自主練にいけない!?(*_*) ― 2011年02月11日 09時40分22秒
朝、起きたら、外がこんな状態に。
うちの地域、宮崎に比べると寒いですが、それでも雪は滅多に降りません。
降ったとしても、チラっと降るぐらいで、積もるまで降りません。
今朝は、寝ている間にこんなんになっていました。
なぜ、いま!?
うちは冬期は24時間全室24~5℃に保たれています。ボイラーで沸かしたお湯を循環させているパネルヒーターがあるからです。
何でも、数日前(昨日か一昨日?)、そのボイラーの1基が突然故障したらしく、パネルヒーターやら、蛇口から出るお湯の温度が通常より低いようで・・・・。
寒くはないですが、言われてみるとたしかにふだんよりは温度が低い感じ。
今日は祝日で修理は無理らしく。
↑こっちはそんなに困っていません。
↓こっちは困ります。
ノーマルタイヤだから、外出できん!!(゜_゜;)
プールにも行けん!!
林喜重大尉の慰霊碑の碑文 ― 2011年02月11日 10時36分05秒
昨夏に初めて訪れることができた戦闘407の飛行隊長、林喜重大尉の慰霊碑。
鹿児島県阿久根市折口という集落の、浜に近い場所に建立されています。
鹿児島県阿久根市折口という集落の、浜に近い場所に建立されています。
この慰霊碑の建っている場所は、戦死した林大尉が荼毘に付された場所だそうです。
石碑の側面には「火葬之跡」と・・・・。
もともと石碑があったわけではないようです。
最初は『故林隊長弔火葬之跡』と書かれた木の墓標が立っていたようです(『源田の剣』に写真あり)。
その後、いまの『故林少佐戦死之地』と書かれた石碑になりました。
『最後の撃墜王』(碇義朗)
『後日談になるが、その場所に地元の人たちの手で石碑が建立された。残念なことに、このことは生き残った部下たちに知られないまま、石碑はその後、生い茂るやぶに覆われ、訪れる人もなかった。
それから約三十年後、折口浜の石碑の存在を知った戦闘四◯七飛行隊分隊長高牟礼春男大尉(飛行予備学生十三期・・・・略)ら元部下たちの手で慰霊祭が行われた。その後、高牟礼らの発案で碑の周辺を整備するとともに、戦闘四◯七飛行隊全員の慰霊碑もあらたにつくられた』
いつ、木の墓標から石碑に建て替えられたのでしょうか・・・・。
石碑の裏側に建立日時が彫られていたかも知れないのですが、残念ながら、お参りしたときにそこまで確かめてきませんでした・・・・。
林さんの慰霊碑の奥に立っている戦闘407飛行隊全員の慰霊碑と並んで、林さんと、同じ日に戦死した戦闘301の清水俊信1飛曹のことが書かれた石碑も建てられており、その末尾に、
「昭和五十七年四月廿一日
林喜重少佐並びに清水俊信上飛曹三十七回忌命日建之
元第三四三海軍航空隊戦斗第四◯七飛行隊生存隊員一同」
と書かれてあるので、碇さんが書かれている『その後、高牟礼らの発案で碑の周辺を整備するとともに、戦闘四◯七飛行隊全員の慰霊碑もあらたにつくられた』というのが、昭和57年4月のことなのでしょうね。
343空の隊誌に、林さんの慰霊碑(石碑)と一緒に、林大尉のご令弟らしき方が写っている写真が掲載されています。写真の雰囲気から何十年か前の撮影ではないかと思われます。
この石碑、現在の石碑と一部違う部分があります。
石碑の台座です。
石碑の側面には「火葬之跡」と・・・・。
もともと石碑があったわけではないようです。
最初は『故林隊長弔火葬之跡』と書かれた木の墓標が立っていたようです(『源田の剣』に写真あり)。
その後、いまの『故林少佐戦死之地』と書かれた石碑になりました。
『最後の撃墜王』(碇義朗)
『後日談になるが、その場所に地元の人たちの手で石碑が建立された。残念なことに、このことは生き残った部下たちに知られないまま、石碑はその後、生い茂るやぶに覆われ、訪れる人もなかった。
それから約三十年後、折口浜の石碑の存在を知った戦闘四◯七飛行隊分隊長高牟礼春男大尉(飛行予備学生十三期・・・・略)ら元部下たちの手で慰霊祭が行われた。その後、高牟礼らの発案で碑の周辺を整備するとともに、戦闘四◯七飛行隊全員の慰霊碑もあらたにつくられた』
いつ、木の墓標から石碑に建て替えられたのでしょうか・・・・。
石碑の裏側に建立日時が彫られていたかも知れないのですが、残念ながら、お参りしたときにそこまで確かめてきませんでした・・・・。
林さんの慰霊碑の奥に立っている戦闘407飛行隊全員の慰霊碑と並んで、林さんと、同じ日に戦死した戦闘301の清水俊信1飛曹のことが書かれた石碑も建てられており、その末尾に、
「昭和五十七年四月廿一日
林喜重少佐並びに清水俊信上飛曹三十七回忌命日建之
元第三四三海軍航空隊戦斗第四◯七飛行隊生存隊員一同」
と書かれてあるので、碇さんが書かれている『その後、高牟礼らの発案で碑の周辺を整備するとともに、戦闘四◯七飛行隊全員の慰霊碑もあらたにつくられた』というのが、昭和57年4月のことなのでしょうね。
343空の隊誌に、林さんの慰霊碑(石碑)と一緒に、林大尉のご令弟らしき方が写っている写真が掲載されています。写真の雰囲気から何十年か前の撮影ではないかと思われます。
この石碑、現在の石碑と一部違う部分があります。
石碑の台座です。
松の梢よ 磯吹く風よ
お前は覚えているか
あの雲の彼方に
散っていった戦友のことを
心あるなら伝えておくれ
私の故郷鎌倉の海のような
美しいこの折口の浜で
心ゆくまで語ろうではないか と
お前は覚えているか
あの雲の彼方に
散っていった戦友のことを
心あるなら伝えておくれ
私の故郷鎌倉の海のような
美しいこの折口の浜で
心ゆくまで語ろうではないか と
現在はこのように書かれた、比較的新しそうなプレート?がはめ込んであります。
しかし、弟さんが一緒に写っている石碑には、このプレートはありません。
そこには別の言葉が彫り込まれているようです。
わたしが持っている隊誌の写真は不鮮明ではっきり読み取れません。
わかる文字から想像するに、林さんの出身地と、戦死日、戦死した地点が刻まれているのではないかと。
隊誌は昭和56年に発行されたということなので、弟さんが一緒に写っている石碑の写真はそれ以前の写真、ということになります。
・戦死後わりとすぐに?、この場所に木の墓標が建てられた
・その後、木の墓標から石碑に建て替えられた
・昭和57年、戦闘407戦死者(と清水俊信兵曹)の慰霊碑を建てる
・林大尉の慰霊碑の台座に詩?を刻んだプレートをはめ込む
(戦闘407戦死者の慰霊碑を建てたのと、台座のプレートの前後関係はわかりません)
プレートの文章はいつ、どなたが贈られたものなのか、どうして前の文字の上に重ねたのか。
いきさつをご存じの方がおられたら、教えてください。
マクドナルド マイアミバーガー ― 2011年02月11日 21時31分57秒
今日は雪が積もっていたので、ママは外出しませんでした。
パパと春海は夕方から、パパの散髪に出かけていきました。
パパと春海は夕方から、パパの散髪に出かけていきました。
夕飯は、
「マックお願い!」
マイアミバーガー、頼んじゃいました。
「マックお願い!」
マイアミバーガー、頼んじゃいました。
絵的にイマイチなんですよねー(-_-)
中身は、タコスミート(ってサイトに書いてあった)、タコス(トルティアチップスっていうんだって)、レタス、チーズ、でっかいハンバーグ、一番下にチリソース。
最初のひとくちは、正直、
「えっ?(゜_゜;)」
な感じだったのですが。
食べているうちに、タコスが湿気でしんなりしてきて、ママ的にはグー(^-^)g""。
ママは、コーンフレークもカリカリより、牛乳でちょっぴり湿ったぐらい(カリカリ感は残す)が好きなので、タコスもそれぐらいがよかったです。
あ、長崎皿うどんもね!