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折田善次艦長2008年09月28日 16時11分24秒

多々良隊の壮行会まで書いたので、出撃、そして、無念の帰還まで書こうかと思ったのですが、その前にどうしてもこの人のことを書いておかないといけないのかな、ということになって、「折田善次艦長」。

多々良隊、天武隊の柿崎隊長以下6人を戦場まで運ぶ役目を担った伊47潜の艦長です。鹿児島出身、海兵59期出身。このとき30代半ばぐらいではないかと思われます。

多々良(柿崎)隊と折田艦長のことを書く前に・・・・。
伊47潜はこれ以前、菊水隊の回天とも行動を共にしています(19年11月8日出撃)。
仁科関夫中尉(兵71期)、佐藤章少尉(九大)、渡辺幸三少尉(慶大)、福田斉中尉(機53期)の4人です。
折田艦長にとって、これが初めての回天搭載だったのでしょうか。乗組員には、
「回天搭乗員の前では決して”明日”の話はするな。日本へ帰ったらどうするか、とか、うまいものを食いに行くとか、そういう話は一切してはならぬ」
と厳命しました。
折田艦長も潜水艦乗組員もそうやって気を遣っていたのですが、回天搭乗員たちはふだんとまるで変わらず、測的の訓練や海図の研究に没頭しており、暇があると手空きの者と将棋やトランプに打ち興じていたそうです。
折田艦長は日に日に食欲がなくなっていきますが、回天搭乗員たちは元気で、食欲も旺盛、平素と全く変わらなかったと。
「彼らはすでに生きながらにして神様だ、神様でなければとてもあんなにはできない」
と思ったそうです。

そして、目的地ウルシーに到着。いよいよ回天発進の時がやってきます。
折田艦長がそれを命じたのです。4人の搭乗員たちはそれぞれ頬を紅潮させ、背をまっすぐに伸ばし、
「お世話になりました、征きます」
と元気のよい声で挙手の礼をして回天に乗り込んでいったそうです。

19年12月25日、伊47潜にとって2度目の回天作戦のための出撃です。
連れて行ったのは金剛隊の4人です。川久保輝夫中尉(兵72期)、原敦郎中尉(早稲田)、村松実上曹(14志)、佐藤勝美一曹(14志)。
艦長は特に川久保中尉とは深い縁でした。川久保中尉も鹿児島の出身で、輝夫中尉のお兄さん(次男・尚忠。輝夫中尉は五男)が折田艦長と兵学校同期生で仲良しでした。当然、輝夫中尉のことも幼少のころから知っている、という仲でした。

折田艦長は二人きりになった時に、心の中で泣きながら話しかけます。
「お前、大きくなったなあ。昔、遊びに行ったときは、ものもようしゃべらんガキじゃったが、いまはこうして回天搭乗員になろうとはなあ。お前のお父さんにお前のことを話してやるから、何か伝えたいことがあったら言え」
川久保中尉は静かに答えました。
「おじさんがご覧になったとおりのことを親父に言ってください」

敵地に向かう途中の12月30日、伊47潜は思わぬものを発見します。
玉砕したグアム島から脱出した海軍陸戦隊の8名が乗った漂流中のいかだです。わずかな食糧で1か月近くも漂流していたのです。
しかし、折田艦長はここでかれらを救助するべきかどうか迷いました。
いまから回天を発進させるために死地に赴かねばらないのです。せっかくここまで生き延びてきたかれらを艦に収容してしまうと結局殺すことになるかもしれない・・・・酷かもしれないが、飲み水と食べ物を与え、一番近い島の方角を教えて突き放した方がいいのではないか・・・・。
艦長が迷っていると川久保中尉が言いました。
「8名を助けてやってください。われわれ4名はも間もなく死にますが、4人のかわりに8人の海軍がかわって生還するということはめでたいことです。着るものはわれわれのものがいらなくなるから、それをやってください」
このひとことで、折田艦長は8名を救助する決心がつきました。

20年1月12日、伊47潜は目的地のホーランジアに到達。
金剛隊の4人は菊水隊の4人と同じように折り目正しく艦長や乗組員に、
「お世話になりました、では征きます」
と挨拶をして回天の人となったのです。

折田艦長は結局、伊47潜の艦長として12名の回天搭乗員の発進命令を下したことになりました。
上記8名と、天武隊の柿崎中尉、前田中尉、古川上曹、山口一曹です。

参考:岩崎剛二『指揮官最後の決断』光人社NF文庫
また、なにわ会のHPに折田善次艦長の戦後の回想が掲載されているので、詳細はそちらでどうぞ(トップの「戦没者」→「川久保輝夫」)