明慶幡五郎二飛曹 ― 2008年04月03日 09時04分31秒

明慶幡五郎、なんだかとってもいかつい名前で、江戸時代の御家人崩れの不逞浪士みたいな人を想像するかもしれませんが、本人、いたってかわいらしい愛嬌のある感じの搭乗員です。
丙3期出身。
先日樫村さんと堀さんのことを書いたとき紹介した角田和男さんの『修羅の翼』に出てきます。
樫村さん、堀さんとよく小隊を組んで飛んでいた人です。
582空の印象ばっかり強かったのですが、先日、戦史室で台南空の行動調書を見ていてかれの名前があったのでびっくり!
「ええっー! 明慶飛長、台南空だったのー!?」
ということは、堀さんとは582空で小隊を組む前から同僚だったということですね。へえ。
明慶飛長だけではなく、ほかにも台南空から582空に移った人が結構いるようです。
西澤さんや山崎市郎平兵曹、遠藤枡秋兵曹のように、制空戦にどしどし出撃していたような人たちは内地に戻り251空(台南空が改称)で再編成、堀さんや明慶飛長のように基地上空哨戒ぐらいしかしていないような「ジャク」(って言っていいんでしょうか?)は、転勤という形でラバウルに残されたような感じですね。
12月の末にコンビを組んでから固定化しつつあった樫村小隊(2番機・堀、3番機・明慶)ですが、堀さんが1月7日に早々に脱落。小隊長の樫村飛曹長も3月6日に戦死してしまいます。
角田さんによると、行動調書ではこの日の樫村さんの列機は福森大三二飛曹(堀さんの同期生)、山内芳美飛長らしいのですが、実際は福森、明慶だったそう。
その後は明慶飛長もほかの人の列機として戦闘に出撃することになったようです(先日、戦史室ではこの辺りまで確認する余裕がありませんでした)。
18年5月13日、明慶幡五郎二飛曹(進級)、自爆戦死・・・・。
野口義一中尉(兵68期)の指揮によりルッセル島に出撃。
明慶二飛曹は竹中義彦飛曹長(甲1期)の3番機として出撃し、ルッセル島上空の空戦で被弾、火だるまになって自爆した、と報告されました。
角田さんの手記に当時582空の司令であった山本栄大佐の日記が引用されています。
『183(明慶)自爆、140(佐々木)未帰還。-略-指揮所前に整列、野口中尉其他から報告があった。次で当隊員に訓示した。
「明慶、佐々木を失ったのは残念だが」とは口の先迄出て来たが「今言ってはいけない」「士気に影響する」と考えた。「多少の犠牲はあったが(心中多少どころかこんな悲しい事があろうか)一党克く訓示を守って立派な戦果を挙げた、御苦労」鈴木中尉が明慶、佐々木を失って残念だと搭乗員に話していた。明慶自爆の経緯は次のとおりだ。明慶は竹中飛曹長の三番機として終始実によくついて来た。ルッセル島の北方で発動機が悪いらしく速力が少し落ちて居た、自分は接近して共に来たが一寸振り返ると明慶機の二百米後方にP38×1が射撃を始めた。自分は上昇しながら反転援護し様と思ったら、すでに撃たれ黒煙を吐いて錐揉み降下して居る。明慶は自爆した。敵は逸早く遁走した、と、竹中飛曹長が語った、一同はシーンとして聞いて居た』
二人の下士官搭乗員が帰ってこないことを口に出すことが、「士気に影響する」と司令は考え、「こんなに悲しいことはない」とまで書いています。明慶さんの582空での立場が伝わってきます。
司令の日記にはこのあと、指揮所での士官たちの会話が書かれています。
「おい、鈴木中尉(宇三郎、兵68期)、増加食を食べないか」
「いりません。私は今日は嬉しくないのです」
「明慶のことか、惜しいことをしたな」
「人物が立派です。命令されたら駆足態度厳正・・・・」
野口中尉は、
「おれの照準器や遮風板をしょっちゅう磨いてくれた」
隊長(進藤三郎少佐 ママが作った零戦21型1/32の人です)も、
「幡五郎焼が食えなくなったなあ」
と追憶している。
司令官に幡五郎焼の由緒を説明した。
「すなわちメリケン粉、ふくらし粉などで作る菓子で、かれが婦人倶楽部かなんかで見て作ったのでなかなかうまい。一同これをかれの名にちなみ幡五郎焼という」
「かれは器用で、時計も直せば硝子の入れ替えも一手に引き受けてやる」
こうして、指揮所で「自爆戦死」した明慶二飛曹のことをさんざんほめたたえ、偲んだあとで、当の明慶二飛曹がひょっこり帰ってきます。
「零戦一機方向南東距離三万こちらに向かってくる」
鈴木中尉が眼鏡で見る。
「うちの飛行機です、183号」
「明慶だ明慶は183号だ」
と自分(山本司令)が叫んだ。
自爆機が帰った。確かに明慶だ、一同明るい気持ちになる。
「あまりほめ過ぎた、帰ってきたからには先の言は取り消しだ」
と野口中尉が冗談を言った。
「幡五郎焼が食える」
と誰かが言った。
このときの基地の喜びようがまるで目に浮かぶようです。
明慶二飛曹は竹中飛曹長が見たように被弾し火だるまになって落ちていったようですが、海面目前で消火、機を立て直し基地に生還したのでした。
角田さんも書いているように、582空戦闘機隊は直掩任務が多かったせいか、生きて内地に戻れた搭乗員は少なかったようです。
明慶さんはそんな中で生きて戻れた数少ない搭乗員の一人でした。
しかし、横須賀航空隊転勤後、19年7月4日、硫黄島上空の空戦に出撃し、ついに還らぬ一人になってしまいました。
丙3期出身。
先日樫村さんと堀さんのことを書いたとき紹介した角田和男さんの『修羅の翼』に出てきます。
樫村さん、堀さんとよく小隊を組んで飛んでいた人です。
582空の印象ばっかり強かったのですが、先日、戦史室で台南空の行動調書を見ていてかれの名前があったのでびっくり!
「ええっー! 明慶飛長、台南空だったのー!?」
ということは、堀さんとは582空で小隊を組む前から同僚だったということですね。へえ。
明慶飛長だけではなく、ほかにも台南空から582空に移った人が結構いるようです。
西澤さんや山崎市郎平兵曹、遠藤枡秋兵曹のように、制空戦にどしどし出撃していたような人たちは内地に戻り251空(台南空が改称)で再編成、堀さんや明慶飛長のように基地上空哨戒ぐらいしかしていないような「ジャク」(って言っていいんでしょうか?)は、転勤という形でラバウルに残されたような感じですね。
12月の末にコンビを組んでから固定化しつつあった樫村小隊(2番機・堀、3番機・明慶)ですが、堀さんが1月7日に早々に脱落。小隊長の樫村飛曹長も3月6日に戦死してしまいます。
角田さんによると、行動調書ではこの日の樫村さんの列機は福森大三二飛曹(堀さんの同期生)、山内芳美飛長らしいのですが、実際は福森、明慶だったそう。
その後は明慶飛長もほかの人の列機として戦闘に出撃することになったようです(先日、戦史室ではこの辺りまで確認する余裕がありませんでした)。
18年5月13日、明慶幡五郎二飛曹(進級)、自爆戦死・・・・。
野口義一中尉(兵68期)の指揮によりルッセル島に出撃。
明慶二飛曹は竹中義彦飛曹長(甲1期)の3番機として出撃し、ルッセル島上空の空戦で被弾、火だるまになって自爆した、と報告されました。
角田さんの手記に当時582空の司令であった山本栄大佐の日記が引用されています。
『183(明慶)自爆、140(佐々木)未帰還。-略-指揮所前に整列、野口中尉其他から報告があった。次で当隊員に訓示した。
「明慶、佐々木を失ったのは残念だが」とは口の先迄出て来たが「今言ってはいけない」「士気に影響する」と考えた。「多少の犠牲はあったが(心中多少どころかこんな悲しい事があろうか)一党克く訓示を守って立派な戦果を挙げた、御苦労」鈴木中尉が明慶、佐々木を失って残念だと搭乗員に話していた。明慶自爆の経緯は次のとおりだ。明慶は竹中飛曹長の三番機として終始実によくついて来た。ルッセル島の北方で発動機が悪いらしく速力が少し落ちて居た、自分は接近して共に来たが一寸振り返ると明慶機の二百米後方にP38×1が射撃を始めた。自分は上昇しながら反転援護し様と思ったら、すでに撃たれ黒煙を吐いて錐揉み降下して居る。明慶は自爆した。敵は逸早く遁走した、と、竹中飛曹長が語った、一同はシーンとして聞いて居た』
二人の下士官搭乗員が帰ってこないことを口に出すことが、「士気に影響する」と司令は考え、「こんなに悲しいことはない」とまで書いています。明慶さんの582空での立場が伝わってきます。
司令の日記にはこのあと、指揮所での士官たちの会話が書かれています。
「おい、鈴木中尉(宇三郎、兵68期)、増加食を食べないか」
「いりません。私は今日は嬉しくないのです」
「明慶のことか、惜しいことをしたな」
「人物が立派です。命令されたら駆足態度厳正・・・・」
野口中尉は、
「おれの照準器や遮風板をしょっちゅう磨いてくれた」
隊長(進藤三郎少佐 ママが作った零戦21型1/32の人です)も、
「幡五郎焼が食えなくなったなあ」
と追憶している。
司令官に幡五郎焼の由緒を説明した。
「すなわちメリケン粉、ふくらし粉などで作る菓子で、かれが婦人倶楽部かなんかで見て作ったのでなかなかうまい。一同これをかれの名にちなみ幡五郎焼という」
「かれは器用で、時計も直せば硝子の入れ替えも一手に引き受けてやる」
こうして、指揮所で「自爆戦死」した明慶二飛曹のことをさんざんほめたたえ、偲んだあとで、当の明慶二飛曹がひょっこり帰ってきます。
「零戦一機方向南東距離三万こちらに向かってくる」
鈴木中尉が眼鏡で見る。
「うちの飛行機です、183号」
「明慶だ明慶は183号だ」
と自分(山本司令)が叫んだ。
自爆機が帰った。確かに明慶だ、一同明るい気持ちになる。
「あまりほめ過ぎた、帰ってきたからには先の言は取り消しだ」
と野口中尉が冗談を言った。
「幡五郎焼が食える」
と誰かが言った。
このときの基地の喜びようがまるで目に浮かぶようです。
明慶二飛曹は竹中飛曹長が見たように被弾し火だるまになって落ちていったようですが、海面目前で消火、機を立て直し基地に生還したのでした。
角田さんも書いているように、582空戦闘機隊は直掩任務が多かったせいか、生きて内地に戻れた搭乗員は少なかったようです。
明慶さんはそんな中で生きて戻れた数少ない搭乗員の一人でした。
しかし、横須賀航空隊転勤後、19年7月4日、硫黄島上空の空戦に出撃し、ついに還らぬ一人になってしまいました。
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