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皇統護持作戦12008年04月09日 07時17分40秒

いまのところ、『39枚の年賀状』と何か関係があるのか全く無関係なのか、何の手がかりもないのですが、ご存じない方のために「皇統護持作戦」《杉安》について、ちょっと簡単に書いておきます。

20年の8月15日、日本はアメリカとの戦闘を終結させたわけですが、その四日後の19日夜、343空が展開していた長崎県大村基地では、前途ある青年たちが自らの命を断とうと集まっていました。
司令に「自分は自決する。お供するものは道場に集まれ」と言われ、准士官以上がその場に集まったのです。

このときの連判状(自筆)が残っています。(神足尚紀『零戦 最後の証言』光人社)
源田実・・・・(大佐 司令)
志賀淑雄・・・・(少佐 飛行長)
古賀良一・・・・(整備の・・・隊長さんかな?)
品川淳・・・・(大尉 整備分隊長)
光本卓雄・・・・(大尉 S407分隊長、飛行隊長代理かも)
成松孝男
小林秀江
山田良市・・・・(大尉 S701分隊長、飛行隊長代理かも)
磯崎千利・・・・(大尉 S301分隊長 操練出身のベテラン大尉)
黒葛原伉
大村哲哉・・・・(大尉 S701)
向井寿三郎
中西健造
加藤種男・・・・(大尉 S301)
瀬木春雄
堀光雄・・・・(飛曹長 S301)
本田稔・・・・(飛曹長 少尉かな? S407 甲5)
村中一夫
渡辺孝士
中島大次郎・・・・(少尉 S701 要務士)
大迫壮三郎
荒木直哉
松村正二・・・・(大尉 S301分隊長 飛行隊長代理かも)
中島正・・・・(もしかして、あの中島さん? 中島中佐でしょうか?)

いまわかる人だけ( )で補足を入れました。現物は氏名のみ。
3飛行隊ともこの時点ですべて飛行隊長を失ってしまっているので、それぞれの先任者が飛行隊長代理になっているかもしれません。(松村大尉、山田大尉、光本大尉)
最後に名前のある「中島正」、これがちょっと誰か不明。343空は開隊直後、中島正中佐が副長(だったかな?)として在籍していたとは思うのですが、のちに桜花の部隊に転出したと記憶しているのですが・・・・。同一人物でしょうか・・・・?
司令、飛行長、磯崎大尉、(もしかしたら「中島正」も)これらの人を除けばほとんど20代の若者たちです。それも22、3、4ぐらいの独身者ばかりのようです。

この人たちはみな、8月19日の夜、司令のお伴をしてこの場で死ぬつもりだったのです。

ところが土壇場になって司令が、
「実は死ぬつもりはない」
とかって言いだして。
結局『皇統護持作戦』を遂行するために、命もいらぬという同志が欲しかったための演技だったのです。

『皇統護持作戦』とは、皇統を絶やさぬように皇子をお迎えして、ひそかに養育するという計画です。九州の山奥で・・・・。

ここに名前を連ねている全員がこの作戦に参加したのかどうかわかりませんが、数チームに分かれ、それぞれ候補地選定に散っていきます。

この中の大村哲哉大尉、加藤種男大尉、堀光雄飛曹長の3人が行き着いたのが、宮崎県西都市の杉安という集落だったのです。

皇統護持作戦22008年04月09日 07時56分02秒

加藤さんの手記によると、途中陸軍のバリケードを突破したりしながら、道路らしきものを探しながら、険しい九州山地を移動したようです。
「源平の頃の落人の気持はいかばかりか」と手記に回顧されていますが、まさにそう。この地は平家の落人伝説のある地です。
また、西南戦争時、薩軍が敗走した地でもあります。わたしは分け入ったことはありませんが、こんなところ、落人でもない限り歩きたくないような場所でしょう。
特にもと航空隊の搭乗員、一日数百キロを飛行機で移動していたような人たちです。山中を徒歩で・・・・など大変な苦労があったと思います。

九州山地の集落には、皇族に住んでもらえるような適所がなかったようです。
調査を重ねた末、宮崎に杉安という行在所に適当な地区があるということがわかります。加藤さんの手記には杉安の「有力老・後口茂氏」に面接したことろ、協力してもらうのに適任だということで、そこに大村さん、加藤さん、堀さんが向かったということです。
3人は杉安の「和田旅館」という山師宿に落ち着きます。
行在所建設に着手するわけですが、炊事は3人交代で自炊、農耕までやり、建築資材なども自分たちで搬入していたようです。
この間、「当分外部との接触を断ち、和田旅館の家族、後口家の一族及び使用人が交際の範囲となった」ということです。

この計画が取り止めになり、3人が杉安を離れたのは21年になってからのようです。

で、先日書いた海軍情報集室宮崎支部の情報員ですが、まー、はっきり言っちゃってわたしのおばです。
おばは終戦時10歳。杉安の隣集落にいました。
もしかして、この3人のことを何か知らないかと思って聞いてみたのですが、このころ杉安に行った記憶もないらしく、知らない、とのことでした。
「杉安って・・・・小学校はどこに通うん?」
と何気に聞いたところ、
「おばちゃんと同じ小学校だったよ」
とのこと。
「杉安の子で、後口さんとか和田さんって子供はいなかった?」
と加藤さんの手記に出てくる苗字をダメもとで聞いてみました。
「ああ、いたよ。同級生の友達に後口たえちゃんって子がいた」
「えっ!?」
これはクサい。

でもって、大村哲哉さんに「おばが杉安の後口たえちゃんって子と友達だったらしいのですが・・・・ご存じないですか」と聞いたところ、
「それは後口家のお嬢さんです」
ときっぱり。
他にも数人の子供たちの名前を挙げ、当時のエピソードや、平成2年に加藤さんと杉安を再訪し、子供たちと再会したという話を教えていただきました。

いやー、本当にびっくりしました。
杉安なんて山村が航空隊と関係あるわけないのにあったなんて。
しかも、鳩山法相の「友達の友達が・・・・」じゃないけど、「叔母の友達が・・・・」343空の3人にかわいがってもらっていたなんて!!

というわけでママはこの件に関してもっとちゃんと詳しく知りたいのですが、なにぶん遠隔地なものでねえ・・・・。
大村さんが名前を挙げていた子供たち、いまも元気にしているんじゃないかと想像するのですが。会って話が聞きたいなあ・・・・。

『39枚の年賀状』を書いた松浦百合子さんが住んでいる妻という集落は杉安やおばのいた集落と近所です。
なので、まあ、この映画の話を聞いて、おばが杉安の3人の話を連想したのはわかります。わたしもとっさに連想したし、内容を読んでひっかかるところもありました。
でも、やはり「8月12日」が決定的に違うんですよねえ・・・・。

実はママは松浦さんと交流していた兵隊さんが「堀さん」であってほしくないのです。
(最初聞いた時はビミョーだったけど、だんだんそうでないことを願うようになってきました)
理由は、機会があったら今度書きます。

忘れていたっ! 明日・・・・2008年04月09日 18時20分25秒

ランドセルのお守り
明日入学式だったっ!

ま、忘れていたってのはちょっとオーバーなんだけど。行く準備が全くできていない、と言ったほうが正しいですね。

今日になって、
「あれ? 明日、ランドセル、いるんかいな?」
いまさら恥ずかしくって人には聞けねえwwwwwwでしょ?

何時から始まるのかも知らなくって、数日前に一緒に入学するみほちゃんのママにメールで聞いたばかり。
みほちゃんのママにはもう、聞けないなあ。

でも、困るんで、隣の2年生のお母さんに聞いちゃいました。
「明日の入学式、ランドセルいるの?」
メールしたら、電話をかけてきてくれました。
「うちの子の時はランドセルなしで手提げ持っていったよ」
「そうか・・・・やっぱいらんのか」
「昨日みほちゃんのママにも聞かれたよ」
「え?そう?」
どうも、明日何を持っていくのかわからなかったのはうちだけじゃなかったみたい。

たしか数ヶ月前に入学式のご案内のはがきが市から来ていたんだけど、日付と受付時間だけだったと思うんだよねー。
どこにいったかわからんのだけど、内容はそんなんだった(と思う)。

明日は雨らしいので、ランドセルいらないのなら好都合だい。

でも、学用品にまだ名前書いてないwwwwwwってことをいま思い出した(-_-;)