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乙10期 河村敏夫さん2021年05月18日 11時49分46秒

7期生のアルバムに10期の河村敏夫さんの写真がありました。
「おっ!」ってなりました。
同期生の写真は驚きませんが、他クラスの人の写真が貼ってあるとやはり驚きます。



これは予科練入隊前ですね。
横須賀の予科練習部庁舎前。撮影スポットです。

書き込みがあり「2598.4 我輩 河村敏夫君」。
昭和13年4月、地元の予科練試験を突破して横須賀の最終試験に出てきたときに撮ったのでしょうね。

お二人の関係はまったく不明です。
出身地つながりだろうか?(そんなに近くもないような気もするけど、おおざっぱに言えば「同郷」なのかも?)

7期は13年8月に予科練を卒業、10期は13年11月に予科練に入隊しているので在隊期間は重なっていません。







この写真には裏書があって、氏名、戦死日と年齢(数えか満か不明)が書きこんでありました。
この写真も「おっ!?」ってなりました。
というのも、河村さんが3飛曹に任官したとき、すでにこのアルバムの主はこの世にいないからです。
15年に戦死されています。
河村さんが3飛曹に任官したのは17年。他の10期生と同時に進級していたとしたら5月1日です。

「どうして河村さんの3飛曹写真がこの人のアルバムに?」




結局わからないんですが、なんとなく想像はできています。

上の2枚は確実に河村敏夫さんなのですが(手持ちの10期生氏名入り班写真でも確認しました)、2枚以外に書き込みなし写真の中に「河村さんでは?」という写真がありました。


これはおひとりで写っていて、ピンボケ(←おそらく元写真が)でよくわかりません。

下に出す2枚の左の人物と同一人物に見えます。



これ、河村さんだと思うんですよ。

「どこだろう? 一緒に写っているのは誰だろう?」

この一般人の少年、どうやらアルバムの主の弟さんのようです(家族写真にも写っている)。

ペンネント、ちょうど最初の2文字分ぐらいが陰になっていてよく見えません。「●●海軍航空隊」。
拡大して色調調整してみたところ、ペンネントの文字は「土浦海軍航空隊」のような?

まあ(^^;)、「土浦」という仮定で話をしましょう。
予科練が霞ヶ浦海軍航空隊から土浦海軍航空隊に移ったのは15年11月15日です。
すでにこのときアルバムの主は亡くなっています。





こちらの陸軍さんはアルバムの主の兄弟ではありません。



後ろの建物は見覚えのない建物です。
「土浦の予科練に7期生の弟さんと陸軍さんが面会に来た」
という可能性もないこともないですが、わたし的には、
「河村さんが帰省したときに、アルバムの主の家に弔問に行ったのではないか?」
という気がしています。

15年12月29日から8日間、10期は冬期休暇(同期生会誌『とんぼ』十期生年譜より)。
※その後は卒業までもう休暇はありません

河村さんが外套姿で、横の陸軍さんも寒そうな格好をしていますよね。

おそらく向こうが土浦の予科練に来たのではなく、河村さんが正月休みに実家に帰省して7期生の実家に弔問に行ったのだろうと。
陸軍さんは結局どなたかわからないのですが、河村さん・アルバムの主兄弟の共通の友人なのかもしれません。



河村さんの生年月日がわからないのですが、もしかしたら、アルバムの主ではなく弟さんの方と何らかの交流があった可能性も?
あるいは家族ぐるみ(兄弟どちらも)のお付き合いか?
とも思っています。
ちなみに弟さんは、スクラップブックに貼ってあった昭和18年の新聞記事によるとそのとき二十歳(数えか満か不明)、10期生の河村さんと同年代の可能性はあるかな?

それなら、7期生の戦死後に撮られたらしき写真がアルバムに貼ってあったことも理解できます。
河村さんが戦死する直前までずっと交流は続いていたのでしょう。




北海道出身。
操縦、飛行艇。

17年8月7日  横浜空  ツラギ


スイマセン、いま10期の同期生会誌を見たら、生存者がかれに寄せている文章に、7期生のご実家のある街に電車通学していたと思わせる記述がありました。やはり海軍に入る前からのお付き合いがあったのでしょうね。その部分は地名など入っているので略します。
『ラグビー部員であったことから、耳で故郷を教えられました。キングコングの異名をつけた私ですが、ボールを左腕で抱いて、右腕は飛びついてくるアタッカーをなぎ倒して、トライしてくれた数多くの試合での光景が、忘れられません。体の割にやさしさを持ったいい男でした』



※画像はMさんご提供