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6期のアルバム②2018年12月11日 16時15分23秒

先日、わたしの知人が持っていたアルバムが6期の教員をしていた人のアルバムらしく、貸してもらいました――という話をここに書きました。

それとほぼ同じ時期にもう1冊、6期のアルバムを見せていただく機会がありました。

予科練のことを調べている女性の所有品だそうです。
もともとの持ち主(6期生)はどなたかわかっているんですが、たぶん、お名前を出さない方がいいと思うのでここには書きません。


このアルバムを見せて下さった6期生のご遺族の方が、現在の持ち主の方にここでの紹介の了解をもらってくださったので・・・・。

6期生の集合写真。
衣笠山だそうです。
6期生の袖に階級章が見当たらないので4等航空兵。10年の6月~10月までの間、軍服が二種なので夏ですね。
山岸さん、佐々木さん、クロちゃん、宮武さん、岩井さんのお顔が見えます。
こんなことを言っちゃ怒られるかもしれませんが、みんな、かわいいです。

9期は大楠山の写真はあるけど、衣笠山の写真はないですね。



これ、鉄棒検定らしいんですが。
台紙に書き込みがあって「五キ生」と書いてあるように見えるんですが・・・・。


これとまったく同じ写真が、知人から見せてもらった6期担当教員らしき人のアルバムにも貼ってあったんですよね。  5期なのか、6期なのか?

お顔が見えて、どなたかわかるといいんですが、5期も6期もほとんどわかりません、スイマセン。
いや、この写りだと9期でも判別困難(^^;)





まったくの他人のアルバムの中に同じ写真を見つけると感動します。

これは6期担当教員のアルバムに貼ってあった写真です。仮装行列っぽい。
同じ行事らしき写真が他にも何枚か貼ってありました。
隊内に一般人を招き入れて何かイベントをしているようです。
書き込みがないので、いつの、何の行事かわかりません。

これと同じ写真が、7期生の遺品の中にもあったんです。

ということは、この行事は、6期と7期が同時に在隊していたときの行事か・・・・。

とかとか、推測できたりするのでとってもありがたい発見でした。





6期担当教員のアルバムに写っていたクロちゃんの写真を弟さんに送ったところ、電話がかかってきました。
送られてきた写真を見て、いろいろと思い出されたことがあったみたいで。

わたしが見せてもらっていない遺品がまだあるようです。




※画像はMさん、Tさんご提供

教員の下宿かな?2018年12月01日 14時21分21秒

6期のアルバムの写真。





和装のヒゲの年長者らしき人が教員じゃないかと思うんです。

この人の下宿に遊びに来た予科練生――ってわたしの中でタイトルがついているんですが。

正直、あまり自信はないです。



写っている練習生のメンツがおもしろい。

クロちゃん(中西義男さん、艦爆操)とか。
やっぱりデカい。

岩井さん(戦闘機)とか。

たぶん宮武さん(艦爆操)。
松本勝正さんの飛練谷田部の教員。

みんな楽しそう♪

これだけじゃあ、何のグループかは決めかねます。
いちおう3人の共通点は「操縦」なんですが。
3人以外の他の人が誰が誰やらさっぱりなんで(^^;)
岩井さんの写真にもクロちゃんの写真にも、岩井さん・クロちゃん・宮武さんが一緒に写った班写真はなかったです。班ではないのかも。

階級章も見えないので(ついてはいるので4空ではない)、時期の絞り込みも難しいです。

しかし、あまり初々しい感じでもないので(!?)、予科練に入ってある程度経っているかも。





おやつはパイン缶、健全です。


※画像はMさんご提供

乙6期のアルバム2018年11月30日 17時00分47秒

わたしが先にここに書いちゃっていいですかねー(^^;)


何日か前に、知人のMさんがSNSで海軍のアルバム画像をアップしていました。
中身は横須賀航空隊(予科練)の写真のようだけど、まったく書き込みがなく、撮影時期や写っている予科練生の期別もわからない、だれかわかりませんか?
みたいな投稿だったと思います。

その投稿をわたしが目にしたのは、投稿から数日経ってからでした"(-""-)"
このSNSに関しては他にも多数の不満があります。それは今日の本題ではないのでまた今度。

とにかく、そんな投稿がアップされていたのに驚いて一枚ずつ見ていったのでした。

「いやあ・・・・わからんなあ。でも9期、10期ではないな」

最後の方にあった1枚に見覚えのあるお顔が。

「この人、岩井さん(6期)のアルバムで見たことがある」

で、Mさんに、わたしの画面で見てもキザキザでお顔がきれいに見えないからもっと容量が大きい画像を見せてもらえないだろうかと連絡したらすぐに大容量の画像を送ってくれました。

照合した結果、やはり岩井さんのアルバムに写っていた人と同一人物でした。

すぐにMさんに「乙6期だ」と連絡したのですが、連絡した後で、
「待てよ。もしかしたら引っかけかも知れない」
と思い直しました。
というのも、わたしが参考にした岩井さんの写真、少人数の予科練生の集合写真なのですが、なぜか教員が2人写っていたんです。
ふつう班写真は教員抜きか、教員1人です。
9期の場合で言うと、教員が複数写っている写真は「出身県別集合写真」であることが多いです。

で、岩井さん以外の人をじっくり見たところ(いままで岩井さん以外の人をちゃんと見ていなかった)、5期の相根勇一さん(京都)、6期の佐々木裕二さん(京都)、7期の日下部三郎さん(京都)のお顔が。

「これは京都の集合写真だ」

7期の京都は日下部さん一人なので問題ない。
5期か6期の人だな。
うーん。
いろいろ見ていったところ、やはり、最初にMさんの写真で「見たことがある」と思ったのは6期生で間違いないようだというところに落ち着きました(他の6期集合写真にも写っていた)。水口亨三さんです。





Mさんがアルバムごと送ってくださったんで、他の写真もじっくり見ているところです。


持ち主は、6期を担当したことがある教員の方のようですね。
後に転勤になったのか、艦隊?らしき写真もありました。
でも、中心は予科練生ですわ。

いい写真がいっぱいです。
スタジオでの個人写真、あるいは隊での班写真のようなかっちりしたモノから、行事のスナップ写真まで。仮装大会みたいなんもありました。


クロちゃん(中西義男さん)や岩井さんのお顔もありました。
宮武義彰さんかな?という写真もありました。笑顔なので「かな?」ってところです。


山岸昌司さんもありました。
ありました、というか、これまたちょっと角度がアレなんですが(^^;)
酒保。

左の方で新聞を広げている練習生がいるでしょう?


この右の人が山岸さんだと思うんです。
姪御さんにも見てもらいました。
(自分の)兄に似ています、とのことで。

そのとき姪御さんが、左の人は高橋金六さんじゃないかしら?と。

わたしの手元に高橋金六さんがはっきりわかる写真があったので確認しましたが、おそらくそうだろうと思います。

山岸さんの親友らしいです。

それを聞いて、なんかジーンときてしまいました、この写真。

何の記事を読んでいるんでしょうね。



もう一枚。
これも酒保なんですが。
窓口に並んでいる練習生の左から2人目。


これも山岸さんだと思うんですよね。

これは確認してもらおうと思ってメールに添付して送ったのですが、画像が見れないと言われるので、もうこっちで見てもらうことにしました。

いかがでしょうか?

窓口まであとちょっとだ、ワクワク((o(´∀`)o))


他のクラスの卒アルにも酒保の写真がよく掲載されていますが、みんなリラックスしてとっても楽しそうです。


※画像はMさんご提供

特技章2018年04月13日 20時31分07秒

※Kさんからご指摘を受けて2220に一部修正しました。
 「飛練4期は普電練49期」と書いていましたが、「飛練4期は偵練52期」が正しい、とのことでした。






特技章の話、前に書いたかもしれないのですが、最近、自分のサイトを検索しても記事をよう探さない・・・・orz
探している記事が出てこないんですよ・・・・。
書きすぎなんでしょうか?(^^;)


特技章とは。
6期の先輩、岩井勉さん(戦闘機)のことばをお借りしましょう。
(飛練の霞ヶ浦航空隊を卒業し、延長教育の佐伯航空隊へ向かう汽車の中)われわれは京都まで食堂車のテーブル四卓を占領し、ビールで乾杯しながら走った。われわれの左腕には飛行練習生教程卒業の特技章である荒鷲と錨のマークが付いている。予科練入隊以来三年三ヶ月にして、ようやく特技章が付いたのだ。これで押しも押されもしない一人前の海軍軍人である。海軍ではこの特技章がものをいうのである。
(中略)
われわれは一般客に左腕を見てもらいたかったので、食堂車の椅子に腰をかけるときも、左のマークが見えるように工夫して席をとった』(岩井勉『空母零戦隊』文春文庫)

左袖につけるので「左マーク」とも呼ばれています。






先日、山口良一さんの写真を見せてもらいに行ったとき、一番最初に見せてもらった写真がこれでした。

山口さんの家族写真です。ご両親、お兄さん、姪御さん姉妹(お兄さんのお嬢さんたち)。
姪御さんはこの写真を撮ったのは、山口さんが予科練に入ってすぐの頃だったと思われていたそうです。
ジョンベラなので(^^;)

たしかに、ジョンベラは兵階級の軍服なので、「新米」のイメージがあるのかもしれません。


が、姪御さんのお孫さんはさすがに「この顔は新米っぽくない」と思われていたそうです(笑)
たしかに(^^;)

よく見るとですね、この兵隊さん、全然新米じゃないんですよ。

右袖には山形の善行章1線、その下に一等航空兵(16年6月1日に航空科から飛行科に変更、それ以降は「飛行兵」「飛行兵曹」)の階級章、そして左袖に航空の特技章をつけています。

そのときに説明したのですが、善行章というのは海軍に入って3年経ったら1線もらえるもの(6年で2線目、9年で3線目・・・・と増えていきますが、予科練生は多くても2線で、3線目が付く前に兵曹長に進級するのがふつうです)。
つまり、この写真は乙7期の山口さんが11年6月1日に海軍に入って3年以上経っている状態。14年6月1日以降。
特技章が付いているので、「練習生ではなく一人前の搭乗員です」と説明してきました。
(7期が一等兵に進級したのは予科練卒業と同日の13年8月15日)

しかし、家に帰って来て、
「はて? 7期はいつ特技章をもらったのだろうか? 山口さんのペンネントは大分空・・・・」

わたしが考えてもわかるわけないし、ネットで調べたって出てこないのでKさんに尋ねてみました。
いつも自分を正当化してスイマセン。


7期は中練卒業時にもらっています


とのことでした。
そのときに、5期の角田和男さんと6期の岩井勉さんも手記に中練修了時点で特技章をもらったと書いていますよ、とご教示くださいました。

どちらも読んでいるんですけどね。
読んだときはまったく特技章に関心がなかったので記憶に引っ掛かっていないんでしょうね。
いつもスイマセン(´Д`)

7期が特技章をもらったのは中練修了時の14年3月31日。
山口さんは延長教育は大分海軍航空隊です。艦攻補習生。
その次が木更津海軍航空隊です。14年9月2日付。
しかし、それ以前の8月12日から11月4日まで、という期間で大型機特別教育を受けていると履歴上に書かれているので、9期と同じであれば、籍だけ大分で、8月12日から木更津に移動している可能性もあるのかな?と思っています。

上の写真は、14年の夏休暇で帰省したときのものしょう。日付まではわかりません。






さらにKさんにいろいろ尋ねてみたんですが。

「予科練」の教程と「飛練」の教程は海軍の搭乗員になるためのひと続きのものです。
飛練を終えて、ようやく一人前の搭乗員の証・特技章をもらえるのです。

昭和5年、予科練制度が始まったとき、すでに搭乗員養成コースの先輩制度として「操縦練習生(操練)」や「偵察練習生(偵練)」の養成コースがありました。
これは海兵団から海軍に入った人の中から試験で選抜、航空兵になるための訓練をさせるものです。
もともと兵科だった人や整備、主計科だった人などもいます。

どうも、かれらと区別するために、たとえば第1期飛行予科練習生(のちの乙飛予科練)が飛練に進んだときには第1期「飛行練習生」という呼び方をされ、それが甲飛制度が始まるまで続いたと。
昭和12年に入隊した第1期甲種飛行予科練習生たちは飛練に進んだら第1期「甲種飛行練習生」になったのでしょうが、履歴を見たことがないのでわたしにはわかりません。

ちなみに、わたしが実際に見たものですが、甲飛制度が始まって以降に飛練生になった乙6期(13年1月から飛練)と乙7期(14年8月から飛練)出身の搭乗員の履歴にはそれぞれ「第6期飛行練習生(操縦専修)」「第7期飛行(操縦)練習生」と書かれてあり、「乙種」である旨は記されていません。
『日本海軍戦闘機隊2【エース列伝】』の巻末付録に、8期の初練修業記念集合写真が掲載されていますが、そこには「第八期乙飛初練修業記念」と書かれています。



しかし、この制度も昭和15年10月1日に変更になったようです。
詳細は知りませんが、いままで操練、偵練、飛練(予科練生のつづき)とわけていたのを、全部ひっくるめて「飛練」にしたようなのです。

何が変わったか。
ひとつは、特技章のデザイン。それまで操練・偵練の特技章と飛練の特技章は別のデザインでした。
それが飛練の特技章デザインに統一されたそうで。
島田清守さんの15年10月6日の日記にもそのことに触れられた箇所があります。
予科練生としては、そのつづきの飛練終了時にもらえる特技章に誇りを持っていたようです。特技章を見ればひと目で「予科練出身の搭乗員」とわかりますからね。操練・偵練が同じデザインになったのが不満だった様子です。
が、Kさんに言わせると、この統一は操練・偵練側からも不満が上がっていたそうです(^^;)
お互い、自分のところに誇りを持っている――よいことだと言っておきましょう。
飛練の特技章のデザインはまさに山口さんが左袖につけているマーク、あれです。
15年10月の統一以前の操練の特技章は、『日本海軍戦闘機隊2【エース列伝】』の半田亘さんが下士官二種軍装につけています。
あと、坂井三郎さん(戦闘機)が『写真 大空のサムライ』で、同じく下士官二種軍装につけています。

そして、もうひとつ大きなこと。
いままでは操練〇期、偵練〇期、飛練〇期(第〇期飛練、甲種第〇期飛練)・・・・と、コースによって期別を振っていたのを、飛練〇期(第〇期飛練)にまとめてしまったのでした。

新たな飛行練習生課程が15年10月から、ということでしたが、すでに飛練で訓練中だったクラスはさかのぼって期が変更されたようです。飛練1期は甲飛3期、飛練2期は偵練51、飛練3期は操練54期、飛練4期は偵練52期、飛練5期は普電練52期、飛練6期は操練55期、飛練7期は操練56期、飛練8期は普電練52期、飛練9期は甲飛4期、飛練10期は乙9期・・・・とこんな感じで続いていきます。
※秦郁彦/伊沢保穂『日本海軍戦闘機隊2【エース列伝】』大日本絵画の巻末資料より

ただ、これ、「は」の右と左はまったくイコールとはかぎりません。
例えば乙8期の先輩が何らかの理由で同期と一緒に進級できずに飛練10期に編入されている・・・・あるいは乙9期がやはり一緒に進級できずにあとの飛練クラスに編入されている・・・・という場合もあるので、あくまで「飛練10期は乙9期が主体」ぐらいの意味です。





冒頭の話題に戻ります。

特技章はいつもらっているのか。

新飛練教程以前の乙5、6、7期は、どうも中練修了段階で特技章をもらっていたみたいですね。
その過程だけを「飛行練習生課程」と呼んでいたようです。
8期はわたしは資料を持ち合わせていないのわかりません。法則?にしたがえば、やはり中練終了時(15年3月30日)にもらっているんでしょうか。

新制度の飛練10期である乙9期は、特技章は中練終了時点ではなく、延長教育(実用機教程)が修了した時点でもらっています。
9期の時点では延長教育修了までが「飛行練習生課程」になっています。

ちょっと表にしてみました。試作品なので転載禁止で。クリックしたら拡大します。
6期、7期、9期だけです。他クラスのみなさん、スイマセン。
しかも、これはそのクラス全員に該当するものではありません。
ご提供いただいた複数の予科練出身戦闘機・艦攻・艦爆操縦の人のものを参考にしました。
善行章や特技章付与日、進級日は期で基本的に同じはずです。
が、中練修了や実施部隊に出た日などが、操縦と偵察で違っていたり、さらに、操縦の中でも陸上機操縦と水上機操縦では違っていたり。さらに陸上機操縦の中でも、小型機と大型機の操縦では違うとか。
本当はちゃんと期ごとに操偵別、機種別にやったらいいんですが、能力不足ということで今回はここまで。
もっというと、もともとの目的が山口さんのご遺族の方に説明してあげようと思って作ったものなので、参考までに前後の期はこんな感じです、ってだけの表です。

薄い黄色のベタ背景は飛練時代、黄色い外枠は延長教委育(実用機)時代です。




これは6期の飛練(初練・中練)卒業時の集合写真です。@霞ヶ浦航空隊
撮影日は書かれていなかったですが、13年8月16日ということになりますね。

いままで気に留めていなかったのですが、よく見たら特技章をつけていました。
この日、もらったものです。



9期は中練卒業時点では特技章はもらえておらず、延長教育終了時に初めてもらっています。
一番古い写真は16年10月30日、攻撃機操縦・大型機講習@木更津の卒業時集合写真。
みんな袖が重なっていて、ちゃんと特技章が見えている人が少ないんですが・・・・。
村田耕一さんの特技章。この日にもらったもの。仮留めなのか、浮いています。



こうしてみると特技章をもらえるまで、乙6期は海軍に入って3年と2ヶ月半、乙7期は2年10ヶ月、乙9期は3年5ヶ月。それだけみても、クラスによって違うことがわかります。



※画像や履歴などは6期生、7期生、9期生ご遺族ご提供。制度や進級関係の話はKさんご教示

諏訪訪問2018年03月29日 12時58分10秒

23日、長野に行ってきました。
名古屋発、8時ちょうどのしなの3号で。


途中、藤原国雄さんのご実家の近くも通過しました。


なんか山がすごかったです。


気づいたら、雪国になっていました。

雪が積もっていたのは↑ここまで。ここから先は雪は積もっていませんでしたし、この日は寒くはありませんでした。




今回の第一の目的地はこちらでした。
長野県某市某所のお社。
たぶん、ふらっと行って見つけられる場所ではありません。

左端に写っている「祭祀碑」と書かれた石碑は戦没者の慰霊碑です。裏に地区で亡くなられた戦没者の方々のお名前が刻まれています。

17年10月26日、南太平洋海戦で翔鶴で戦死した村上守司さん(艦攻・電信員)のお名前が刻まれています。









九期生名簿に昭和40年時点のご遺族・生存者の住所が書かれています。
村上さんの昭和40年時点のご遺族住所は「ここだ」という場所はわかっていましたが、そこに現在ご遺族の方はおられず、わたしは追跡はしていませんでした。


村上さんが戦死したときのペアの操縦員。
乙6期の山岸昌司さん。


わたしは、村上さんがご縁で山岸さんの姪御さんと知り合いになったわけですが。

山岸さんからしたら、おじさんと一緒に亡くなった村上さんは他人とは思えないような存在だったでしょう。

村上さんは同じ乙飛の後輩でもあります。しかも同郷。


わたしがあきらめているにもかかわらず、山岸さんはどうしてもお参りしたいと村上さんのご縁の方を探し続けていました。

が、うまくいきませんでした。


村上さんの故郷の遺族会の会長さんも協力してくださったらしいですが、見つからなかったそうです。


最近?、遺族会の会長さんが交代されたのか、新しい会長さんになられたそうで。

県内の慰霊祭で顔を合わせたときに、山岸さんと新会長Nさん(海軍のお父さんが戦死)のふたりで村上さんのお話をされていたそうです。

そしたら――。

まさに、これこそお導きだと思いますが。

ふたりが話している近くに、たまたま村上さんの出身地区のご遺族の方Kさん(陸軍のお父さんが戦死)がいらして、「村上守司」という名前を聞いてピンと来られたそうです。
「お名前が刻まれた慰霊碑がありますよ」
そこでつながって、今回の長野訪問になりました。


当日は、山岸さんとは村上さんの地元駅で合流。
そこに地元のNさんとKさんが車で迎えに来てくださっていました。

すぐにお社に連れて行ってくださいました。
上に出した写真の場所です。
たぶん地図にも載っていないお社だと思います。
地元の方々で大事にしているお社です。
中に戦没者の氏名、生年月日、戦没状況などを書いた木札を入れてお祀りしているそうです。

お父さんがここに祀られているKさんは、いまもこのお社の近くにお住まいです。
村上さんが当時住まれていた家はKさん宅からほんの目と鼻の先でした。歩いて1、2分ぐらいの場所。
「ここに住まれていたんですよ」
というところに連れて行ってくださいました。いまはもう村上家はそこになく、家も建て替わってまったく関係ない方がお住まいでした。
Kさんは村上さんの家族関係や生まれ年などもご存知でした。
ただ、昭和5年生まれのKさんは、大正11年生まれの村上さんに会った記憶はないそうです。
村上さんが予科練に入隊した昭和13年には8歳ですからね。当時の記憶はあるのでしょうが、一緒に遊ぶような年齢差でもないですから、村上さんのことが記憶にないのかもしれません。



お参りしたあと、山の中腹にある諏訪湖の見える蕎麦屋さんに連れて行ってくださいました。

素晴らしい景色を眺めながら、おいしいお蕎麦。





わたしは、今回は完全に便乗で、山岸さんが全部セッティングしてくださって、地元のご遺族の方々のご厚意でお参りできたわけですが。

お参り後まですっかりお世話になってしまいました。

山を下りてきて、わたしの念願だった諏訪大社にも連れて行ってくださいました。


秋宮。






山岸さんは電車の時間があったので、このあと駅で別れました。



山岸さんと別れたあとも、

「車でないと行けないから」

と、諏訪大社・本宮と前宮をまわってくださいました。

本宮。





八ヶ岳連峰。



前宮。






思いがけず3ヶ所の諏訪大社をまわることができました。

春宮が残っているので、それは今度。







村上さんという人は、わたしにとっては古い人です。
9期のことを調べるきっかけになった羽藤一志さんのアルバム。
羽藤さんが1学年時に同班だったことで、村上さんのお顔は最初期から認識していました。
ただ、どなたかわかるまでには時間がかかりました。
2015年に、藤原国雄さんの長野出身者集合写真を見てようやく「この人が村上守司さんではないのか?」というところにたどり着けました。
その直後に、生存者の方が保管されていた氏名入り班写真ではっきりと村上守司さんがわかりました。

お参りできてよかったです。
お墓参りはできませんでしたが、育った場所に行けたということが。
こんな景色を見ながら育ったのか、というのが実感できました。
Googleストリートビューでウロウロするのとは全然違いますからね(^^;)
景色を見て、空気に触れて、ヒトに触れて。




今回は山岸さんとNさん、Kさんにお世話になりっぱなしでした。
何もせずに、一番、いい思いをしてしまったような(^^;)
本当にありがとうございました。


※、画像は6期生・9期生ご遺族ご提供