乙7期 西義武さん ― 2019年02月14日 14時52分09秒
少し前に、「9期の川原与三郎さんが戦死したときのペアの主偵察員」ということで7期の西義武さんのことを話題にしたのですが。
「あれ? 西さん、操縦員だよね?」
って話。
Kさんにご教示いただきました。
偵察員だそうです。
Kさんが言うから間違いない。
しかしですよ。

7期の卒アルの氏名入り個人写真コーナーはたしかに操縦専修者のところに西さんのお名前とお顔が・・・・。

「卒アルが間違えているんじゃないのー?」
ってことはないんですよ。
山口良一さん(中攻操縦)の班写真。

前列左から、田坂要さん、佐々木利照さん、降幡武雄さん、大迫留彦さん、斎藤益一さん、橋田一雄さん
中列左から、西義武さん、井方作男さん、森田稔さん、千葉力男さん、山口良一さん
後列左から、外塚四郎治さん、今城金嘉さん、鈴木要さん、喜多義雄さん

↑西さん以外、全員操縦。
おそらくこの時点で西さんも操縦専修生だったはず。

同じメンバー。
ですが、上の写真から一人増えています。後列左から2人目に吉村繁雄さん。


これも同じメンバー。

階級章(2空)や顔ぶれからみて、操縦専修生時代の班写真で間違いないと思います。
今日の話題には関係ないですが、ここに写っている今城金嘉さんはのち水上機の操縦員。
最近見せていただいた山陽丸の集合写真に今城さんらしき人が写っていました。
この話はいずれあらためて書こうと思っています。
西さん、もう一枚あります。

9期生の遺品の中にあった熊本出身乙7~9期生集合写真。
おそらく7期卒業に際して。

この写真からは操縦専修生だったのか偵察専修生だったのかは判断できません。
7期飛練の霞ヶ浦航空隊時代の集合写真があるんですが。

言われてみたらたしかにここに西さん、写っていないかも?
Kさんによると、7期飛練は13年8月15日、操縦専修生たちは水上機・陸上機ともに霞ヶ浦航空隊に入隊し、13年12月15日に水上機班だけが鹿島空に移動したらしいんですよね。おそらく初練を陸上でやって、中練から水上機で、ってことなんでしょう。
※訂正です。水上機班が鹿島空に移動したのは、鹿島空が13年12月15日に新設・開隊したためだそうです。
この集合写真には水上機の人は写っていないようにあります。
ということから、わたしはこの集合写真は13年12月15日以降に撮られたんだろうと思っているわけですが。
すでにそこに西さんが写っていない、と。
8月15日から12月15日までの4ヶ月の間に何かあったのかな?
Kさんは12月15日よりもっと前に西さんが偵察に進んだという確かな痕跡があると言われているので、「何かあった」可能性のある期間はもっと狭まります。
※西さんが操縦から偵察に移った時期は現時点で予科練卒業後~13年10月より前・・・・ぐらいの感じです
あとひとつ、気になることが。
前の記事を書いてから西さんの前任の航空隊を探したのですが、17年初めごろに鹿屋空の行動調書にお名前がありました。偵察員でした。
「二飛曹」って書いてあったんですよね。
この頃、他の7期の人たちは1飛曹になっています。
行動調書が書き間違いでなければ、進級、遅れていますね。
操縦から偵察にかわったことと関係があるのかないのか、それはわかりません。
現時点でわかっているのは、「13年8月15日(予科練卒業)から2ヶ月ほどの間に操縦から偵察にかわっている」、「進級が遅れている」。
これ以上調べようがないので、ここで止めておきますが。
結論。
西さんは予科練卒業時点では操縦専修生だったけれど、飛練期間のどこかで偵察にかわり、実施部隊に出たときは偵察員だったと。
※画像は7期生ご遺族、9期生ご遺族、ご家族ご提供。
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