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二人の日記2019年07月17日 21時54分52秒

昨日の訪問、始まりは2015年に見せてもらった1枚の写真です。


左は9期の藤原国雄さん。台湾沖航空戦で戦死された中攻偵察員です。

奇しくも4年前の昨日(2015年7月16日)、藤原さんのご実家にうかがって遺品を見せていただきました。
台風予報で、「電車、走るかな?」と心配しながらの訪問でしたが、幸い、お墓参りのときにパラっと来ただけ。昨日と似たような状況でした。

見せていただいた藤原さんの遺品の中に上の写真がありました。
この写真の存在はそれ以前にご遺族の方に写メで見せてもらっていたので知っていましたが、現物で階級章や裏書まで確認できたのはこの訪問のときです。

阿見の小船井写真館撮影。
裏書によると左から、「藤原」「木下」「大野」。
階級章は藤原さんが2空、木下さんが1空。
これで真ん中の人が9期生ではないとわかりました。
甲3期の木下広吉(ひろきち)さん。藤原さんと同じ長野県出身。真珠湾攻撃、赤城の艦爆で戦死されています。偵察員です。

ここまではブログに書いています。
このあとのこと、ブログに書いていませんよね、たしか。
書いて忘れているんですかね? 検索しても出てこないんで・・・・。たぶん書いていないかと。


2年以上前の話です、木下さんの姪御さんと連絡が取れて(ヒトに仲介を頼みました)、この写真も送らせていただきました。

そのときに、写真の右端の大野さんと木下さんの関係もわかりました。
(これはわたしの個人的心情で内緒)

せっかく連絡が取れたのでお墓参りに行きたいですね・・・・、と同じ長野県の山岸昌司さん(乙6)の姪御さんと、お父さんが甲3期の教員(真珠湾時は赤城乗組)をしていたSさんとそんな話をしていたのですが、立ち消えになっていました。






時は流れて――。

今年の予科練慰霊祭。

思わぬところから木下さんのことが話題に。



慰霊祭の前日、山岸さんの姪御さん、小板橋博司さん(乙6)の大甥の方、谷川澄男さん(丙2)の息子さん、戦史研究家のYさんと落ち合って土浦周辺をまわっていました。


小板橋博司さん、群馬、偵察、艦爆→月光
19年11月8日  ビスマルク諸島北方海面に於いて戦死



慰霊祭当日は混雑するだろうからと、土浦駐屯地内の戦没予科練生の慰霊顕彰施設・雄翔館にも行きました。

館内を見学していたところ、山岸さんが驚いた様子で近寄ってこられ、
「ママさん、小板橋さんが木下さんをご存じみたいですよ」
と。

雄翔館に木下広吉さんの紹介パネルが掲示されているんですが、小板橋さんがそのパネルをじーっとご覧になられたまま、
「木下さん、博司と仲が良かったんですよ。博司の日記にも木下さんのことが書いてあります」
とおっしゃるではないですか。びっくりしてですね。

小板橋さんの方は真珠湾攻撃時翔鶴の艦爆隊。

じつは小板橋さんは真珠湾直前に翔鶴に転勤になったのですが、それ以前は赤城の艦爆隊でした。

そのとき持参されていた小板橋さんの日記も見せてもらいました。

昭和16年11月24日

矢張赤城の連中は話せる。
語り得る木下。

この日は千島列島単冠湾にて、赤城艦上に各空母の搭乗員たちが集まり長官訓示、真珠湾の模型の見学などをした日。
小板橋さんは古巣の赤城の人たちとの再会を喜んだよう。

そして木下さんは真珠湾攻撃で戦死・・・・。

翔鶴隊だった小板橋さんは、直後は木下さんの戦死を把握していない様子。


年が明けて17年1月14日。ラバウル攻撃のため進出したトラック島で書かれた日記。

金も名も
    命も要らぬ南の日
友の仇をいづくや
         うたなむ

木下、彼こそ同期生以外で語り共に談じ得た心の友だった。
然し今は亡し。布哇の空に散ったのだ。
安らかに冥せ、木
の霊よ。
今、俺達はトラックに来てる。
仇を取る日も近い。
優しき友、太田
(誠一さん? 赤城の同僚、真珠湾で戦死)。今は亡し。

何惜からむ 此の命
  南の夜の空清し
一.飛ぶぞ南の空高く
   散った八日の友
   今いづこ
   明日も天気だ
   星空清し
二.我の愛機は日の丸高く 
   来たぞS日の
   れいめいは
   うてと鴎も空馳せる


※どちらも前後にほかの記述もあるのですが木下さんの部分だけ。句読点はわたしが入れました
※一部小板橋さんご遺族ご教示



お二人はそういう仲だったのですね・・・・。
「木下さんのご遺族の方と連絡取れますよ」
と、小板橋さんに話したところ、
「教えてもらえないだろうか」
と。

そりゃそうですよね・・・・。

すぐに木下さんに連絡して、小板橋さんが連絡を取りたがっているとお伝えしました。
了解いただけたので小板橋さんに伝えました。


木下さんと小板橋さんのご遺族の方で直接お話をされ、墓参が実現することに。

わたしも便乗させてもらうことにしました。
山岸さんも「ぜひ同行したい」ということで、昨日、6期のご遺族お二人とわたしとで木下さんの墓参に行ってきました。

木下さんのお墓に咲いていました。
ネジバナ、ネジリバナっていうらしいです。わたしは初めて見ました。小さな可愛い花です。


これも木下さんのお墓にて。




木下さんの姪御さんが大切にされている広吉さんの写真。
左手前が姪御さん。

木下さんは7人きょうだいの末っ子らしく、みなからかわいがられていたとか・・・・。
その分、幼い甥っ子や姪っ子を自分の弟や妹のように思ってかわいがっていたのではないかと想像します。


木下さんの遺稿集も見せていただきました。
木下さん戦死後に、遺書や日記をお兄さんがまとめられたものです。
日記部分は飛練を卒業した16年3月末から9月まで。あと飛練鈴鹿時代のがちょっと。
小板橋さんの日記が翔鶴転勤後の16年11月20日からなので時期的にまったくだぶってはいません。


木下さんの日記をパラパラと見ていたら・・・・小板橋さんのお名前がありました。

七月十七日
―略―
午后一二一五より二〇〇〇迄外出許可。
板橋兵曹と延岡市へ行く。
近代的の工業都市の景は
上空より二、三回観たが
地上より訪問すると別にその感なし。
中央通りのみ近代的の観あるが、
一歩裏道へ入るともう古代の感。
ただ得るものなく三時間を過す。
夕食を摂って帰隊する。

富高基地です。
「板橋兵曹」はたぶん小板橋さんのこと。日記原本から写すときに「小」を書き忘れたのかなと思ったのですが、小板橋さんのご遺族の方によると戦友からは「板橋」とも呼ばれていたらしいので、もしかしたらもとから「板橋兵曹」と書かれてあったのかもしれません。


七月二十九日
朝食後トラックにて延岡に向ふ。
天孫降臨の聖地、高千穂に向ふ。
バスに揺られること三時間近く。
沿道、美しき川。流れ。
鮎釣る船浮かぶ。
―略―
三時近く(高千穂を)出発する。
この附近、相当高地と思ひしに、
四百米近く、
余りにも低いのに一驚した。
天孫降臨の地、高千穂。
いろいろと往時を偲ぶものあり。
高千穂峡も行かず、
昼食後帰投する。
延岡の市にて、
小板橋兵曹と一緒になり、
行動を共にす。

※句読点はわたしが入れました

遺稿集の日記は毎日分はありません。
木下さんが毎日書かなかったのか、それとも遺稿集を編まれたお兄さんが取捨選択されたのか、それはわかりません。




小板橋さんの赤城時代の日記がないので、木下さんのこの日記の記述は、小板橋さんのご遺族の方はうれしかったんじゃないかと思います。

逆に、木下さん戦死の報に接し戦友がどんな思いでいたか、そういうことも木下さんのご遺族の方に伝わってよかったんじゃないかと思います。

小板橋さんの日記と木下さんの日記。
何と言ったらいいですか。
”つながった”というんですかね・・・・。


小板橋さんが乙6期、木下さんが甲3期なので海軍歴は3年違います。
木下さんの日記の時点で階級も小板橋さんが1飛曹、木下さんが2飛曹ですが、お二人とも大正8年生まれで誕生日がほぼひと月違い。
海軍歴や階級を超えて何かと気が合ったのかもしれません。




木下さんが、自分は散っても魂は故郷に帰る、と遺書に書いていたその故郷。





昨日対応してくださったのは木下さんの姪御さんですが、めっちゃ歓待していただきました。申し訳ないぐらい(^^;)

お手製のおやつ(クルミをお菓子にしたの)とか銘菓・あんず姫とか。
ご自宅で取れた野菜を豊富に使ったお昼ごはんとか!

木下さんの遺稿集などスキャンさせていただいたのですが、スキャンしているときと墓参のとき以外はずっと何か食べていたような感じで(^^;)

おまけに朝採れのキュウリまでいただいてしまいました!
トゲがめっちゃ鋭かったです!
今日の晩ごはんでいただいたのですが、食感が良くって、たぶんわたし一人で1本分ぐらいボリボリ食べてしまいました。


※日記は小板橋さん、木下さんご遺族ご提供。画像は6期生ご家族、木下さんご遺族、藤原さんご遺族ご提供

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