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乙9期 加村外三さん2017年07月14日 21時35分56秒

加村さんのことで、重大な事実誤認をしていたことに気がついたので、今日はこの記事を書いています。


広島県出身。
偵察、中攻。



【氏名入り班写真】


【11班集合写真】


【操偵検査】


【霞ヶ浦海軍航空隊】
萩谷幾久男さんのアルバムにあった写真です。


【飛練・鈴鹿】


【飛練・大分】


【大型機・木更津】








加村さんといえば「使用止め」事件(笑)

『霞ヶ浦湖畔の予科練習部は、夏ともなると、猛暑と蚊に悩まされた。霞ヶ浦は、蚊住ヶ浦であった。湖につづく田圃の水は熱くなって用水にはボーフラが上下していた。
こうした暑い夏の日の陸戦教練は身にこたえた。夜分になると、ぐったりと昼の疲れが出る。練習生たちは、午後半日、阿見ヶ原を駈けつづけた疲れのため、ぐっすりと寝込んでいた。暑さのため、いつの間にか、毛布はおろか越中褌まで踏み脱いでいるものもいる。
ところで、教員は罰直のみが仕事ではなかった。巡検後の真夜中に巡回して、ハンモックから毛布を落としているのを拾い上げてかけえくれるのも、当直教員の心遣いであった。
その夜の当直教員は、チャメッ気を多分に持っている赤松教員であった。夜中に巡回していると、男の一番大切なものを出して寝ている練習生がいる。われこそは少年航空兵なりという感じで、まだあどけなさの残る加村練習生だった。これを見た赤松教員は、教員室にとって返し、半紙に墨黒々と認めた。
「このもの使用止め」
半紙の端には細い紙縒りが通っている。赤松教員は、この使用禁止の紙を、逸物というにはまだほどとおい稚気残る加村練習生の男性に、そっと縛りつけ、毛布をかけて巡回をつづけた』

↑加村さんの大事なところに関していろいろ書いていますが、わたしが書いたんじゃありません。書いたのは石塚猛さん(戦後、本間猛さん)です。『予科練の空』。

ちなみに加村さんのものを使用止にしたのはこの人↓。
赤松教員


その後――

『翌朝、「総員起こし」のラッパとともに飛び起きた加村練習生は、使用止めの貼り紙を見る暇もあらばこそ、みんなに遅れじと吊床を片づけた。級友が貼り紙を見つけて、「加村、お前のもの使用止めだぞ」と、注意をしたが、一晩ためきったタンクは満杯である。我慢の余地はない。だれかのいたずらとたかをくくって、加村練習生は、この貼り紙を無視して生理的要求に応じたのだ。朝の課業を終えて、朝食のとき、赤松教員が、
「加村練習生、小便はまだか」という。
「いいえ、小便はしました」と加村がいうと、赤松教員は、
「使用止めの命令を無視して、ものを使用するとは、もってのほかだ。ちょっと来い」で、加村練習生の額に、ウシコロシを二つ弾いたのである。この罰直は、原因が原因でもあったが、どちらかといえば親愛の情を表すようなものであった』







飛練を卒業して最初に配属されたのは高雄空。
それから17年2月10日に4空へ。
その4空で2月20日のニューギニア航空戦に参加。

そのときのことを、予科練の先輩であり、4空の同僚でもある8期の小南良介さんが倉町先生に語っています。
小南さん

この日はラバウルから4空の陸攻17機が出撃して、13機自爆、2機不時着。
基地に戻って来たのはたった2機。

そのうちの1機が、小南さんが主操縦員をつとめる機体でした。
副操縦員は9期の古田正直さん、副電信員が加村さんでした。

数字を見てもわかる通り壮絶な戦になったわけですが、小南さんが18年秋にラバウルで倉町先生に再会したとき、そのときの様子を詳細に語ってくれたそうで、その内容が『予科練外史』に記載されています。

小南さんから聞いた――ということになっているのですが、内容は一部加村さんから直接聞いたのではないか?という部分もあります。
『小南機の電信員加村外三三飛曹(乙九)は初陣で、機動部隊の実体とか、防御放火の熾烈さなどということは、聞いてはいてもまだ実感を伴わない概念に過ぎなかった。いよいよ敵艦隊を眼下に見下ろす程に近づいたが、まだ恐怖感などは湧かない。好奇心も手伝って艦数を数えた。大小合わせて十四隻。そのうちに編隊が旋回して敵艦隊が見えなくなった、と思った時、金槌で機体をたたかれたような音がして、グラマン戦闘機が眼前に大きくクローズアップされた。すわ!戦闘機だ。機銃を敵に向けようととしたが、心ばかりがあせって銃口がうまく敵に向いてくれない。――これが初めて敵機と渡り合った時の実状であった』

帰隊後調べたら、小南機には下面に23、上面に21、右面に13、左面に19発被弾、使用不可能ということになって還納手続きが取られたそうです。




この戦いで戦死した9期の石川茂さん(操)のご遺族の方が保管していた当時の新聞記事です。
スクラップ帳に貼り込んでありました。出典・日付けがわからないものもありました。
その中の一部です。
毎日新聞。








17年2月27日朝日新聞。

大本営発表なのでね。
戦闘機の直掩をつけないまま陸攻だけで攻撃に出て、ひどい損害を受けたにもかかわらず、なんともいえない勇壮な報道のされ方です。
今日の本題はここにはないのでこれ以上触れませんが。






加村さんに関しては『予科練外史』にもう一か所出てきます。
17年8月7日。ガ島攻撃初日。

『この朝早く、攻撃準備が発令されたとき、陸攻の主電信員乙九期の加村外三三飛曹は、いつになく胸騒ぎのようなものを感じて、ふだんは持参しない千人針といっしょに、同期偵察員の合言葉、「玉砕」と染め抜いた鉢巻きをバッグに入れた』


島田清守さんの遺品の中にあった「玉砕」の鉢巻き。
加村さんがこの日の攻撃に持っていた鉢巻きはこれと同じものではないかと思います。


この日の攻撃で加村さんの搭乗機はエンジンに被弾、ブカ島近くのサンゴ礁の浅瀬に不時着、密林や不毛の海浜を彷徨して10日後に味方陸戦隊陣地にたどり着き、19日朝、迎えに来た掃海艇でラバウルに帰ることができたそうです。



おもいで
「色白で、おとなしい女形にしたい様なやつだった」

「霞ヶ浦の暑さに大事な処を出して寝て知らぬ間に「使用止」の札を貼られたが、起床と共に生理的要求に耐えかね無断使用して大目玉を喰らったのは外三君だと思ったが、或は他の人かな」



「使用止」事件はどうも加村さんかどうかあやしいようです(^^;)
アヤシイ記憶でずいぶんなことを書かれてしまった加村さん・・・・orz






冒頭に書いた加村さんに関する「重大な事実誤認」というのは、加村さんの戦死に関することです。

ブログの9期戦没者名簿には「19年1月13日 702空 本州東方海域哨戒中不明」と書いています。
『九期生名簿』にはそう書いてあり、海原会の戦没者名簿にもそう書いてあります。まったく疑っていませんでした。
ただ。戦死時の行動調書は見つけられていませんでした。つまり、自分で確認していなかった、と。

最近、そのことを確認する機会がありました。
機会がありながら忙しさにかまけてちゃんと見ていませんでした。
今日、あらためてじっくり見ていたら、加村さんの戦死日が「18年1月13日」と記載されているのに気づきました。

ひどく衝撃を受けまして。
すぐに18年1月13日の702空の行動調書を確認しました。ありました。たしかに、加村さんが行方不明になっている記録が。
亡くなった日を誤認していたというのは、わたしとしてはもうなんとも申し訳ない気持ちで・・・・。

加村外三さんの戦死状況を訂正いたします。



18年1月13日   702空  本州東方海域哨戒中不明




※画像は9期生ご遺族ご提供

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