諏訪訪問 ― 2018年03月29日 12時58分10秒
23日、長野に行ってきました。
名古屋発、8時ちょうどのしなの3号で。
途中、藤原国雄さんのご実家の近くも通過しました。
なんか山がすごかったです。
気づいたら、雪国になっていました。
雪が積もっていたのは↑ここまで。ここから先は雪は積もっていませんでしたし、この日は寒くはありませんでした。
今回の第一の目的地はこちらでした。
今回の第一の目的地はこちらでした。
長野県某市某所のお社。
たぶん、ふらっと行って見つけられる場所ではありません。
左端に写っている「祭祀碑」と書かれた石碑は戦没者の慰霊碑です。裏に地区で亡くなられた戦没者の方々のお名前が刻まれています。
たぶん、ふらっと行って見つけられる場所ではありません。
左端に写っている「祭祀碑」と書かれた石碑は戦没者の慰霊碑です。裏に地区で亡くなられた戦没者の方々のお名前が刻まれています。
17年10月26日、南太平洋海戦で翔鶴で戦死した村上守司さん(艦攻・電信員)のお名前が刻まれています。
九期生名簿に昭和40年時点のご遺族・生存者の住所が書かれています。
村上さんの昭和40年時点のご遺族住所は「ここだ」という場所はわかっていましたが、そこに現在ご遺族の方はおられず、わたしは追跡はしていませんでした。
村上さんが戦死したときのペアの操縦員。
乙6期の山岸昌司さん。
わたしは、村上さんがご縁で山岸さんの姪御さんと知り合いになったわけですが。
山岸さんからしたら、おじさんと一緒に亡くなった村上さんは他人とは思えないような存在だったでしょう。
村上さんは同じ乙飛の後輩でもあります。しかも同郷。
わたしがあきらめているにもかかわらず、山岸さんはどうしてもお参りしたいと村上さんのご縁の方を探し続けていました。
が、うまくいきませんでした。
村上さんの故郷の遺族会の会長さんも協力してくださったらしいですが、見つからなかったそうです。
最近?、遺族会の会長さんが交代されたのか、新しい会長さんになられたそうで。
県内の慰霊祭で顔を合わせたときに、山岸さんと新会長Nさん(海軍のお父さんが戦死)のふたりで村上さんのお話をされていたそうです。
そしたら――。
まさに、これこそお導きだと思いますが。
ふたりが話している近くに、たまたま村上さんの出身地区のご遺族の方Kさん(陸軍のお父さんが戦死)がいらして、「村上守司」という名前を聞いてピンと来られたそうです。
「お名前が刻まれた慰霊碑がありますよ」
そこでつながって、今回の長野訪問になりました。
当日は、山岸さんとは村上さんの地元駅で合流。
そこに地元のNさんとKさんが車で迎えに来てくださっていました。
すぐにお社に連れて行ってくださいました。
上に出した写真の場所です。
たぶん地図にも載っていないお社だと思います。
地元の方々で大事にしているお社です。
中に戦没者の氏名、生年月日、戦没状況などを書いた木札を入れてお祀りしているそうです。
お父さんがここに祀られているKさんは、いまもこのお社の近くにお住まいです。
村上さんが当時住まれていた家はKさん宅からほんの目と鼻の先でした。歩いて1、2分ぐらいの場所。
「ここに住まれていたんですよ」
というところに連れて行ってくださいました。いまはもう村上家はそこになく、家も建て替わってまったく関係ない方がお住まいでした。
Kさんは村上さんの家族関係や生まれ年などもご存知でした。
ただ、昭和5年生まれのKさんは、大正11年生まれの村上さんに会った記憶はないそうです。
村上さんが予科練に入隊した昭和13年には8歳ですからね。当時の記憶はあるのでしょうが、一緒に遊ぶような年齢差でもないですから、村上さんのことが記憶にないのかもしれません。
お参りしたあと、山の中腹にある諏訪湖の見える蕎麦屋さんに連れて行ってくださいました。
わたしは、村上さんがご縁で山岸さんの姪御さんと知り合いになったわけですが。
山岸さんからしたら、おじさんと一緒に亡くなった村上さんは他人とは思えないような存在だったでしょう。
村上さんは同じ乙飛の後輩でもあります。しかも同郷。
わたしがあきらめているにもかかわらず、山岸さんはどうしてもお参りしたいと村上さんのご縁の方を探し続けていました。
が、うまくいきませんでした。
村上さんの故郷の遺族会の会長さんも協力してくださったらしいですが、見つからなかったそうです。
最近?、遺族会の会長さんが交代されたのか、新しい会長さんになられたそうで。
県内の慰霊祭で顔を合わせたときに、山岸さんと新会長Nさん(海軍のお父さんが戦死)のふたりで村上さんのお話をされていたそうです。
そしたら――。
まさに、これこそお導きだと思いますが。
ふたりが話している近くに、たまたま村上さんの出身地区のご遺族の方Kさん(陸軍のお父さんが戦死)がいらして、「村上守司」という名前を聞いてピンと来られたそうです。
「お名前が刻まれた慰霊碑がありますよ」
そこでつながって、今回の長野訪問になりました。
当日は、山岸さんとは村上さんの地元駅で合流。
そこに地元のNさんとKさんが車で迎えに来てくださっていました。
すぐにお社に連れて行ってくださいました。
上に出した写真の場所です。
たぶん地図にも載っていないお社だと思います。
地元の方々で大事にしているお社です。
中に戦没者の氏名、生年月日、戦没状況などを書いた木札を入れてお祀りしているそうです。
お父さんがここに祀られているKさんは、いまもこのお社の近くにお住まいです。
村上さんが当時住まれていた家はKさん宅からほんの目と鼻の先でした。歩いて1、2分ぐらいの場所。
「ここに住まれていたんですよ」
というところに連れて行ってくださいました。いまはもう村上家はそこになく、家も建て替わってまったく関係ない方がお住まいでした。
Kさんは村上さんの家族関係や生まれ年などもご存知でした。
ただ、昭和5年生まれのKさんは、大正11年生まれの村上さんに会った記憶はないそうです。
村上さんが予科練に入隊した昭和13年には8歳ですからね。当時の記憶はあるのでしょうが、一緒に遊ぶような年齢差でもないですから、村上さんのことが記憶にないのかもしれません。
お参りしたあと、山の中腹にある諏訪湖の見える蕎麦屋さんに連れて行ってくださいました。
素晴らしい景色を眺めながら、おいしいお蕎麦。
わたしは、今回は完全に便乗で、山岸さんが全部セッティングしてくださって、地元のご遺族の方々のご厚意でお参りできたわけですが。
お参り後まですっかりお世話になってしまいました。
山を下りてきて、わたしの念願だった諏訪大社にも連れて行ってくださいました。
秋宮。
わたしは、今回は完全に便乗で、山岸さんが全部セッティングしてくださって、地元のご遺族の方々のご厚意でお参りできたわけですが。
お参り後まですっかりお世話になってしまいました。
山を下りてきて、わたしの念願だった諏訪大社にも連れて行ってくださいました。
秋宮。
山岸さんは電車の時間があったので、このあと駅で別れました。
山岸さんと別れたあとも、
「車でないと行けないから」
と、諏訪大社・本宮と前宮をまわってくださいました。
本宮。
八ヶ岳連峰。
前宮。
思いがけず3ヶ所の諏訪大社をまわることができました。
春宮が残っているので、それは今度。
村上さんという人は、わたしにとっては古い人です。
9期のことを調べるきっかけになった羽藤一志さんのアルバム。
羽藤さんが1学年時に同班だったことで、村上さんのお顔は最初期から認識していました。
ただ、どなたかわかるまでには時間がかかりました。
2015年に、藤原国雄さんの長野出身者集合写真を見てようやく「この人が村上守司さんではないのか?」というところにたどり着けました。
その直後に、生存者の方が保管されていた氏名入り班写真ではっきりと村上守司さんがわかりました。
お参りできてよかったです。
お墓参りはできませんでしたが、育った場所に行けたということが。
こんな景色を見ながら育ったのか、というのが実感できました。
Googleストリートビューでウロウロするのとは全然違いますからね(^^;)
景色を見て、空気に触れて、ヒトに触れて。
今回は山岸さんとNさん、Kさんにお世話になりっぱなしでした。
何もせずに、一番、いい思いをしてしまったような(^^;)
本当にありがとうございました。
※、画像は6期生・9期生ご遺族ご提供
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