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乙8期 岡宮祐さん 22020年10月31日 09時52分30秒

岡宮さんのことに関しては以前書いています



そのとき、岡宮さんの最期に関しては行動調書を見て書きました。

岡宮さんは8期生として予科練に入隊していますが、いつからか9期生と合流したようで、9期の霞ヶ浦航空隊時代の末期(15年11月初ごろか?)の写真から一緒に写っています。そこから飛練卒業(木更津大型機操縦)まで一緒に写っています。

9期生全員の顔とお名前がわかったあとも、ずーっと、どなたかわからない状態が続いていたのですが、18年の5月の初めでしたか、Kさんが「8期の岡宮祐さんではないか」とメールをくださって、わたしもKさんから提示された情報を見て「そうにちがいない」と思ったのでブログに書いたというわけです。

ここから先はたぶん、ブログには書いていないままになっているんじゃないかと思います。
検索しても出てこないので。




じつはですね、ブログに書いたひと月後、岡宮さんのご遺族の方がブログをご覧になられたとかでメールをくださったんです。

岡宮さんのことを頻繁に検索されていたのか、それともたまたまそのときに検索されたのかはわからないのですが、書いた直後に連絡をいただくとやはり「お導きに違いない」と思ってしまいます。



行動調書や『予科練外史』(倉町秋次)の記述では岡宮さんは機上戦死したことになっています。
操縦員ですが中攻なので操縦員はメインとサブといて、たとえばどちらか一人が操縦不能になったとしてももう片方が健在であれば飛行機は飛びます。

17年11月12日、ルンガ泊地攻撃の703空・岡宮機は主操縦の岡宮さんが機上戦死した後、副操が操縦し、島に不時着。岡宮さんと同じく機上戦死の梅沢飛長がその地に埋葬された、と理解していました。


しかし、ご遺族の方から聞いた話は違いました。
岡宮さんは不時着時、まだ生存していたそうです。
その後、ペアに最期のことばを残して亡くなったとのことでした。

そのことを戦後、岡宮家に伝えに来てくれた人がいたそうです。

岡宮さんが戦死したときのペア、主偵察員の島崎馨さん(甲3)です。

そのときのことは新聞記事にもなったそうです。



先日、Kさんに『予科練外史』をお借りして読んでいたのですが、前回借りたときに岡宮さん関連の記述を見落としていたことに気づきました。
岡宮さんの戦場での日記が引用されていたのです。
引用されているのは17年8月26日、27日、31日、9月25日、28日、30日、10月3日、5日、21日、25日、11月4日、8日。

8月27日は編制替えがあったらしく「偵察は島崎になるらしい」と、のちに自分の最期を実家に伝えに行ってくれた島崎さんのことを書いています。



戦場でも本を読んでいた岡宮さん。
岡宮さんの書く文章は、なんというか、うまく表現できないのですが独特です。技巧的ではないけど、文学的。
日記には学生時代の淡い恋情についても書かれています。ふつうの青年。
しかし生死観は淡々。本心なのか、そう思い込もうとしているのか。





17年10月21日、当時703空だった9期の伊藤誠一さんがウェーク島からの哨戒中に遭難して、全員が救命いかだで漂流、4日後に救助されたって話を書いたことがありますが、そのとき岡宮さんも伊藤さんの捜索に出ていました。
『予科練外史』に「或る不時着」というタイトルで書かれています(これは以前から把握していたもの)。

そこにも岡宮さんの日記が引用されています。
『十月二十三日、捜索は今日も続けたが、相変わらず見えるのは波頭ばかり。昨日は、ロンギリック、今日はピギンニを低空飛行する。不時着機よ何処へ行ったのか・・・・。もう断念するより外はない・・・・。吾々は海上に不時着したらもう断念するより仕方がない。
二十四日、奇蹟が報ぜられた。全くの奇蹟である。不時着、行方不明機の八名が全員生存していたそうだ。ルオットに向けて十四日に横須賀を出港した補給船「那岐山丸」(十一航艦所属)に救助されて二十五日にルオットに入港するという。あきらめて、今日で捜索は打ち切りという時だったので余計に嬉しかった。救助の電報を受け取った通信長は雀踊りをして喜んだそうだ。
丸三日漂流したのだからよくも頑張ったものと思う。人間は最後の最後まで頑張らねばならぬ。最後の瞬間まで自暴自棄になってはならぬ。人事を尽くして天命を待つ。もし、吾にしてこのことあれば、生きられるだけ生きなければらならぬ。而して後は天の命ずるままに従えばよい
のである』


岡宮さんがルンガの敵輸送船団雷撃で不時着後に戦死したのはこの20日ほどあとです。



※画像は9期生ご遺族、Sさん(甲3教員のご家族)ご提供

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