Google
WWWを検索 ひねもすを検索

飛行服の日の丸2008年02月17日 09時11分14秒

飛行服の袖に日の丸をつけた特攻隊員・・・・。
みなさんも一度は目にしたことのある姿ではないでしょうか。

日本軍の搭乗員が日の丸をつけている姿を当然のように感じていらっしゃる方もおられるかも知れませんが、飛行服の袖に日の丸を縫いつけるようになったのは戦争も末期、昭和20年になってからです。

ある悲しい事件がきっかけになったと言われています。

昭和20年2月17日。
関東、静岡地区に来襲した米機動部隊艦載機の邀撃に上がった横須賀航空隊の戦闘機隊の中に、山崎卓上飛曹がいました。
かれは伝統ある横空の先任搭乗員。立派な人物だったのだと思います。

その日の邀撃での横空の未帰還はかれ一人。
それも、普通の「戦死」ではないのです。
かれの命を奪ったのは、かれが守ろうとした日本人でした。

空戦中、機体に被弾したかれは落ちていく零戦の中から、運良く脱出することが出来、落下傘もうまく開きました。
途中、電線に引っかかりながらも地上に降り立つことができました。
このときの様子を、山崎兵曹のことを心配した数機の僚機が、上空を飛び回りながら見ていたようです。
無事地上に降り立った山崎兵曹は大勢の人たちに取り囲まれました。人々は鳶口や棍棒を持って山崎兵曹に迫り、かれが両手を挙げて人々に何か言っているのまで上空から見えていたそうですが、とうとうかれは民衆に袋叩きにされ、殴殺されてしまったのです。

山崎兵曹は米兵と間違われて殺された、と言われています。
米兵だったら殴り殺していい、ということでは決してありません。
連日米艦載機の空襲を受けていたその地の人々も冷静な判断能力を失っていたのでしょう。山崎兵曹の写真を見たことがありますが、どこからどう見ても日本人顔で、アメリカ人に見間違えられるような顔ではないのですが・・・・。

その夜、横空の搭乗員たちは、山崎兵曹の仇討ちに行くと、非常に興奮した状態で日本刀をひっさげて医務室に押しかけてきたそうです。
ただ、興奮はしていても、中に冷静な人間がいたようで、軍医に話を聞いてからにしようということで医務室にやってきたらしいのですが。
ここで軍医に諭されたかれらは、同じ日本人を殺傷しに行くという暴挙を思いとどまったようです。

この事件があって以降、飛行服に日の丸を縫いつけるようになった、ということでした。
軍として達しが出たのは4月30日のようですが、実施時期は飛行隊によってばらつきがあるかも知れません。もっと早い時期につけている隊もあります。

山崎兵曹が亡くなって約1ヶ月後の3月19日、四国松山の343空が米艦載機を迎え撃っての大規模な空戦をやっているのですが、そのとき戦闘301の飛行隊長・菅野直大尉が山崎兵曹と同じような目に遭っています。
機体に被弾、落下傘降下、地元民に取り囲まれ、襲われそうになったところまで同じですが、菅野大尉はとっさに身につけていた千人針を取り出して民衆に見せ、事なきをえたそうです。
かれは被弾したときに顔にやけどをして真っ赤になっていたらしいので、それで米兵に間違われたのかも知れません。このとき、まだ日の丸はつけていなかったということですね。

あの日の丸は士気を鼓舞するためでもなく、神国日本を強調するためでもなく、自分の身を守るため―それも自分たちが命を盾にして守っている銃後の人たちから―のものだと思うと、ちょっと悲しくならないですか。

ここも海軍隠語ネタ(真似)2008年02月15日 19時42分32秒

昨日のMIさんのブログに海軍の隠語のことが出ていたので、わたしもちょっと真似してその話題で。

以前、海軍と陸軍ではことばも違ったらしいよーなんて話を書いたことがありますね。さらに海軍には「隠語」なるものがあって、一般人や、現代のわたしたちが聞いてもさーっぱり意味のわからないことがたくさんあります。
(「陸軍隠語」なるものが存在するのかどうかはわたしは調べていないのでわかりません)

たとえば、
「上陸してレス行ってエスプレイしようぜ。ついでに芋掘りも!」
なんて会話、普通の人には「何のこっちゃ?」ですよねー。

「上陸」は隠語ではありません。海軍は艦隊生活が基本なので、地上の航空隊であっても艦隊用語を使います。
航空隊の基地から外に出ることも「上陸」と言うのです。
地上基地でも兵員の居住区を「デッキ」と呼ぶようです。
飛行機の操縦でも「まっすぐそのまま進む」というときには「宜候(ヨーソロ)」と言います。

「レス」とか「エス」は軍務には全く関係のない隠語です。
以前、ざっと見たところ、海軍の隠語は軍務とは関係ない下半身関係、女性関係、そういうなんだか口に出すのがちと恥ずかしいようなことを隠語にしているような印象でした。
「レス」は料亭、「エス」は芸者、「エスプレイ」は芸者遊びらしいです(ただし、厳密にどこまでの「遊び」かは不明)。
「芋掘り」というのは酒飲んで酔っぱらって暴れること(器物破損にまで及ぶことも・・・・)。

ただ、これはママが感じている疑問なのですが、この種のいわゆる「海軍隠語」、下士官や兵は使っていなかったのでは・・・・?
もと士官の人が書いた戦記などにはよく出てくるのですが、もと下士官だった人の戦記にはほとんど出てきません。
下士官の人たちが使っていた隠語といえば「ギンバイ」(烹炊所などから食糧をかっぱらってくること)とか「バッター」(制裁のために使う棍棒、またはそれで尻を叩くこと)のような、胸が痛くなるような隠語が多く、士官の人たちが使っていたようななまめかしい隠語ってあまりないような気がします。

一度、「海軍隠語の研究」でもしてみようかしら?

二式大艇2008年02月08日 08時53分14秒

学研『二式大艇と飛行艇』
昨日、K林堂に行ったら、ミリタリーコーナーに『二式大艇と飛行艇』という新しい本が2冊、置いてありました。

「おっ!」
と、ママはすぐに得意の立ち読み開始。
すると、すっと横に立った男性がやはり同じ本を手にとって立ち読みを始めました。

ママは立ち読みをしただけでいったんはその場を離れてスーパーに買い物に行ったのですが、一緒に立ち読みをしていた男性のことがちらつき、
(迷っていたら、また売り切れるかも知れない・・・・)
と強迫観念に駆られ、帰りにもう一度行って買ってしまいました。

ママは飛行艇なんて興味ないんじゃないのー?
と思われる方がいるかも知れませんが、実はそのとーり。
全然ありません。
「でした」。

ところが去年、銀河のことを調べているうちに、梓特別攻撃隊に行き着き、その誘導をした二式大艇のことにも興味を持ってしまったのです。

城山三郎さんの短編小説に梓隊誘導の二式大艇を題材にしたものがあって、この時点で多少の関心を持っていました。

夏頃に、いまは音信不通になってしまっている新聞記者さんから「長峯五郎さんの『二式大艇空戦記』が愛読書」と聞いて、それならわたしもいっちょ読んでみるか、と読んだのが、神野さんの『梓特別攻撃隊』につながりました。

長峯五郎さんというのは予科練出身の二式大艇操縦員です。
かっこいいことばかり書かず、自分の失敗も書かれているので、読んだときは正直、
「自分が部下なら、この人とはペアになりたくない・・・・」
と思いました。
でも失敗もありながらも生き残られたということは、この人とペアを組んでいれば生き残れた、ということですよね・・・・。

梓隊に組み込まれた二式大艇は3機。
1番機は天候偵察機、2番機、3番機は誘導機でした。
そのうち1番機は天候偵察の任務をこなして無事帰投。2番機は離水に手間取り単機になり、途中敵機に撃墜され、3番機だけが銀河隊をウルシーまで誘導します。しかし、かれらもメレヨンという孤立している島に不時着してしまい、飢餓と闘いながら、ようやく2ヶ月後に救出されました。

数年前、鹿屋に行ったとき、入り口にでっかい飛行艇が野外展示してあったのを見ました。
あの頃は二式大艇なんて全く興味がなかったので車で横を通りすぎただけだったのですが、いまにして思えば、ちゃんと見ておけばよかった・・・・。

二人の中尉2008年02月02日 21時13分53秒

朝は西澤飛曹長の知られざる一面を知り涙し、夜は深井中尉に涙、です。

最近、続いています。
数日前に、海兵72期のブログに、野中繁男中尉が海兵卒業時に書いた『征空萬里』という寄せ書きの写真が出ていました。
他の同期生数人の寄せ書きも掲載してあったのですが、わたしが名前を知っていたのは野中中尉だけでした。
野中中尉は深井中尉の同僚であり、親友であり、深井中尉の特攻戦死されるひと月ちょっと前の昭和20年4月6日に宇佐空の八幡護皇隊の指揮官の一人として特攻戦死されています。

ものにこだわらないさっぱりした明るい人だったようで、教え子の予備学生から次のように評されています。
もし、一緒に死ぬとしたら・・・・という仮定で、数人の上官の名前を挙げているのですが、
M大尉・・・・男らしく死ねるだろう
N中尉・・・・一緒に死にたくないと思って死ねるだろう
Y大尉・・・・夢中で死ねるだろう
そして、野中繁男中尉は、「愉快に死ねるだろう」です。

この野中中尉が兵学校卒業時に書いたという『征空萬里』。
当時はまだ特攻作戦が開始される1年以上も前。
おそらく、これから飛行機乗りになるということに夢や希望をたくさん抱いて、この文字を書いたのだと思うのですが、中尉の最期を思うと逆に悲しくなってしまうことばです。

そして、今日は深井中尉。
奉職履歴の最後の行にたった一行「20.5.11.戦死」と書かれてあるのを見て、無性にもの悲しくなりました。
22年。
海軍に入って5年。22歳で国のためにたった一つしかない命を捧げて、これなのか・・・・と。

深井中尉の所属するK501は飛行隊長が特攻反対を明言している隊でした。
特攻反対の飛行隊としては美濃部正隊長の彗星夜戦・芙蓉部隊(通称)が有名ですが、美濃部隊長以外にも特攻に堂々と反対し、特攻以外の正攻法を続けようとしていた隊長がいるのです。

深井中尉がどうして特攻に行かなければならなかったのか・・・・。
「20.5.11.戦死」、これだけですませてほしくないな・・・・。

※野中中尉の寄せ書きと深井中尉の奉職履歴は「なにわ会のブログ」に出ています。
http://naniwana.exblog.jp/

朝から泣かされました2008年02月02日 10時14分29秒

海軍飛行予科練習生
ある方から、とっても貴重な資料を教えていただきました。

詳しく書けないのですが、西澤飛曹長に関することです。

考古出身のママは資料収集癖が抜けず、以前、「西澤廣義の肉声」なる自分用の資料を作ったことがあります。出版されている戦記類から、西澤飛曹長が実際に発したと思われる会話を集めたものです。
(なので、小説と判断した書物からはとっていません)
「自分用」と言いながら、迷惑を顧みず、ガイ子さんには送りつけてしまったんですけどね(^_^;)

今回教えていただいた資料には、ママが集成した「西澤廣義の肉声」の何倍もの肉声が収録されていました。

そして、そのどれもが、かれの人間のすばらしさを伝えるものでした。
戦記で西澤さんのエピソードを読んで、いままでは、
「戦闘機乗りとしては立派な人だけど、近くにいたらきっと嫌なヤツ」
と思っていたのですが、ママはここできっぱりさっぱりと転びます。
「西澤さんは近くにいてもすばらしい、尊敬できる人間に違いありませんっ!」

かれの発したことばのひとつひとつに涙が止まりませんでした。
国のために命を賭けて戦うというのはこういうことなのか、と激しく感動しました(戦争を肯定しているわけではありませんよ)。
先日紹介した金井兵曹の日記に通じるところがあるかも・・・・。

それだけでも感動して涙、涙、だったのに、だめ押しで西澤さんが実際に書いた文章というものを初めて目にしました(活字ですが)。

これこそ、究極の「西澤廣義の肉声」です。

春海を幼稚園に送っていかないといけないのに、わーん(>_<)となってしまって、ぐちゃぐちゃになってしまいました。

これは、ママの資料収集能力ではとてもお目にかかれるものではありませんでした。
ありがとうございます、ありがとうございます、何度言っても言い足りないぐらいです。