昭和16年10月1日、12月1日 宇佐空搭乗員配員表 ― 2017年01月10日 19時56分52秒
わたし、元艦攻操縦員の大澤昇次さんと文通をしています。
というわけでちょっと宣伝。
去年、大澤さんの手記『最後の雷撃機』が文庫化したそうです。
年賀状にちょろっと書いてありました(^^;)
わたしは単行本で持っています。
最初は「10年志願兵で、ブーゲンビル沖航空戦や台湾沖航空戦を経験された艦攻操縦員の方がまだ手記を書いてくださるのか!」とビックリ感激して買った本です。
終戦時ベテランになっていた9期生たちですら13年志願兵ですからね。
10年に海軍に入った人ってすごいですよ。
最初は本当にそういうことで入手した本ですが、読んでみたら9期生と交流があった事が判明。
・坂田清一さん・・・・同郷。18年夏に偶然厳島神社で再会し一緒に写真を撮る。
これは坂田さん所有の写真です。大澤さんも同じ写真をお持ちです。

・萩谷幾久男さん・・・・攻撃252で同じ隊だった。
というわけでちょっと宣伝。
去年、大澤さんの手記『最後の雷撃機』が文庫化したそうです。
年賀状にちょろっと書いてありました(^^;)
わたしは単行本で持っています。
最初は「10年志願兵で、ブーゲンビル沖航空戦や台湾沖航空戦を経験された艦攻操縦員の方がまだ手記を書いてくださるのか!」とビックリ感激して買った本です。
終戦時ベテランになっていた9期生たちですら13年志願兵ですからね。
10年に海軍に入った人ってすごいですよ。
最初は本当にそういうことで入手した本ですが、読んでみたら9期生と交流があった事が判明。
・坂田清一さん・・・・同郷。18年夏に偶然厳島神社で再会し一緒に写真を撮る。
これは坂田さん所有の写真です。大澤さんも同じ写真をお持ちです。

・萩谷幾久男さん・・・・攻撃252で同じ隊だった。

・佐々木隆寿さん・・・・攻撃256で同じ隊だった。

瑞鳳時代。
この手記を読んだときに、「読みました」って話を知人の戦史研究家さんにしたら、その人が「感想を送ってあげたら?」と大澤さんの連絡先を教えてくれました。
なのに、そのままになっていて・・・・。
大澤さんに連絡したのは坂田清一さんのご遺族の方から連絡をいただいてからでした。
それ以来、文通をしています。
9期生ではないのですが、知人の親戚の甲飛出身の艦攻操縦員が、大澤さんの列機だったことがわかったり、6期の山岸昌司さんと同じ時期に筑波で教員をしていたことがわかったり(しかも、山岸さんが下宿していた呉服屋さんで布団を作ってもらっていた!)・・・・。
「海軍はなんて狭い世界だろう!」
と、何度驚いたことか。
最近も、10期の久保伊勢市さんの宇佐空延長教育時代の集合写真に写っていた高松寿教員や清水政三教員、賀来準吾教員のことを聞いていました。
清水さんはあまりご存じないそうですが、高松さんと賀来さんはよく知っているとのこと。
今回の手紙にも高松さんに関して、おもしろいエピソードが書いてありました。
それはさておき。
今回の手紙に、この件に関連して「宇佐空搭乗員配員表 艦攻隊 昭和一六年一〇月一日」と書かれたコピーが入っていました。
「な、なんだこれは!?w( ̄Д ̄;)w」
大澤さんの知人の戦史研究家さん(わたしはその人とのお付き合いはありません)が作って送ってくれたみたいなんですが。
飛行隊長、分隊長、分隊士、教員とか書かれた中に「助手」って欄があったんです。
なんと!?
9期(飛練10期)の艦攻操縦員の何名かが、そこに名前を連ねているではないですか!?
いや、待て待て、16年の10月1日だったら、かれらはまだ教育中だろうに。
どうして助手を?
不思議に思って、攻撃隊に精通されているYさんに「こんな表に心当たりはないですか」ってメールで聞いてしまいました。
そのあとで、
「宇佐か・・・・もしかして、あれに載っているのか?」
と気づくおバカさん。
いついただいたのかも忘れているぐらい昔にKさんからいただいた宇佐空の資料があるんです。
宇佐で訓練をやった飛練10期の艦爆操縦専修生や艦攻操縦専修生たち、あるいは中攻偵察専修生、艦上機偵察専修生の一部の人たちの成績なんかが書いてあるんですが。
それを見たら、同じ配員表が載っていましたあ!( ̄□||||
※ただこちらでは「昭和16年10月1日、12月1日」という2通りの日付がありました。
それをよると、大澤さんがいた分隊で加藤哲夫さんと筒井富雄さんが助手をされているんです。
前に飛練10期の艦攻専修生のことを聞いたような気もするんですが・・・・。
10月末で飛練を終え、そのまま宇佐に残って助手になった人がいたんだな、と。
加藤哲夫さん、筒井富雄さん(けがで飛練12期(16年11月末卒))、亀山一郎さん、阿部芳包さん、吉屋清さんのお名前がありました。
配員表を見ると偵察教員が5~6人いるので、偵察専修生の担当だったのかなと思いました。
よし、もう一回聞いてみよう!
※画像は9期生ご遺族ご提供
この手記を読んだときに、「読みました」って話を知人の戦史研究家さんにしたら、その人が「感想を送ってあげたら?」と大澤さんの連絡先を教えてくれました。
なのに、そのままになっていて・・・・。
大澤さんに連絡したのは坂田清一さんのご遺族の方から連絡をいただいてからでした。
それ以来、文通をしています。
9期生ではないのですが、知人の親戚の甲飛出身の艦攻操縦員が、大澤さんの列機だったことがわかったり、6期の山岸昌司さんと同じ時期に筑波で教員をしていたことがわかったり(しかも、山岸さんが下宿していた呉服屋さんで布団を作ってもらっていた!)・・・・。
「海軍はなんて狭い世界だろう!」
と、何度驚いたことか。
最近も、10期の久保伊勢市さんの宇佐空延長教育時代の集合写真に写っていた高松寿教員や清水政三教員、賀来準吾教員のことを聞いていました。
清水さんはあまりご存じないそうですが、高松さんと賀来さんはよく知っているとのこと。
今回の手紙にも高松さんに関して、おもしろいエピソードが書いてありました。
それはさておき。
今回の手紙に、この件に関連して「宇佐空搭乗員配員表 艦攻隊 昭和一六年一〇月一日」と書かれたコピーが入っていました。
「な、なんだこれは!?w( ̄Д ̄;)w」
大澤さんの知人の戦史研究家さん(わたしはその人とのお付き合いはありません)が作って送ってくれたみたいなんですが。
飛行隊長、分隊長、分隊士、教員とか書かれた中に「助手」って欄があったんです。
なんと!?
9期(飛練10期)の艦攻操縦員の何名かが、そこに名前を連ねているではないですか!?
いや、待て待て、16年の10月1日だったら、かれらはまだ教育中だろうに。
どうして助手を?
不思議に思って、攻撃隊に精通されているYさんに「こんな表に心当たりはないですか」ってメールで聞いてしまいました。
そのあとで、
「宇佐か・・・・もしかして、あれに載っているのか?」
と気づくおバカさん。
いついただいたのかも忘れているぐらい昔にKさんからいただいた宇佐空の資料があるんです。
宇佐で訓練をやった飛練10期の艦爆操縦専修生や艦攻操縦専修生たち、あるいは中攻偵察専修生、艦上機偵察専修生の一部の人たちの成績なんかが書いてあるんですが。
それを見たら、同じ配員表が載っていましたあ!( ̄□||||
※ただこちらでは「昭和16年10月1日、12月1日」という2通りの日付がありました。
それをよると、大澤さんがいた分隊で加藤哲夫さんと筒井富雄さんが助手をされているんです。
前に飛練10期の艦攻専修生のことを聞いたような気もするんですが・・・・。
10月末で飛練を終え、そのまま宇佐に残って助手になった人がいたんだな、と。
加藤哲夫さん、筒井富雄さん(けがで飛練12期(16年11月末卒))、亀山一郎さん、阿部芳包さん、吉屋清さんのお名前がありました。
配員表を見ると偵察教員が5~6人いるので、偵察専修生の担当だったのかなと思いました。
よし、もう一回聞いてみよう!
※画像は9期生ご遺族ご提供
藤原国雄さんと一緒に写っている人 ― 2017年01月06日 10時35分57秒
1年半以上前になるのですが、2015年のゴールデンウィークに連絡をいただいた9期の藤原国雄さん(中攻偵察、19年10月13日、 攻撃708、台湾沖航空戦)。
当時の投稿にこの写真のことをちょっと書いています。
当時の投稿にこの写真のことをちょっと書いています。

最初は、ご遺族の方が送ってくださった写メで見ていました。
真ん中の人――。
あの頃はまだ9期全員のお顔を把握できておらず・・・・。偵察員の方はなおさら・・・・。
で、「階級章は2空、(9期の)偵察の人かな? (この人のことは)保留」という意味のことを書いています。
2か月後の7月に長野のご実家に写真を見せてもらいに行ったとき、この写真に裏書があるのに気付きました。
ここら辺から書いていないですよね、たぶん。
裏書には、左から「藤原」、「木下」、「大野」と書かれていました。
真ん中の人、現物でよく見たら、階級章は1空(1等航空兵)でした。
ペンネントは「霞ヶ浦海軍航空隊」。
この時点で9期生ではないとわかったので、上の条件で他クラスの予科練生に「木下」という人がいないか、探してみました。
すぐに長野県出身、甲3期の木下広吉さんが引っかかりました。
16年12月8日、赤城。
真珠湾攻撃2次攻撃隊で戦死されています。艦爆偵察員です。ペアの操縦員は操練出身の本間金助3飛曹。
ここまでわかってやめていました。
先日、
「そういえば、甲3期はSさんが卒業アルバムを持っていたなあ。あのアルバムは氏名入りの個人写真付きだ」
と思い出し、木下さんの写真を見せてもらえないか、お願いしてみました。
Sさんは元航空自衛隊の方で、お父さん(故人)が元海軍大尉。飛行科ではないですが、予科練の教員や母艦乗組みを経験された方です。
そういう事情でお父さんの遺品の中に、担当した甲飛3期の卒業アルバムが・・・・。
真ん中の人――。
あの頃はまだ9期全員のお顔を把握できておらず・・・・。偵察員の方はなおさら・・・・。
で、「階級章は2空、(9期の)偵察の人かな? (この人のことは)保留」という意味のことを書いています。
2か月後の7月に長野のご実家に写真を見せてもらいに行ったとき、この写真に裏書があるのに気付きました。
ここら辺から書いていないですよね、たぶん。
裏書には、左から「藤原」、「木下」、「大野」と書かれていました。
真ん中の人、現物でよく見たら、階級章は1空(1等航空兵)でした。
ペンネントは「霞ヶ浦海軍航空隊」。
この時点で9期生ではないとわかったので、上の条件で他クラスの予科練生に「木下」という人がいないか、探してみました。
すぐに長野県出身、甲3期の木下広吉さんが引っかかりました。
16年12月8日、赤城。
真珠湾攻撃2次攻撃隊で戦死されています。艦爆偵察員です。ペアの操縦員は操練出身の本間金助3飛曹。
ここまでわかってやめていました。
先日、
「そういえば、甲3期はSさんが卒業アルバムを持っていたなあ。あのアルバムは氏名入りの個人写真付きだ」
と思い出し、木下さんの写真を見せてもらえないか、お願いしてみました。
Sさんは元航空自衛隊の方で、お父さん(故人)が元海軍大尉。飛行科ではないですが、予科練の教員や母艦乗組みを経験された方です。
そういう事情でお父さんの遺品の中に、担当した甲飛3期の卒業アルバムが・・・・。

やはり木下広吉さんでした。
昨日になってふと思い出しました。
「Sさんのお父さんって、開戦時赤城に乗っていたんじゃないか?」
Sさんからいただいているお父さんの軍歴を確認したら、真珠湾攻撃時は赤城。
ということは、教え子の木下さんの出撃を見送っているということです。
亡くなった本人が一番無念だったであろうことはいうまでもないことですが、赤城艦上で帰らぬ教え子を待つ教員の気持ちはいかばかりだったか・・・・。
1枚の写真から、ここに写っていない人のことまでいろいろと考えてしまいました。
木下さんと藤原さんのことはまたちゃんと書きます。
今日はとりあえず、ここまで。
※画像は9期生ご遺族、Sさんご提供。吉良敢・吉野泰貴『真珠湾攻撃隊 隊員列伝』参照
愛媛 日曜日 ― 2016年12月20日 19時17分09秒
遅くなりました、ご報告です。
11日は乙18の彩雲電信員さんと、大分のガンカメラ映像研究家の若い人と10期の久保さんちに遊びに行ってきました。
11日は乙18の彩雲電信員さんと、大分のガンカメラ映像研究家の若い人と10期の久保さんちに遊びに行ってきました。

あ、遊びに行ったのはわたしだけです。
電信員さんは乙飛の大先輩の表敬訪問。
ガンカメラ映像研究家さんは取材です。
船の時間も無駄にしません。

彩雲電信員さんに熱心に聞き取りされていました。
便乗して一緒に話を聞くわたし(^^;)
向こうに着いたら、久保さんの奥さんが迎えに来てくれていました。
1年半ぶり3回目!(´▽`*)
宮崎より帰っているとか、ここだけのヒミツ(笑)
久保さんちの近所は今年もミカンが鈴なり♪
便乗して一緒に話を聞くわたし(^^;)
向こうに着いたら、久保さんの奥さんが迎えに来てくれていました。
1年半ぶり3回目!(´▽`*)
宮崎より帰っているとか、ここだけのヒミツ(笑)
久保さんちの近所は今年もミカンが鈴なり♪

ご自宅の前で久保さんとお嫁さんが出迎えてくださいました。
昼食をご馳走になりながら、電信員さんの話、研究家さんの取材・・・・。
ガンカメラ映像研究家さんが宇佐空の教員のことを質問したとき、
「自分は清水教員に操縦を習った」
と久保さんがおっしゃったので、
「どの人が清水さんですか!?」
とすかさず乱入! ※ガンカメラ映像研究家さん、横入りしてスイマセンでした<(_ _)>

写っている教官教員。
菊田さんの戦後の回想によると、5期高松寿教員、7期清水政三教員、8期賀来準吾教員がいたとのことで、人数的にも合っています。

大尉さんでしょうか、不明。
先任順に座っていると仮定したら、



この時点でどちらが清水教員か高松教員かわかっていませんでした。
今回、久保さんに直接見てもらいました。
この人が7期の清水教員だそうです!


座っている位置から想像していたのと逆でした。
分隊長のことは覚えていないとのこと。
賀来さんは間違いありません。
そのあとで、わたしもちょこっと。
先日、9期の島田清守さんの遺品の中に見つけた10期・田中武三さんと鈴木善三郎さんの写真を久保さんに渡して来ました。
田中さんとは延長教育の宇佐までご一緒。
鈴木さんとは1学年時同班でした。
鈴木さんの方が印象深く思い出が残っているかと思ったのですが、田中さんの方を、
「よく覚えている」
と言われ、鈴木さんの方は、
「ちょっとわからん」
と。久保さんがお持ちだった1学年班写真の鈴木さんをPC画面で拡大して見てもらったところ、
「小柄なやつだったかなあ?」
とどうやら思い出されたご様子でした。
楽しい時間はあっという間でした。
久保さんがお元気だったのがとてもうれしかったです。
乙18期の後輩の方も、
「わしもまだまだ頑張るぞ」
と(笑)
戻ってきて、今度は松山基地近くの掩体壕見学。

実際にこの基地で任務についていた搭乗員さん↑ですよ。
飛行して戻ってくると、滑走路の終わりのところに整備員が機番号が書かれたプラカードみたいなものを持って待っているんだそうです。
そこまで滑走して行って、整備員と一緒に飛行機を掩体壕に運んでくるんだとか。
※画像の掩体壕は彩雲の掩体壕ではなかったと言われていました
掩体壕は飛行場からはちょっと距離があるので、帰りはトラックが迎えに来てくれてそれの荷台に乗って帰ったものだ、という話をされていました。
一度、トラックの荷台に乗って飛行場へ戻る途中で敵機襲来にあったとか。
トラックが狙われる!
と覚悟したけど、自分たちは狙わずに飛行場を盛んに銃撃していた、と言われていました。
この搭乗員さんのお話はけっこう聞いていると思っていたのですが、こうやって掩体壕の前であらためて聞くと、初めて聞く話が出てくる、出てくる・・・・。
いろんな場所で、いろんな人と一緒に聞かないとダメですね(^^;)
ヒトによって関心の対象が違うから、一緒にいる人の質問次第で話がどんどん広がります。
飛行して戻ってくると、滑走路の終わりのところに整備員が機番号が書かれたプラカードみたいなものを持って待っているんだそうです。
そこまで滑走して行って、整備員と一緒に飛行機を掩体壕に運んでくるんだとか。
※画像の掩体壕は彩雲の掩体壕ではなかったと言われていました
掩体壕は飛行場からはちょっと距離があるので、帰りはトラックが迎えに来てくれてそれの荷台に乗って帰ったものだ、という話をされていました。
一度、トラックの荷台に乗って飛行場へ戻る途中で敵機襲来にあったとか。
トラックが狙われる!
と覚悟したけど、自分たちは狙わずに飛行場を盛んに銃撃していた、と言われていました。
この搭乗員さんのお話はけっこう聞いていると思っていたのですが、こうやって掩体壕の前であらためて聞くと、初めて聞く話が出てくる、出てくる・・・・。
いろんな場所で、いろんな人と一緒に聞かないとダメですね(^^;)
ヒトによって関心の対象が違うから、一緒にいる人の質問次第で話がどんどん広がります。
おススメの本 ― 2016年11月22日 12時55分32秒
イッチが大おじさんに近づくための、おススメの本を考えてみました。
武田信行編『ジュンちゃんへ・・・・戦争に行った兄さんより』
武田信行編『ジュンちゃんへ・・・・戦争に行った兄さんより』

この本は、9期の松本勝正さんが家族に宛てた手紙を編んだ書簡集です。
若干・・・・若干・・・・解説に間違いがありますが(^^;)、松本さんは1学年時37分隊で大おじさんと同じ分隊だったので、同じ時間を共有しているはずです。
大おじさんの遺品、全部見切れていませんが、予科練の日記は14年15年の分しかなかったように思いました。
空白の13年の予科練時代は、松本さんの書簡である程度の雰囲気がわかると思います。
ちなみに松本さんはその後操縦に進み、中攻操縦専修生を経て戦闘機操縦員になりました。
19年10月26日、セブからマバラカットに戻るために乗った輸送機が敵戦闘機に襲われ戦死。同じ戦闘機隊の分隊士・西澤廣義飛曹長や本多慎吾上飛曹、馬場良治飛長も一緒でした。
若干・・・・若干・・・・解説に間違いがありますが(^^;)、松本さんは1学年時37分隊で大おじさんと同じ分隊だったので、同じ時間を共有しているはずです。
大おじさんの遺品、全部見切れていませんが、予科練の日記は14年15年の分しかなかったように思いました。
空白の13年の予科練時代は、松本さんの書簡である程度の雰囲気がわかると思います。
ちなみに松本さんはその後操縦に進み、中攻操縦専修生を経て戦闘機操縦員になりました。
19年10月26日、セブからマバラカットに戻るために乗った輸送機が敵戦闘機に襲われ戦死。同じ戦闘機隊の分隊士・西澤廣義飛曹長や本多慎吾上飛曹、馬場良治飛長も一緒でした。

本間猛『予科練の空』

9期の偵察員です。飛行艇→彩雲。予科練時代は石塚猛さん。
大おじさんとは博多飛練まで一緒でした。
予科練・飛練時代のことも書いているので、参考になるでしょう。
たまにテキトーに人名を挙げていることがあるので注意(^^;)
大おじさんとは博多飛練まで一緒でした。
予科練・飛練時代のことも書いているので、参考になるでしょう。
たまにテキトーに人名を挙げていることがあるので注意(^^;)

藤代護『海軍下駄ばき空戦記』

同じく9期偵察員。水上機。
博多まで一緒でした。
これまた予科練・飛練時代のことも書いています。
博多まで一緒でした。
これまた予科練・飛練時代のことも書いています。

本間さんも藤代さんも戦後何十年も経ってから手記を書かれているので、勘違いなどがあるのはしかたがないです。気づいたらここで修正します。
森拾三『奇跡の雷撃隊』

真珠湾攻撃時、蒼龍艦攻隊(雷撃隊)。
操練38期出身の操縦員です。埼玉県出身。
大多和達也『予科練一代』
操練38期出身の操縦員です。埼玉県出身。
大多和達也『予科練一代』

真珠湾攻撃時は蒼龍艦攻隊(水平爆撃)。
乙5期の先輩で操縦員です。
同じ艦に乗っていたので、読めばそのときの艦内の空気も伝わって来るのではないかと。
乙5期の先輩で操縦員です。
同じ艦に乗っていたので、読めばそのときの艦内の空気も伝わって来るのではないかと。
金沢秀利『空母雷撃隊』

真珠湾時飛龍の艦攻隊(雷撃隊)。
乙8期の先輩で、偵察(電信員)です。
上に挙げた蒼龍のお二人はお二人とも操縦員ですが、金沢さんは電信員です。電信員のお仕事や目線が描かれていて、参考になるのではないかと思います。
2航戦は帰途ウェーク島攻撃――ということで、そのときの様子も手記に描かれています。
ちょっと番外・・・・。
滝沢聖峰『海軍攻撃隊』
乙8期の先輩で、偵察(電信員)です。
上に挙げた蒼龍のお二人はお二人とも操縦員ですが、金沢さんは電信員です。電信員のお仕事や目線が描かれていて、参考になるのではないかと思います。
2航戦は帰途ウェーク島攻撃――ということで、そのときの様子も手記に描かれています。
ちょっと番外・・・・。
滝沢聖峰『海軍攻撃隊』

これ、コンビニで買ったマンガです。
短編がいくつか入っています。
最初の1編が『空母艦攻隊』です。これがめっちゃいい!!
昔、紹介しています。
↑ネタばれ注意!
『空母艦攻隊』単独のマンガはどなたかご遺族の方に差し上げました。
いま『海軍攻撃隊』しか持っていないので、差し上げられませんが、貸すことは可能です。
他にも、上に挙げた本で、読んでみたいけど入手困難、ってのがあれば言ってください。
貸します。
短編がいくつか入っています。
最初の1編が『空母艦攻隊』です。これがめっちゃいい!!
昔、紹介しています。
↑ネタばれ注意!
『空母艦攻隊』単独のマンガはどなたかご遺族の方に差し上げました。
いま『海軍攻撃隊』しか持っていないので、差し上げられませんが、貸すことは可能です。
他にも、上に挙げた本で、読んでみたいけど入手困難、ってのがあれば言ってください。
貸します。
軍艦瑞鶴慰霊祭 ― 2016年10月25日 18時12分13秒
今年も橿原神宮の軍艦瑞鶴慰霊祭に参列してきました。

この画像は終わってから撮ったので青空が見えていますが、慰霊祭の間は小雨が降っていました。
今年は例年と違って神楽の奉納や、元乗組員ご家族の歌手による歌の奉納などがありました。
記念のクリアファイルまでいただきました。
今年は例年と違って神楽の奉納や、元乗組員ご家族の歌手による歌の奉納などがありました。
記念のクリアファイルまでいただきました。

大きな封筒に入っていたのですが、慰霊祭の最後のあいさつで宮司さんが「記念に瑞鶴のクリアファイルをお配りしました」と言われるまで、その封筒にクリアファイルが入っていることに気づいておらず・・・・。
式次第が入っているのだと思って二つ折りにしてしまっていました(T_T)
式次第が入っているのだと思って二つ折りにしてしまっていました(T_T)

今年は9期の森田守さんのご遺族の方々と一緒に参列させていただきました。
東京の弟さん、神奈川の妹さん、姪御さんとその娘さん、徳島の妹さんご家族の方々と。
弟さんも妹さんもご高齢です。遠方から来られた上に、雨に降られてたいへんだったと思います。
慰霊祭が終わってから、慰霊碑横の戦没者名録の守さんのお名前を見つけて写真に撮られている姿を近くで拝見していて胸がいっぱいになりました。
守さんのすぐ下の弟さんも海軍で戦死されているのですが、駆逐艦初月に勤務経験があるとかで。
瑞鶴の横には初月の名前が刻まれた慰霊碑も建っています。
戦没者名録と慰霊碑をバックに弟さんと妹さんと記念写真。
近くにいらした元海軍戦闘機搭乗員の息子さんに撮ってもらいました。
帰りの電車の中で見たのですが、とってもいい写真。ありがとうございました。
わたしは森田家の方々にお目にかかれただけで感激だったのですが、おみやげをいただいたり、その他もろもろ気を遣っていただいたようで、本当に恐縮です。ありがとうございました。