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皇統護持作戦22008年04月09日 07時56分02秒

加藤さんの手記によると、途中陸軍のバリケードを突破したりしながら、道路らしきものを探しながら、険しい九州山地を移動したようです。
「源平の頃の落人の気持はいかばかりか」と手記に回顧されていますが、まさにそう。この地は平家の落人伝説のある地です。
また、西南戦争時、薩軍が敗走した地でもあります。わたしは分け入ったことはありませんが、こんなところ、落人でもない限り歩きたくないような場所でしょう。
特にもと航空隊の搭乗員、一日数百キロを飛行機で移動していたような人たちです。山中を徒歩で・・・・など大変な苦労があったと思います。

九州山地の集落には、皇族に住んでもらえるような適所がなかったようです。
調査を重ねた末、宮崎に杉安という行在所に適当な地区があるということがわかります。加藤さんの手記には杉安の「有力老・後口茂氏」に面接したことろ、協力してもらうのに適任だということで、そこに大村さん、加藤さん、堀さんが向かったということです。
3人は杉安の「和田旅館」という山師宿に落ち着きます。
行在所建設に着手するわけですが、炊事は3人交代で自炊、農耕までやり、建築資材なども自分たちで搬入していたようです。
この間、「当分外部との接触を断ち、和田旅館の家族、後口家の一族及び使用人が交際の範囲となった」ということです。

この計画が取り止めになり、3人が杉安を離れたのは21年になってからのようです。

で、先日書いた海軍情報集室宮崎支部の情報員ですが、まー、はっきり言っちゃってわたしのおばです。
おばは終戦時10歳。杉安の隣集落にいました。
もしかして、この3人のことを何か知らないかと思って聞いてみたのですが、このころ杉安に行った記憶もないらしく、知らない、とのことでした。
「杉安って・・・・小学校はどこに通うん?」
と何気に聞いたところ、
「おばちゃんと同じ小学校だったよ」
とのこと。
「杉安の子で、後口さんとか和田さんって子供はいなかった?」
と加藤さんの手記に出てくる苗字をダメもとで聞いてみました。
「ああ、いたよ。同級生の友達に後口たえちゃんって子がいた」
「えっ!?」
これはクサい。

でもって、大村哲哉さんに「おばが杉安の後口たえちゃんって子と友達だったらしいのですが・・・・ご存じないですか」と聞いたところ、
「それは後口家のお嬢さんです」
ときっぱり。
他にも数人の子供たちの名前を挙げ、当時のエピソードや、平成2年に加藤さんと杉安を再訪し、子供たちと再会したという話を教えていただきました。

いやー、本当にびっくりしました。
杉安なんて山村が航空隊と関係あるわけないのにあったなんて。
しかも、鳩山法相の「友達の友達が・・・・」じゃないけど、「叔母の友達が・・・・」343空の3人にかわいがってもらっていたなんて!!

というわけでママはこの件に関してもっとちゃんと詳しく知りたいのですが、なにぶん遠隔地なものでねえ・・・・。
大村さんが名前を挙げていた子供たち、いまも元気にしているんじゃないかと想像するのですが。会って話が聞きたいなあ・・・・。

『39枚の年賀状』を書いた松浦百合子さんが住んでいる妻という集落は杉安やおばのいた集落と近所です。
なので、まあ、この映画の話を聞いて、おばが杉安の3人の話を連想したのはわかります。わたしもとっさに連想したし、内容を読んでひっかかるところもありました。
でも、やはり「8月12日」が決定的に違うんですよねえ・・・・。

実はママは松浦さんと交流していた兵隊さんが「堀さん」であってほしくないのです。
(最初聞いた時はビミョーだったけど、だんだんそうでないことを願うようになってきました)
理由は、機会があったら今度書きます。

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