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乙9期 大塚孝平さん2015年05月30日 22時49分19秒

今日は大塚さんの命日なんやなあ・・・・。


長野出身。

97艦攻の偵察員です。
翔鶴(『予科練外史』)、祥鳳、横須賀空・・・・

【東京行軍】



【長野県出身7~9期集合写真】

【大楠山慰安行軍】

【操偵適性検査】

【香取神宮】


予科練卒業時の寄せ書き

【博多飛練修業集合写真】



『予科練外史』の倉町先生によると、翔鶴で真珠湾に行ったとか。
行動調書にお名前は見当たりません。坂田さんと一緒ですかね。



17年2月から祥鳳にお名前があります。祥鳳の後、横空、その後の足取りはつかんでいないのですが。



おもいで
「霞空予科練のはじめての夏季休暇から帰隊してはじめてのハンモックでしみじみと予科練を外にしての青春について語り合ったものだ。がっちりした体格にも似合わず、繊細な情緒を持っていた。文学的な青年だ」

「ラグビー、柔道などそう器用ではなかったがあの軀とあの意気で押しまくっていたな」

「いまでも君の丸い顔が目に浮かぶ。お互いに言わず語らずに何となく馬が合ったものだったネ。明るいクラブでのことなども思い出される。どうしても生きていてほしかったのになあ」



ふだんは同期生の容貌に関する回想はあまり根拠にしないように心がけているのですが、今回はこの「丸い顔」という回想を根拠に、長野県9期生のお名前がわからないお二人のうち、こちらの人が大塚さんだと判断しました。
「がっちりした体格」と「あの躰」にちょっと引っかかるものがあるのですが(^^;)
写真を見る限りでは、細身で長身のように感じます。さっき出した13班の宮城前写真で、植木愛雄さんの右に写っています。





大塚さんが横空から倉町先生に宛てた17年6月18日付の手紙の文面が『予科練外史』に載っています。

珊瑚海海戦時の祥鳳の最期について。

『―― 略――自分の艦も、攻撃準備成って、さあ!という時に一歩早く敵が来たのです。実に残念でしたが、その時はどうしようもなく、最善を尽くして猛烈な防御砲火を送ったのですが、母艦は遂に爆弾で火災を起こし舵をやられ、自由を失った所を、四方から雷撃機が蜂のようにやって来るのです。本当に箒でもって叩き落 としてやりたいようでした。
艦首は砕かれ、艦が傾斜して来た時でも、いや、自分の艦は絶対に沈むようなことはない、と最後まで思って居りました』

同期の益田増雄さん、野田実さん、繁富悦行さんと一緒にいたのにいつの間にか大塚さん一人に。

『気がつくと、自分は腕を組んで甲板に立って敵機を見ておりました。益々つけこんでやって来る。放った爆弾が黒く光って「ヒュー」とうなって降って来るのが、はっきり見える。雷撃機が魚雷を放って行くのもよく見えました。
そのうちに続いて二弾、自分の間近に炸裂、その爆風で自分は吹き飛ばされて海中に落ちたらしく、気づいた時には、目の前を、煙と焔に包まれたわが艦が、静かに進んで行くのが見えました。何分経ったか、艦と三○○米位離れたとき、艦は大きく前に傾いて、海面から姿を消してしまいました。その時の胸中を察してく ださい。
<ああ、俺は南緯十何度の海で死んでいくのか。>と思った時は生命が惜しいというのではなく、本当に淋しい思いでした。――略――』

大塚さんは9時間半漂流して救助されました。益田さんも繁富さんも無事でしたが、野田さんは爆弾の直撃でやられた、と手紙には書いてあります。





19年1月17日に兵役免除になり、19年5月30日に病死。

雄飛会の名簿の方には「公務死亡」と書かれていますが、詳細は把握していません。


※倉町秋次『予科練外史』、画像は武田信行氏、9期生ご遺族ご提供

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