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西澤飛曹長の話の真偽2008年11月04日 10時36分53秒

19年9月末のある日、茂原の角田少尉の部屋で撃墜王の集い(自慢大会)があった時、西澤さんが「自分は直属の上官も列機もひとりも落とされていない」と自慢した話は何度もここに書いてきましたが、あまりその真相に関しては突っ込まないでおこうと思っていました。

西澤さんがそう思っているのなら、それでいいじゃないか!

ということです、ハイ。

ところが、251空時代の西澤さんの勤務状況を眺めているうちに、あれ? 列機がひとり未帰還になっている、ということに気づいた、という話は以前にも書きました。

こんなの、西澤さんの揚げ足を取るようでちょっといやらしいかなとも思うので、ファンとしてはもうやめようと思っていたのですが、4空時代の働きぶりを眺めているうちにまたまた目についてしまったので、ちょこっとだけ・・・・。

17年3月14日。
河合四郎大尉の指揮でホーン島攻撃に出撃した西澤さん。
小隊長は岩崎信寛中尉(67期・鹿児島ニ中出身)、2番機・西澤廣義1飛曹、3番機・山崎市郎平3飛曹(←「不時着の神様」です)という小隊でした。
この日、岩崎信寛中尉はP‐40約10機と交戦の末自爆戦死。
―ということは・・・・。

岩崎中尉のことを調べようと思ったのですが、ママの手元にはかれのことがわかるような資料は何もありませんでした。
写真だけ、ネットで発見しました。
零戦の会のサイトに「写真資料集」というコーナーがあるのですが、そこにあの、あの笹井醇一中尉が撮ったという67期(35期飛行学生)の戦闘機同期生の集合写真があります。
そこに岩崎中尉が写っていました。
「ああ・・・・この人が岩崎中尉」
薩摩隼人なのでもっとごっつい系の人かと思っていたけど、意外とやさしげな感じの人。

そしてもう一枚。
坂井さんの『写真・大空のサムライ』の中に、やはり35期飛行学生戦闘機専修の集合写真があります。こちらには笹井中尉も写っています。台南空の結城中尉の顔も見えます。こちらの写真には人物名が書いていないので、他の人は氏名不詳。
零戦の会の写真のほうは人物名がついているので、そちらの岩崎中尉と見比べてみるのですが、残念ながらどれが岩崎中尉かママにはわかりません・・・・。
(教官と笹井中尉と結城中尉以外はみんな同じ顔に見える(+_+)ママ、目がおかしくなったのかなあ?)

というわけで、西澤さんが搭乗員生活で唯一守り切れなかったのではないかと思われる小隊長・岩崎信寛中尉に関して、でした。
(まったく何もわからないまま書いてしまってすいません・・・・)

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