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堀光雄飛曹長のこと12008年03月06日 11時57分36秒

大正10年、岐阜県生まれ、乙種予科練10期出身の戦闘機乗りです。
昭和17年の春に飛行練習生を卒業しているので、終戦時にはベテランと呼ばれる領域の人でした。

堀さんはちょっとした有名人です。
堀さん自身が世間の注目を集めるものすごいことをしたというわけではありません。

堀さんの経歴は、飛練卒業後、台南空、582空とラバウルで戦い、18年初めに戦闘で怪我をしてからは練習航空隊の教員配置ばかりでした。
19年の年末に、待ち望んだ実施部隊・343航空隊という、新鋭機・紫電改を装備した航空隊の先任搭乗員として松山に着任します。

その時のかれの飛行隊長が菅野直大尉(海兵70期)だったわけですが、この人が「世間の注目を集めるものすごい」人だったわけです。
この人に関しては伝記のような本も出版されていますので(碇義朗『最後の撃墜王』)、興味のある方はそれを読んでいただくとして、堀さんはこの人の部下になってしまったことで名が残ってしまった一面もあるんではないでしょうか。
ネットで堀さんの名前を検索しても、まあ、だいたい菅野さん絡みの記事です。

菅野隊長は、20年8月1日、屋久島上空の空戦で乗機の二十ミリ機銃が暴発して戦死したと言われています。この一件の唯一の目撃者が堀飛曹長なのです。主翼に大穴のあいた菅野機を掩護しようとしたら、戦闘に戻れと叱られ、泣く泣く菅野隊長のそばを離れ、菅野隊長はそれきり行方不明です。
ほかに目撃者もいないようで、菅野隊長の最期に関しては堀さんの証言のみになっています。

戦後、『紫電改空戦記』という手記を書かれており、教員をしていた高雄空時代のこと、343空時代のこと、そして、菅野隊長の最期のことなどを書かれています。
准士官への昇進を前に、「前祝いだ」と中尉の階級章をつけた軍服を着て料亭でモテまくった話など披露されていて(階級詐称ですね)、なかなかおもしろかったです。

つづく

堀光雄飛曹長のこと22008年03月06日 12時27分28秒

さて、昭和20年8月15日、太平洋戦争も終わりました。

そのまま武器を置く部隊、いや、徹底抗戦だと構える部隊、いろいろあったわけですが、堀さんが所属した343航空隊では准士官以上は司令(源田実大佐)とともに自決、ということになりました。
ただし、強制ではありませんでした。

司令とともに自決する用意のあるものは宿舎の道場に集められます。
その場に行った機関学校53期の加藤種男大尉の手記によると23名が集まったそうです。その中に堀さんの姿もありました。

辞世を書き、盃もすませ、さあ、いざ自決、というときになって、司令から、
「実は・・・・」
これが狂言(といってもいいのでしょうか?)だったことが知らされます。

ある作戦を遂行するため、「命もいらぬ同士が欲しかった」から、このような芝居をした、と。
その作戦は『皇統護持作戦』と呼ばれるもので、皇統を絶やさないために皇族の一人をお迎えしてひそかに養育する、という作戦です。

堀さんは大村哲哉大尉(海兵72期)、加藤種男大尉とともに、九州宮崎の奥地・杉安という集落に潜伏し、そこで行在所づくりの活動を始めます。

このときの活動に関してはなにわ会のHPに加藤さんが手記を寄せられているので、それを参照していただきたいのですが、開墾しながら農作業もするという潜伏生活の苦労とともに、集落の子供たちとの交流も描かれており、これまたなかなか興味深いです。

堀さんが一ツ瀬川で獲ってきた鰻が食膳に上がったこともあったとか。歴戦の飛曹長が鰻を獲っている姿を想像すると・・・・いえいえ、大変だったんですよね。

加藤さんによると、大村さんも堀さんも子供たちの人気の的だったらしいです。どんなふうに人気があったのか、手記には具体的には書かれていませんでしたが、大村さんに直接伺ったたところでは、
「そんなことを海軍大尉にさせていいのー!?」
と驚くようなこと(羨ましかったですが)をさせられていたようです。

大村さんのお話では平成2年(堀さんはすでに他界)に加藤さんと杉安を訪れたらしいのですが、そのとき、当時交流した子供たちはみんな大村さん、加藤さんのことをよく覚えていてとても喜んでくれたそうです。
(なんだが、堀さんの話が途中でそれてしまったような・・・・)

堀光雄飛曹長のこと32008年03月06日 12時58分25秒

さてさて、皇統護持作戦も終わり、堀飛曹長も岐阜に復員したはずですが、そこらへんのことはまったくわかりません。

次にこの人がわたしの目に触れるのは昭和29年の全日空入社です。
その間に結婚されていて、お子さんも生まれていて、姓も「三上」に変わっています。なので、ここからは三上さんで・・・・。

全日空に入社した三上機長、この後、管見では二度新聞沙汰になっています。

一度目は昭和33年、エンジントラブルで航空自衛隊浜松基地に不時着、というニュースです。
このときの新聞に三上機長のコメントが載っているのですが、
「(エンジントラブルで右エンジンが停止した)、左だけで小牧まで十分飛べる自信はあったが、大事をとって一番近い浜松基地に降りた」
と言っています。
「小牧まで十分飛べる自信があった」ってところが戦闘機乗りらしいなあ、って感じがするし、でも「大事をとって」降りたところはさすがベテランだなあ、って思いました。

二度目の新聞沙汰は「ハイジャック」です。
昭和45年8月、女に振られてやけくそになった自殺志願の男に飛行機を乗っ取られてしまったのです。
名古屋から札幌に向かっていたのですが、またまた浜松基地に緊急着陸です。
碇義朗さんの『最後の撃墜王』によると、このとき、三上機長の活躍で犯人が投降したような印象に書かれているのですが、新聞記事を読むとちょっとニュアンスが違うんですよねえ。
ハイジャックされてしまったとき、二重ロックがかかっているはずの操縦席のドアが開いていて簡単に犯人に入られてしまった、とか、犯人は投降したのではなく、乗客の一人が考えたトリックに引っ掛かり取り押さえられた、とか。

浜松着陸後、膠着状態のときに、乗客の一人が犯人のピストルがおもちゃであることに気づき、客室に出てきていた三上機長に、
「犯人のピストルはおもちゃだ。キャプテン、やろう」
とこっそりと”襲撃”を持ちかけたそうなのですが、三上さんは、
「もう少し様子を見てから」
と、答えたということです。
三上さんは戦闘機乗り出身にしては慎重派だったようです。

乗客の一人が若い女性に妊婦に化けるよう協力を依頼し、犯人に、
「この人がつわりで気分が悪い。降ろしてほしい」
と頼んだところ、犯人はそれを了承し彼女を解放。その隙に警察が機内に踏み込んで取り押さえたということです。

まあ、何にしても一人の犠牲者も出ず、無事でよかったです。