Google
WWWを検索 ひねもすを検索

先輩たちのラグビー写真2018年02月01日 14時55分52秒

わけがわからないまま書いてしまいます。

というのも、いつわかるのか、自分でもわからないからです。



インフルで寝込んでいる間に、7期の山口良一さんのご遺族の方から連絡をいただきました。
いっぺんに元気になりました!(・∀・)


最初のメールは、
「良一さんの情報をお持ちではないですか?」
というようなメールだったのですが。

申し訳ない話ですが、わたしは7期生のことはほとんど無知で、山口良一さんのことも存じ上げませんでした。
で、すぐにいつものKさんに情報を求めたところ、中攻の操縦員であるということと、出身地情報をいただけました。

ご遺族の方には、
「お顏がわかる写真(複数)や履歴(勤務航空隊など)があれば見せていただけないでしょうか」
と返信したところ、すぐに撮っていろいろ送ってきてくださいました。

その中の一枚がこれです。

予科練時代のラグビー部写真だそうです(添え書きあり)。

後列左から4人目が良一さんで、さらにご遺族の方は、
「後列右から2人目に鈴木軍治さんも写っています」
と。

「あっ!?( ゚Д゚)」

ホントだっ!

鈴木さんだ!

ラグビー部だったのか!


なんで鈴木さんがわかったんだろう?
とも思ったのですが、あとでいろいろ判明しました。
他にも良一さんと鈴木軍治さんが一緒に写った班写真(名前入り)をお持ちで、さらに、良一さんが鈴木要さんという同期生と一緒に写った写真もお持ちで、「7期の鈴木さん」に詳しくなられていたのでした。
※7期にはもう一人鈴木文雄さんがおられます



わたしの方も、良一さんが写っていそうな写真を探して送らせてもらいました。




そのときはそれで終わっていたのですが、翌日、この写真を見返していて、大変なことを見落としているのに気付きました!

またかいっ!

と突っ込みましょう。








同じ写真をわたしも持っていました!!w( ̄▽ ̄;)w

7期なら、西澤さんの遺品だな?

いえ、違うんです。

西澤さんはたぶんラグビーしません。いや、わかんないけど。 ※イメージです


これは実はですね。
6期の岩井勉さんのアルバムに貼ってあった写真なんです。
戦闘機乗りの、『空母零戦隊』の。

後列左から5人目、岩井勉さんなんですよ。

岩井さんの方はアルバムに添え書きはなかったように思います。
スキャンしてきた範囲では見当たりません。

なのでこの写真、てっきり6期のラグビー部だと思っていました。

しかし、山口良一さんのご遺族の方から「良一さんと鈴木軍治さんが写っています」と送られてきた写真と同じもの・・・・。


山口良一さんと、

鈴木軍治さん。




「そうか! 濃いジャージが7期生で、薄くて横線が入っているジャージが6期生だな!」

と、自分で納得しました。


ところがですよ。

よく見るとなんか岩井さんだけジャージが違うんです。
胸に横線が入っているように見えないし、ズボンも白いズボンをはいているように見えます。
※横線組のズボンは黒っぽい。

「もしかして岩井さんは審判で入ったのだろうか?」


横線ジャージの人たち、一人もお顏がわからないんですよ。

『予科練外史』によると6期と7期は対外試合の記録がないらしいので、予科練以外のチームの可能性は低いです。
横線ジャージには胸にかわいい飛行機マークが入っています。アップリケ?
たぶん予科練でしょ、これ。
甲1の可能性もあるのかナア?


8期ラグビー部が同じデザインの横線ジャージを着ている集合写真があるんですが、お顔が当てはまらないし・・・・。
予備学生との試合らしいです。
10期の藤本久夫さんのアルバムに貼られていました。

8期、井手峰雄さん。


『予科練外史』にもこれと似たようなジャージを4期生が着ている写真が載っているので、予科練伝統のジャージなのかもしれません。


ちなみに9期がこのジャージを着ているのは見たことがありません。
9期ラグビー部、村田耕一さん。
9期は良一さんや鈴木軍治さんが着ている単色タイプのジャージです。





いまのところ、自分の中では、濃いジャージも横線ジャージも7期で、岩井さんは審判・・・・みたいなところに傾いています。

お一人ずつお顔を照合して〇〇さんに違いない、とやらないとわからんですわ(;´Д`)

わかったらまた書きます。



最初は「良一さんの情報をお持ちではないでしょうか?」というメールだったのですが、いまはこっちがいろいろと7期生のことを教えてもらっています(^^;)



山口良一さんに関しては個人記事を書きたいと思っています。

鈴木さんも、今回ご提供いただいた情報も加えて早く出せるように。



※画像は6期生ご家族、7期生・9期生・10期生ご遺族ご提供

香川県乙飛戦没者慰霊碑2017年11月29日 06時03分19秒

香川県高松市の田村神社に「海軍少年飛行兵之碑」という慰霊碑があるそうです。
予科練生のご遺族の方が写真を撮って送ってきてくださいました。



裏面には香川県出身乙飛戦没者のお名前が刻まれています。
氏名しか書かれていないので、手持ちの予科練名簿(知人のAさん作成)参照、わかった範囲で。
8期、9期、10期は同期生会誌参照。
※敬称階級略
※配置は操偵別のみ


【2期】
寺井 栄 19年6月15日 艦爆偵
新名善清

【3期】
川﨑 昇
佐野 進

【4期】
浜中 寛

【5期】
大林行雄 17年6月5日 ミッドウェイ 飛龍 艦攻操
武田忠義

【6期】
森下 武

宮武義彰 18年10月1日 ソロモン 582空 艦爆操

【8期】
林 忠雄 18年11月30日 ソロモン 751空

【9期】
大山輝一 17年4月4日 ポートダーウィン 高雄空 陸攻偵

四宮与三郎 18年7月1日 レンドバ島 251空 戦闘機

立井義春 18年11月8日 ソロモン 702空 陸攻偵

高橋兼春 20年4月12日 沖縄 951空 陸攻偵

鶴見堅三 20年4月5日 沖縄 攻撃703 陸攻偵

藤井国男 17年9月15日 ソロモン 東港空 飛行艇偵

【10期】
伊藤 勲 17年11月12日  582空  ソロモン 戦闘機

今田敏男 20年2月6日 ボルネオ 381空 戦闘機
川渕義秋 17年6月5日 ミッドウェイ 飛龍 艦爆偵

鎌田 久 20年4月24日 比島 操縦
金丸春男 19年5月1日 南洋群島 551空 偵
高橋通夫 17年10月25日 ソロモン 14空 飛行艇偵

平田義之 17年8月23日 ポートダーウィン 三沢空 陸攻操

【11期】
橋本満明
野口泰弘
立住一男 18年11月11日 ラバウル 翔鶴 戦闘機
藤川一郎
石川 庵
横井徳一
眞鍋綱夫
小西範秋
和泉 哲

【12期】
只野岩太郎 20年4月16日 901空 艦攻偵
丸尾政信
真鍋正範
山崎輝雄
竹本耕三
真鍋鶴夫
横山恒雄
横山 亨

【13期】
関 正信
中村芳春
宮本 泰
後藤 茂
玉茂礼弘
金山英敏 20年4月22日 奄美大島東方海面 252空K3

【14期】
田中義雄
岩崎幸夫
矢野文夫
池上信義
福田 操
福一 要
長井良一
松下小次郎
伏見 清 19年6月11日 サイパン 261空 戦闘機

【15期】
池田義行 19年2月23日 サイパン 201空 戦闘機
光行 明 19年8月2日 テニアン島 761空 偵察
横井正之 18年12月3日 タロキナ付近 582空 偵察
中山正雄 19年2月 マリアナ方面
松田 弘 19年10月 比島クラーク
河内司郎 19年7月8日 サイパン島 偵察
豊田 恵 19年9月2日 ダバオ 954空 操縦
徳永彰平 19年6月15日 テニアン北東海上 523空 偵察
藤田敏雄 19年1月7日 ニューブリテン島 204空 戦闘機
辻 照雄 19年3月7日 南洋方面 761空 操縦
音泉 昇 19年7月3日 301空 戦闘機
田中喜芳 20年8月9日 本邦南方海面 752空K5 偵察
景山 武 19年11月1日 本州南方 偵察
高橋三郎 19年4月19日 インド洋
三木正信 19年4月30日 トラック方面
佃 吉治 19年6月19日 マリアナ 652空 偵察
田中 巧 19年2月18日 南洋方面 偵察
松岡三夫 19年8月18日 東シナ海 931空 偵察 
宮本 弘
合田 武 19年6月2日 ニューギニア 381空 戦闘機
岡田寿恵義 佐伯空 操縦
尾野 勇 19年7月8日 サイパン島 
諏訪種彦 20年3月1日 851空 偵察

【16期】
宮武 薫
三谷健一
久住一美
今井義隆
津郷寿恵儀
磯崎定義
矢野義明
氏家 弘
植田久雄 19年10月11日 台湾方面 762空K708 陸攻偵
二川義弘
篠原芳郎
植村孝雄 20年4月7日 沖縄本島周辺 706空K405 陸爆偵
大西一夫 20年4月7日 沖縄周辺 K251 艦攻偵
多賀文夫
蜂須賀幸雄
小山照夫 20年2月21日 硫黄島周辺 601空K1
中川 勇
岩松繁己

【17期】
中桐一夫
山下幸信 20年6月22日 沖縄本島周辺 721空K708 陸攻偵
竹安末雄 20年6月28日 沖縄本島周辺 福山空 操縦
辻 忠弘 20年4月1日 沖縄本島周辺 721空K708 陸攻偵
遠山 明 20年8月9日 本州東方海面 601空K1 操縦
内海 清 20年4月21日 沖縄本島周辺 721空K708 陸攻偵 
竹原 修
篠原 修
川崎正行
土井 弘
勝浦繁信 20年4月27日 762空 陸攻
田中敏雄
篠原耕治
細川茂二郎
石田光則
喜久間諄造
北原幸一
川合 淳
奥野克夫
田中義一 
山崎正一 20年6月7日 沖縄 765空 戦闘機
鳥居一善

【18期】
大野 勇
森野繁夫
合田一二郎 ?20年4月12日 沖縄本島周辺 宇佐空 艦攻偵
大谷康佳 20年4月16日 沖縄本島周辺 姫路空 偵
河田忠男
森近浅太郎
上川安則 20年4月7日 601空K1
土井定美
東山 稔 20年4月6日 沖縄本島周辺 宇佐空 艦攻
富山 枝 20年4月16日 沖縄本島周辺 宇佐空 操縦

【19期】
齋賀秋吉

入江辰夫 ?

【3期】
佐藤茂行

【16期】
山下徳雄
多田輝市


データの「予科練名簿」はもう何年も前にもらったもので、もしかしたらAさんの方ではあれから追加修正などしているかもしれませんが、わたしのほうではこれ以上のことは把握していません。





この碑には殉職者は含まれていないようですね。
予科練の水泳授業中に殉職した10期の白川登さん(15年8月22日)や出水空で殉職した寺元繁雄さん(艦攻操、18年12月28日)のお名前はありません。
寺元繁雄さん



9期の桑島武一さん(戦闘機)も戦傷、のち兵役免除。郷里に帰った後で亡くなっているのでここにお名前はありません。


















春、桜の頃の様子も送ってくださいました。









全国には何か所か9期生のお名前が刻まれている慰霊碑があるのですが、香川高松の神社にこのような慰霊碑があることは知りませんでした。

香川はいままで25年ぐらい前に1度、職場の旅行で行ったきりです。
この慰霊碑のことを聞いて、行ってみたくなりました。






※画像は予科練生ご遺族、久保さんご提供

乙6期 宮武義彰さん2017年08月02日 00時00分45秒

今朝、何気に松本さんの書簡集を読み返していました。

そしたら、飛練谷田部時代に実家に出した書簡に、

『教員(担任の)は香川県出身の人で、我々の先輩の人です。六期生で神戸の藤田数雄さんと同期生です』

と書かれてあるのが目に留まりました。

「なにっ!? 飛練の教員が6期生!?」

文中の「(担任の)」は編集の武田さんが入れたのか、元から入っていたのか、わたしは書簡原文を見ていないのでわかりませんが、おそらく3~4人の練習生に一人ついてくれる担当教員のことをさしているのだろうと思いました。



松本さんの飛練時代のペア写真を先日初めて目にしました。

「あそこに写っている教員が、この『香川出身の6期生』だろうか。調べたら、お名前がわかるかも」




で、すぐに予科練名簿で6期生の香川県出身者を探しました。

岸本佐市さん、中数賀巌さん、宮武義彰さん、森下武さん。


「宮武義彰さんっ!?」

いくらぼけていても宮武さんのお名前は忘れません。少し前にここに写真を出したばかりだったので。




宮武義彰さん。


中西クロちゃんの遺品中にあった写真ですが、ご本人直筆と思われるローマ字のサイン(Y.Miyatake)が入っていて、それでこの人が「宮武義彰」さんであることがわかりました。

香川県出身の乙6期生ということしかわからず、この写真を「横須賀の写真館で撮られたもの」と紹介したときに、わたしは「この人の詳細は把握していません」とぬけぬけと書いています。

いまとなっては恥じ入るばかりです。






もわもわ・・・・っと、あの写真と宮武さんの個人写真が結びつきました。



「うわあああああ!!!! 松本さんの教員は宮武さんだ!!」





あの写真↓

松本さんのアルバムにあった飛練谷田部時代のペア写真です。


練習生は、後列の3人。左から、
松本勝正さん


村田耕一さん


久米武男さん



そして、イスが教員。

「これは宮武さんじゃろ!!」


教員の階級章
1等航空兵曹(1空曹)です。

6期生は16年5月1日に1空曹に進級しているので、15年12月~16年5月末まで谷田部で飛練教育を受けていた飛練10期生の教員として矛盾はありません。
もし宮武さんだとすると、この写真の撮影期間は16年5月1日から卒業式の5月28日までの約ひと月の間、と限定できます。
宮武さん、襟巻を巻いていて一見寒い時期かなと思えますが、階級章からは16年5月です。

余談ですが、教員の目印、腕章(紐?)も巻いています。
ちなみに、みなさんが興味あるかどうかわかりませんが、救命胴衣の股間紐は一点結びです。





こちらにも。
飛練10期生たちは海兵団ごとのペンネントをつけているので、飛練谷田部の卒業写真だと思われます。
5年前から手元にあった写真。


宮武教員はこれですよね。

5年以上前から見ていたと言っても、さすがに冒頭の写真とは結びつきませんでした。




いちおう、わたしの中では、お顔から、
「飛練谷田部時代の松本さん、村田さん、久米さんの担当教員は乙6期の宮武義彰さん」
と結論付けたのですが、他人の空似ということもあるので裏は取りました。
※「裏」=いつものKさん


艦爆操縦員です。

18年10月1日に582空で戦死されていることもご教示いただきました。


ここまでわかるといろいろ出てくるのです。家にあった書籍などから。あー、恥ずかしい。


以前ここで紹介したことがある操練出身の山川新作さん(艦爆操縦)の手記『空母艦爆隊』にも宮武さんのお名前が何度も出ていました。
山川さんは宮武さんとは隼鷹でご一緒だったようです。

集合写真も手記に載っていたのでスキャンして拡大してみました。宮武さんらしき人、発見。



17年10月26日の南太平洋海戦時のことも詳細に書いてありました。
そのときの隼鷹3次攻撃の際の記述に宮武さんのお名前が出ていました。

3次攻撃隊の編制
[制空隊(戦闘機)]
志賀淑雄大尉
村中一夫1飛曹
小野善治飛曹長
長谷川辰蔵2飛曹
北畑三郎飛曹長
石井静雄2飛曹

[攻撃隊(艦爆)]
木村光男1飛曹(操) 加藤舜孝中尉(偵)
山川新作3飛曹(操) 西川強2飛曹(偵)
宮武義彰1飛曹(操) 木村昌富飛曹長(偵)
小瀬本国雄3飛曹(操) 佐藤雅尚2飛曹(偵)

すでに他隊の攻撃で動けなくなっているホーネットにとどめを刺しに行きました。
発艦後、二時五十分ごろ、ホーネットを発見。

『「打て!」二百五十キロ爆弾は機を離れた。私は目がくらむほど操縦桿を引いた。
ガッと吹き上げる火柱と黒煙、隊長機とほとんど同じところに炸裂した。おどり上がるほどうれしかった。やっと任務は果たした。海面すれすれに避退に移る。ふり仰ぐ空に宮武機がついで突入した。ふたたび火箭はいっせいに宮武機に、また一部はわが機に迫ってくる。
向かってくるときにはただの点にしか見えないが、横から見ると火網の中に突っこむように見える。
「がんばれ! 宮武兵曹」
避退中のわが機には、ほとんど敵弾は来ない。宮武機はぐんぐん降下してくる。機体が大きくぐらりと揺れる。ハッと思った瞬間、爆弾ははなれて機首が上がった。ほとんど一、二番機とも同じところに吸いこまれていく。断末魔にあえぐホーネットに立ち上がる火柱。
小瀬本兵曹が急降下に移った。猛烈にしゃにむに撃ち上げる放火の中に、禿鷹のごとく勇ましく舞い降りてくる』(山川新作『空母艦爆隊』光人社NF文庫)

4機の艦爆が放った4発の爆弾はいずれも命中したと書かれています。

宮武さんのあとから降爆した小瀬本さんの手記『激闘艦爆隊』(朝日ソノラマ)も同じような記述になっています。

『「トツレ」(突撃準備隊形作れ)で編隊を解散し、四機の単縦陣を作り、高度五〇〇〇メートルで接敵に移った。
間もなく「トト・・・・」(全軍突撃せよ)が下令された。砲火を撃ち上げる敵艦艇の両舷側は真っ赤である。
やがて指揮官機は熾烈な敵砲火の中を、必中の執念を燃やし急降下に入って行った。上空から見ていると火の塊の中に飛び込んで行くようであった。私たちの目には一斉に一番機に注がれた。獲物を狙う鷹のように真っ逆さまに突っ込んでいく。やがて一番機が投弾した。
続いて二番機山川機が急降下に入った。――中略――
今度は二小隊長宮武機が急降下に入った。「宮武兵曹、ニ小隊長機の面目にかけても頼みますよ」と祈る気持ちで見守った』

こちらも4機の4発の爆弾はホーネットに全弾命中したと書かれています。



行動調書にも、
「航空母艦命中弾4発大火災 右ニ大傾斜ス」


宮武機は被弾6発ながらも無事帰艦、他の3機も無事に帰艦しました(戦闘機も全機帰艦)。


まあ、なんといいますか。
よくみなさん、「海軍って狭い」と言われますが。
ホーネットの動きをとめた翔鶴艦攻隊には6期の山岸昌司さんがいて(電信員は9期の村上守司さん)、最後の一撃を与えた隼鷹艦爆隊には同期生の宮武義彰さんが。
もちろん、他のたくさんの搭乗員たちの攻撃もあってのことですが、今日は宮武さんのことを追っていて、
「あ、こんなところで、こんな人とつながっていたんだ」
としんみりしてしまいました。
※山岸さんのことはこのへんから後に書いています。







宮武さんはのちにラバウルの582空に転勤。

転勤時期が不明です。
行動調書を見ると、18年8月は隼鷹隊で出撃しているようなので、それ以降の転勤かな?
582空の山本司令の日記の18年9月1日に、編成替アリ、と書かれているので、もしかしたら、そこで隼鷹の搭乗員が582空に移って来たのかもな、とわたしは想像しています。もっと調べたらわかるのかもしれません。
隼鷹艦攻隊の佐々木隆寿さん(9期)もそのころ582空に移っていますが時期がわかりません。宮武さんと同じタイミングかもなあ。わかったらまた書きます。

582空の艦爆隊といえば、冒頭の宮武さんのサイン入り写真を持っていた中西クロちゃんがいた隊です。
クロちゃんは18年6月16日のルンガ沖航空戦で戦死されてしまったので、宮武さんが着任したときにはすでにいません。
それ以前に隼鷹隊はこの方面で作戦しているので、クロちゃん戦死の報はすでにお耳に入っていたとは思いますが・・・・。

今日は、Kさんに宮武さんの最期が582空だったと聞かされて、クロちゃんのことを思い、そのことでもしんみりとしてしまいました。
機種も同じ。写真を持っていたぐらいだからきっと仲が良かったのだろうなあ。
クロちゃんのことは[乙6期]のカテゴリに書いているので、よかったらみてください。ここらへんから「乙6期 中西義男さん」シリーズがあります(ページが前後している可能性あり)。





18年10月1日  ビロア輸送船団及び陣地攻撃  行方不明




行動調書では行方不明になっていますが、7期の松浪清さん(582空艦爆隊、先任搭乗員、偵察)の手記『命令一下、出で発つは』(光人社NF文庫)には「宮武機のことではないのか?」という指揮官機の最期が詳細に書かれています。
ただ、この日の行動調書には「配置不明ニシテ一次、二次ノ何レニテ戦死セルヤモ不明」と書かれてあり、操縦員の宮武さんが偵察欄に、偵察員の指揮官・桜山中尉が操縦欄に書かれていたり、出撃していたはずの松浪さんペア(操縦・金縄兵曹)のお名前がなかったり。混乱していたようでよくわかりません。



※、画像は6期生、9期生ご遺族ご提供

横須賀の写真館2017年05月16日 17時38分07秒

おうち仕事がアレなんですが、問い合わせした件の返事が来ないのでいまのうち・・・・(^^;)






ずっと前から気になっている写真スタジオがありました。


鶴見堅三さん。
ペンネントは横須賀海軍航空隊。

桑島武一さん。
ペンネントは横須賀海軍航空隊。

藤原国雄さん。
横須賀海軍航空隊。

関明水さん。
横須賀海軍航空隊。

藤谷周覚さん。
横須賀海軍航空隊。

羽藤一志さん。
横須賀海軍航空隊。

上原定夫さん。
横須賀海軍航空隊。

左から、柳川健さん、松本勝正さん、谷口十七夫さん。
横須賀海軍航空隊。


たぶんスタジオの場所は横須賀だろうと思っています。
ただ、これだけあっても1枚も刻印入りの写真がないので、スタジオ名はわかりません。

背後に棕櫚竹みたいな模様の入ったスクリーンがある分はわかりやすいと思います。

ここまではペンネントや階級章から、13年9月頃~14年2月までの撮影かな?



写っているカーテンですが。

上が藤原さんの写真に写っているカーテン。
下が松本さんたちの写真に写っているカーテンです。


藤原さんのカーテンが鮮明ではないので、同じものなのかそうでないのかちょっとわかりません。




以下の2枚は撮影時期が違います。
米盛朴さん。
霞ヶ浦海軍航空隊。


松本勝正さん。
霞ヶ浦海軍航空隊。

ペンネント、階級章から14年夏だろうと。

松本さんの方には棕櫚竹みたいな模様は写っていませんが、カーテンが米盛さんの写真と同じですよね。

上が米盛さんで、下が松本さん写真のカーテン。




このスタジオが横須賀だとすると、霞ヶ浦から行ったことになります。
14年8月、操偵分隊わけがあった直後に夏休暇に入っているので、そのときに立ち寄った可能性大かな?
米盛さんは鹿児島、松本さんは愛媛なので帰省の途中に寄ったのか?
松本さんは14年の夏休暇は帰省しているみたいです。書簡集に妹さんたちと一緒に写っている写真が掲載されていました。





新井正美さん。
所属航空隊、不明。

新井さんのこの写真ですが。

冬のもこもこ襟飛行服を着ているので一見冬季かとも思えるのですが、イスが籐椅子なんですよね(^^;)

上の写真を見ると、一種の時期は籐椅子を使っていません(藤原さん、上原さん)。
籐椅子が写っているのは米盛さんと松本さんの、明らかに夏季の写真だけ。

飛行服は写真館の貸衣裳でしょうね。

スタジオの小道具はちゃんと入れ替えているみたい。


というわけで、新井さんのこの写真は夏かな?と。




他クラスの写真も何枚かあるので、どうかな?と思って見たみたのですが、10期は横須賀時代が短かった(4か月)せいか、横須賀時代のスタジオ写真がほとんどありませんでした。
このスタジオのものも見当たりません。



6期の中西義男さん(クロちゃん)の写真の中にありました。
6期は入隊から卒業まで横須賀です。
中西義男さん。


宮武義彰さん。香川出身。
申し訳ないですが、わたしはこの方の詳細は把握していません。

残念ながらお二人の写真にも刻印は入っていません。



このスクリーン見たことがある!!
刻印が入っているのを見たことがある!!

って人がいたらぜひご一報ください<(_ _)>



※画像は6期生、9期生ご遺族、雄翔館ご提供

十期生年譜 14年編2016年07月30日 21時00分53秒

10期年譜の続き。


昭和14年1月4日 寒稽古開始(短艇、体操、武道、銃剣術)
       1月6日 横鎮観兵式見学(横須賀海兵団)
       1月9日 軍艦山城碇泊艦務実習
       1月29日 明治神宮競技場においてラグビー試合見学
       2月1日 海軍3等航空兵を命ぜられる
       3月1日 飛行予科練習部横空より霞ヶ浦に移転
       5月14日 筑波山登山行事
       5月27日 海軍記念日霞空運動会
       7月9日 水戸行軍
       8月30日 水泳競技
       10月23日 運動会
       10月24日 地上練習機による適性検査
       11月7日 習志野演習
       11月15日 適性検査(筑波航空隊)
       12月9日 10000メートルマラソン競技

 


7月9日水戸行軍
「黄門サンノオ庭ニテ」
藤本久夫さんの写真です。1学年8班と薄衣班長。




11月7日習志野演習。
久保さんのアルバムにあった集合写真。
久保さんの1学年時の班と、9期の偵察専修生の数人が写っています。伊藤誠一さん、牛澤四郎さん、中尾鶴蔵さんなど。
14年6月に入隊している11期生も写っているんだろうと思います。



こちらは9期・藤原国雄さんのアルバムにあった習志野演習写真。
藤原さん2学年時の班(偵察)の一部の他、10期・西兼淳夫さんや粟生稔さんのお顔が見えます。
10期1学年8班(藤本久夫さんの班)の一部のようです。






11月15日操偵適性検査。
藤本さんのアルバムにあった「昭和十四年ノ秋」。
この写真、ほとんど個人判別できません。

ただ、教員列に山岸昌司さん(乙6)らしき人を見つけました。
これじゃ、わからんですかね(^^;)



※画像は9期10期ご遺族、久保伊勢市さんご提供