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長野県出身乙6~8期生2015年05月30日 11時19分39秒

9期生に関しては書いたので、今回は6~8期生に関して。






この2枚の長野県出身者集合写真、おそらく上が6~8期生、下が7~9期です。



【上の写真にだけ写っている人】
前列左から3人目の山岸昌司さん。6期生。

山岸さんの右隣の人。
たぶんこの人、6期生だと思うんですよね。

山岸さんの写真の中にあった6期生総員集合写真と思われる写真に写っていました。
総員写真なので不鮮明ですが同じ人じゃないかなあ?


ある資料には長野県出身戦没6期生として「太田」という人が含まれています、
6期の「太田」さんは、太田五郎さんだけです(名簿上は東京出身)。
もし太田五郎さんだとしたら、真珠湾攻撃時の蒼龍雷撃隊・長井彊大尉機の電信員・太田五郎1飛曹です(吉良敢・吉野泰貴『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』大日本絵画)。

藤原国雄さんの写真から芋づる式(?)にここまで来てしまったのですが、藤原さんが戦死した攻撃708の飛行隊長が長井彊大尉です。
うーん、なんか不思議な感じ。





【両方の写真に写っている人】
つまり7期生と8期生ですが、このうち7期の卒業写真に写っていると思われる人を先に・・・・。

なぜか9期の池田和義さんのアルバムに7期の卒業写真が貼られていました。
この7期の卒業写真はめっちゃ小さくて、個々人のお顔がよくわかりません。
西澤さんがどこにいるのかわからない、というありえない言い訳をしたくなるぐらいわかりにくい写真ですので、自信は100%ではありません。



7期卒業写真




7期卒業写真





7期卒業写真





7期卒業写真





7期卒業写真





7期卒業写真





7期卒業写真


こうなると7期生が実は6名ではなく7名いるということになってしまうわけですが(;^ω^)
名簿上では、剣持武男さん、小林貞さん、隆旗武雄さん、西澤廣義さん、丸山裕(格?)さん、立岩(石?)厚さんの6名です。
※お名前の字、どちらが正しいのかわからない人がいます


それ以外の人が8期生かな?





8期生は小沢芳平さん、宮下正年さん、渡辺武夫さんの3名でよいのかな。



これらを総合して、2枚の写真の並び順はこうではないかと推定してみました。



主役は最上級生。

前列中心から先任者が座ります。

最上級生以外はまあテキトーなんかな?(^^;)




6期生、7期生を特定するのに使用にした写真が不鮮明なので、もしかしたら後日何か出てきてひっくり返るかもしれませんが、とりあえず現時点で「こうではないか?」ってのを書いてみました。


※画像は武田信行氏、山岸さんご遺族、9期生ご遺族ご提供

9期13班2015年05月30日 14時14分40秒

植木愛雄さんと牛澤四郎さんのお顔がわかったので。


またまた13班のメンバーを東京行軍宮城前に記入してみました。

スペースの都合で敬称階級略です。横に長い分隊集合写真の左半分です。


おおまかに前方左から9班、10班、11班、12班、
後方左から13班、14班、15班、16班、
というかたまりで写っているようにあります。

阿部健さんが「おもいで」で13班だと言っているのは、
岡本清見さん(偵察)
井原大三さん(戦闘機)
仲野修さん(偵察)
笠井繁雄さん(偵察)
牛澤四郎さん(偵察)
新井正美さん(戦闘機)
村田耕一さん(艦爆)
木原辰雄さん(中攻)
植木愛雄さん(偵察)
本城秋生さん(偵察)

なのですが、本城秋生さんは、前の分隊(1~8班)と思われる竹田俊司さんも「入隊時同班」と言っています。
13班なのか、前の分隊なのかわかりません。

阿部健さんも、笠井さんのことを「横空入隊時同班十三班の伍長で組長」と言ったり、本城さんのことを「入隊時同班の伍長だった」と言ったりしているので・・・・。

笠井さんは立ち位置からも13班であるのは間違いないように思います。

あと、立ち位置から松本佐市さんも13班なのではと思っています。


宮城前写真の後列左端の人とその右の安達繁信さんは、3つ目の組(9~12班)の水泳写真に写っているので、たぶん9班なんだと思います。
水泳写真に写っているんじゃないかって人は軍帽に水色の丸印を入れています。この人たちは9~12班です。
宮城前写真で13班の前方に座っている人たちが9班メンバーでしょう。
9班の右側が10班。池田和義さんの班でメンバーのお顔はわかっています。


写真の中で13班員としてとってもあやしいのは、阿部健さんと牛澤さんの間に立っているお二人です。

お二人のうち左側の人は、石塚猛さん(戦後本間)が手記に載せている飛行艇専修生10名の集合写真にお顔が見えるので、飛行艇の偵察員でしょう。どなたか不明。
本城さんは千歳の2座水偵の偵察員みたいなので、この人ではないでしょう。


お二人のうち右側の人も偵察の人ですが、どなたか不明です。
博多飛練の修業写真に写っていないので、この人も本城さんではない、と(本城さんは水上機なので博多写真に写っているはず)。
上にあげた13班員のうちまだお顔がわからない岡本清見さんか、お名前すらわかっていない13班員(あと1人、2人いるはず)の方かな?


次にあやしいのは、中列にかがんでいて(膝立ち?)、軍帽に水色の丸がついていない人たちです。新井正美さんの右側3人ほど。4人5人と言い出すと、今度は14班メンバーが足りなくなるので(^^;) 本城さんがどうなのかって問題もあるんですが。
新井さんの隣の人は操縦の人です。呉海兵団。中攻集写真に写っていないので、戦闘機か艦攻の人じゃないかな・・・・。





ちょっと前には、
「わたしが生きている間に、もう偵察員はひとりもわからないんじゃないか」
とすら思っていたのですが、坂田さんの特練11期集合写真から植木愛雄さんがわかり、藤原国雄さんの同郷先輩とのツーショット写真からなぜか牛澤四郎さん、大塚孝平さん、村上守司さんがわかり。

まだまだ諦めるもんじゃないな、と(^^;)


※画像は9期生ご遺族ご提供

乙9期 大塚孝平さん2015年05月30日 22時49分19秒

今日は大塚さんの命日なんやなあ・・・・。


長野出身。

97艦攻の偵察員です。
翔鶴(『予科練外史』)、祥鳳、横須賀空・・・・

【東京行軍】



【長野県出身7~9期集合写真】

【大楠山慰安行軍】

【操偵適性検査】

【香取神宮】


予科練卒業時の寄せ書き

【博多飛練修業集合写真】



『予科練外史』の倉町先生によると、翔鶴で真珠湾に行ったとか。
行動調書にお名前は見当たりません。坂田さんと一緒ですかね。



17年2月から祥鳳にお名前があります。祥鳳の後、横空、その後の足取りはつかんでいないのですが。



おもいで
「霞空予科練のはじめての夏季休暇から帰隊してはじめてのハンモックでしみじみと予科練を外にしての青春について語り合ったものだ。がっちりした体格にも似合わず、繊細な情緒を持っていた。文学的な青年だ」

「ラグビー、柔道などそう器用ではなかったがあの軀とあの意気で押しまくっていたな」

「いまでも君の丸い顔が目に浮かぶ。お互いに言わず語らずに何となく馬が合ったものだったネ。明るいクラブでのことなども思い出される。どうしても生きていてほしかったのになあ」



ふだんは同期生の容貌に関する回想はあまり根拠にしないように心がけているのですが、今回はこの「丸い顔」という回想を根拠に、長野県9期生のお名前がわからないお二人のうち、こちらの人が大塚さんだと判断しました。
「がっちりした体格」と「あの躰」にちょっと引っかかるものがあるのですが(^^;)
写真を見る限りでは、細身で長身のように感じます。さっき出した13班の宮城前写真で、植木愛雄さんの右に写っています。





大塚さんが横空から倉町先生に宛てた17年6月18日付の手紙の文面が『予科練外史』に載っています。

珊瑚海海戦時の祥鳳の最期について。

『―― 略――自分の艦も、攻撃準備成って、さあ!という時に一歩早く敵が来たのです。実に残念でしたが、その時はどうしようもなく、最善を尽くして猛烈な防御砲火を送ったのですが、母艦は遂に爆弾で火災を起こし舵をやられ、自由を失った所を、四方から雷撃機が蜂のようにやって来るのです。本当に箒でもって叩き落 としてやりたいようでした。
艦首は砕かれ、艦が傾斜して来た時でも、いや、自分の艦は絶対に沈むようなことはない、と最後まで思って居りました』

同期の益田増雄さん、野田実さん、繁富悦行さんと一緒にいたのにいつの間にか大塚さん一人に。

『気がつくと、自分は腕を組んで甲板に立って敵機を見ておりました。益々つけこんでやって来る。放った爆弾が黒く光って「ヒュー」とうなって降って来るのが、はっきり見える。雷撃機が魚雷を放って行くのもよく見えました。
そのうちに続いて二弾、自分の間近に炸裂、その爆風で自分は吹き飛ばされて海中に落ちたらしく、気づいた時には、目の前を、煙と焔に包まれたわが艦が、静かに進んで行くのが見えました。何分経ったか、艦と三○○米位離れたとき、艦は大きく前に傾いて、海面から姿を消してしまいました。その時の胸中を察してく ださい。
<ああ、俺は南緯十何度の海で死んでいくのか。>と思った時は生命が惜しいというのではなく、本当に淋しい思いでした。――略――』

大塚さんは9時間半漂流して救助されました。益田さんも繁富さんも無事でしたが、野田さんは爆弾の直撃でやられた、と手紙には書いてあります。





19年1月17日に兵役免除になり、19年5月30日に病死。

雄飛会の名簿の方には「公務死亡」と書かれていますが、詳細は把握していません。


※倉町秋次『予科練外史』、画像は武田信行氏、9期生ご遺族ご提供