牽牛子塚古墳 越塚御門古墳 ― 2023年05月27日 21時01分50秒
20日に明日香の牽牛子塚(けんごしづか)古墳と越塚御門(こし つかごもん)古墳の見学をしてきました。
牽牛子塚古墳というのは最近(2009・2010)発掘調査された終末期古墳です。
発掘調査後、整備復元され、去年春から公開が始まりました。
発掘調査で八角形墳であることが明らかになり、日本書紀の記述から斉明天皇とその娘の間人(はしひと)皇女が葬られているのではないかという説が有力になっています。
※宮内庁指定の斉明天皇陵は別にあります(越智崗上陵(高取町・車木ケンノウ古墳))
牽牛子塚古墳は別名あさがお塚古墳とも呼ばれるそうです。
江戸時代には「朝顔」と呼ばれていたらしいので、当時は八角形の痕跡が残っていたのでしょうかね? それとも周辺にたくさん朝顔の花が咲いていた?
現在の牽牛子塚古墳ももう少ししたら散策ルートの一角にあさがお(本当はひるがお?)が咲くそうです。
牽牛子塚古墳のすぐ下に越塚御門古墳という新発見の古墳があります。
それまでは知られていなかった古墳で、牽牛子塚古墳調査中に見つかったのだとか。
位置関係でいうとこんな感じ↑
上が牽牛子塚古墳で、下が越塚御門古墳。
日本書紀によると、斉明天皇と間人皇女を葬った小市岡上陵の前に大田皇女(天智天皇の娘=斉明天皇の孫、天武天皇の妻)を葬ったという記述があるらしく、牽牛子塚古墳と越塚御門古墳はまさにこの記述に合致するということで、こちらは大田皇女のお墓である、と推定されているそうです。
ただ、話はそんなにすんなりとはいかず、調べてみると諸説あるみたいですけどねー。
※「越智崗上陵(おちのおかのえのみささぎ:宮内庁HP)」・・・・現在宮内庁管理の斉明陵の名称
「小市岡上陵(おちのおかのうえのみささぎ:橿考研HP)」・・・・日本書紀に書かれている斉明陵
牽牛子塚古墳と越塚御前古墳の見学は予約制で料金500円。解説員付きで石槨を間近に見ることができます。
事前にネット予約して、当日は楽しみにして行きました。ちょっと天気がアレだったんですが(^^;)
※予約なしでも見学はできますが、石槨の入り口には近づけません
予約時間に行ってみたら、すでにほとんどの人は来られていました。
わたしはパパと車で行ったんですが、お一人様はおらず、男女、女女の二人組ばかり8名だったか。
レンタサイクルで来ている人もいました。
地元のおじさんらしき解説員の方の案内でぞろぞろと1時間ぐらい(映像視聴含む)。
平城宮のいざない館の解説員も斑鳩町文化財センターの解説員も地元の人みたいでした。いいですね、生まれ育った町の歴史を来訪者に紹介する仕事。地元の人ならではの話も織り交ぜつつ。地元愛を感じましたよ。
現地の解説板。
行ってみないとわからないものですねえ。こんな山の中だったんですよ。
ホント、岡の上のみささぎです。
これは南側の谷から見上げている感じです。
キトラ古墳も谷あいの小高い丘の上の、同じような感じの場所にありました。
初期ヤマト政権の大王陵がならぶの大和・柳本・萱生古墳群の立地は同じ高い所でも、大和盆地全域が見渡せるような見晴らしのいいところが多いです。
いまはこんな感じ(汚れたのか雨のせいか灰色っぽくなっている)ですが、復元当初は石が真っ白だったみたい。築造当初もそうだったのかな。遠くから見たらUFOが着陸しているみたいに見えます。
これは墳丘の北西側の小高いところから見下ろしています。
向こうには多武峰や高取城のある山々が見えています。麓には明日香の高松塚古墳なんかが見えている状態。
詳しくはこちら↓どうぞ。
牽牛子塚古墳の横口式石槨入口。
南向きに開口。
横口式石槨の入り口はふだんは木の柵があって、ぶらっと行った人はこの柵越しに見学することになります。
予約見学の人は木の柵の中に入って下に降りて、鉄柵越しに横口式石槨の中を覗くことができます。
鉄柵が入らないように撮ったらこんな感じ(^^;)
なんのこっちゃわからんでしょう?
鉄柵込みの引いた画像がないのでいつもの下手絵で勘弁してください。
※イラストはイメージです
(いま気づいたんですが、上に出した現地の案内看板に牽牛子塚古墳と越塚御門古墳の石槨の切断図みたいなのが出ているのでそちらを見てください(^^;))
凝灰岩の巨石を刳り抜いて作ったもので、石槨内は真ん中に仕切りがあり、左右2室に分かれています(複槨)。
それぞれの部屋に棺台が作り出されています。
天井部分はゆるくカーブしていました。
帰宅後報告書を見ていたら石槨の内壁に漆喰が塗られていると書かれてあったのですが、現地で見たときにはわたしはわかりませんでした。
写真を見返してみたところ、これ↓のことかなあ???と。
石槨内から夾紵棺(きょうちょかん)の破片が出土しているそうで、どちらか、あるいは両方か、夾紵棺が納められていたようです。それに伴う七宝製亀甲形飾金具も出土しています。
夾紵棺というのは布と漆を何重にも塗り重ね大変な手間をかけて作られるもので、当時の最高級の棺。
他にどんな人が夾紵棺に納められているかというと、藤原鎌足。
大阪府高槻市の阿武山古墳の被葬者と言われています。戦前に不時発見され、そのときの記録が残っています。鎌足さんは夾紵棺。
※のちに遺骸・出土品はほとんど埋め戻した
これは飛鳥資料館のイベントに出席して作った鎌足さんの玉枕(ストラップサイズ)をもとに、わたしが大型化させた玉枕です。
牽牛子塚古墳からもガラス玉が出土しているので、もしかしたらこのような玉枕が添えられていた可能性も?
天武天皇も夾紵棺に納められていたそうです(いまは立ち入り・調査できないが鎌倉時代に盗掘にあったときに書かれた石槨内部記録が残っている)。
棺台は奥の方がレベルが高いらしいので、奥が頭になるように棺を置いたのでしょう(北枕)。
ちなみに左右どちらが斉明天皇でどちらが間人皇女かわからないそうです。
(古くに開口したらしく副葬品はほぼ残っておらず、残っていたものも動いている可能性)
斉明天皇はおそらく夾紵棺に納められていたでしょう。
間人皇女はどうでしょうかね?
下に中央の八角形墳とブログ関連の古墳の情報を表にして出していますが、あれを見た感じでは間人皇女は漆塗りの木棺ではないかという気もします(木棺片は出土していないけれども)。
越塚御門古墳の石槨入口。調査時にはすでに墳丘は消失していて石槨の一部のみが残っていただけなので、この入り口は想像復元です。
南向きに開口。墓道つき。
推定で一辺10メートルほどの方墳では?とのこと。
越塚御門古墳の横口式石槨。
こちらは蓋部分と床部分は別作りです。
石英閃緑岩製。
発見時、蓋部分の大半はすで持ち去られていてなかったそうです。
牽牛子塚古墳と同様、棺台が作り出さています。
ここからは鉄製品や漆膜が出土しているそうで、棺は漆塗りの木棺でしょうか。
格としては夾紵棺に次ぐぐらいのところ。高松塚古墳とかキトラ古墳がこれです。
この空間で丸椅子に座って映像視聴。
石槨の上はこんな覆い屋になっていて、奥の白い切石風壁に映像を投影して視聴するという形式です。
二つの墳墓に葬られた斉明天皇・間人皇女・大田皇女3人にまつわる映像が流れました。
石槨や壁にオーブみたいなものが映って天に昇っていく映像や石槨の棺台に一輪の朝顔が投影されたり(プロジェクションマッピング?)という演出も。
※築造当時は石槨の上は盛土で覆われていてこんな空間はありません
と、見学はこんな感じです。
お墓なんでね、賛否両論あると思いますが(^^;)
関係者、議論を尽くしてこの形になったのだと思います。
んで、飛鳥駅前の「飛鳥人の館」に立ち寄っておみやげもゲットー!(*´▽`*)
牽牛子塚古墳の八角形とアサガオのクリップ。
今回は亀石には行っていないけど、かわいかったので亀石クリップもゲット。
他にも牽牛子塚古墳エコバッグや牽牛子塚古墳クリアファイルもありました。
朱雀のぬいぐるみキャップもありました。めっちゃかわいかったけど「どこでかぶるねん!」ってヤツ。
帰って来て検索したら四神分あるらしく「飛鳥ハーフマラソン公式」って書いてありました。なるほど。
終末期古墳に関してはわたしはいままであまり関心がなくほぼ理解できていないので、今回の牽牛子塚古墳見学を機に知人に本を紹介してもらいつつ自分でもいろいろ探して勉強しかけているのですが、読めば読むほど「アレはどうなっているの?」と次から次と疑問・論争点等が沸いてきて収拾がつかなくなっています。
きりがないので適当なところで(←ブログの見学記を書く程度の)やめなければと思っています(^^;)
見学記も、わたしが書いちゃうといろんな説明を割愛してしまい読んでもよくわからなかったと思います。
人間関係とか特に。
たぶん、わたしが書いて説明してもよくわからないと思うので一目瞭然でわかるように図表にしました。
自分の整理用なので転載禁止でお願いします。
人間関係の図。
牽牛子塚古墳の被葬者として有力視されている斉明天皇と間人皇女は母娘の関係です。
と同時に、間人皇女は斉明天皇の弟である孝徳天皇の后でもあるので義理の妹にもなるんですかね。古代の婚姻関係は現代の常識とはかけ離れてて理解の範囲外です。
上の図に書いていない人間関係もあります。書いていない?いや、書けない、というか(^^;)
越塚御門古墳に葬られているという大田皇女は天智天皇の娘です。
天智天皇は斉明天皇の息子なので、斉明天皇から見ると孫、ということです。
と同時に、斉明天皇息子の天武天皇の后でもあるので息子の嫁ということにも。
そういう3人がここ越智の岡に葬られているということです。
で、葬ったのは斉明天皇の息子であり、間人皇女の兄であり、大田皇女の父である天智天皇です。
わかりやすいといえばわかりやすい。全員血縁関係です。
中央の八角形墳
「中央の」と書いているのは、これに対して地方にも八角形墳が存在するからです。
でも、そちらは天皇陵とは直接の関係はないような?
なので省いています。
「参考」はブログ本文や人間関係図、地図に登場している関連古墳です。
規模などは参考にしたものによって若干の違いがあったりするので、いま以上に納得のものがあれば今後また作り直すかもです。
青字は不確定情報です。
なんか終末期古墳はややこしいのです。
殯の問題、改葬・追葬の問題、さらに寿陵(生前から作るお墓)の問題などがあり、死亡時期がわかっていたとしてもそれがその人の古墳の直接の時期決定にならないとか。
それに文献史料が残っているがゆえに話がややこしくなっていたり。
斉明天皇も最初は別の陵に葬られていたという話があります。
間人皇女が亡くなって、小市岡上陵に合葬したみたいです。斉明天皇は改葬されたということです。
いちおう、目安に亡くなった年を書き込んでいますが、それが直接古墳の年代になるとは限りません。
前期古墳の竪穴式石室は大きな石蓋で石室を覆ってその上に盛土を盛って完全に地下に埋め込んでしまうので改葬問題はほぼ考えなくていいんだと思うのですが、横穴式石室は石室にあとから出入りできるような構造で、遺骸を出したり追加で葬ったりできるのでこういう問題が。
位置関係の図。
明日香の関係地図。 自作
色が違うのは50mコンター。
牽牛子塚古墳のある辺りは標高120mぐらいです。
↑↓ベースの地図が違うので色味が違ってしまっています。
上は色が濃い方が標高が高く、下は色が薄い方が標高が高いです。作るときに統一しろって話ですね、スイマセン💦
明日香以外の関係地図。 rootsjapan2016改変
こちらの等高線は100、200、500、1000、1500。
それぞれの古墳が飛鳥から離れた地に築かれている事情に関しては割愛。
関連史料(太字・・・明日香村教委2013引用をそのまま孫引きしました。わたしは日本書紀や続日本紀は読んだことがないので本当にそう書かれているのかどうかは確認していません)
『日本書紀』斉明天皇四(658)年の条
「五月に、皇孫健王、歳八歳にして薨せましぬ。今城谷の上に、殯を起てて収む。天皇、本より皇孫の有順なるを以て、器量めたまふ。故、不忍哀したまひ、傷み慟ひたまふこと極めて甚なり。群臣に、詔して曰く、「萬歳千秋の後に、要ず朕が陵に合せ葬れ」とのたまふ。」
「五月に、皇孫健王、歳八歳にして薨せましぬ。今城谷の上に、殯を起てて収む。天皇、本より皇孫の有順なるを以て、器量めたまふ。故、不忍哀したまひ、傷み慟ひたまふこと極めて甚なり。群臣に、詔して曰く、「萬歳千秋の後に、要ず朕が陵に合せ葬れ」とのたまふ。」
天皇・・・・斉明天皇。
自分が死んだ後は健王(健皇子)と合葬してくれと頼んだということ。
『日本書紀』斉明天皇七(661)年の条
「秋七月の甲午の朔丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。
八月の甲子の朔に、皇太子、天皇の喪を奉徙りて、還りて磐瀬宮に至る。是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を望み視る。衆皆嗟怪ぶ。冬十月の癸亥の朔己巳に、天皇の喪、帰りて海に就く、是に、皇太子、一所に泊てて、天皇を哀慕ひたてまつりたまふ。乃ち口號曰はく、君が目の 戀しきからに 泊てて居てかくや戀ひむも 君が目を欲り、乙酉に、天皇の喪、還り手て難波に泊れり。十一月の壬辰の朔戊戌に、天皇の喪を以て、飛鳥の川原に殯す。此より發哀ること、九日に至る。」
「秋七月の甲午の朔丁巳に、天皇、朝倉宮に崩りましぬ。
八月の甲子の朔に、皇太子、天皇の喪を奉徙りて、還りて磐瀬宮に至る。是の夕に、朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て、喪の儀を望み視る。衆皆嗟怪ぶ。冬十月の癸亥の朔己巳に、天皇の喪、帰りて海に就く、是に、皇太子、一所に泊てて、天皇を哀慕ひたてまつりたまふ。乃ち口號曰はく、君が目の 戀しきからに 泊てて居てかくや戀ひむも 君が目を欲り、乙酉に、天皇の喪、還り手て難波に泊れり。十一月の壬辰の朔戊戌に、天皇の喪を以て、飛鳥の川原に殯す。此より發哀ること、九日に至る。」
朝倉宮は、百済救援のため出陣して滞在していた宮(福岡県)。
皇太子・・・・のちの天智天皇。
天皇・・・・斉明天皇。
『日本書紀』天智天皇四(665)年の条
「春二月の癸酉の朔丁酉に、間人大后薨りましぬ。」
「春二月の癸酉の朔丁酉に、間人大后薨りましぬ。」
『日本書紀』天智天皇六(667)年の条
「春二月の壬辰の朔戊午。天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の墓に葬す。高麗・百済・新羅、皆御路に哀奉る。皇太子、群臣に謂」りて曰はく、「我、皇太后天皇の勅したまへる所を奉りしより、萬民を憂へ恤む故に、石槨の役を起こさしめず。冀ふ所は、永代に以て鏡誡とせよ」とのたまふ。
「春二月の壬辰の朔戊午。天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを小市岡上陵に合せ葬せり。是の日に、皇孫大田皇女を、陵の前の墓に葬す。高麗・百済・新羅、皆御路に哀奉る。皇太子、群臣に謂」りて曰はく、「我、皇太后天皇の勅したまへる所を奉りしより、萬民を憂へ恤む故に、石槨の役を起こさしめず。冀ふ所は、永代に以て鏡誡とせよ」とのたまふ。
天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇・・・・斉明天皇
皇太子・・・・ここでは天智天皇を指しているのでしょうか。
『続日本紀』天武天皇八(679)年の条
「三月(途中略)丁亥に、天皇、越智に幸して、後岡本天皇陵を拝みたてまつりたまふ。」
「三月(途中略)丁亥に、天皇、越智に幸して、後岡本天皇陵を拝みたてまつりたまふ。」
天皇・・・・天武天皇
後岡本天皇・・・・斉明天皇
『続日本紀』聖武天皇天平十四(742)年の条
「癸丑。越智山陵崩え壊る。長さ一十一丈、廣さ五丈二尺。丙辰。知太政官事正三位鈴鹿王ら十人を遣して、雑工を率て修め緝はしむ。また采女女嬬等を遣してその事に供奉らしむ。庚申。内蔵頭外従五位下路真人宮守らを遣して、種々の献物を賷ちて山陵に奉らしむ。」
「癸丑。越智山陵崩え壊る。長さ一十一丈、廣さ五丈二尺。丙辰。知太政官事正三位鈴鹿王ら十人を遣して、雑工を率て修め緝はしむ。また采女女嬬等を遣してその事に供奉らしむ。庚申。内蔵頭外従五位下路真人宮守らを遣して、種々の献物を賷ちて山陵に奉らしむ。」
『延喜式』諸寮陵
「越智崗上陵。飛鳥川原宮御宇皇極天皇在大和國高市郡兆域東西五町。南北五町。陵戸六烟。」
「越智崗上陵。飛鳥川原宮御宇皇極天皇在大和國高市郡兆域東西五町。南北五町。陵戸六烟。」
明日香村教委2013には「諸寮陵」と書かれているが「諸陵寮」ではないかと思う。他にも誤字脱字が多いので、これ以外にもあるかも(赤字部分)。わたしには判別つきません。もしかして正誤表でもあったのだろうか?
これを読むと、斉明天皇の陵に関しての疑問として、
「孫の健皇子はどうなったのかな?」
ということが浮かびます。
牽牛子塚古墳の横口式石槨の左右の部屋に斉明天皇と娘の間人皇女が葬られているのはほぼ確定として、斉明天皇が遺言までした健皇子との合葬、これ、どうなったのだろう?
658年 健皇子薨去
661年 斉明天皇崩御
665年 間人皇女薨去
667年 斉明天皇と間人皇女を小市岡上陵(牽牛子塚古墳か?)に葬る。
同日、大田皇女を陵の前の墓(越塚御門古墳か?)に葬る。
ということは、可能性として、
①健皇子薨去→お墓Aに葬る。斉明天皇崩御→お墓Bに葬る。このとき健皇子をお墓AからBに移し合葬する。間人皇女薨去→お墓Cに葬る。2年後、小市岡上陵が完成しお墓Bから斉明天皇と健皇子を、お墓Cから間人皇女を移し合葬する。
つまり、小市岡上陵には斉明、間人皇女、健皇子の3人が葬られているということに。
健皇子の薨去から小市岡上陵に移されるまで9年経っているので、棺が必要なかったとも考えられます。なら、石槨は2室、棺も2棺で矛盾ありません。
②健皇子薨去→お墓Aに葬る。斉明天皇崩御→お墓Bに葬る。間人皇女薨去→お墓Cに葬る。2年後、小市岡上陵が完成しお墓Bから斉明天皇を、お墓Cから間人皇女を移し合葬する。
こちらの案は、健皇子は斉明天皇の遺言通りに合葬されることはなく、いまも一人で眠っているということ。
斉明天皇崩御時に合葬していたら、小市岡上陵に改葬時に一緒に移さないはずはないです。
日本書紀にも書かれている天皇の遺言が守られず、遺言になかった間人皇女と合葬された事情はまったくわからないですけどねえ。
当時は夫婦が同じ墓に入るのは一般的ではありません。
なので、斉明天皇が夫の舒明天皇と同じお墓でなくても何の不思議もないです。
間人皇女が夫の孝徳天皇と同じお墓に入っていなくてもこれまた不思議でも何でもないです。
同じお墓に入るかどうかは夫婦という単位より「血」です。
斉明天皇、娘の間人皇女が合葬され、息子(天智天皇)の子である孫の大田皇女がすぐ目の前のお墓に葬られるのも、「血」というつながりを考えるとすごく自然なことなのです。
大田皇女の弟である孫の健皇子が斉明天皇と同じお墓に入るのに障害はまったくないはずなんですけどね。
斉明天皇・間人皇女、大田皇女の墓所を作ったのが天智天皇だとすると、健皇子は息子にあたるわけなので、ますます合葬しない理由がない。
空想を語ることを許されるのであれば、牽牛子塚古墳には孫の健皇子も一緒に葬られているのではないか、と思いたいです。
「古墳見てきたよ」というただの見学記に自分の整理用図表を添えただけなので、具体的な引用箇所などは省略しています。
※参考文献
明日香村教育委員会2013『牽牛子塚古墳発掘調査報告書』明日香村文化財調査報告書第10集
清家章2018『埋葬からみた古墳時代 女性・親族・王権』吉川弘文館
牽牛子塚古墳パンフレット
岸本直文2013「後・終末期古墳の「治定」問題」『季刊考古学124号』雄山閣
直宮憲一2003「終末期古墳の特徴」『季刊考古学80号』雄山閣
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