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乙9期 平山繁樹さん2015年10月14日 21時51分22秒

福岡県出身、偵察。
加賀、瑞鶴・・・・752空攻撃501



【氏名入り班写真】
14班です。


【東京行軍】






【大楠山慰安行軍】



【操偵適性検査】





【香取神宮】

【桟橋】




【2学年操偵混合集合写真】
坂田さんの遺品の中にありました。
2学年以降で、操偵混ざって写っているのはめずらしいです。



【偵察分隊総員集合写真】




【倶楽部】
1空の階級章をつけています。
15年夏。
予科練卒業アルバムから。





「おもいで」(『九期生名簿』)より

「いろいろな点でリーダー格。要領もよかった」

相撲は分隊中のベテランだったが、普通学もよくできた。君が専修科に進んだとソロモンで聞いた」

「真のエリート。万能選手。その積極さは得難いリーダーであった。そしてあのファイト、何としても惜しい」








【飛練鈴鹿卒業アルバムから】



これだけは藤原国雄さんのアルバムから



【実施部隊】
16年12月7日 加賀飛行甲板の艦攻隊集合写真から




倉町先生の『予科練外史』より

加藤哲夫の如きは、私がカビエンに着いた日の、壮行決別の宴が終わった夜、宿舎への道がわからないだろうと、二、三の戦友の先頭に立って送ってくれた姿が彷彿とする。あんなに若いのが、あんなに元気だった者が・・・・。崇高にして美しい姿を追いつつ待機所の羽目板に寄りかかってぼんやりしていると、
「・・・・、顔色が悪いですよ。具合が悪いですか。」
と平山(乙九)が寄って来た。
「・・・・」
「戦争だから仕方がないですよ。初めのうちは、私たちも戦友が死ぬと淋しかったですが、もうこのごろは別に考えなくなりました。今度は自分の番だと思うだけです。一々悲しんだり、淋しがったりしていては戦いはできませんよ。しかし、南太平洋戦争でごっそり帰らなかった時は、さすがに淋しかったです。ベッドが欠けて、残ったのがぽつんぽつんだったですから。実際あの時は、一人で小便に行くのもいやなような妙な、淋しいような気味の悪いような気がしました・・・・。」



18年秋、ソロモンでの話ですね。
当時、瑞鶴飛行機隊だったようです。

この「(戦友が死んでも)今度は自分の番だと思うだけ」というのは、K上飛曹もよく言われています。
実際にそんな状況になったものにしかわからない心情なのかもしれません。




同じく『予科練外史』から

平山繁樹(乙九)は、「瑞鶴」の艦偵の偵察員である。この日(18年11月2日)突っ込んで来る敵と、邀撃に上がる味方機が入り乱れる中を愛機に向かって走っていた。が、味方戦闘機が先を争って離陸する最中で、とても間に合いそうにない。一緒に走っていた機長が、
「壕にかくれろ!」
と言った。壕に引き返そうとするところに、丁度トラックが通りかかった。すかさず飛び乗って走っていると、パン!と不気味な音と共にフロントガラスが飛び散った。運転員も彼も飛び降りたが、道路の真中のことで、遮蔽物は何一つない。咄嗟に側溝に身を伏せた。火箭が路面に破裂する。彼はもうこれまで、と思った。
――俺は服に名前も書いていない。名刺も持っていない。死んでも、どこの誰だかわかるまい。ましてこんな溝の中では死体の収容もしてもらえないかもしれない。それならいっそ、道の真中に出て死んだ方がいい――
とも思ったが動けなかった。どうせ、伏せていても仰向いていても中るものは中る。そう思い直して平山は仰向いた。道路すれすれに何機も何機も、アメリカのマークをつけた飛行機が通過してゆく。あちこち目を配ると、溝に鉄板が渡してあった。そこまでいざりよって行くと、中には先客があった。外出帰りの下士官らしい。
「瑞鶴の平山です。願います」
と彼は挨拶した。二人になると急に心強くなったという。







台湾沖航空戦のところで、平山さん戦死時のペアは飛行隊長の丸山宰平少佐(操縦)と平原春男上飛曹(電信)と書きましたが、2日前の10月12日の攻撃時(K501銀河30機・うち8機引返し)は違うペアでした。

操縦:藤井鎮上飛曹
偵察:平山繁樹上飛曹
電信:中村博信上飛曹

このペアで薄暮攻撃に出ています。

このときに飛行隊長の丸山少佐の搭乗機は台南空に不時着して大破したようなんです。

そのことと、2日後のペアの交替は関係があるのかないのか。

2日後の14日、隊長機の偵察員として雷装で出撃。



神野正美さんの『台湾沖航空戦』光人社。14日の攻撃。

また「銀河」隊は、一式陸攻の後を追って発進した攻撃五○一飛行隊(飛行隊長・丸山宰平少佐)の、雷装した八機だった。
米史料は、第三十八・三機動部隊(フレデリック・C・シャーマン少将)に属する、軽空母「プリンストン」を発艦したVF・27のF6Fが、機動部隊の西方一 五マイルで、午後三時にフランシス(銀河)一三機との交戦、撃墜を報じている。交戦時間や機数に疑問が生じるが、白昼の台湾沖で「銀河」と識別した、米側レポートを信するならば、これが全機、一通の電文も発せずに未帰還となった、攻撃五○一飛行隊の攻撃隊である。




12日の攻撃で平山さんとペアを組んでいた二人は、その後どうなったのかと思って神野さんの『攻撃501飛行隊の記録』をめくってみました。

中村博信上飛曹は別のペアと組んで、同じ14日の攻撃で未帰還。

藤井鎮上飛曹の方は14日は攻撃に出ていません。その後、どうなったのか・・・・と見ていて、いままで気づいていなかった別のことに気づいてしまいました。その話はまたあらためて書きます。





19年10月14日  752空攻撃501  台湾沖航空戦



※画像は9期生ご遺族・ご家族ご提供
※参考:倉町秋次『予科練外史』、神野正美『台湾沖航空戦』『攻撃501飛行隊の記録』

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