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西澤さん、大いに喜ぶ2008年12月01日 13時45分45秒

画像はイメージ。

西澤さんが武功抜群の軍刀の代わりに、吉田さんから舞扇をもらって喜んだ話は有名ですが、あくまでわたしが勝手に思っている「西澤さんに関するエピソード」ランキングの上のほう、ってだけの話で、関心のない人にとっては、まったくもってどう有名なのか理解に苦しんでいらっしゃると思います。
なので、軽く、簡単に、紹介しておきます。
(かなりママ脚色あり。引用厳禁)

251空のころ、同じ航空隊の夜戦隊のエース・工藤重敏上飛曹が、夜間空襲に来た爆撃機を立て続けに撃墜して草鹿長官から感状と武功抜群の軍刀を授与されました。
その授与式が終わった後、集まっていた戦闘機搭乗員の中から、
「おれは何機落としたらもらえるんかいのー?」
という声が。
一同、すぐにその声が誰かわかったらしく、爆笑。
吉田さんが見ると、251空戦闘機隊一の、いえ、海軍航空隊でぶっ飛びぬけて撃墜王の西澤廣義上飛曹でした。
言った本人もまわりも、冗談ぽい雰囲気だったそうですが、それを聞いた吉田さんは、
「西澤くんも実は工藤上飛曹のように表彰されたいらしい」
と気をまわし、
「君にはぼくがいいものを授与しよう」
とその場で約束しました。

数日後、西澤さんは約束どおり吉田さんのところに「武功抜群」の逸品をもらいに出向きました。
吉田さんが出してきたものは、
『新橋のあるS(海軍びいきの芸者)から、前線におられた宮様の司令にお届けしてくれと頼まれた彼女の心をこめた舞扇』
でした。
事情があって宮様にお届けできず、吉田さんがずっと持っていたもので、
『模様は忘れたが、小豆色の縮緬の袱紗に包まれた扇を開くと、なんともいえぬ甘い脂粉の香りというか、それとも彼女の体臭なのか、気の遠くなるような匂いがする藤間流の舞扇だった』
そうです。

吉田さんは中身を秘密にしたまま西澤さんへの授与式に臨みます。
「気をつけィ!」
西澤さん、飛行靴のかかとをカチンと合わせて気をつけ。ぴっ!

「西澤上飛曹は当方面航空戦において抜群の勲功を重ねたるをもって、これを賞するとともにこの逸品を授与す」
西澤さん、うやうやしくこれを受け取って、
「短刀ですか?」
んなはずねーだろー。軽いだろーよ。

「開けてみろよ」
吉田さんにそう言われ、急いで開いた西澤さん。がっかりどころか、さらにうれしそうに笑って、
「こいつはすばらしいっ!!」
と、扇をいっぱいに広げます。
「いい匂いですね~」
パタパタ仰いだのか、顔を近づけて匂いをかいだのか、西澤さん脂粉の香りにうっとり・・・・。

よほど気に入ったのか、
「こいつはいいですねー。もう軍刀なんかいりませんよ」
とまで言ってしまいます。

「よし、今度から敵とのお別れにはこいつを開いてあおいでやりましょう!」


空戦後の操縦席の中で、自らが撃墜した敵機がヒラヒラと落ちていくのを見送りながら、
「わーっはっはっはっはっは(^O^)、おれさまに挑むなんて、100年早いわっ!!」
と、舞扇をヒラヒラさせている西澤さんを想像してしまいそうですが、かれはそんな人間ではありません。

「敵とのお別れにはこれをあおいでやる」と言ったその同じ口から、
「ねー吉田さん、わたしは敵を落とすまでは”このやろう”と殴りかかっていくんですが、火を噴いたとたんにかわいそうになるんですよ・・・・」
と言い、しょぼぼーんとしていたらしいです。

西澤さんの性格が垣間見えるエピソードで、ママランキング(?)では上位のエピソードです。
この人、吉田さんには素直ですよね(^_^)。
たぶん、戦闘機の同僚には「火を噴いたとたんにかわいそうになる・・・・」なんて、口が裂けても言わないんじゃないかな。

だから、吉田さんの「西澤廣義像」って、戦闘機仲間が見た「西澤廣義像」とかなり違っていてとても面白いです。
どちらの西澤像もたぶん、西澤さんの一面だと思います。


後日、西澤さんも晴れて草鹿長官から武功抜群のホンモノの軍刀を授与されましたとさ。

251空のUI-105号機2008年12月02日 08時16分38秒

UI-105号機
恒例、ママの妄想戦史シリーズ!!

↑使いまわし画像ですが、吉田一報道班員が陸攻の中から撮影した251空の直掩戦闘機零戦22型(トレース)。
(「UI」というのは251空の部隊符号らしい。ちなみに台南空は「V」)

もとになった零戦写真は、日本一有名な零戦写真といっても過言ではないでしょう。間違いなく零戦ベストショット三指に入るのではないでしょうか。

ただ・・・・この日本一有名な零戦に乗っている搭乗員に関しては・・・・


ママが初めてこの写真を目にしたときについていた解説には、「西澤廣義上飛曹機」らしい、と書いてありました。

それからしばらくママはその解説を信じ込み、この写真を見るたびに、
「ふぁあ~西澤さ~ん(^。^)」
と憧憬の思いをこめて眺めていたわけですが、ある記述を読んでから、「この搭乗員は西澤さんではない」と思うようになりました。

光人社が出している『零戦』という写真集です。
吉田さんが撮影した零戦もいくつか掲載されていて、この251空のUI-105号機も載っています。

その解説にはこう書いてあります。
「・・・・搭乗員が、果たして誰であったか、吉田氏の記憶はついに戻らなかったという」

撮った本人が「誰だかわからない」と言っている写真、ということになります。
そりゃあ、報道班員として、数え切れないぐらいの搭乗員たちに接してきたでしょう。覚えていないのも無理はありません。

でも、吉田さんと西澤さんの仲はそんなただの「報道班員」と「搭乗員」という仲ではありません。
西澤さんは同僚たちからの評判はあまり芳しくありません。ひねくれもので異常な負けず嫌いで、坂井さんは「気の重いやつ」とか「狷介」とすら言っています。
ところが、吉田さんに対しては素直な好青年です。
吉田さんだけは無条件に西澤さんの味方であり、間違いなくかれのことをこよなく愛していたと断言できます。
そんな吉田さんが西澤さん搭乗の零戦を忘れるわけがない、とママは思うのです。

いったい、どこからUI-105号機=西澤機という話が出てきたのでしょうか。

たしかに写真をよく見ると、搭乗員の顔は西澤さんに似ているような気もします。
ただ、マフラーで顔の下半分を隠しているようなので、目元だけですが。

じゃあ、西澤さんじゃなかったら誰だ?ということになります。

『零戦』写真集には「18年5月」「オロ湾に進攻した5月14日の撮影と推定され」と書いてあります。

ママ調べでも、5月だとしたら、14日だろうと思います(調査の詳細は省く←「本当にしたんかい」と突っ込まないように)。

5月14日の編制表。

向井一郎
坂上忠治
八尋俊一

磯崎千利
山本末廣
中西 貢

田中三一郎
松吉 節
小竹高吉

鴛渕 孝
西澤廣義
関口栄次

香下 孝
四宮与三郎
安藤宇一郎

木村 章
遠藤枡秋
小西信雄

橋本光輝
中山義一
塚本秀夫

大野竹好
米田 忠
松本勝次郎

林 喜重
辻岡 保    離陸直後脚入らず引き返す   
増田勘一

大宅秀平
山崎市郎平
池田市次

近藤 任
石崎博次
直島喜平

ざっとこんなところで。
当時、まだ3機1小隊で飛んでいます。各小隊ごとに、小隊長(1番機)、2番機、3番機の順で並んでいます。

「あ、こんなところに重大なヒントがっ!!」

実は上の画像、UI-105機のみ抽出して描いていますが、実際の写真には105号機のすぐ向こうに翼を重ねるようにして109号機が写っています。位置からして、105号機が小隊長、109号機は列機の位置です。

ずっと離れたところに3機編隊で飛んでいる小隊が写っているカットもあります。

トレースした105号機は吉田さん搭乗の陸攻の右側を飛んでいますが、左側を飛んでいるカットもあります(「行き」と「帰り」か?)。
右側を飛んでいるカットも、左側を飛んでいるカットも、どちらもなぜか「2機1小隊」・・・・。105号機と109号機。
あれー、なんでかなあ・・・・????
1人足りんぞー。

(^O^)

というわけで、ここからママ妄想大爆走ーーーー!!!!!

「この2機は、小隊の2番機が脚引き込み不具合で引き返した林喜重中尉の小隊に違いないっ!!」

もし、従来の説のように105号機が西澤さんだったとしたら、
「鴛渕中尉、どこ飛んでんねんっ!?」
ってことになりませんか?
まさか、陸攻の窓からカメラを向けている吉田さんに気づいた西澤さんが、
「おーい! おれ! おれを撮ってくれいー!!」
と鴛渕さんの前にしゃしゃり出てきたとは考えられないし。
なので、105号機は、鴛渕小隊の2番機の位置にいなければならないはずの西澤さんではない、と確信。

もともと2機1小隊で出撃した林小隊の2人(林喜重中尉、増田勘一2飛曹)ではないのかな、と。
この2人は前年の台南空時代からいた搭乗員ではないので、吉田さんが覚えていないとしても納得です。

で、顔は林中尉なのかどうか?
林中尉の顔がよくわかる写真・・・・。343空集合写真ではよくわからない・・・・。
源さんが貸してくださった内地防空隊の写真集の中に林中尉の顔がよくわかる写真が1枚ありましたが、はっきりいって、105号機の搭乗員とは似ていません(きっぱり)(-_-;)。

でも、もう、105号機はママの中では「林喜重中尉機」決定でーす!!\(^o^)/

うちには来ないねえ・・・・2008年12月02日 22時37分00秒

裁判員の候補になりました、というお知らせが来た、ということを本人が特定されるブログで公開してはならぬ、ということですが。

うちはビデオリサーチの視聴率調査も当たったことがないし、よく新聞やテレビでやっている「無作為抽出世論調査」なるものも当たったことがない。

当然、宝くじもない。

自分の記憶の中ではっきりと「当たった」と記憶しているのは中学受験の抽選ぐらい。
(驚くなかれ、うちの中学は当落が抽選でした。でへ(^。^))

なので、今回に限って当たるはずはない、と思っていましたが、当然のように当たりませんでした。当たらなかった、ということはブログに書いてもいいんでしょうか?
もう、いまから先届くことはないよねえ・・・・?

なんつっても、うちは当然くるはずの年金特別便すら来ない家庭だからっ!!

もしかしたら、日本国民として登録されていないのでは、とすら疑いたくなる今日この頃・・・・。
でも、税金よこせ関係の書類だけはきっちり来るねえ・・・・。

ところで、梅田駅で未配達の年金特別便45000通が見つかったらしいですが、うちのもそこに入っているんかねえ・・・・?

りぼんちゃん、崩れる2008年12月03日 19時14分56秒

りぼんちゃん
今日は朝からシノ先生の家に、初ま○、りぼんちゃん(仮名)を見に行きました。

ねえねは出産後、里帰り中で、しばらくシノ先生の家にいるそうで。

毎日、元海軍さんのじいちゃん(りぼんちゃんの曾じいちゃん)が、りぼんちゃんに会いに隣家からやってくるそうです(^O^)。

シノ先生の携帯には、緩みきった武道家のとうさん(りぼんちゃんのじいちゃん)とりぼんちゃんのツーショットが。

りぼんちゃんのおとうさんは、シノ先生一家が水入らずでリボンちゃんを囲んでいるところ、仕事帰りにしょっちゅう乱入して来るそうで、迷惑がられていました(笑)。りぼんちゃんの実のおとうさんなのに・・・・(T_T)

いつも楽しいシノ先生一家♪

女の子だからでしょうか、りぼんちゃん、とっても静かでした。
ママがシノ先生家にいる間、一度も泣かず、99パーセントぐらいは寝ていました。たまに目を開いてモゾモゾ・・・・。そして、一瞬、泣き出しそうな顔、そしてまた目を閉じてグー・・・・みたいな感じで。

画像は、一瞬、泣きかけたリボンちゃんです。
ふだん、よほどかわいい顔をして寝ているのか、どうも、この表情がシノ母娘にとっても受けたようなので、ブログ画像として採用決定。

お昼はシノ先生とランチをして、そこから学校の授業参観。
そこらへんはバサッと端折って突然「今日のプール」!!

スイミングの授業が始まる前に携帯をチェックしたら(西澤ハチミツからアイスが届く予定だったので)、たかだ先生からメールが来ていました。

「いまからはーちゃんのプール見学に行きます」

ということで、たかだ先生がわざわざ春海がどんな授業を受けているのか見に来てくださいました。

25メートルをどれぐらいの速さで泳いでるのか計ったり、ボビング何本、板キック何本、クロール何本、背面キック何本、背泳ぎ何本やっているか、全部メモを取っておられたようです。

シノ先生によると、仕事の休憩時間にもおふたり額を突き合わせて、
「日曜日、春海をどうしごいたろかのー?」
と相談をされているそうで・・・・(^_^;)
(シノ先生とたかだ先生はただの水中格闘家ではありません。表の顔と裏の顔があり、同じ職場で学術文化系のお仕事もされています)

たぶん、今日、たかだ先生が見に来てくださったのはそのための諜報活動ですね。

今日の背泳ぎは前回よりは上手に泳いでいました。
以前、Yコーチの手回しのタイミングがおかしい、とここに書きましたが、前半はそのおかしなタイミングで指導していたようですが、後半はフツーの背泳ぎの手回しのタイミングを教えて、させていました。
やはり、たかだ先生が言われたように、あのヘンな手回しのタイミングは背泳ぎの導入部分だったようです。

後半は結構かっこよく背泳ぎを泳いでいました。多少、腕が外に開き気味でしたが、ちょっと改善されたかな。
たかだ先生の解説によると、今日の春海の背泳ぎは肩の動かし方がよい、とのことでした。

プールが終わった後、更衣室で、春海に、
「たかだ先生来てくれてたよ」
と教えたら、気づいていなかったようで、
「えっー(>_<)!!」
と、驚いていました。いつもは見学席が気になってしょうがないのに、今日は集中して泳いでいたようです。
たかだ先生は先に帰られたのでそれを教えたら、
「帰ったのー!?」
と残念がっていました。
どうも、春海自身、今日の泳ぎには結構自信があったようで、たかだ先生にもそれを主張したかったのかな?

日曜日にたっぷり見てもらいなさい。

片山中尉と塚田中尉(と橋本中尉)2008年12月04日 13時32分35秒

片山市吾中尉
愛知県熱田中学出身。

塚田浩中尉(終戦時大尉)
長野県松本中学出身。

ともに海兵72期出身の戦闘機乗り、厚木302空雷電隊。

塚田中尉によると、兵学校時代の片山中尉は余りにもわがままで高慢ちきに見えるような人だったとか。
兵学校時代、「相当な猛者」(←「酒や女」方面ではないはずなので、「威勢がいい」という意味だと思われる)であり、飛行学生時代も、頭髪を伸ばして飛行長の怒りを買ったり、教員(下士官の操縦教員)を殴って問題になったり、いろいろと困ったことをしでかす人だったと回想しています。

エスプレイをしても、派手に踊りまわってエスを怖がらせてしまうような人だったらしいです。

しかし塚田中尉は厚木で一緒に生活するようになってから、彼の理解者になっていきます。
「片山という男は実にさっぱりした、いいやつだった」

日付は不明なのですが、片山中尉は邀撃戦に上がった際、不時着してしまい、負傷入院してしまいます。
どれほど戦列を離れていたかも不明ですが、かれを焦らせるには十分なほど、入院していたようです。

退院後、張り切りボーイ・片山中尉は戦果を上げようと頑張りますが、なかなか思うような戦果は得られませんでした。

そんなとき。20年4月。

厚木の302空も、沖縄戦への加勢のため、鹿児島・笠原に進出することが決まりました。
全員ではありません。12名が選ばれて行くことになりました。
分隊長の寺村大尉は上から「連れて行く72期は1人」という条件をつけられ、塚田中尉を選抜しました。

塚田中尉はこのことを「得意げに」片山中尉に話してしまいました。(おそらく笠原進出前夜のこと)
すると、片山中尉は分隊長のところへ押しかけて行き、自分を連れて行ってくれと直談判します。
寺村分隊長は片山中尉の熱意にほだされて、とうとう2人を交代させることにしました。

今度は、戻ってきた片山中尉からそのことを聞かされた塚田中尉が承知するはずがありません。

言い合いをした挙句、2人そろって飛行隊長、分隊長のところへ駆け込みます。
「鹿児島には自分を連れて行ってほしい」
と。

寺村分隊長の回想。
『今度は2人でわたしの部屋に来た。両名とも頑として譲らないのでいっこうに話が決まらない。わたしが決めればよいのだが、海軍は沖縄戦に全力を尽くし最後の決戦のつもりであり、大和まで特攻出撃するというぐらいだから、おそらく笠原に行けば生きては帰れないだろう。わたしも決めかねて、最後は2人はじゃんけんをして勝ったほうがいくこととなった。そして片山中尉が勝ったときのうれしそうな顔がいまでも目に浮かぶような気がする』

塚田中尉の回想ではちょっと違います。
飛行隊長に「2人でよく相談せよ」と諭され、2人は部屋に戻ります。
『わたしは部屋に帰ってかれと激しく論争した。そのときかれは涙を流さんばかりにして小生に言った。貴様はいままでに相当な戦果を挙げているが、おれはまだそれらしい奉公はできていない。今度行けば必ずやってみせるから、今回ばかりは我慢しておれにやらせてくれ』

それでも塚田中尉は首を縦に振りませんでした。塚田中尉とて、最後のご奉公と覚悟を決めていたのです。
「それでは明朝、籤で決めよう」

翌朝、笠原への出発準備が整った飛行場へ2人とも軍刀を手に、「行くつもり」で出てきました。
そこでまた「笠原行き」の奪い合いをした結果、片山中尉が行くことになりました。

『おれは負けた。いや負けてやった。そしてかれに行ってもらった』

4月12日。
笠原から沖縄に向かって出撃した302空の零戦隊(古い訓練用の零戦だったらしい)の中に、片山中尉の姿がありました。

沖縄上空まで敵に会わず、旋回して引き返そうとしたとき、片山中尉が敵機を見つけ寺村分隊長に知らせてきました。
その後、グラマン数機と乱戦になり、寺村大尉は「上から降ってくるグラマンに敢然と片山中尉が反撃して行った」のを見たそうです。

それが片山中尉が目撃された最後です。

かれは塚田中尉が待つ厚木の士官室に帰ってくることはありませんでした。


余談ですが、ホリブンが「3月19日に未帰還になった」と勘違いしていた「橋本達敏中尉」ですが、かれは343空に転勤する前は、塚田中尉・片山中尉と同じ厚木・雷電隊の搭乗員だったようです。
塚田中尉の回想に「小生と橋本が残されたときは72期は全滅か」とか「そのとき橋本は343空に転勤になっていたので」という記述があったので、302空の読み物を調べてみたところ、橋本達敏中尉、たしかに302空に在籍されていたようです。
ホリブン、雷電乗りをひよっこ扱いしてはいけませんなあ・・・・。

偶然ですが、橋本中尉が戦死したのも4月12日。
橋本中尉は午前7時ごろ鹿屋から出撃、片山中尉は午前11時ごろ笠原を出撃、ともに沖縄方面に向かい、敵機と交戦戦死。

参考・なにわ会HP戦記、『写真史302空』文林堂(借り物ですが・・・・)