7期 柔道写真 ― 2021年05月05日 22時26分06秒
今日は7期生のアルバムにあった写真。
アルバムというか、これはバラで入っていた写真です。

裏書がありました。
「十二月五日 柔道場前ニテ」
ちらほらと7期の知ったお顔が。
あれ?

6期の山岸昌司さんじゃないですか!?
と思って探したら、他にも6期生が写っていました。
いつの写真かな?
6期と7期が一緒に写っているということは11年12月5日か、12年12月5日か。
5期生がいるか、8期生がいるかわかれば11年か12年かわかると思うのですが、お顔がわからんのですよ(>_<)
もうちょっと研究してみます。
この写真、周囲が塗りつぶしてありますよね。
何か写っていてはいけないものが写っているのでしょうね。
※画像はMさんご提供
乙6期 山本福松さん ― 2021年04月02日 10時13分18秒
最近7期生のアルバムを見ているって書きましたかね。
見ているうちに、7期生の全容をまったく把握していないことに気づいて、Kさんに助けてもらいながら名簿を作り直しています。
9期のときも経験しているのですが、何が大変って、「出入り」を把握するのが大変です。
ベースの7期名簿みたいなのはあります。『予科練外史』にも掲載されています。
「二〇四人が合格者」
と書いてあります。
入隊時の204人は倉町先生の名簿でわかる、と。
わたしは卒アルの名簿を見ています。『予科練外史』の入隊時名簿と多少顔ぶれが違います。
途中で辞めた人、上の期から編入されてきている人、そこら辺の整理が大変です(^^;)
ついさっきの話なんですが、七期雄飛会の『予科練のつばさ』の泉沢勝さん(中攻偵察)の手記を読んでいました。
そこにめっちゃ歓喜情報がありました。

泉沢勝さん
マレー沖海戦のことを書いてくれています。当時泉沢さんは鹿屋空。
『二番機の山本福松一飛曹、三番機の隊長中島勇壮一飛曹は、ともに同期生で練習航空隊を巣立った仲間である』
あれ?
7期に山本福松さんっていたっけ?
最近、7期の名簿を一生懸命作っているので、けっこう覚えました、7期生のお名前。
たしか7期の山本さんは浩さんと整一さんだけだったはず。
結婚して姓が変わったのか? いや福松さんもいてないよな?
おかしいな、と思って卒アルや自分で作っている名簿を検索しましたが出てきません。
もしかして6期入隊の人かな?
と思って調べたら、いてはりました。

6期卒アルの山本福松さん。
どこかの時点で7期に合流したんだな。
卒アルの名簿にお名前はないので、飛練かな?
まあ、ここまではよくあることだったんですが(^^;)
「あれ? この人、見たな」
最近見ている7期生のアルバムにこの人の写真が貼ってあった!
そう思って見返したら、氏名不明者の中にありました。

山本さんですよね?
この7期生のアルバム、持ち主の方が几帳面だったようでかなり多くの写真が台紙に書き込みあり、状況や人物がわかります。
が、一部何も書かれておらず、撮影場所や時期、人物がまったくわからないものがあります。
この写真もその一枚でした。
とりあえず7期生は全部お顔を照合したのですが該当者見当たらず。
「もしかして、実施部隊で親しくしていた人かな」
それならもうほぼ判明不可能なので、何らかのご縁を待つしかないと諦めました。
んで、今朝、泉澤さんの手記で「何らかのご縁」キター!と。
この山本さんは善行章1線、階級は3空曹、左袖に特技章をつけています。
偵察員です。
そこらへんから時期はある程度絞れるのかなと思います。
こうやってひょっこりわかることがあるんですよ。
ホントに不思議です。
アルバムの中には他にも、ホントに「どういうご縁?」ってびっくりするような写真があったので、おいおい紹介します。
※写真は6期生ご家族、Mさんご提供
山岸教員の日記14 ― 2021年02月20日 10時47分57秒
山岸昌司さん、あらためて紹介しておきます。

大正9年、長野県生まれ
乙6期
艦攻操縦
17年10月26日 翔鶴 南太平洋海戦
戦死時、9期の村上守司さん(電信)のペアの操縦員です。
14年7月から丸3年、筑波空で教員をされていて、その間に9期生(飛練10期)も受け持っていました。
4月23日
小雨を突いて飛行作業
午后もと張切ったが昼食頃降雨稍盛となりしため取止めらる
午后天気晴朗となる
4月24日
応用特殊飛行始まる
午后もVあれど練習生のみ
別科自差修正
夜映画有り 「難波女」 面白からず
4月28日
場外V準備 速試・燃試を行ふ
S(実名)M(実名)教員並に小生向ふ一ヶ月指導教員なり
早速本日は小生当直 日課注意などで大多忙
5月1日
○空生地着陸
風速大
プロペラボス一本だけ残りて後全部折損 よくもペラが飛ばなかったこと
全く天祐なり 父母様に深儘の感謝を捧ぐ
小雨を突いて飛行作業
午后もと張切ったが昼食頃降雨稍盛となりしため取止めらる
午后天気晴朗となる
4月24日
応用特殊飛行始まる
午后もVあれど練習生のみ
別科自差修正
夜映画有り 「難波女」 面白からず
4月28日
場外V準備 速試・燃試を行ふ
S(実名)M(実名)教員並に小生向ふ一ヶ月指導教員なり
早速本日は小生当直 日課注意などで大多忙
5月1日
○空生地着陸
風速大
プロペラボス一本だけ残りて後全部折損 よくもペラが飛ばなかったこと
全く天祐なり 父母様に深儘の感謝を捧ぐ
※深儘→深甚か?(管理人注)
5月5日
Vなし
移動訓練準備を行ふ
5月6日
移動訓練一日目
無事終了す
5月7日
仙台場外V 天候も概ね良好にして無事に終了す
Vなし
移動訓練準備を行ふ
5月6日
移動訓練一日目
無事終了す
5月7日
仙台場外V 天候も概ね良好にして無事に終了す
※画像はご遺族ご提供
山岸教員の日記13 ― 2021年02月18日 14時49分55秒
阿部さんの記事を書いていて、山岸昌司教員(乙6)の日記が12で中断していることに気づきました。
スイマセン、こういうの、多いですね<(_ _)>
山岸さんの日記、飛練10期関係箇所。
5月末の卒業まで。
いや、正確に言うと、6月の初めにもちょこっと飛練10期生(9期生)が登場します。
4月11日
桜花満開
三角航法にて飛び行く関東の平野到る処に桜花有り
4月12日
行軍ありて飛行なし
4月14日
編隊検定始まる
リーダーで十二回乗る
だが検定官でなくてなにより
4月15日
検定二日目
今日は同じくリーダーで十一回
4月16日
検定三日目
今日は少し減って八回 終ってすぐ格納庫に帰ったら時間が三十分以上も余って居た
午後体操講習に出る 体の真までも沁み入る様なものだった 前からやって居る人達は少々上手い 別科大掃除を行ふ
4月17日
計器V(飛行)検定始まる
午后体操講習
夜映画あり(転落の詩集)
4月18日
計器V検定 雲低く気流不良
本日にて検定全部終了す
4月19日
背面係スタントの教員互乗訓練並に編隊
練公大部お上手になった 相当のことをしても皆付いて来る
桜花満開
三角航法にて飛び行く関東の平野到る処に桜花有り
4月12日
行軍ありて飛行なし
4月14日
編隊検定始まる
リーダーで十二回乗る
だが検定官でなくてなにより
4月15日
検定二日目
今日は同じくリーダーで十一回
4月16日
検定三日目
今日は少し減って八回 終ってすぐ格納庫に帰ったら時間が三十分以上も余って居た
午後体操講習に出る 体の真までも沁み入る様なものだった 前からやって居る人達は少々上手い 別科大掃除を行ふ
4月17日
計器V(飛行)検定始まる
午后体操講習
夜映画あり(転落の詩集)
4月18日
計器V検定 雲低く気流不良
本日にて検定全部終了す
4月19日
背面係スタントの教員互乗訓練並に編隊
練公大部お上手になった 相当のことをしても皆付いて来る
うれしいことが書いてありますね♪
谷田部空で飛練をやった松本勝正さんも3月末か4月初に家族に宛てた書簡に「計器飛行と編隊互乗航法をやっております」と書いています。
筑波空教員時代。

前列左から下宿のおじさん、木村重雄教員(操41)、山岸さん
後列はどなたかわかりません。
※画像はご遺族ご提供
二人の日記 ― 2019年07月17日 21時54分52秒
昨日の訪問、始まりは2015年に見せてもらった1枚の写真です。

左は9期の藤原国雄さん。台湾沖航空戦で戦死された中攻偵察員です。
奇しくも4年前の昨日(2015年7月16日)、藤原さんのご実家にうかがって遺品を見せていただきました。
台風予報で、「電車、走るかな?」と心配しながらの訪問でしたが、幸い、お墓参りのときにパラっと来ただけ。昨日と似たような状況でした。
見せていただいた藤原さんの遺品の中に上の写真がありました。
この写真の存在はそれ以前にご遺族の方に写メで見せてもらっていたので知っていましたが、現物で階級章や裏書まで確認できたのはこの訪問のときです。
阿見の小船井写真館撮影。
裏書によると左から、「藤原」「木下」「大野」。
階級章は藤原さんが2空、木下さんが1空。
これで真ん中の人が9期生ではないとわかりました。
甲3期の木下広吉(ひろきち)さん。藤原さんと同じ長野県出身。真珠湾攻撃、赤城の艦爆で戦死されています。偵察員です。
ここまではブログに書いています。
このあとのこと、ブログに書いていませんよね、たしか。
書いて忘れているんですかね? 検索しても出てこないんで・・・・。たぶん書いていないかと。
2年以上前の話です、木下さんの姪御さんと連絡が取れて(ヒトに仲介を頼みました)、この写真も送らせていただきました。
そのときに、写真の右端の大野さんと木下さんの関係もわかりました。
(これはわたしの個人的心情で内緒)
せっかく連絡が取れたのでお墓参りに行きたいですね・・・・、と同じ長野県の山岸昌司さん(乙6)の姪御さんと、お父さんが甲3期の教員(真珠湾時は赤城乗組)をしていたSさんとそんな話をしていたのですが、立ち消えになっていました。
時は流れて――。
今年の予科練慰霊祭。
思わぬところから木下さんのことが話題に。
慰霊祭の前日、山岸さんの姪御さん、小板橋博司さん(乙6)の大甥の方、谷川澄男さん(丙2)の息子さん、戦史研究家のYさんと落ち合って土浦周辺をまわっていました。

小板橋博司さん、群馬、偵察、艦爆→月光
19年11月8日 ビスマルク諸島北方海面に於いて戦死
慰霊祭当日は混雑するだろうからと、土浦駐屯地内の戦没予科練生の慰霊顕彰施設・雄翔館にも行きました。
館内を見学していたところ、山岸さんが驚いた様子で近寄ってこられ、
「ママさん、小板橋さんが木下さんをご存じみたいですよ」
と。
雄翔館に木下広吉さんの紹介パネルが掲示されているんですが、小板橋さんがそのパネルをじーっとご覧になられたまま、
「木下さん、博司と仲が良かったんですよ。博司の日記にも木下さんのことが書いてあります」
とおっしゃるではないですか。びっくりしてですね。
小板橋さんの方は真珠湾攻撃時翔鶴の艦爆隊。
じつは小板橋さんは真珠湾直前に翔鶴に転勤になったのですが、それ以前は赤城の艦爆隊でした。
そのとき持参されていた小板橋さんの日記も見せてもらいました。
昭和16年11月24日
矢張赤城の連中は話せる。
語り得る木下。
この日は千島列島単冠湾にて、赤城艦上に各空母の搭乗員たちが集まり長官訓示、真珠湾の模型の見学などをした日。
小板橋さんは古巣の赤城の人たちとの再会を喜んだよう。
そして木下さんは真珠湾攻撃で戦死・・・・。
翔鶴隊だった小板橋さんは、直後は木下さんの戦死を把握していない様子。
年が明けて17年1月14日。ラバウル攻撃のため進出したトラック島で書かれた日記。
金も名も
命も要らぬ南の日
友の仇をいづくや
うたなむ
木下、彼こそ同期生以外で語り共に談じ得た心の友だった。
然し今は亡し。布哇の空に散ったのだ。
安らかに冥せ、木下の霊よ。
今、俺達はトラックに来てる。
仇を取る日も近い。
優しき友、太田(誠一さん? 赤城の同僚、真珠湾で戦死)。今は亡し。
命も要らぬ南の日
友の仇をいづくや
うたなむ
木下、彼こそ同期生以外で語り共に談じ得た心の友だった。
然し今は亡し。布哇の空に散ったのだ。
安らかに冥せ、木下の霊よ。
今、俺達はトラックに来てる。
仇を取る日も近い。
優しき友、太田(誠一さん? 赤城の同僚、真珠湾で戦死)。今は亡し。
何惜からむ 此の命
南の夜の空清し
一.飛ぶぞ南の空高く
散った八日の友
今いづこ
明日も天気だ
星空清し
二.我の愛機は日の丸高く
来たぞS日の
れいめいは
うてと鴎も空馳せる
※どちらも前後にほかの記述もあるのですが木下さんの部分だけ。句読点はわたしが入れました
※一部小板橋さんご遺族ご教示
お二人はそういう仲だったのですね・・・・。
「木下さんのご遺族の方と連絡取れますよ」
と、小板橋さんに話したところ、
「教えてもらえないだろうか」
と。
そりゃそうですよね・・・・。
すぐに木下さんに連絡して、小板橋さんが連絡を取りたがっているとお伝えしました。
了解いただけたので小板橋さんに伝えました。
木下さんと小板橋さんのご遺族の方で直接お話をされ、墓参が実現することに。
わたしも便乗させてもらうことにしました。
山岸さんも「ぜひ同行したい」ということで、昨日、6期のご遺族お二人とわたしとで木下さんの墓参に行ってきました。

木下さんのお墓に咲いていました。
ネジバナ、ネジリバナっていうらしいです。わたしは初めて見ました。小さな可愛い花です。


これも木下さんのお墓にて。

木下さんの姪御さんが大切にされている広吉さんの写真。
左手前が姪御さん。
木下さんは7人きょうだいの末っ子らしく、みなからかわいがられていたとか・・・・。
その分、幼い甥っ子や姪っ子を自分の弟や妹のように思ってかわいがっていたのではないかと想像します。
木下さんの遺稿集も見せていただきました。
木下さん戦死後に、遺書や日記をお兄さんがまとめられたものです。
日記部分は飛練を卒業した16年3月末から9月まで。あと飛練鈴鹿時代のがちょっと。
小板橋さんの日記が翔鶴転勤後の16年11月20日からなので時期的にまったくだぶってはいません。
木下さんの日記をパラパラと見ていたら・・・・小板橋さんのお名前がありました。
七月十七日
―略―
午后一二一五より二〇〇〇迄外出許可。
板橋兵曹と延岡市へ行く。
近代的の工業都市の景は
上空より二、三回観たが
地上より訪問すると別にその感なし。
中央通りのみ近代的の観あるが、
一歩裏道へ入るともう古代の感。
ただ得るものなく三時間を過す。
夕食を摂って帰隊する。
―略―
午后一二一五より二〇〇〇迄外出許可。
板橋兵曹と延岡市へ行く。
近代的の工業都市の景は
上空より二、三回観たが
地上より訪問すると別にその感なし。
中央通りのみ近代的の観あるが、
一歩裏道へ入るともう古代の感。
ただ得るものなく三時間を過す。
夕食を摂って帰隊する。
富高基地です。
「板橋兵曹」はたぶん小板橋さんのこと。日記原本から写すときに「小」を書き忘れたのかなと思ったのですが、小板橋さんのご遺族の方によると戦友からは「板橋」とも呼ばれていたらしいので、もしかしたらもとから「板橋兵曹」と書かれてあったのかもしれません。
七月二十九日
朝食後トラックにて延岡に向ふ。
天孫降臨の聖地、高千穂に向ふ。
バスに揺られること三時間近く。
沿道、美しき川。流れ。
鮎釣る船浮かぶ。
―略―
三時近く(高千穂を)出発する。
この附近、相当高地と思ひしに、
四百米近く、
余りにも低いのに一驚した。
天孫降臨の地、高千穂。
いろいろと往時を偲ぶものあり。
高千穂峡も行かず、
昼食後帰投する。
延岡の市にて、
小板橋兵曹と一緒になり、
行動を共にす。
朝食後トラックにて延岡に向ふ。
天孫降臨の聖地、高千穂に向ふ。
バスに揺られること三時間近く。
沿道、美しき川。流れ。
鮎釣る船浮かぶ。
―略―
三時近く(高千穂を)出発する。
この附近、相当高地と思ひしに、
四百米近く、
余りにも低いのに一驚した。
天孫降臨の地、高千穂。
いろいろと往時を偲ぶものあり。
高千穂峡も行かず、
昼食後帰投する。
延岡の市にて、
小板橋兵曹と一緒になり、
行動を共にす。
※句読点はわたしが入れました
遺稿集の日記は毎日分はありません。
木下さんが毎日書かなかったのか、それとも遺稿集を編まれたお兄さんが取捨選択されたのか、それはわかりません。
小板橋さんの赤城時代の日記がないので、木下さんのこの日記の記述は、小板橋さんのご遺族の方はうれしかったんじゃないかと思います。
逆に、木下さん戦死の報に接し戦友がどんな思いでいたか、そういうことも木下さんのご遺族の方に伝わってよかったんじゃないかと思います。
小板橋さんの日記と木下さんの日記。
何と言ったらいいですか。
”つながった”というんですかね・・・・。
小板橋さんが乙6期、木下さんが甲3期なので海軍歴は3年違います。
木下さんの日記の時点で階級も小板橋さんが1飛曹、木下さんが2飛曹ですが、お二人とも大正8年生まれで誕生日がほぼひと月違い。
海軍歴や階級を超えて何かと気が合ったのかもしれません。

木下さんが、自分は散っても魂は故郷に帰る、と遺書に書いていたその故郷。
昨日対応してくださったのは木下さんの姪御さんですが、めっちゃ歓待していただきました。申し訳ないぐらい(^^;)
お手製のおやつ(クルミをお菓子にしたの)とか銘菓・あんず姫とか。
ご自宅で取れた野菜を豊富に使ったお昼ごはんとか!
木下さんの遺稿集などスキャンさせていただいたのですが、スキャンしているときと墓参のとき以外はずっと何か食べていたような感じで(^^;)
おまけに朝採れのキュウリまでいただいてしまいました!

トゲがめっちゃ鋭かったです!
今日の晩ごはんでいただいたのですが、食感が良くって、たぶんわたし一人で1本分ぐらいボリボリ食べてしまいました。
※日記は小板橋さん、木下さんご遺族ご提供。画像は6期生ご家族、木下さんご遺族、藤原さんご遺族ご提供