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九期生名簿2012年08月11日 08時55分18秒

ご遺族の方にお借りすることが出来ました。

九期の生存者が少ないことに気づいたのは、もう十数年も前からであった。いろいろ所用を帯びて、全国から上京して来る人たちの、誰に尋ねても九期生の消息を知っている者はいない。私は、第一回全国大会の前当たりまで九期の生存者は、全国で四名位しかいないと信じていた。それが、今回幹事諸君の鏤骨の苦心の集積によって、二十四人も生きていてくれたとが確認されたことは、闇空に二十四の明星の輝きを仰ぐような喜びを覚える。微笑を伴わない喜びである。
二百人入隊した蕾の花の君たちが、今は、たった二十四人しか残っていない。十人のうち九人が散り、一人しか残っていないのである。二十四人が生き残ってくれたことを知った感激、この心の震えは、喜びのためであろうか。悲しみのためであろうか。


昭和40年に編集された『九期生名簿』に寄せられた倉町秋次先生のことばの冒頭部分です。






名簿は全員分のご遺族の住所や、ご遺族の続柄などが掲載されています(おそらく昭和40年時点)。
九期生の中にも戦死時、すでに妻帯されていた方もいたんだなあ・・・・奥さんを残して亡くなられたんだなあ・・・・とあらためて悲しくなるような情報もありました。
いや、逆に、ほとんどの方のご遺族が父母兄弟姉妹であることから、家庭生活の喜びも知らずに亡くなったのか、とやはり悲しい現実・・・・。

いままで都道府県レベルでしかわからなかった出身地が町名、字はおろか番地までわかるようになって、さっそくGoogleマップで探してみて、
「ああ、こういうところで育ったのか」
と。

西澤さんが遠藤さんを子分にしていたのは、「予科練の後輩」、しかも「オレ様と同レベルでイケテル」ってだけではなく、同じような雰囲気の場所で育った連帯感みたいものを感じたからかな?と思ってみたり。
(その場に行ったわけではありません、地図で上空から見てそう感じただけの話です)



生存者の方たちから寄せられた、戦死した戦友たちへの「おもいで」コーナーもありました。
倉町さんが言われているように「十人中九人が散った」クラスなので、少数の生存者の方たちが戦死した方全員の思い出を濃厚に保たれているわけではありません。
中には「印象に残ってない」とはっきり書かれちゃっている人も。そういう人は、仲良しだった人も総じて亡くなられてしまっているのでしょう・・・・。

生前、接触が濃厚だった人が生存されている場合は、いろいろと貴重な暴露話が・・・・。
中途半端に女性関係をばらされている人がいたり。え、え、え、、、、、んどうさんっ!Σ( ̄ロ ̄lll


わたしがいままで写真だけ見て、
「こんな人かな~?」
と妄想していたような方でも今回はっきりと「こんなやつ」と書かれている人が何人もいて、思っていたとおりの人だとなんだかうれしいです。
たとえば木村裕さん。やっぱり「口数が少ない」そうで(^_^;) うん、わかる。

逆に、写真からだけでは絶対にわからないような事柄なども書かれていて貴重です。
森田豊男さんはそろばんの名手だったそうです! これは写真からはわからんぞ!


集合写真の氏名の特定が「特定」ではなく、「○○さんかな?」というところで行き詰まっていた人の特徴(色が白いとか背が高いとか小太りとか)が一致している人も何人かいて、喜んでいます。
かと思うと、一致しない人もいるので、「この写真は○○さんじゃないのか・・・・」と再考を迫られている人も。


いろいろと新たに得るものが多かったので、すでにここで紹介した方でも、追記して再登場してもらおうかと思っています。