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乙9期 西谷芳数さん2018年02月24日 10時35分21秒

広島県出身。
偵、艦上機→飛行艇




1学年時16班。


西谷さん、かわいい写真があるんです。
何をしているのかな?
掃除中かな? 楽しそう。
ペンネントは霞ヶ浦海軍航空隊、階級章は3空。
14年3月か4月頃かな? 中に濃い色のシャツを着ているので寒い時期だと思います。

西谷さんは前列のしゃがんでいる右側です。





習志野演習の集合写真。
9期の偵察分隊。石井雄さん、益田増雄さん、堂前清作さん、藤原国雄さん、鶴見堅三さん、村上守司さん、西谷芳数さん。
10期生数名がお顔がわかります。粟生稔さん、西兼淳夫さんが写っているので1学年8班の一部か。







これは艦務実習、台湾に上陸したときの写真ではないかと想像しています。
ペンネントは大日本軍艦山城。




予科練卒業直前の、おそらく班集合写真。
ペンネントは土浦海軍航空隊。






飛練鈴鹿時代の運動会。





飛練実用機博多の卒業式。



しゃがんだり座ったりしている写真が多いのでわからんと思いますが、西谷さん、長身です。



おもいで
「なかなかに涼しい頭の持ち主。トンツーにはずば抜けた適性を持っていた。遠藤秋章は宇垣長官のおともをしたが、西谷は古賀長官のおともをしたのだった。好漢短命か」


「入隊時隣班。まじめであった。横空の特修科練習生で会ったのが最後だったね。もっと生きて活躍してほしかった」





博多の飛練卒業後は瑞鶴です。
真珠湾攻撃時は2次攻撃隊、水平爆撃隊(97艦攻)の電信員として出撃しています。

真珠湾攻撃時の心情(『予科練外史』)
『前夜は半睡。
身辺の整理をすませ、同期の兼藤二郎と予科練の思い出、失敗談などをした。
遺書は父母、兄弟に一週間ほど前に書いた。――永い間の恩を謝し、今日の名誉を喜んでくれるように、と』
『天候はよくないが気分は上々。勇壮な気持がわいた。
偵察は甲四の大西久夫二飛曹、操縦は大河内正二一飛曹。
「敵弾が機に中ったら突っ込もう」と話し合った』
『「敵艦隊は全滅だ!」というと整備員は、
「おめでとう。」とニコニコしながら言った』


年が明けて1月には加賀に転勤。

1月20日 ラバウル攻撃(五島薫3飛曹、樋口金造2飛曹、西谷芳数3飛曹)
2月19日 ダーウィン攻撃(五島薫3飛曹、樋口金造2飛曹、西谷芳数3飛曹)
3月5日 チラチャップ攻撃(五島薫3飛曹、樋口金造2飛曹、西谷芳数3飛曹)

ペアは操・偵・電の順です。
固定のペアですかね。
偵察の樋口金造さんは先輩8期生です。
19年6月19日 652空 中部太平洋で戦死。マリアナ沖。飛鷹から発艦。
茨城県出身なので、この1列目にいらっしゃるのだと思うのですが、どのかたかわかりません。
8期同期生の回想によると好男子でもてていたらしいです。


6月5日のミッドウェイのときも西谷さんは加賀にいたはずですが、どうされたのか把握していません。
同じ加賀に乗っていた9期の同期生・黒木勇三郎さん(偵、艦攻)は沈没に巻き込まれ戦死。
同じく加賀に便乗していた6空の松本勝正さん(戦闘機)は命からがら脱出して救助されました。

西谷さんはこのあと筑波空に転勤になっているので、加賀に乗っていたとしても救助されて内地に帰ったんでしょうね。
ちなみに松本勝正さんも、日付けこそ違いますが筑波空に転勤になっています。

筑波は操縦の練習航空隊ですが、前に搭乗員さんに聞いたところによると操縦の練習航空隊にも偵察教員がいたと。
西谷さんも偵察教員です。


その後、横須賀航空隊。
たぶんこれが「おもいで」に書かれている特修科練習生(略して特練)だと思います。
これも想像ですが、たぶん電信の特練ですよね。
横空から転勤した851空では2式飛行艇の電信員ですから。



19年3月31日   851空  南洋群島 



古賀峯一連合艦隊司令長官が遭難したときの搭乗機の主電信員です。

いわゆる「海軍乙事件」といわれている事件。
パラオにいた長官はじめ司令部要員が敵来襲の誤報を受けて比島のダバオに移動しようとして悪天候に巻き込まれ遭難した事件です。
長官が乗った1番機は行方不明、福留繁参謀長が乗っていた2番機は海上に不時着、生存者たちはゲリラにとらわれ重要機密書類を奪われ・・・・。
2番機のその後を知りたい方は吉村昭さんの『海軍乙事件』に詳しいのでそちらをどうぞ。






一昨日、薬師寺の刀剣展を見に行って、期せずして古賀峯一長官の短刀と対面しました。
そこにつけられていた解説を見てぎょっとしました。

古賀長官、「殉職」って書いてあったんで。
9期生のことを調べる以前はあまりこういうところを気にしていなかったんですね・・・・。


あれ? 西谷さんは「戦死」だったはず。



家に帰って来てすぐに9期の資料を調べました。
やはり西谷さんは「戦死」。

ネットで調べてみたら、海軍乙事件のWikipediaには「この事故で一番機に乗った司令部要員7人を含む全搭乗員は「殉職」とされた」(出典:戸高一成編『「証言録」海軍反省会4』PHP研究所)と書いてありました。
嶋田繁太郎海軍大臣が古賀長官の行動を前線からの逃亡だと批判して「戦死」ではなく「殉職」扱いにした、と。

出典として挙げられている本をわたしは読んでいないので、前後を含めてどんなふうに書いてあるのかわからないのですが、wikiのこの記述のしかただともともとの851空の大艇搭乗員たちも殉職扱いにされたように書いてあります。
古賀長官が殉職になっているのは資料で確認しました。ただ、wikiに書かれていた「逃亡」云々は書かれていませんでしたが。
たぶん無理に「逃亡」という理由をつけなくても、パラオからダバオへの移動中の遭難だったら殉職扱いになるような気もします。



しかし、大艇の搭乗員たちは「殉職」ではなく「戦死」だと思うんですよね。

西谷さんは「戦死」です。
古賀長官の殉職の発表のあとで戦死認定されているので、さらにのちに覆っているとは考えにくいです。

西谷さんが「戦死」なら、他の大艇の搭乗員たちも「戦死」のはず。
同じ任務についているのですから。
西谷さんたち大艇の搭乗員たちは「移動」ではなく「輸送ノ任ヲ帯」、パラオからダバオに向かったのです。


一人であれこれ考えていても埒があかないのでいつものKさんに尋ねてみました。

「海軍乙事件の1番機の搭乗員たちは戦死か殉職がご存じないですか?」

「機長の難波(正忠)大尉以下、戦死です」

ということでした。



さっきアジア歴史資料センターのサイトで陸軍省の資料の中に聯合艦隊司令部の遭難に関する文書があるの見つけました。
資料の見方がよくわからず、いつ書かれたものかわかりません。
そこには遭難の経緯のあと、
『一番機は其の後全く消息を断ち古賀長官以下は殉職と認定せられたのであった』
と書かれてありました。

うーん。
これは誤解を招きかねない書き方ですね。
おそらく「古賀長官以下(連合艦隊司令部要員)は殉職」という意味なんですよね。この資料は大艇の搭乗員のことには触れていないと思います。
しかし、ここを読んだだけでは一番機に乗っていた全員(長官+司令部要員+搭乗員)が殉職したような印象に受け取られかねないです。
こんな感じで「搭乗員たちまで殉職」と誤解されていったのではないかと想像しました。


ながながと書いてしまいましたが、要は西谷さんたち大艇の搭乗員は殉職ではなく「戦死」である、ということです。



※画像は9期生ご遺族ご提供

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