左にいた中隊が右行ったり、前にいた中隊が一番後まで下がったり、ということは考えにくいので、途中もこれと似たような隊形で飛んでいたのかな、と思います。

となると、吉田一さんの便乗した中攻の右側を飛んでいる105号機は大宅中隊6機のうちの誰かってこと?
いや、そんなことはない。
105号機のちょっと後上方に3機小隊が1つともう1小隊の1機の翼が見えています。これが大宅中隊ではないのかな。
(このうちの1機が格子柄迷彩機)

吉田さんの写真から判断すると、吉田さんがあの105号機を撮影したとき、ほぼ真横の右側に2機1小隊(105号機と109号機)、ちょっと後上方に3機ずつ2小隊いるのでは?
それだと大野中尉の記述とは合わないような気も・・・・。

うーん???

この前も書きましたが、105号機は中攻の右を飛んでいるカットと、左側を飛んでいるカットがあります。
影の具合からママは右バージョンが「行き」で左バージョンが「帰り」かなあぐらいに思っていたのですが。
中攻隊が投弾するとき、直掩戦闘機隊は敵機と交戦しています。
なので、隊形入り乱れて、行きと帰りが逆になることはありなのかなあ・・・・と。

なんかますます混乱しただけですが、まあ、今回は、ママの「UI-105号機は林喜重中尉機」を補強する記述でないことだけはたしかだということで。

黙っとこうかとも思ったのですが、良心がとがめたのでいちおう書いておきました。

深井中尉と長尾中尉2008年12月18日 07時44分32秒

深井紳一氏提供
2007年10月1日からブログを初めてきましたが、これが記念すべき「海軍」カテゴリー200回記念っ!!

われながら、何、そんなに書くことあんねん、って感じですねー。
2日に1回ぐらいの割合で海軍のことを書いているってことになります。
まあ、ほとんど独りよがりなひとりごとレベルの話なのに、読んで下さっている方には感謝、感謝です。

最近、この「海軍」カテゴリーに入れている話の中でも特に「これ、誰やねん?」が(勝手に)シリーズ化してしまっていますが、最終的に結論の出ていない、ママの妄想話ばかりです。

でも、ママ、
「前列左から○○少尉、××中尉、ひとりおいて△△中尉・・・・」
の「ひとりおいて」ってのがどうも気になってしょうがないタチなんです。
「この人にもちゃんとした氏名階級があるはずっ!! あなた、誰ですかっ!!」
と、猛烈に知りたくなります。
結局、追究するための資料不足で、わからないまま、想像しているだけ、ってのが多いんですけどね。

でも、今日は、200回記念なので、結論の出た話!

↑深井中尉(右)の横の搭乗員、誰やねん?

最初にこの写真を深井さんに見せていただいたときは、深井さんもこの方のことを探究中でした。

この写真一枚からはほとんど判別不能な話で。

この写真から言えることは、「かれは搭乗員だろう」。
ってことだけです。
偵察か操縦かすらわからない。
場所も時期も不明。せめて袖の階級章でも写っていれば、深井中尉の72期の進級時期と照合して「○年○月○日~○月○日の間」までは特定できるんですけどねー。

深井さんからいただいた他の写真の中に、この人、写っていないかなあ??と思って探したところ、「同期生の葬儀に参列」という集合写真と、どこかの神社の鳥居の前で撮った、一種軍装に身を包んだ5人の海軍士官の集合写真に深井中尉と一緒に写っていました。

「同期生の葬儀に・・・・」ということなので、この人は72期の人だろう、ということが推定できました。

鳥居の写真、着ている一種軍装の襟に少尉の階級章がついています。
ということは、この人は深井中尉と少尉時代に一緒だったといえます。
深井中尉の少尉時代のほとんどは百里原の艦爆操縦の訓練時代です。

じゃあ、この人は「72期」の「艦爆操縦」の人かなあ?

ってとこまでは想像がつきました。
でも、そこで頓挫してしまいました。
深井さんから41期飛行学生(72期主体)艦爆操縦の集合写真をいただいていたので、そこでこの人を探したのですが、ママには見つけられなかったんですよねー。
たぶん、72期の艦爆操縦だろうなあ・・・・と思いつつ、そのままになっていました。

ある日、突然、話が進みました。
伊藤さんが送って下さったなにわ会の戦記の中に「長尾利男」中尉の亡くなったときの様子が書かれていて、ママはそれを読んで感じるところがあったので、なにわ会HPの「長尾利男」中尉の写真を見に行きました。
「へえ・・・・こんな人だったんだぁ・・・・」
と見ていたら、そのとなり、「長尾栄二郎」という方が↑の写真の左の人と同じ顔をしている・・・・。

深井さんが、72期の艦爆の方とお話をする機会があったので、そのときに聞いてもらったら、やっぱり↑の方は「長尾栄二郎」中尉で間違いないということでした。

長尾栄二郎中尉。
天城中出身、艦爆操縦、攻撃第3飛行隊、19年11月1日、比島レイテ方面にて戦死。

わたしの手元にある情報はこれだけです。あと、深井さんにいただいた数枚の写真。

19年11月頃の攻撃第3飛行隊(K3)の様子を調べようと思ったのですが、よくわからないんですよね・・・・。
『八機の機関科パイロット』(碇義朗)に、小川武大尉(機50期)という方が取り上げられています。K3の分隊長ですから、11月頃の比島戦の様子が書かれているかなあ、と思ったのですが、詳しいことはなし。
『空母艦爆隊』の山川新作さんも当時K3所属だったので、手記に何か書かれていないか見てみたのですが、やっぱり、11月1日のことは全く触れられておらず。

長尾中尉の戦死状況はわかりません。

一緒に写っている写真が数枚あるので、おそらく深井中尉と長尾中尉は仲がよかったのだろうなあ、と想像できます。
7月、百里を出て、深井中尉は教官勤務になって宇佐空へ。長尾中尉はそのままK3に着任して、訓練を経て戦地に行かれたのでしょうか。

宇佐には同期生もいるし、艦爆隊の情報もそれなりに入ってくるのでは。深井中尉もきっとどこかの段階で長尾中尉の戦死の報に接したのではないかと思います。きっと心穏やかではなかったはず。なんだかなあ・・・・。