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乙8期 岡宮祐さん2018年05月04日 10時25分54秒

カテゴリ設定しました。
[乙8期]。
だんだん収拾がつかなくなってきた感があるので、不要なカテゴリは整理しなければ、と思います。が、いつになるやら(^^;)

[乙8期]に入れるべき投稿を探すのも大変です。
最近、ブログ内検索が機能しなくなってきています。
これも、整理はいつになるやら(^^;)





岡宮祐さん。
東京出身、中攻・操縦。
千歳空、703空。


飛練10期谷田部の集合写真に、一人だけ「三空曹」階級の人がまじっていて、
「この人、誰だろうな?」
と、ずっと不明だった人です。
かれこれ6年。
Kさんからの情報提供で、ようやく8期の岡宮祐さんだとわかりました。


飛練から合流したのではなく、
予科練時代に9期に合流したようです。事情はわかりません。
15年11月。卒業間際の操縦専修集合写真@霞ヶ浦航空隊に写っていました。
15日には土浦航空隊に移転しているので、11月前半の写真でしょう。

しかしですよ。
8期は14年9月1日に予科練@霞ヶ浦を卒業しているわけですよ。
そこから15年11月まで、岡宮さん、行方不明です。
その間の9期操縦専修の写真を一応全部探したのですが、どこにも写っていません。
進級は遅れていないんですよね・・・・。

とにかく、わたしが見つけた中で岡宮さんの一番古い写真は15年11月前半の上の写真です。




練習機飛練@谷田部の岡宮さん。

練習生の中で一人だけ下士官に任官しています。


実用機飛練@大分


大型機講習@木更津

この木更津の卒業集合写真には、9期生ではない人が3人写っています。
岡宮さんの他、

このお二人、実用機飛練の大分集合写真から写っています。
(中練谷田部には写っていないと断言できますが、中練筑波は画質が悪くて確認できません)

このお二人のどちらかが本村静夫さんということになるんでしょうね。
もうお一人は依然どなたか不明です。






同期生会誌の回想
「江戸っ子気質で鼻柱は強かつたが案外挫けるくせがあった」

「俺の日記に十月十七日、日曜日の外出を済ませて一日の出来事を愉快に思い出して楽しんでいると帰隊時刻を過ぎても貴様の姿が見えぬ。何にか不祥事でも起こつたのではないかと疑心暗鬼。夜八時頃金沢方面にいるとの情報に同期生一同安堵したよ」

昭和12年、つまり、8期が予科練に入った年(1学年)の10月17日の出来事みたいですね。

まさかと思いますが、このときの帰隊時間遅れが次期まわしに結びついたんじゃないですよね?(^^;)
「同期生一同安堵」と書いてあるので。

他にも9期に合流した8期生がいますが(三浦駿一さん、持田竹雄さん)、かれらは早い時期から9期の集合写真に一緒に写っているし、進級も遅れています。
卒業直前の集合写真から登場して、進級も遅れていない岡宮さん、理由はいまだ謎です。






『予科練外史』に予科練@横須賀時代、休日に鷹取山に登ったときの岡宮さんの感想が掲載されています。

「――空は広く、弧を画いて頭上を過ぎ、また海の彼方に入って行く。下に居る時は、天は高いとは思っても、広いと感じたことはなかった。が、今、自分の眼下より又眼下に入る半円以上の弧を見ると、あゝ天は広いなあ、と思う。――」

倉町先生の岡宮さん紹介。
「岡宮 祐   東京出身の多感な少年であった。七〇三空陸攻操縦員として、昭和十七年十一月十二日、ガダルカナル島、ルンガ泊地の敵艦船雷撃中、防禦砲火による被弾で、機上戦死を遂げた」


17年11月12日の703空のルンガ泊地攻撃では9期からも関口一男さん、浅沼正信さん、宮沢政雄さんの3名の戦死者を出しています。
行動調書を見ると、9機出撃して6機が行方不明、2機がガ島に不時着。

主操を失った岡宮機(3/1D:1小隊3番機)もガ島に不時着。

行動調書に不時着した2機とその機上戦死者についての記述がありました。
「1/1D、3/1D(内四名機上戦死)雷撃後「カシンポ」沖五浬及「カシンポ」ノ東5浬ニ不時着。(中略)3/1Dハ当夜野宿機上戦死者岡宮一飛曹・海沢(梅沢?)飛長「ビサレ」ノ東方三粁ニ埋葬」
※岡宮さんは戦死時上飛曹



この話には続きがあります。→乙8期 岡宮祐さん2


※画像は9期生ご遺族ご提供

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