Google
WWWを検索 ひねもすを検索

堀光雄飛曹長のこと22008年03月06日 12時27分28秒

さて、昭和20年8月15日、太平洋戦争も終わりました。

そのまま武器を置く部隊、いや、徹底抗戦だと構える部隊、いろいろあったわけですが、堀さんが所属した343航空隊では准士官以上は司令(源田実大佐)とともに自決、ということになりました。
ただし、強制ではありませんでした。

司令とともに自決する用意のあるものは宿舎の道場に集められます。
その場に行った機関学校53期の加藤種男大尉の手記によると23名が集まったそうです。その中に堀さんの姿もありました。

辞世を書き、盃もすませ、さあ、いざ自決、というときになって、司令から、
「実は・・・・」
これが狂言(といってもいいのでしょうか?)だったことが知らされます。

ある作戦を遂行するため、「命もいらぬ同士が欲しかった」から、このような芝居をした、と。
その作戦は『皇統護持作戦』と呼ばれるもので、皇統を絶やさないために皇族の一人をお迎えしてひそかに養育する、という作戦です。

堀さんは大村哲哉大尉(海兵72期)、加藤種男大尉とともに、九州宮崎の奥地・杉安という集落に潜伏し、そこで行在所づくりの活動を始めます。

このときの活動に関してはなにわ会のHPに加藤さんが手記を寄せられているので、それを参照していただきたいのですが、開墾しながら農作業もするという潜伏生活の苦労とともに、集落の子供たちとの交流も描かれており、これまたなかなか興味深いです。

堀さんが一ツ瀬川で獲ってきた鰻が食膳に上がったこともあったとか。歴戦の飛曹長が鰻を獲っている姿を想像すると・・・・いえいえ、大変だったんですよね。

加藤さんによると、大村さんも堀さんも子供たちの人気の的だったらしいです。どんなふうに人気があったのか、手記には具体的には書かれていませんでしたが、大村さんに直接伺ったたところでは、
「そんなことを海軍大尉にさせていいのー!?」
と驚くようなこと(羨ましかったですが)をさせられていたようです。

大村さんのお話では平成2年(堀さんはすでに他界)に加藤さんと杉安を訪れたらしいのですが、そのとき、当時交流した子供たちはみんな大村さん、加藤さんのことをよく覚えていてとても喜んでくれたそうです。
(なんだが、堀さんの話が途中でそれてしまったような・・・・)

堀光雄飛曹長のこと12008年03月06日 11時57分36秒

大正10年、岐阜県生まれ、乙種予科練10期出身の戦闘機乗りです。
昭和17年の春に飛行練習生を卒業しているので、終戦時にはベテランと呼ばれる領域の人でした。

堀さんはちょっとした有名人です。
堀さん自身が世間の注目を集めるものすごいことをしたというわけではありません。

堀さんの経歴は、飛練卒業後、台南空、582空とラバウルで戦い、18年初めに戦闘で怪我をしてからは練習航空隊の教員配置ばかりでした。
19年の年末に、待ち望んだ実施部隊・343航空隊という、新鋭機・紫電改を装備した航空隊の先任搭乗員として松山に着任します。

その時のかれの飛行隊長が菅野直大尉(海兵70期)だったわけですが、この人が「世間の注目を集めるものすごい」人だったわけです。
この人に関しては伝記のような本も出版されていますので(碇義朗『最後の撃墜王』)、興味のある方はそれを読んでいただくとして、堀さんはこの人の部下になってしまったことで名が残ってしまった一面もあるんではないでしょうか。
ネットで堀さんの名前を検索しても、まあ、だいたい菅野さん絡みの記事です。

菅野隊長は、20年8月1日、屋久島上空の空戦で乗機の二十ミリ機銃が暴発して戦死したと言われています。この一件の唯一の目撃者が堀飛曹長なのです。主翼に大穴のあいた菅野機を掩護しようとしたら、戦闘に戻れと叱られ、泣く泣く菅野隊長のそばを離れ、菅野隊長はそれきり行方不明です。
ほかに目撃者もいないようで、菅野隊長の最期に関しては堀さんの証言のみになっています。

戦後、『紫電改空戦記』という手記を書かれており、教員をしていた高雄空時代のこと、343空時代のこと、そして、菅野隊長の最期のことなどを書かれています。
准士官への昇進を前に、「前祝いだ」と中尉の階級章をつけた軍服を着て料亭でモテまくった話など披露されていて(階級詐称ですね)、なかなかおもしろかったです。

つづく

『海上自衛隊員の作り方』2008年03月04日 08時43分55秒

2007年4月航空自衛隊新田原基地2
イージス艦の事故とは無関係の話題です、念のため。

毎日のようにMy書庫・K林堂書店で読書に励んでいるママですが、先日、そこで面白い本を見つけました。
たぶん、ちょっと前に出ていた本だと思うのですが、置いてあった場所がいつもの場所ではなかったので、最近まで気づきませんでした。

『海上自衛隊員の作り方』
へえ、おもしろそうやん。
と、手にとってまず、著者略歴拝見。ママは本を買うとき、最初にここを見ます。
海上自衛隊のOBとのこと。著者がどういう人かによって、そのスタンスや、内容の信用度がある程度測れるでしょう?

次に目次。
「五分前」とか「ヨーソロー」とか「ヘル談」とか、まるで海軍もののような用語がずらっと並んでいます。

これはおもしろそうだと、その場で立ち読み開始。
小見出し形式で書かれていてとても読みやく、外出時に持ち歩くのにもってこいの本だと思いました。
買おうかどうか悩んだのですが、とりあえず、今回はパス。
でも、そのうち買うような気がします。
ちょっと子供のしつけに使えるかな?とか・・・・。
(別に春海を自衛隊員にしようって話じゃないですよ!)

話は変わりますが、ママ、自衛隊のモニター募集の広告を見て、思わず応募しちゃいました。
何をするのかよくわからないのですが、「平日モニター活動ができる二十歳以上の人」と書いてあったので、どうせ暇だし、と応募しました。
「大型ヘリ搭乗体験」は遠慮したいのですが、「施設内見学」とかって惹かれませんか?
最近、自衛隊の不祥事が多いので、よりよい自衛隊になってもらうために、お国のため、国民の一人として厳しい目でモニターに―
ってのはまったくなくて、ただ単に、
「海軍の血を引いているであろう自衛隊を垣間見てみたーい♪」
というミーハーな私利私欲のために応募してみました。

でも、募集人数は10人らしいんですよ。
くじ運悪いし、ダメだろうなあ(-_-)
(抽選結果は4月上旬だそうです)

カラオケだ! Go!!2008年02月29日 21時38分26秒

『月月火水木金金』を熱唱中の春海
今日もパパは会社の飲み会なので、春海とママはプールの後、ガイ子さんを誘ってばんごはんへ。
でも、その前に、カラオケだ、ゴー、ゴー!

ちなみに画像は、ママが無理やり歌わせている「やらせ画像」ではありません。
春海が「艦隊勤務の歌、歌いたいよー」って言うから、ママが『艦隊勤務』ちゅうのを入れたのですが、知らなくて歌えませんでした(>_<)
春海が歌いたかったのは『月月火水木金金』でした。ガイ子さんが入れてくれました。

春海、昔から「うみーのおとこのかんたいきんむっ!」が大好きで、道を歩いていても大声で歌うんですよねー。ちょい、恥ずかしい。

『男たちの大和』で、下士官たちが兵員室で歌っているのを聞いてからのお気に入りです。

今日は腕を振り上げ振り上げ、ノリノリで歌っていました。

カラオケで軍歌を入れると映像が当時の記録映像なんですねー。
水兵さんが甲板磨きをしている映像や、手旗信号やっている映像が出てきて興奮しました~。

ガイ子さん、日本で最後のカラオケ(たぶん)なのに、うちらの趣味に付き合わせてごめんねー。

梓特別攻撃隊12008年02月21日 19時26分21秒

吉野・如意輪寺に残る楠木正行の辞世の扉
かゑらじとかねておもへば梓弓 
      なき数に入る名をぞとどむる


南北朝時代の武将・楠木正行(正成の息子)が吉野・如意輪寺の扉に鏃で書きつけたといわれる辞世です。

それからおよそ600年の時を経て、再び、前途ある若者たちが「梓」の名のもと、二度と帰らない旅へと飛び立っていきました。

昭和20年2月20日、梓特別攻撃隊が正式に編成され、発令されました。
銀河(3人乗り、陸上爆撃機)による、ウルシー泊地に碇泊しているであろう米機動部隊への体当たり攻撃隊です。

762空の銀河24機(体当たり機)と、801空の二式飛行艇3機(天候偵察機1、誘導機2)です。

銀河は3人乗り、二式飛行艇は1ペア12人。

これだけの若者たちが、この日から、攻撃実施の日(未定)まで、地獄のような毎日を過ごさなければならなくなったのです。

攻撃実施は「米艦艇がウルシーに在泊しているとき」ということなので、相手次第の攻撃日になります。
明日かも知れない・・・・いや、10日後かもしれない・・・・もしかしたらひと月先かも知れない・・・・。
でも、確実に死ななければならないのです。
そんな状態でよく軍紀を保ち、士気を保ち、訓練に励めたと、かれらを尊敬します。
途中、訓練中の殉職者を出しながらも、それを乗り越え、かれらは1日、1日と攻撃実施日に近づいていきます・・・・。