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艦務実習2026年06月01日 21時52分01秒

艦船有識者の方々の目に留まっている間に。

見ていただけたらうれしいな、と(^_^;)




松本勝正さんのアルバムにあった1枚。
様子から艦務実習時の一コマだと思っていたのですが、艦船有識者の方々からは


・金剛型
・榛名か霧島
・霧島

みたいなご意見か。

松本さん自身は艦務実習は金剛です。

9期が艦務実習で派遣された艦は、山城、陸奥、伊勢(偵察)、榛名、金剛(操縦)です。
榛名はあるんですが、霧島はないんですよね💦



9期生ってときたま8期生の写真を貼っていることがあります。

で、いま改めて画質のいい元データを拡大して見ていたら、左端の練習生たちのペンネントの最後の文字が読めることに気づきました。


「え!? 霧島」やん!!(;゚Д゚)


すごい!
みなさん、すごい!

ということは8期の艦務実習、霧島なのか?



これ、8期の艦務実習霧島(操縦)です。
このとき撮られた写真なのだろうか?
7期とかどうなん?
って話ですが、7期は艦務実習の艦を把握していないというのと、9期と2ヶ月ちょっとしか重なっていないためか、9期生で7期生の写真を貼っている人がほぼいません。可能性としては8期の方が高いかなと思います。


9期だと思っていた写真がどうやら8期の可能性が高いとわかって、「えー」ってなっています。別に残念とかはないですし、うれしいとかってことでもないです。長年思っていたのと違っていて「えー」です。


※画像は9期生ご遺族ご提供
無断転載禁止でお願いします

紅茶のシフォンケーキ2026年06月02日 20時01分10秒

今日はお昼、市販のカルボナーラソースに卵黄を一つ加えて食べました。

そこで出た1個分の卵白に卵4つプラスしてシフォンケーキを焼きました。
アールグレイで。
朝ごはんの冷凍シフォンケーキ、なぜか娘も食べていて最近異様に減りが早くてもうストックが底をついてしまいました。





焼いている途中からめっちゃ膨らんで天井部につきそうな勢いでした。

焦げちゃいました💦
焼き上がり。

こういうときはだいたい失敗していて、冷やしたらめっちゃ縮むか、底にでっかい空洞ができています。



冷めた!
しかし、あまり縮んでいない!(・∀・)

じゃあ、底に空洞か!(・∀・)




手外しで外してみました。
一部空洞ができていましたが、先日のに比べると気にならないぐらいの空洞。



ここまではうまく行っているように思えたんですが、切るのに失敗して盛大につぶしてしまいました(号泣)!


偵27期 藤波貫二さん 多摩2026年06月04日 21時58分27秒

ブログに出したつもりでいたのですが、検索してみたら出していませんでした。
藤波貫二さんの遺品の多摩写真。


左下に「魚津」と書いてあるのですが、お孫さんによると、SNSで公開したところ、多摩が昭和12年に富山県滑川に入港したときの写真ではないかとご教示があったとか何とか。


で、わたしも最近投稿が艦船有識者の方の目に留まるようになっているので、藤波さんのこの写真を投稿してみました。

「魚津」ってところも隠して見てもらったんですが、球磨型巡洋艦、あとずばり「多摩」とのご指摘もありました。
見る人が見たら、構造物でわかるみたいです。
詳細をお知りになりたい方はわたしのツイッターアカウントを見ていただいたら。この写真のリプ欄や引用リツイートで解説いただいています。

ちなみに兵のペンネントの文字はまったく読めません。


※画像は藤波さんご遺族ご提供

兵61期 小川正一大尉のこと2026年06月05日 21時51分05秒

今日はミッドウェー海戦の日、小川大尉のご命日なので2025年7月17日にアップした『南昌飛行場の件』という記事を再掲しようとしたのですが、何度やってもうまくいかず、どうやら前半(南昌飛行場の話)に何か問題があって投稿ができないと気づいたので、後半の小川大尉の部分だけ再掲します。

前半は『南昌飛行場の件』こちらをお願いします。



じつはですね・・・・。
少し前に、小川正一さんのお孫さんからコメントをいただいたんですよ。
「ふぁっ!?(;゚Д゚)」
ってなりましたよ。
なぜにこのタイミングっ!?

そりゃあビックリしました。

小川さんの写真は上に出した15空時代のヒゲの写真と、『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』(大日本絵画 吉良敢/吉野泰貴)に出ている飛行機をバックに写った飛行服姿のものしか知らなかったので、
「お顔がはっきりわかる写真を見せていただけないでしょうか」
とおねだりしてみたところ、




「おおおおおおおっ!」

大尉時代の小川さん。
15空時代とずいぶん雰囲気違うぞー!

よく見ると同じ人とわかるのですが。

「ふだんは物静かな小川中尉」っての、わかる気がします。


今回のことがあるまで知らなかったのですが、小川さん、宮崎県出身らしいですよ!
同郷人だ!


小川さん、のちの真珠湾攻撃時は加賀艦爆隊の分隊長です。
『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』に小川さんのページがありますので転載させていただきます(了解いただいています)。


加賀2中隊長

小川正一大尉
海兵61期/中佐
第27期飛行学生 艦爆
加賀艦爆分隊長

日中戦争中の昭和13年7月18日、南昌攻撃時に「九六艦爆」4機でもって敵飛行場に強行着陸し、爆撃後に残存していた在地の5機に火を放ったいわゆる“焼き討ち”を実施して生還したことで一躍有名となったのが小川正一大尉。
15空附で前記作戦に従事したのちは練習航空隊の教官配置を長く勤めていたが、昭和16年5月に「加賀」艦爆隊に分隊長として発令、ハワイ作戦へは第2次攻撃隊急降下爆撃隊に加賀2中隊を率いて参加している。
本作戦後、一時内地へ帰還した第1航空戦隊は翌17年1月にラバウル攻略に出動、同月21日には加賀艦爆隊16機を率いてカビエン攻撃を実施、ついで2月19日のポートダーウィン攻撃では九九艦爆18機の指揮官として攻撃に参加した。
その後、加賀はひと足先に内地に帰還し、艦底の修理を実施したのちミッドウェー作戦に出動、小川大尉は6月5日の海戦当日、ミッドウェー第1次攻撃隊に赤城・加賀の両艦爆隊を率いて参加、攻撃を実施したのち無事加賀へ帰着したが、その後、敵艦爆の奇襲により加賀が被弾炎上した際に行方不明となり(艦橋附近全滅)、戦死と認定された。
その戦死は2階級進級の対象となり、海軍中佐に任ぜられた。

略歴
明治45年3月10日 生まれ
昭和8年11月18日 海軍兵学校(第61期)
昭和10年4月1日 海軍少尉
昭和10年11月15日 練空飛行学生(第27期)
昭和11年11月20日 大村空附
唱和11年12月1日 海軍中尉
昭和12年4月20日 佐伯空附
昭和12年7月11日 12空附
昭和12年12月1日 龍驤乗組
昭和13年3月22日 霞ヶ浦空附兼教官
昭和13年6月25日 15空附
昭和13年11月15日 海軍大尉
昭和13年12月1日 霞ヶ浦空附兼教官
昭和13年12月15日 筑波空教官兼分隊長
昭和14年12月1日 岩国空分隊長兼分隊長
昭和15年1月15日 兼兵学校教官
昭和15年12月10日 臨時横須賀空附(~昭和15年12月28日)
昭和16年5月22日 加賀分隊長
昭和17年6月5日 海軍中佐/戦死(2階級特進)


「練習航空隊の教官配置を長く勤め」ってところに引っかかりました。
前も読んでいるはずなのに、いま、あらためて。


しかも13年12月から1年間、筑波空の教官兼分隊長ですよ。

「どこかに写っているんじゃないか?」


写っていましたー!
筑波空の乙8期飛練初練の分隊長だったー!(;゚Д゚)
これは修業記念集合写真。


みな角力の格好をしています。
8期飛練生だけでなく教員も教官もまわし姿。
小川さん、よく見たらまわしに「小」という文字が見えています。隠れているけど「小川」って書いてあるんだろうな。いままでまったく気づいていませんでした。


以前一度出したことがある大洗の磯前神社の行軍時の集合写真。
ちょっとぼんやりしているけれど、これ、小川大尉だと思います。
ここまで操32期中島義喜教員の写真。


これも小川さんかな。
乙2松永喜三男教員の写真の中にあった、大洗の明治記念館前の8期飛練集合写真。



いやー、びっくりしました。
8期生(操縦)たちの飛練時代の分隊長だったのですか。
あの”南昌飛行場・・・・”の小川さんが、8期生たちの分隊長。

おもしろいな、と思ったのは、これは初練で、次、中練に進むわけですが、百里原の中練に進んだ8期生操縦の一部は今度はそこで徳永有先輩(乙3)が待ち構えていたというね(^_^;)



筑波空のあと、岩国空に転勤されたようですが、そこの操練51期の集合写真に写っているこの方も小川さんではないかなと思います。

乙6期中西義男教員の遺品の中にあったもので、わたしが弟さんから写真をお借りしてスキャンしたのですが、なんかピントがちゃんと合っていないんですよね。申し訳ないです。
下の飛行服の方はちょっと自信がありません。



7月18日を前に、桑島さんのお顔がはっきりわかったような気がしたので「お写真紹介しよう」と思っていたところに小川さんのお孫さんから連絡をいただき本当に驚きました。
これも何かのご縁でしょうか。
(桑島さんのお写真はもう少し探してみます、まだありそうな気がする・・・・)



※画像は小川さんご遺族、中西さんご遺族、操練出身艦攻操縦員のご遺族、浅川さんご家族、松永さんご家族ご提供
無断転載禁止


島田直さん(乙9)と長井泉さん(甲4)2026年06月07日 23時27分07秒

乙飛と甲飛が犬猿の仲であったことは、海軍航空隊に関心がある人であれば一度は小耳にはさんだことがある話ではないでしょうか。

かくいうわたしも搭乗員さんご本人から直接軋轢についてうかがったこともありますし、当然、活字ではいくらでも読んでいます。

さらに、島田清守さんの予科練時代の日記(昭和14年・15年)には、うんざりするほどその件に関して上から注意を受けていることがリアルタイムで記されています。
ということは、こっそり仲違いしてたというわけでなく、公然と、指導層の眼にとまる形で諍いがあったということです。

乙飛と甲飛の諍いというのは、相手かまわず対抗心を燃やしていたわけではなく、同じ時期に訓練を受けていたクラスに対しての対抗心だったように思います。
例えば乙9期であれば、あとから入ってきて新幹線、いやリニア並みのスピードで階級を抜かしていった甲3期と甲4期に対して、メラメラと燃えるものがあったようです。

ちなみに乙飛と甲飛の進級速度の違いが分かるように以前作った表を貼っておきますね。




『九期生名簿』のおもいで、森浦東洋男さんのところには、
ラグビー部でしかも暴れん坊の異名があったと思う。霞空に移転してすぐバットを持って甲飛に殴り込みをかけたのでみな覚えていると思う
と書かれています。

この話、「霞空に移転してすぐ」と書かれているだけで、正確にいつの話かわからないのですが、3月だとしたらまだ甲4期生は入隊していないので、甲3期生に対して殴り込みをかけたのではないかと思います。
もし甲4期が相手だったとしたら、4月に入隊して右も左もわからないときに森浦さんがバットを持って殴りこんできたということで、「たいへんなところに来てしまった(゚Д゚;)」と震えあがったことでしょう。

この対立問題は海軍が悪いんだと思います。
制度からして対立を煽るような制度だし、指導層も甲乙を比較して競争心を煽るような指導をしています(島田日記より)。そりゃ、感情的に大嫌いになって当たり前です。
そのくせ、上は「仲良くせよ」と何度も注意をしているのです。ちょっと矛盾しています。仲良くしろと言う方がムリです。
乙飛生にも甲飛生にも責任があることではありません。



乙飛と甲飛は仲が悪かった――これはまあ事実なんですが、かといって個人間で見るとそうでもなくて、乙9期の藤原国雄さんが甲3期の木下広吉さんと一緒に撮った写真が存在していたりします(おふたりは同郷)。
集団としては仲が悪くても、個人間は意外と仲良くやっていたということですね。


わたしは乙9と甲4は予科練中はずっと仲が悪いままだったと思い込んでいたのですが、実はそうでなかったことが島田清守さんの日記に書かれていました。

昭和15年9月30日(甲4卒業式)

『精神教育「禍転為福(わざわいてんじてふくとなす)」について。終って卒業も近くなった(甲飛)四期の茶話会に出席したらどうも元気がある。九期生には此の元気があるかと心配になる。もう少し卒業迠元気を出せ。
甲種四期卒業・・・・〇時半退隊。総員見送り。元気で「飛練で待っている」と九期九期と言って行った。「九期もすぐに行くから」と元気をつけてやった・・・・。』

これを読んだときは「え? マジ!?」って声が出ましたよね(^_^;)
お互い激励し合って甲4を飛練に送り出したシーンが描かれていて。
ちょっとビックリしました。あんなに仲が悪かったのに。


スイマセン、ここまで前置きです。
今日書きたいのは、乙9の島田直(すなお)さんと甲4の長井泉さんのことです。

島田直さん

長井泉さん(卒アルから)


お二人に関してはどこから書いていいか・・・・。
わたしも長くこのお二人には関わってきた(つもり)のですが、お二人の関係については深く考えたことがなく、最近、いろいろ気づいてあらためて涙を誘われた――というようなことがありました。



お二人とも真珠湾攻撃時、加賀の艦攻隊です。

昭和16年12月5日撮影と思われる加賀艦攻隊総員集合写真。
そもそもこの写真、直さんの遺品です。
2015年に熊本に墓参に行った折にご遺族の方から見せていただいたものです。


ご本人は自分に〇印をつけています。
最前列、風向標識の交点のあたりに座っています。

これ、長井さんだと思うのですが、この人を長井さんだと判断した過程については記事1本分ぐらいゆうに書けるぐらいあります。なんか卒アルの写真と印象が違うでしょう?
今日はそれが本題ではないので、「わたしはこの人が長井さんだと思っている」ということで勘弁してください。
最後列、プロペラの右下の小柄な人です。



お二人の予科練卒業後の足跡を書いておくと、昭和15年9月30日に予科練をひと足先に卒業した長井さん(操縦)は飛練9期生として初練・中練をやり(航空隊は把握していません)、16年4月から艦上攻撃機実用機訓練を大村空にて。

16年9月12日、大村空の卒業記念集合写真より。
そのまま加賀に配属されたものと思います。


一方直さんは、15年11月30日に予科練を卒業、同日、飛練10期、偵察員訓練のため鈴鹿空へ。
ここで16年7月30日まで基礎訓練をしてから博多空へ。

16年10月31日 博多空卒業集合写真より。
そのまま加賀へ着任。

甲4が予科練を卒業で去ってから、1年2ヶ月ぶりの再会になったのではないでしょうか。



お二人とも熊本県出身、同郷で親友だったみたいなんですよ。
そのことにずっと気づいていませんでした。
少し前に『若鷲のふる里』という真珠湾攻撃戦死者の甲4期生を取り上げた戦時中の書籍を読み、長井さんのところにそのことが書かれてあり気づきました。

じつはその数年前に読んだ『空母飛龍の追憶』の直さんの項にも、お二人が親友である旨が書かれていたんですよね。たぶん読んだときはまだ甲4の長井さんと結びついていなかったんだと思います。

『若鷲のふる里』から引用
泉君が最後の手紙を寄越したのは祖母あてのものでした、島田という自分によく似た友人に託して届けるから、島田を自分と思ってよく見てくれと書いてあって、中に六十円の金が同封してありました。
そしてそのあとに長井さんの遺書が転載されています。
直さんが届けた遺書なのでしょう。わたしは現物は見ていないのですが、可能なら見てみたいですけどね・・・・。
『若鷲のふる里』転載分、それは最後に。



『空母飛龍の追憶』の関連箇所引用
昭和十六年九月一日、博多海軍航空隊配属
同年十月一日、加賀乗組。同郷出身の長井泉君と雷撃機に同乗して猛訓練、互いに遺言状を取交して居る、との便りあり。
同年十二月三十一日、休暇で帰郷。私は病気のため帰郷療養中であったが、直は「只今」の挨拶もそこそこに、靴も脱がず長井君宅へ。長井君は真珠湾で雷撃機に搭乗、名誉の戦死を遂げたので、約束の遺言状を持って遺族に弔問し、戦功報告をした。
直は長井君と雷撃機同乗を懇願したが叶わず、爆撃隊に編入され、真珠湾在泊中の戦艦八隻中のカリフォルニヤ型(前より二番目のフォード島側)を爆撃し、同艦火薬庫に命中轟沈せしめた、と語る。
昭和十七年一月八日、帰還(七日出郷)

これは川越さんという方が寄せられたものです。
川越さんは血縁上は直さんのいとこ。さらに、直さんのお姉さんと結婚されたそうで、義理の兄という関係でもあります。

この年譜はわたしの知識と多少の齟齬がありますのでその部分を説明しておきます。
博多空配属は昭和16年7月30日です。
加賀配属は昭和16年10月31日です。
あと直さんが真珠湾後に帰郷して語ったという箇所ですが、直さんは長井さん(雷撃隊)と一緒に出撃出来ず、爆撃隊(おそらく水平爆撃隊を指すと思われる)に編制されてそちらで活躍したというくだりがありますが、これは誤認です。直さんは真珠湾攻撃では出撃していません。
なので、この下りは直さんが親族に対して”盛った”のか、川越さんが興奮のあまり何か勘違いしたのか、(『飛龍の追憶』寄稿時点において)年数が経ってからの記憶の混濁だったのか、そのあたりはわたしにはわかりません。

正しいのか正しくないのわからない部分もあります。
同郷出身の長井泉君と雷撃機に同乗して猛訓練
この部分ですね。けっこう重要なことが語られていると思うんですよ、これ。

他の部分に間違いが多いから、これも間違いだろう、ということにはなりません。
というか、わたしからしたら「え!? ホントに!?」な情報です。

可能性としては大いにあると思うんです。



真珠湾攻撃前の鈴木三守大尉の分隊集合写真。※所有者の方のご意向でお顔をぼかしています

おそらく艦攻隊総員集合写真と同じ時に撮られています。
直さんも長井さんもここに写っています。
艦攻隊のペアは基本同じ分隊で編制されていると思っているのですが、鈴木分隊の中でなぜか長井さんだけが牧分隊の偵察員(植田米太郎1飛曹)と電信員(武田友治1飛)と組んで出撃しているんですよね。


これ、ずっと謎でした。
もしかして、わたしが鈴木中隊写真で「長井さん」と思っている人が長井さんではないのではないかと疑ったこともありました。

その後、いろんな情報を得るにしたがって、長井さんが一人だけ同分隊員とペアを組んでいないのは、
「三上大尉が内地出発時に着艦事故を起こして艦攻を1機壊したことと関係があるのではないか」
と思うようになりました。
三上大尉の着艦事故の件に関してはここの最後の方に書いています。





そして、ここで川越さんの『空母飛龍の追憶』への寄稿です。
話がつながりませんか?
もともと訓練時は長井さんは直さん(おそらく電信配置)とペアを組んで雷撃訓練をしていた可能性が(と言っても半月ほどか)。
ところが内地を離れるときの飛行機隊収容時の三上大尉着艦事故が原因で長井さんは訓練時に乗っていた愛機を手放すことになり、ペアもいじられ、牧分隊の植田さんと武田友治さんと組んで出撃することになった――と想像できないですかね。
想像の域を出ないんですが。




お互い遺書を交換していたというエピソードが長井さん側からも直さん側からも語られているわけですが。
もし、訓練時に長井さんと直さんがペアで、真珠湾に出撃予定だったとしたら、ペアの二人が遺書を交換したところで「ペアは生きるも死ぬも一緒」――なのだから、遺書を遺族に届けることは不可能です。長井さんにもしものことがあるときは直さんにも同じことが起こっているのです。
なので遺書を交換したとしたら、内地出港後、着艦事故のためにペアを解かれてしまった後でなら遺書を交換した可能性があるな、と思います。



鈴木分隊集合写真の直さん(左)と長井さん(右)
※所有者の方に特別にお許しをいただいて出しています
今回はトリミングしてしまいましたが、長井さんの右には乙8期の田中一則さんが座っていて、この三人は同郷、実家は結構近いように思います(わたしの感覚)。
三人ともクラスは違いますが、出身地で結ばれ、隊内で親しくしていたのかもしれないなと想像したりしています。

偶然この並びになったのかもしれませんが、遺書を交換していたぐらいの二人が隣り合って座っているのを見て、悲しみを新たにしました。


『若鷲のふる里』より

布哇作戦の首途に当り一筆書遺し候
我れ国家の為に死す。
男子と生れ皇国に生を承け然も軍人として屍を戦場に曝す此れに勝る名誉あらん。
希くは我なき後は弟■(※)を以て立派な帝国軍人となし国家の守りに立たせ給はらん事を。此の度の戦一挙にして終るべくにあらずして東洋平和確立迄には幾星霜かかるや測り知れず、この覚悟決してお忘れあるまじく、此の世に生を受けしより二十幾年慈愛の胸に抱かれ何一つとして不自由な思ひをした事とてなく我儘ばかりを申し今日まで心配をかけまいり今日まで一度の親孝行のまね事さえ出来ず、老後の面倒さえも見る事あはわずして先立つ事は何よりも心残に存じ居りま
す。然れども国家存亡の秋に当り私情を云々する事あたわず。
皇国君恩の万一に報ぜん時かねて父上よりの教訓国の為に死す事こそ最大の親孝行なりと之を明記し、必ずや之という勲功は立てずとも決して他人におくれとらぬ様最後の御奉公を致す覚悟です。されば何卒先立つ罪はお赦し下され度。
御両親様におかれても既に私なき時の覚悟は充分あられる事と信じますけれど、決してお嘆きあるまじく、もし報入りなば先づ伜よくやったとおほめ下され度、特に母上には身体も御病弱故お嘆きのあまり寿命を短められる様な事あらば尚一層の事私重ねて親不孝の罪をなす事になり世間の人に物笑いの種ともなりますれば、決してお嘆きあるまじく重ねてお願い致します。
私長男の事故家督の件も色々ありましょうが弟は国家の為に出れば結局は妹に養子を迎えられし方がよいかと存じます。然し御両親様にて考えられし方がよいかと存じます。然し御両親にて考えられし事あらばその様になされ度何事によらず独断にて決行さるるは如何と思いますれば親類初め天草の兄ともよくよく御相談の上御取はからい下され度。
弟は我が最愛にして最後迄面倒見てやれぬ事残念に思いますが、彼頭脳よく身体健全にて申分なけれど内気にて柔弱の風あり。これにては立派な軍人となる事六ケ敷く思われますけれど、彼の心底に流るる一脈の気概は之をのばせば必ずや立派な提督司令官となる素質と信じています。大いに鍛錬して長所を延ばして下さい。我旅立てば何物をものこさず、神体としてはこの遺書のみと思い申しますればこれにて我慢致され度。
身はたとへ太平洋に水漬くとも
  留めおかまし大和魂
今更に驚くべくもあらぬなり
  かねて待ちゐしこの度の旗
我死すと聞き村人一同航空兵にはなさるまじき等と噂せし時は何卒この戦果を例して将来航空兵力の如何に重大なるかをとき続々と後輩の出でん事を草葉の蔭より祈って居ります。
祖母様へは幼き時より非常に可愛がって戴き随分困らせた事もあり腕白小僧をよく今日まで可愛がり中学時代は特に御世話になりました。海軍に入籍してもより一層の御慈愛の心を垂れ休暇帰省を誰よりも喜んで下さいました。全く我身の果報が身にしみてうれしく思って居ります。逼迫した今日の時局存分の孝行も出来ませんでした。あの世とやらでは幾倍も御恩返し致す事も出来ようと思います。
今後十年内には皇威宇内に輝く世紀の曙が来るものと信じます。この時こそ私の一片の力が加っているものと思召されます様、そして天寿を完うされます様御祈り致します。
親思ふ心に勝る親心
  今日の訪れ何と聞くらむ
金銭貸借無し
婦女子関係無し
  十二月五日                長井 泉
 父上様 母上様 祖母様



※弟さんの実名が書かれてあるためわたしの判断で伏字にしました
その他、遺書本文の仮名遣いや旧字体漢字は現代のものに直しています。遺詠のみそのまま記載。


遺書に記されている12月5日は、わたしが上の加賀艦攻隊総員集合写真と鈴木分隊集合写真が撮られたと考えている日でもあります。
5日の時点でペアをいじられることが確定していて、書いた遺書を交換したのかもしれないな・・・・などと想像したりもしています。





長井泉さん
昭和16年12月8日 加賀 真珠湾攻撃 

島田直さん
昭和17年6月5日 飛龍 ミッドウェー海戦



長井さんが遺書の中で「身体も御病弱故お嘆きのあまり寿命を短められる様な事あらば尚一層の事私重ねて親不孝の罪をなす事になり世間の人に物笑いの種ともなりますれば、決してお嘆きあるまじく」と書いていたお母様が詠まれた一首


 遺品のシャツを抱きしめて
うつり香の消えざるやうと心する
     はだ身につけし吾子のかたみを



※画像は8期生ご遺族、9期生ご遺族・ご家族、操練出身艦攻操縦員ご遺族、Оさんご提供
大戸喜一郎1944『若鷲のふる里』輝文堂書房、『空母飛龍の追憶』より引用