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乙7期 飛練2018年05月03日 12時55分32秒

先日、山口良一さんの履歴を見せていただいたときに、記載されていた成績に関して、

「どうして、二つ数字があるのですか?」

とご遺族の方に聞かれました。


予科練卒業時に「95人中〇番」と書かれ、飛練卒業時「71人中〇番」と書かれていました。
乙7期は入隊者が204名いたらしいので(わたしは確認していません)、「95人」というのは操縦専修生の人数だろうということはすぐに想像がつきました。

問題は飛練卒業時の「71人」です。

はて?

中攻専修の数にしては多いな。

と思ったのは、ふだん9期ばかり見ているからです(^^;)




そのときはそんな感じでわからなかったのですが、つらつら考えていて、

「あ、もしかしたら操縦専修生の中から水上機専修生を抜いた数(陸上機専修の数)か!」

と思いつきました。

9期には水上機操縦専修がいないから咄嗟に思いつきませんでした(^^;)

ご遺族の方にそうじゃないかと思う、と話をしましたが、やはり不安だったのでいつものKさんに聞きました。
Kさんも7期の機種別の人数は把握していないとのことでしたが、その考えでいいんじゃないかと言ってもらえました。

そのときに先日書いた特技章のことをご教示くださったんですよ。

旧制度の飛練の時は特技章をもらえるのは中練卒業時、このときが「飛練卒業」にあたります、と。
その時点で、その訓練をやったグループごとに成績が出ている、と。

予科練を卒業して、たぶん偵察班はひとかたまりでどこかの練習航空隊に行ったと思うんです(鈴鹿かな?)。
操縦班はいったん全員が霞ヶ浦に入隊して、4カ月後に水上機班は鹿島に移ったようです。

つまり、乙7期の飛練では卒業時、おそらく偵察専修と、陸上機操縦、水上機操縦の3つに分かれていた、と。
そのそれぞれで成績をつけているんだと思います。
山口さんの履歴だけ見て言っているんで、もしかしたら間違っているかもしれませんが。

「71人」が陸上機操縦班の人数であることは間違いないと思います。




山口さんの遺品の中にあった、おそらく飛練時の集合写真@霞ヶ浦航空隊

どれどれ?

と人数を数えてみました。

練習生も教員・教官もみんな飛行服なので、その区別が難しいですが、「練習生は胸に名札をつけている」「練習生はマフラーをしていない」「教員はマフラーをしている」「マフラーをしていなくても襟元から軍服の”詰襟”が見えている人は教員」
こんな感じでわけて、練習生の数を数えました。
”詰襟”を教員・教官の判断基準にしたのは、この時点で7期生たちはまだ一等航空兵であり、詰襟の軍服は着ていないからです。
この写真に写っている練習生はたぶん70名。水上機専修生は入っていないでしょう。
(最前列の左側が傷んでいます。そこにまったく姿が見えない練習生が2名います。同じ写真(別人所有)で確認しました)


しかしですよ!

この中に、わたしがお顔を把握していると思っている清水政三さん(艦攻)、杉山輝雄さん(戦闘機)、大住文雄さん(戦闘機)が見当たらない!( ゚Д゚)
清水政三さん

飛練16期艦攻集合写真@宇佐に写っている「清水政三」教員。

予科練時代の清水さんを見て、

えええっ!?( ゚Д゚)

と思いましたけどね。

「清水教員」はそこから5年ほど経っているんですか。
ベテランになっただけで、よく見たら同じ人かと(^^;)


杉山輝雄さん

『日本海軍戦闘機隊2』【エース列伝】にも顔写真が載っています。
これまたベテランになりすぎていて「えええっ!?( ゚Д゚)」ってなります。

しかし、卒アルに氏名入りの個人写真があり、おそらく「7期の杉山輝雄さん」はお一人だろうということで、この人が杉山さんに間違いないと思います。

予科練時代はそんなに雰囲気はかわっていなくて、わりとすぐに見つけられます


大住文雄さん

『日本陸海軍航空英雄列伝』に飛練中の機上の大住さんの写真が掲載されています。
なので、けっこう以前からお顔を知っていた人です。

大住さんは写真によって雰囲気が違うということはそんなにないです(←わたしが見た中では)。




水上機の人がわからないので、ちゃんと照合できていない可能性が高いですが、確実に陸上機操縦でお顔を知っているつもりの3人がいないというのは非常に気になります。
写っている70名に上の3名を足したら73名になるんで!( ;∀;)

「教員を練習生の方に含めちゃってるんじゃねーの?(´・ω・`)」

うーん、その可能性も捨てきれません。

しかし、70名はいちおう、7期生の卒アルの顔写真と照合したつもりなんですけどね(^^;)
水上機の人を間違えて当てはめちゃっているんだろうか?


ちなみに、卒アルに掲載されている操偵別・鎮守府別の個人写真を数えたところ、操縦専修生(陸上機+水上機)は95名いました。

山口さんの予科練卒業時の成績の元になっている「95人中」というのは、この数字に間違いないと。

飛練の集合写真は何だろうな、あれ。卒業時ではないのかな?
7期飛練陸上機操縦が仮に71名以上いたとしても別にいいんですけどね。
「教員や水上機の人を間違って入れてしまっている」という可能性以外にもうひとつ、「人数が合わない原因」が考えられます。
14年3月31日に卒業したのが「71人」ってだけで、訓練中は73名とか74名とかいてもおかしくはないです。途中で無念にも辞めてしまった人がいるかもしれないし、何らかの事情で卒業できずに次期にまわったい人がいるかもしれない。

誰が途中で辞めたとか、誰が次期まわしになったとかという話は、わたしがパソコンの前でいくら考えてもわからないので。

水上機に行った人が何人だったかわかれば、話が早いんですが(^^;)

『予科練の空』の巻末の名簿やその他から、水上機操縦の人は何人か把握していますが、全員で何人いたかというところはわかりません。

時間があれば行動調書から7期の水上機の人を探すのですが、いまはちょっと無理なので、時間ができたときにチャレンジしてみます。



※画像は7期生ご遺族、武田信行氏ご提供

乙9期の場合の「卒業」2018年05月03日 13時18分43秒

さっきアップした「乙7期 飛練」の続きみたいなものです。
(もともと一つの記事として書いていたものを分割しました)



参考までに9期の成績。

かれらも予科練卒業時には操偵別に成績がついています。
操縦の人の予科練卒業時の成績は見たことがないですが、偵察の人の場合は「107人中〇番」という成績がついています。

飛練卒業時は、例えば操縦の人なら戦闘機(大分)「〇/23」、偵察の人なら艦上機・水上機(博多)「42人中〇番」、中攻(大分)「45人中〇番」と書かれています。

ここに人員変遷表を出しているので数えたい、あるいは「23」「42」「45」の顔ぶれが知りたい方はどうぞ。

9期の場合、中練修了時点での成績は誰の履歴にも書かれていなかったです。
中練修了はあくまで飛練途中の通過点であるってことでしょうね。
みな、実用機が終わった時点(特技章付与時点)での成績が書かれていました。

ということはですよ。

各期、予科練修了時が「予科練卒業」であることは問題ないとして、飛練の場合、旧制度の乙8期までは厳密には「卒業」は中練修了(特技章付与)時点で、新制度の乙9期(飛練10期)や乙10期(飛練16期)などは実用機修了(特技章付与)時点ということなのか。
この前、メールでKさんが、旧制度の場合、延長教育(実用機)時代は「練習生」とは呼ばない、延長教育が終わったことも「卒業」とは呼ばない、と言われていたのはこういうことなのか、とやっと理解したのでした。

遅くてスイマセン!( ;∀;)


この前の表に書き足しました(赤)↓

※ブログ10年以上やって初めて大きいまま表を貼りつける方法がわかりました!(・∀・)


9期の「水上機偵察員Aさん」「戦闘機操縦員Bさん」「中攻偵察員Cさん」の予科練卒業から実施部隊に出るまでの履歴を表にしてみました。
実際、ご遺族の方が履歴請求してくださった方々です。

偵察専修生の場合、練習機・鈴鹿から実用機・博多、あるいは大分への異動はただの転勤扱いです。
操縦専修生の練習機・谷田部から実用機・大分への異動も転勤扱いです。
履歴に「卒業」と書かれているのは予科練卒業時と、飛練(実用機)卒業時だけです。

中攻専修生に関しては別に説明します。
中攻偵察専修生たちは飛練(実用機)卒業後に大型機教育を受けてから実施部隊に出ています。上のCさんの履歴には書かれていませんでしたが、特技章(飛行術章)は飛練卒業時(16.10.31)にもらっています。
中攻操縦専修生たちは、飛練中に大型機教育を受けています。中攻操縦に進んだ人の履歴は見たことがないのでどう書かれているかはわかりません。
わたしの想像ですが、たとえば大村で攻撃機の実用機を受けた練習生は所属は大村空のまま16年8月29日~飛練卒業の10月30日まで(←この期間が大型機教育)「木更津航空隊派遣」とか何とか書かれてあるんじゃないかなあ、と思っています。
何回も言いますが、見たことがないので想像ですよ。