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福森大三一飛曹2008年06月17日 08時33分58秒

今回はちょっと搭乗員の集いの話はお休みです。

昭和18年6月16日。
ソロモンで壮絶な航空戦が戦われた日です。「ルンガ沖航空戦」と呼ばれています。
航空戦の詳細は今日の趣旨ではないので省きます。

この航空戦で204空、251空、582空の零戦隊から多大の犠牲を出しました。

204空飛行隊長宮野善治郎大尉、森崎武中尉(山本長官護衛の・・・・)など4名、251空の大宅秀平中尉、大木芳男飛曹長など7名、582空からも4人の下士官搭乗員の未帰還を出しています。

この582空の未帰還の中に福森大三一飛曹が含まれています。
何かドデカイことをやって有名な搭乗員というわけではありません。
でも、ママが気になってしょうがない搭乗員のひとりではあります。

福森兵曹は岡山県出身、乙飛10期の出身です。
乙10といえば、ホリブン(堀光雄飛曹長)と同期生です。
ホリブンは自分の手記の中でこの福森兵曹のことは全く触れていませんが、実は縁の深い人です。

乙飛の10期は昭和13年入隊なので、まだ同期生の人数も少なかった時代です。さらにそこから操縦専修、戦闘機専修、と絞り込まれていったのですから、予科練、飛練時代から何かしら交流があったのではないかと想像します。
実施部隊に配属になった月日は正確には知らないのですが、17年の初夏ごろには配属になったのではないかと思います。
福森兵曹も堀兵曹も同じラバウルの台南空でした。
当時の台南空には坂井三郎、西澤廣義、太田敏夫などの錚々たるメンバーが顔をそろえていて、主力メンバーはモレスビー攻撃のためにラエに進出していました。
福森兵曹や堀兵曹はここではまだ新入り、最ジャクですので、ラバウル基地に留まり、基地の上空哨戒任務についていたようです(7月に入ってからかれらの名前が「上空哨戒」の編制表に登場してきます)。

先日、戦史室で気になる記述を見つけました。
17年7月23日。福森兵曹、行方不明になっています。
上空哨戒で行方不明? 敵機でもやってきて空戦をやったのでしょうか? 深追いしていって帰りがわからなくなったのか?
ちゃんと調べていないから原因や詳細はわからないのですが、幸いなことにまた編制表に名前が現れてくるので、無事に戻ってきたようです。
7月27日には大木芳男一飛曹、堀光雄三飛曹、福森三飛曹の3人でラバウルの上空哨戒をやっています。わたしにとっては「わあ」な顔ぶれです。

17年の11月。台南空は内地に戻って251空として再編成されることになりました。
西澤さんや大木さんたちは日本へ帰ってしまいました。
福森さんや堀さんはそのままラバウルに残り、582空戦闘機隊へ転勤。

まあ、このあたりからようやく一人前の搭乗員という感じになってきたのでしょうか。
582空艦爆隊の先任搭乗員・松浪清上飛曹(乙7期・西澤さんの同期生)に、
「おい、福森、お前、今日は何機落とした?」
と聞かれ、
「はい、落としました。増槽を、落としました」
と答えるようなひょうきん者でした。(増槽というのは、飛行機の胴体の下につける予備の燃料タンク。空戦が始まると邪魔なのでその前に必ず切り離して落とす)
松浪さんもかれのことを「582空戦闘機隊の人気者」「そらをつくことで有名な巨漢」と書いています。陽気なムードメーカだったらしいです。

たしかに、写真を見てもかれはひときわ目立っています。松浪さんも言っているように「巨漢」です。
でも、巨漢なだけではありません。立ち姿がいかにもふてぶてしく、おまけにひげまではやしているので、とても若い二飛曹には見えません。歴戦の飛曹長、下手すると特務少尉ぐらいにでも見えそうな不敵な面構えです。
ちなみに台南空時代の集合写真で見ると堀さんはなんだか可愛げな感じです。
福森兵曹と堀さんは、予科練入隊から堀さんが18年の年明け早々に被弾落下傘降下して骨折、内地送還されるまで同じ釜の飯を食った仲間です。

その福森兵曹、明慶さんのところで書いたと思いますが、有名な樫村寛一飛曹長が戦死された時の列機でした(18年3月6日)。
松浪さんはこのときの空戦のことを福森兵曹本人から聞いたようですが、結局最後は福森兵曹も樫村さんを見失っていて、最後は見ていない、ということでした。

18年6月16日のことは582空の主計科士官だった守屋清氏が手記に書いておられます。
飛行場で出撃を見送ったとのこと。そのとき守屋さんはご自分のカメラを手にされていました。

「私は偶然、福森大三上飛曹の零戦のそばにいた(上飛曹ではなく一飛曹)。彼は岡山県児島郡出身の予科練で、数多くの武勲をあげている歴戦の勇士であった。
鬚を生やした彼の大きな体が愛機におさまるのを待って、あとで記念にやろうとカメラを向けた。五八二空では、岡山県出身者は彼と、私の郷里の隣町、小田町出身の谷本整長だけだったので、平素から彼に親しみを感じていた」

そして、福森兵曹はもう二度と、基地に戻ってくることはありませんでした。
守屋さんがあとでやろうと思って撮った写真は本人ではなくご遺族のもとに届けられたそうです。

参考文献:松浪清『命令一下、出で発つは』光人社NF文庫、守屋清『回想のラバウル航空隊』光人社、神立尚紀『零戦隊長』光人社
戦史室、台南空、582空行動調書

ちょっと一息(^。^)2008年06月17日 09時50分59秒

ねえねの結婚式前撮り・教会
あまり戦闘機の話ばかり続くと、あれなので、ちょっと一息。
(ということは、まだまだ搭乗員の集いの話は続くということですよ、覚悟しておいてくださいね)

花嫁さんの美しい画像をお楽しみください。

結婚式当日はたぶん、こんなショットは撮れないでしょうね。お友達や親戚が囲んでいてねえねに近づけないのでは?
この際だからと、当日では撮れないような写真をいっぱい撮ってきました。

本当は正面からの写真を出したい! とってもきれいなんですよ。
でも、それをみて、ねえねを誘拐しに来る人がいたら困るので、後ろ姿です。