いくつか追記2 ― 2023年05月02日 13時24分03秒
いつもありがとうございます。
さらに情報提供をいただきまして。
追記です。
予科練から飛練への流れ、ほぼ完成版になりました。
乙3、4期の予科練から飛練への流れに関してご教示いただきました。
飛練の「初練→中練」は何かに書かれていたわけではないですが、9期(飛練10期←新制度)から初練省略になっているので、3、4期も「初練→中練」の流れは変わらないだろうと思って書き込みました。
それと、

坂田さんの遺品の中にあった神武隊、松山時代の集合写真。
裏書き。
前列左から「坂田上飛曹」「園田中尉」「加藤上飛曹」、
後列左から「松岡二飛曹」「土屋上飛曹」「和才上飛曹」。
「松岡二飛曹」は丙15期の松岡清治2飛曹だそうです。
前列左から

乙9期
誘導隊(彗星、偵)
20年7月26日 攻撃102 沖縄方面偵察

園田勇中尉
機関学校53期
神武隊全体の集合写真では黄色いマフラー(直掩隊)を巻いているように見えるのですが、爆戦隊の人では?
この件はちょっと保留。
20年1月6日 戦闘316 第23金剛隊 爆戦 比島

加藤孝男上飛曹
乙11期
神武隊全体集合写真のマフラーの色は黄色(直掩隊)。
20年5月29日 戦闘316 東京湾
後列左から

松岡清治2飛曹
丙15期
神武隊全体の集合写真では紫のマフラーをしているようにあるので戦爆の方でしょうか。
20年4月1日 戦闘317 第1大義隊 戦爆 宮古島南方

乙13期
誘導隊(彗星、操)
20年7月26日 攻撃102 沖縄方面偵察 ※坂田さん戦死状況から

和才嘉信上飛曹
甲10期
神武隊全体の集合写真では黄色マフラー(直掩隊)のようです。
20年4月24日 201空 比島
この日付は比島の地上戦で戦死認定ということでしょうか。
先日、土屋さんのことを書いたときに、上の集合写真は彗星の操偵(誘導隊)1組、戦爆2名、直掩2名の6人組なのかなと書いているのですが、神武隊全体の集合写真のマフラーの色で見ていくと、白マフラー(誘導)の坂田さん&土屋さんが彗星ペア、黄色マフラー(直掩)が園田さん、加藤さん、和才さんの3名、紫マフラー(戦爆)は松岡さんだけ、となってしまい困惑しています。
園田さん、深井良中尉(兵72)の41期飛行学生時代の艦爆操専修生集合写真に写っているようにあるんですよね。他人の空似でなければ。

特攻戦死されたときも爆装の零戦で出撃されているので、神武隊時代も戦爆隊だったのでは?と考えています。
人数的にもしっくりくるということもあるんですが、わたしの想像です。
この件はまだ保留で。
※画像は深井さんご遺族、9期生ご遺族ご提供
Kさんご教示感謝です。
いくつか追記 ― 2023年05月01日 10時34分37秒
知人からの情報提供で、乙1期が飛練教程を始めた日付がわかりました。
昭和7年12月1日。
倉町先生の記述(十一月二日、第一期飛行練習生として霞ヶ浦航空隊に入隊し、適性検査の結果)から、霞ヶ浦航空隊に入隊したのが11月2日としたら、1ヶ月間、「操偵検査など」をして飛練教程に備えていたのではないかと思います。
なので、「十一月二日、霞ヶ浦航空隊に入隊し、適性検査の結果、十二月一日から第一期飛行練習生として」という流れかと。
作り直しました。
乙3と4は相変わらず何の情報もなく、想像で「乙1・2と同じ流れなのかな?」と思っている程度です。
それと、乙13土屋光明さんのところに出した写真に関して。

坂田さんの遺品の中にあったこの写真です。
神武隊時代の松山での撮影らしいですが。
裏書き。
前列左から「坂田上飛曹」「園田中尉」「加藤上飛曹」、
後列左から「松岡二飛曹」「土屋上飛曹」「和才上飛曹」。
坂田清一上飛曹(乙9、彗星偵)、園田勇中尉(海機53、零戦)、加藤孝雄上飛曹()、松岡2飛曹()、土屋光明上飛曹(乙13、彗星操)、和才嘉信(喜作?)上飛曹(甲10、零戦)
加藤孝雄上飛曹→加藤孝男上飛曹(乙11、零戦)
和才嘉信(喜作?)上飛曹(甲10、零戦)→和才嘉信上飛曹(甲10、零戦)
だそうです。こちらも情報提供がありました。
ありがとうございます。
※画像は9期生ご遺族ご提供
Mさん、Tさん、ご教示感謝です。
乙13期 土屋光明さん ― 2023年04月22日 09時56分40秒
乙13期、群馬県出身。
艦爆操縦。
わかっている範囲では19年比島沖海戦から乙9期坂田清一さんのペアの操縦員で、戦死されたときもご一緒だったのでは?と思っています。

坂田さんの遺品の中に裏書に土屋上飛曹と書かれた写真がありました。

後列真中の人。この方が土屋光明さんだと思います。
松山の神武隊のようです。
ちなみに前列左から「坂田上飛曹」「園田中尉」「加藤上飛曹」、
後列左から「松岡二飛曹」「土屋上飛曹」「和才上飛曹」。
坂田清一上飛曹(乙9、彗星偵)、園田勇中尉(海機53、零戦)、加藤孝雄上飛曹()、松岡2飛曹()、土屋光明上飛曹(乙13、彗星操)、和才嘉信(喜作?)上飛曹(甲10、零戦)
※20230501追記
情報提供があり、加藤孝男上飛曹(乙11、零戦)、和才嘉信上飛曹(甲10、零戦)だそうです。
この写真と同じアングル、同じ人数の写真が押尾一彦『特別攻撃隊の記録<海軍編>』光人社の36ページ、神武特別攻撃隊の項に掲載されています。
写っているのは前列左から作田博上飛曹(甲8、彗星偵)、藤田昇中尉(兵72、零戦)、伊藤勝美上飛曹(乙11、零戦)、後列左より内海勝夫1飛曹()、和田可臣飛長(零戦)、高橋要次郎1飛曹(丙13、彗星操)だそうです。※( )内はわたし注記
坂田さんの写真も、『特別攻撃隊の記録』の写真も、どちらも6人は彗星(誘導)の搭乗員と零戦(爆戦、直掩)の搭乗員の混成グループのようです。
誘導(操&偵)1、直掩2、爆戦2とかだろうか?
実際の出撃時を想定したグループなのかな?
坂田さんの遺品の中に、同じ松山で撮られたと思われる別の集合写真もありました。

もともとは上の写真と同じ色味だったのですが、Yさんがお顔の傷などを取る修正を行ってきれいにしてくれたものです。これ以上やると不自然になるってぎりぎりのところまでやってくれました。
12名写っています。
上の写真が6名なので、2グループ分なら話が早いんですがそうじゃないんですよ(^^;)
上の写真に写っていて、下の写真にも写っているのは坂田さん、土屋さんだけだと思うんです。
ちなみに『海軍特別攻撃隊の記録』の6人写真に写っている作田博上飛曹と高橋要次郎1飛曹もここに写っていると思うんです。
あとで出しますが、キャプション付きの書籍(『特別攻撃隊の記録』)掲載の神武隊写真から推定して、この12名写真は彗星搭乗員(誘導隊)だけの集合写真じゃないのか?
と思ったので、この辺りの事情に詳しいTさんに尋ねてみたところ、同意見とのことでした。
氏名、あと数名わからないのでわかってからちゃんと紹介します。

土屋さんは前列右端。

これが書籍に氏名キャプション付きで掲載されていた神武隊集合写真です。坂田さん遺品。
キャプションによると19年12月10日、松山基地での神武隊だそうです。
キャプションがあっているという前提で上の写真も氏名推定していますので、もしかしたら今後撤回する可能性もありますが・・・・。

土屋上飛曹は後ろから2列目の左端。
キャプションによると、搭乗員たちのマフラーが
誘導隊(彗星)・・・・白
爆戦隊(零戦)・・・・紫
直掩隊(零戦)・・・・黄色
らしいんですよね。
あー、なるほど、と思いながら見ています。
さらにTさんからの情報提供で、土屋さんが飛練29期筑波空中練集合写真に教員として写っていることがわかりました。
飛練29期と言えば乙15の加藤海造さん。




土屋さん、写っていました!
ありがとうございます。
17年12月1日~18年5月24日までの間の撮影ですね。
その後、マリアナ沖では601空の艦偵隊(彗星)で翔鶴から発艦されているようです。
その後、どうされたかよくわからないですが、10月の比島沖海戦時は坂田さんとペアを組んでいます(瑞鶴発艦)。
そのあとは戦死された20年7月26日までご一緒だったのではと想像しています。
20年4月28日には第一次櫻作戦として、新竹から沖縄方面に向けて特攻出撃した編制表がありました(攻撃一○二飛行隊戦闘詳報 石垣島東方海面敵機動部隊索敵 特別攻撃)。※アジ歴
機体番号 忠‐一八
操縦 土屋上飛曹
偵察 坂田上飛曹
脚入ラズ引返シ取止ム
50番爆装で出撃したものの右脚が入らず引き返したようです。
忠誠隊。
そのときのおふたりの搭乗機をYさんが作ってくれました(ずいぶん前の話ですが)。
20年7月26日 攻撃102 沖縄方面偵察 ※坂田さん戦死状況
※追記です。雄飛会戦没者名簿には土屋さんの戦死時の航空隊は「132空」と書かれているのですが、知人が考察した結果、土屋さんも坂田さんと同じ765空攻撃102飛行隊だったのでは?と推定されていました。現時点では土屋さんの戦死時の航空隊の確証はありません。
※画像は坂田さんご遺族、Wさんご提供
Kさん、Tさん、Yさんご教示・ご協力
押尾和彦『特別攻撃隊の記録 <海軍編>』光人社
川崎まなぶ『マリアナ沖海戦』大日本絵画
第二艦隊司令部 ― 2023年02月15日 22時53分05秒
手元にこんな写真があるのですが、

「清水洋さんが写っているなあ」「軍艦の艦上? 背景を白く塗って隠しているな」

ぐらいで、何が何やらわからずそのままになっていました。
先日、知人Tさんに海大36期の集合写真を見てもらったときに、
「何かわからんのですがこんな写真もあるんですよー」
みたいな感じでこの写真を送ったら、ソッコー、
「昭和14年11月以降の第二艦隊司令部ですね。古賀峯一司令長官、鈴木義尾参謀長、高田利種参謀が写っています」
と教えてもらえました。
「なんとっ!?(゚Д゚;)」
これはほっておけない、と思い、そのヒントをもとに調べ始めました。
よくよく思い返してみると、霧島の水偵隊のことを調べているときにいつものKさんから、
「清水洋さんは霧島飛行長兼分隊長の後、14年11月1日付で第二艦隊司令部です」
って言われていたんですよ。
そのときは「霧島にいたのは14年10月いっぱいぐらいだな」と思っただけで、「第二艦隊司令部」とこの写真がまったく結びついていませんでしたorz
何日か取り組んでみたのですが、これ以上はわからないのでとりあえず現段階の状態を出します。
14年11月以降の第二艦隊司令部ということだったので、10月ごろから辞令公報で第二艦隊司令部に発令されている人名簿を作って、ネットでお顔画像を探してみました。
まず、前列。
古賀司令長官、鈴木参謀長、高田先任参謀は大丈夫(書籍などでも確認)。
主計長の藤田伝次主計大佐はお顔がわかりませんでした。階級章と軍帽の線の色、また辞令から「この人が藤田大佐では?」という推定です。
軍医長の片岡克己大佐と機関長の黒原退蔵大佐はネットでお顔を見つけたのですが、今日はちょっと保留にしておきます。おふたりはたぶんこの写真に写っているのではないかと思います。
前列の右端の大佐がまったくどなたかわかりません。
Tさんが、
「こういう集合写真には旗艦の艦長が一緒に写っていることもある」
と言われていたので、
「なるほど!」
と探し始めたのですが、まずこの当時の第二艦隊の旗艦が何かわからず、Tさんが言われる「背景『高雄型』」のヒントから高雄、愛宕、鳥海、摩耶の艦長を探してみたのですが、現時点で「この人だ!」って人には行きあたっていません。
2列目、左から6人目の清水洋さんはすぐにわかりました。
あとおふたり、海兵同期でさらに海大同期でもある今中薫少佐と宮崎勲少佐が右の方に並んでいます。参謀です。
「島村信政?」と書いている人は、Wikipediaがあったのでその写真を参考にしました。が、上の写真では目を閉じていてもひとつはっきりしません。たぶん、この人だろうな、という感じで「?」をつけています。
左から2人目の「島内吉次?」という人は、参謀たちと比べて飾緒の色が薄いので副官の島内さんかな?という推定です。お顔がわかる他の写真は見つけていません。
この列に参謀の飾緒をつけた少佐が3人います。辞令から遠山安巳少佐(兵51)、三木栄助少佐(機32)、藤田正路少佐(兵52)ではないかと推定しているのですが、3人のお顔がわからずどう対応しているのかわかりません。
中央あたりにいる中佐さんはどなたかまったくわかりません。
後列の中央あたりにいる主計大尉さんらしき人(軍帽の線や階級章)は、石井次男主計大尉(第二艦隊司令部、~14年12月18日)か、計見良雄主計大尉(第二艦隊司令部、14年12月18日~)のどちらかではないか?と思っているのですが、おふたりともお顔がわからず、撮影時期もわからないので保留です。
現状、こんな感じなのですが、もし、
「この人、知ってる!」
って方がいらっしゃれば教えていただけるとうれしいです。
海軍大学校甲種36期 ― 2023年02月07日 16時11分20秒
スイマセン、先に謝っておきます。
自分でも何が何やらわからないまま取り組んでしまいました。
たぶん、よくわかっていません。
この写真です。
最初からまったくわからなかったわけではなく、兵52期の清水洋さんは写っています。前列右から2人目。
そして次に目が行ったのが、
「淵田隊長!!(゚Д゚;)」
そう。真珠湾攻撃隊の総隊長、畝傍中学出身淵田美津雄さん(兵52)。
たったこれだけのことで、
「海大36期(11年12月1日~13年9月15日)に違いない」
と思い込み、調べ始めました。
まずはネットで情報収集。
が、36期生の氏名、数人しか集められませんでした。
「これじゃダメだ。辞令公報だ」
アジ歴に海大を卒業して次の赴任先が決まったときの辞令が出ていたのでそれを参考に名簿を作りました。
兵学校の期でいうと、52期16名、53期3名、54期5名。
それから収集できるだけネットで顔写真集めて・・・・見比べたのですがほとんどわかりませんでしたorz
ヒゲがある人がみんな同じ顔に見えて、「ヒゲ苦手」ってのを激しく自覚しました。
54期はすぐにどこにいるのかわかりました。
写真の中の学生らしき人の内訳が少佐19名、大尉5名だったので、この5名が54期だろうと思いました。後列の右に5名の大尉がかたまっています。
ネットで収集したお顔で、寺井義守さん(後列右端)と中山定義さん(後列右から4人目)がどれかわかりました。
「大石宗次さんは知人Tさんが知っていそうだな」
と思って尋ねてみました。
「卒アルの写真あります」
やったー!
わかったー!(*´▽`*)
後列右から5人目でした。
Tさん、それだけではなく、海大36期の別の集合写真(わたしのより古い時期)をお持ちで、学生は全員お顔と氏名がわかっていると言われるではないですか!!
「なんと!(゚Д゚;)」
全員教えてもらっちゃいました!
なんというショートカット(・∀・) いや、ワープ!(・∀・)
こうでした↓。
前列中央は日比野正治中将(兵34)だそうです。校長先生。
両隣のおふたりはわからないと言われたのですが、わたしが自力で調べました。これぐらいはしないと(;^ω^)
左の方だけわかりました。
たぶん佐藤市郎少将(兵36)ではないかな?
少将の階級章をつけているので、
「日比野中将の少し下の世代の海大出身だろう、肖像写真総当たりだ( ・`д・´)」
の覚悟で探し始めたら意外と早く見つかりました。
ネット情報によると海大36期の時期に教頭先生だったみたい。
で、この写真、おもしろいのが座り順なんですよ。
緑が大学幹部(左から教頭、校長、不明)。
赤が兵52期。
黄色が兵53期。
青が兵54期。
大学幹部はちゃんと中央が一番えらい並びです。
学生はそうじゃなかったんです。
左から序列順に並んでいるんです。白抜き数字。
「えー!? マジか!? 初めて見たわ!(゚Д゚;)」
と思ったのですが、Tさん所有分も序列順に前列左から並んでいるそうです。
しかも、これ、言っちゃっていいかどうかわからないんですが、13番の島内百千世さんと14番の宮崎勲さんがTさん所有分では逆に並んでいるらしく。
で、
「そこがあっているかどうか自信がない」
とのことだったのですが、「宮崎勲さんがこの中にいる!」という別写真をわたしがなぜか持っていまして。そこに14番の人が写っているのでまあ間違いなく14番の人は宮崎勲さんだろうと。
Tさんの解釈では、入校時は宮崎―島内の順だったのが、どこかの時点で入れ替わってこの写真の並びになったのではないかとのことでした。
なるほど!
わたしは海軍のちゃんとした集合写真は前列(イス列)中央がいちばんエラくて、序列順に両端に流れていくと思っていたのですが、こういう並びもあるんですね~。勉強になりました。
※ほとんどTさんご教示、ありがとうございました<(_ _)>