この人はだれ? ― 2008年10月30日 09時58分43秒
先日、ここで取り上げた台南空下士官搭乗員の集合写真。
あのときは「搭乗員の氏名は全員あっているものと仮定して」話を進めてしまいましたが、さっそく齟齬が生じてまいりました。
『日本海軍航空隊のエース』で、「熊谷賢一3飛曹」とされている最前列真ん中の人ですが、同じ本で、同じ人の拡大写真が「岡野博3飛曹」として紹介されていました。あれ?
上の画像、右側の人です。
どっちが本当だー?
本を作った時にこの矛盾に気づかなかったのかな?
たしかに岡野3飛曹も17年6月、7月、台南空に在籍しているので写っていたとしてもおかしくはありません。
ママがあやしいとにらんだ「6月9日・ラエ」も、その日その場にいたようなので写っていてもおかしくありません。
あの集合写真のあの人はいったい誰?
熊谷3飛曹の顔がわかる写真ってみたことがないので、熊谷3飛曹側からの確認はママには無理です。
じゃあ、岡野3飛曹。
『日本海軍戦闘機隊』エース列伝。真正面から、結構顔の造作がよくわかる感じで写っています(上の画像左の人。絵はちょっと怖いけど、写真はもっとかわいげです、ごめんなさい)。
集合写真の人と同じ人かなあ・・・・? 輪郭がふっくらしているところはよく似ているような・・・・。
あと、飛行帽のかぶり方や、マフラーの巻き方がよく似ています。
「そんなん、偶然とか、その日の気分とかあるやろう!」
と思われるかもしれませんが、ママが見た感じ、結構、搭乗員によって好みがあって、飛行帽の耳当てを左だけ跳ね上げる人、ダラッと垂らしたままにしている人、また、マフラーも、顎までブカブカに巻かないと気が済まない人(西澤さん)、岡野さんみたいに巻いてない人・・・・個性が出るように思います。
もちろん、その日の気分によって違う装着方法をしている時もあると思いますが。それぞれに「好み」はあるんだと思います。
集合写真の「熊谷賢一3飛曹」、「岡野」説の方があっているような気がします。
もし、これが岡野さんだったら、その他の人もやっぱりちょっとあやしいかも?
岡野さんは終戦直前は343空戦闘701の所属だったらしいので、そこで直接岡野さんをご存じの方がいれば確認してもらえるかな?
岡野さんだとすれば『台南空下士官搭乗員(2)』のほうに書いた、戦後まで生き残ったのは坂井さんと石川さんだけらしい、というのは訂正しないといけないということですね。岡野さんも加えて3人です。
あのときは「搭乗員の氏名は全員あっているものと仮定して」話を進めてしまいましたが、さっそく齟齬が生じてまいりました。
『日本海軍航空隊のエース』で、「熊谷賢一3飛曹」とされている最前列真ん中の人ですが、同じ本で、同じ人の拡大写真が「岡野博3飛曹」として紹介されていました。あれ?
上の画像、右側の人です。
どっちが本当だー?
本を作った時にこの矛盾に気づかなかったのかな?
たしかに岡野3飛曹も17年6月、7月、台南空に在籍しているので写っていたとしてもおかしくはありません。
ママがあやしいとにらんだ「6月9日・ラエ」も、その日その場にいたようなので写っていてもおかしくありません。
あの集合写真のあの人はいったい誰?
熊谷3飛曹の顔がわかる写真ってみたことがないので、熊谷3飛曹側からの確認はママには無理です。
じゃあ、岡野3飛曹。
『日本海軍戦闘機隊』エース列伝。真正面から、結構顔の造作がよくわかる感じで写っています(上の画像左の人。絵はちょっと怖いけど、写真はもっとかわいげです、ごめんなさい)。
集合写真の人と同じ人かなあ・・・・? 輪郭がふっくらしているところはよく似ているような・・・・。
あと、飛行帽のかぶり方や、マフラーの巻き方がよく似ています。
「そんなん、偶然とか、その日の気分とかあるやろう!」
と思われるかもしれませんが、ママが見た感じ、結構、搭乗員によって好みがあって、飛行帽の耳当てを左だけ跳ね上げる人、ダラッと垂らしたままにしている人、また、マフラーも、顎までブカブカに巻かないと気が済まない人(西澤さん)、岡野さんみたいに巻いてない人・・・・個性が出るように思います。
もちろん、その日の気分によって違う装着方法をしている時もあると思いますが。それぞれに「好み」はあるんだと思います。
集合写真の「熊谷賢一3飛曹」、「岡野」説の方があっているような気がします。
もし、これが岡野さんだったら、その他の人もやっぱりちょっとあやしいかも?
岡野さんは終戦直前は343空戦闘701の所属だったらしいので、そこで直接岡野さんをご存じの方がいれば確認してもらえるかな?
岡野さんだとすれば『台南空下士官搭乗員(2)』のほうに書いた、戦後まで生き残ったのは坂井さんと石川さんだけらしい、というのは訂正しないといけないということですね。岡野さんも加えて3人です。
松本勝正上飛曹 ― 2008年10月26日 15時04分06秒
本間猛『予科練の空』光人社NF文庫 によると、松本上飛曹のことは、こう紹介してあります。
『愛媛県立西条中学から予科練に進んだのだが、彼の長身と端正なマスク、鋭い眼光は、当時からクラスのものが注目するところであった。戦闘機に進むや、彼の天性の操縦技術と、その不屈の闘魂は、太平洋戦争という檜舞台を得て遺憾なく発揮されたのであった。緒戦の勝ち戦はもとより、あの悪戦苦闘の連続となったソロモン戦線をはじめ、その後の幾多の空戦にも、敵機を叩き落として生き残った。レイテ海戦当時には、762空戦闘機隊の先任搭乗員であった』
本間氏は乙飛9期出身の水上機乗り(のち彩雲)。松本兵曹と予科練同期生です。
203空戦闘303の安部正治兵曹の回想「忘れざる熱血零戦隊」(本田稔ほか『私はラバウルの撃墜王だった』光人社NF文庫)。
『「おい、五十嵐、きょうは勝ったか?」
松本勝正(乙9期)先任は私と五十嵐保1飛曹を前にしてそういった。
「いやぁ、負けました」
五十嵐1飛曹(乙16)は、飛行帽の頭を一つかくと、半分笑って先任と私の顔を見くらべていた。
「おまえ、二番機が四番機に負けてどうするんか!」
しかりつける先任の口もとも半ば笑っている。』
安部さんは戦闘303北千島時代、松本先任の4番機でした。
戦闘303は夏になって北千島から北海道の美幌に戻り、安部兵曹はそこで盲腸の手術を受けたのだとか。入院中のある日、松本先任が見舞いに来てくれます。
『「オイ、安部、いまやったらお前に負けんぞ・・・・」
先任はニヤニヤとベッドの私の顔を見おろして冗談をいった。私は腹が痛くてとても笑うどころではなかったが、それでも顔をしかめながらも笑っていた。
それには、こういうわけがあったのだ。さきに松本先任は後輩の私を相手にした戦技訓練で、私が勝ったのでいい気になっていた私だったが、あとで松本先任が後輩の私に手ごころをくわえた空戦訓練をやって、「自信を持つように」指導してくれたことを知ったからであった。
「士はおのれを知る者のために死す」とか。それいらい私は、「よし、オレは先任のためにだったら、どんなに苦しい戦いでも突っ込んでいくぞ」―と、みずからの胸にそう言い聞かせていたのである』
ところが、そんな2人に永遠の別れの時がやってきます。
鹿児島から比島への進出時、松本先任の飛行機の脚が入らず、かれは編隊から離れ1人基地へ引き返したのです。安部さんにとって、それが松本先任を見た最後になりました。
その後、松本先任はどうも本隊より先に比島マバラカット基地に先着したようで、『神風特攻の記録』によると10月24日の敷島隊の直掩隊長として出撃しています。
いま、書いていて気付いたのですが、かれはもしかして敷島隊の関行男大尉(海兵70期)と顔見知りだったかもしれないですね。関大尉も愛媛県西条中学出身。
松本先任の生年がわからないので、同級生か先輩後輩かわかりませんが、とにかく同窓生・同郷であることには間違いありません。特攻隊隊長と直掩隊隊長として、お二人は何か言葉を交わすことなどあったのでしょうか・・・・。
安部さんはマバラカット到着後、一度も松本先任に会えないまま他の任務につきます。26日、菊池中尉、初島上飛曹、一戸1飛曹とクラーク、ルバング島と飛行し、27日、マバラカットに戻ってきて、「最悪の知らせ」に接しました。
松本先任だけではなく、西澤飛曹長、本多兵曹、馬場飛長の乗った輸送機が前日26日、ミンドロ島上空でグラマン2機に落とされてしまった―と。
『その直後、ちかくのバンバン川の川岸までひとり歩いた私は、「松本先任!」と川面に向かって呼んでみた。涙につまった、言葉にならない声がのどのおくからついてでた。くやし涙が胸からしぼり上げるように出てくる。さながら、自分の心の中の一部分が失われたようであった』
『愛媛県立西条中学から予科練に進んだのだが、彼の長身と端正なマスク、鋭い眼光は、当時からクラスのものが注目するところであった。戦闘機に進むや、彼の天性の操縦技術と、その不屈の闘魂は、太平洋戦争という檜舞台を得て遺憾なく発揮されたのであった。緒戦の勝ち戦はもとより、あの悪戦苦闘の連続となったソロモン戦線をはじめ、その後の幾多の空戦にも、敵機を叩き落として生き残った。レイテ海戦当時には、762空戦闘機隊の先任搭乗員であった』
本間氏は乙飛9期出身の水上機乗り(のち彩雲)。松本兵曹と予科練同期生です。
203空戦闘303の安部正治兵曹の回想「忘れざる熱血零戦隊」(本田稔ほか『私はラバウルの撃墜王だった』光人社NF文庫)。
『「おい、五十嵐、きょうは勝ったか?」
松本勝正(乙9期)先任は私と五十嵐保1飛曹を前にしてそういった。
「いやぁ、負けました」
五十嵐1飛曹(乙16)は、飛行帽の頭を一つかくと、半分笑って先任と私の顔を見くらべていた。
「おまえ、二番機が四番機に負けてどうするんか!」
しかりつける先任の口もとも半ば笑っている。』
安部さんは戦闘303北千島時代、松本先任の4番機でした。
戦闘303は夏になって北千島から北海道の美幌に戻り、安部兵曹はそこで盲腸の手術を受けたのだとか。入院中のある日、松本先任が見舞いに来てくれます。
『「オイ、安部、いまやったらお前に負けんぞ・・・・」
先任はニヤニヤとベッドの私の顔を見おろして冗談をいった。私は腹が痛くてとても笑うどころではなかったが、それでも顔をしかめながらも笑っていた。
それには、こういうわけがあったのだ。さきに松本先任は後輩の私を相手にした戦技訓練で、私が勝ったのでいい気になっていた私だったが、あとで松本先任が後輩の私に手ごころをくわえた空戦訓練をやって、「自信を持つように」指導してくれたことを知ったからであった。
「士はおのれを知る者のために死す」とか。それいらい私は、「よし、オレは先任のためにだったら、どんなに苦しい戦いでも突っ込んでいくぞ」―と、みずからの胸にそう言い聞かせていたのである』
ところが、そんな2人に永遠の別れの時がやってきます。
鹿児島から比島への進出時、松本先任の飛行機の脚が入らず、かれは編隊から離れ1人基地へ引き返したのです。安部さんにとって、それが松本先任を見た最後になりました。
その後、松本先任はどうも本隊より先に比島マバラカット基地に先着したようで、『神風特攻の記録』によると10月24日の敷島隊の直掩隊長として出撃しています。
いま、書いていて気付いたのですが、かれはもしかして敷島隊の関行男大尉(海兵70期)と顔見知りだったかもしれないですね。関大尉も愛媛県西条中学出身。
松本先任の生年がわからないので、同級生か先輩後輩かわかりませんが、とにかく同窓生・同郷であることには間違いありません。特攻隊隊長と直掩隊隊長として、お二人は何か言葉を交わすことなどあったのでしょうか・・・・。
安部さんはマバラカット到着後、一度も松本先任に会えないまま他の任務につきます。26日、菊池中尉、初島上飛曹、一戸1飛曹とクラーク、ルバング島と飛行し、27日、マバラカットに戻ってきて、「最悪の知らせ」に接しました。
松本先任だけではなく、西澤飛曹長、本多兵曹、馬場飛長の乗った輸送機が前日26日、ミンドロ島上空でグラマン2機に落とされてしまった―と。
『その直後、ちかくのバンバン川の川岸までひとり歩いた私は、「松本先任!」と川面に向かって呼んでみた。涙につまった、言葉にならない声がのどのおくからついてでた。くやし涙が胸からしぼり上げるように出てくる。さながら、自分の心の中の一部分が失われたようであった』
台南空下士官搭乗員(1) ― 2008年10月25日 22時06分08秒
(画像で「小林克己」と表示してある搭乗員は「小林克巳」の間違いです。わたしの入力ミス)
搭乗員の写真を眺めていると、どうしても妄想に浸ってしまうママ・・・・。
この画像は有名な台南空下士官搭乗員の集合写真をもとにしたものです。
『日本海軍航空隊のエース』大日本絵画 によると、「1942年、ラバウルにおける台南空第2飛行中隊」とのこと。
「第2飛行中隊って何やねん?」てのはいずれ機会を改めて言及することにして、写っているメンバー。『日本海軍航空隊のエース』によると、
前列左から 大西要四三3飛曹(乙9)、石川清治2飛曹(操48)、熊谷賢一3飛曹(乙9)、山本健一郎1飛(操54)、中野鈔3飛曹(乙9)
2列目左から 太田敏夫2飛曹(操46)、坂井三郎1飛曹(操38)、米川正吉2飛曹(操56)、宮運一2飛曹(甲4)
後列左から 西澤廣義1飛曹(乙7)、福森大三3飛曹(乙10)、木村裕3飛曹(乙9)、遠藤桝秋3飛曹(乙9)、小林克巳1飛曹(甲3)、国分武一3飛曹(操49)
ということです。参考までにママが( )内に出身期を入れました。甲飛・乙飛出身で階級が「あれ?」な人がいたのでママが勝手に直してここに載せました。
(操練出身の人は必ずしも数字が少ない人が階級が上、とか、同じ出身期なら同じ階級、ということはありません)
ところで紹介してある搭乗員の氏名はあっているのでしょうか?
一見して誰だかわかるのは後列の西澤兵曹、遠藤兵曹、中列の太田兵曹、坂井兵曹、前列の石川兵曹。この人たちは他の写真でも顔を見ているので、本人に間違いないと思われます。
残りの人は顔を知らないので、ちょっとわからないのですが、福森兵曹が「?」です。
台南空時代、582空時代と福森兵曹の写真は何枚か見ていますが、こんな顔と違うような・・・・。もっと肉付きがよく、3飛曹とは思えないようなふてぶてしい感じです。これ↑、福森兵曹かなあ・・・・? 台南空に来たばっかりでまだ初々しさを残した福森兵曹なのでしょうか?
あと、前列の山本1飛。この人もほかの写真で結構顔がよくわかる写真を見たことがあるのですが、かわいらしい感じの、しもぶくれの童顔なんだけどなあ・・・・。
この2人、ちょっと疑問です。疑問ですが、確認のしようがないので、「あっている」という前提で以下話を進めていきます。
時期と撮影場所について考えてみたいのですが、『日本海軍航空隊のエース』には「1942年、ラバウル」としか書いてありません。
坂井三郎さんの『写真・大空のサムライ』にも同じ写真が出ています。そこには「17年6月、ラエ基地」と解説がついています。
撮影時期。
乙10期の福森兵曹が写っているということは、乙10期がラバウルへやってきて以降ということになります。残念ながらママは乙10期がいつ実施部隊に出たのか知りません。
『日本海軍戦闘機隊』のエース列伝のホリブン(乙10期)の項に「(1942年)5月台南空に発令され、ラバウルに着任した」という記述があります。でもこれは羽藤兵曹のところでも引用したあれですので、本当かどうか・・・・。
ちなみに福森兵曹の名前が台南空の編成表に最初に出てくるのは6月29日、ホリブンは7月2日です。いくらベテラン勢てんこもりの台南空でもひと月以上も新人を遊ばせておくってのは「?」なので、発令は5月でも、ラバウルに到着したのはもっとあとなのかもしれません。
このメンバーの中で小林兵曹と大西兵曹が7月20日に戦死しているようです。
(『日本海軍戦闘機隊』にはそう書いているのですが、台南空の行動調書上ではママは未確認)
ということで、6月初めから7月20日までのこのメンバーの所在地を調査(?)してみました。
(2)につづく。
搭乗員の写真を眺めていると、どうしても妄想に浸ってしまうママ・・・・。
この画像は有名な台南空下士官搭乗員の集合写真をもとにしたものです。
『日本海軍航空隊のエース』大日本絵画 によると、「1942年、ラバウルにおける台南空第2飛行中隊」とのこと。
「第2飛行中隊って何やねん?」てのはいずれ機会を改めて言及することにして、写っているメンバー。『日本海軍航空隊のエース』によると、
前列左から 大西要四三3飛曹(乙9)、石川清治2飛曹(操48)、熊谷賢一3飛曹(乙9)、山本健一郎1飛(操54)、中野鈔3飛曹(乙9)
2列目左から 太田敏夫2飛曹(操46)、坂井三郎1飛曹(操38)、米川正吉2飛曹(操56)、宮運一2飛曹(甲4)
後列左から 西澤廣義1飛曹(乙7)、福森大三3飛曹(乙10)、木村裕3飛曹(乙9)、遠藤桝秋3飛曹(乙9)、小林克巳1飛曹(甲3)、国分武一3飛曹(操49)
ということです。参考までにママが( )内に出身期を入れました。甲飛・乙飛出身で階級が「あれ?」な人がいたのでママが勝手に直してここに載せました。
(操練出身の人は必ずしも数字が少ない人が階級が上、とか、同じ出身期なら同じ階級、ということはありません)
ところで紹介してある搭乗員の氏名はあっているのでしょうか?
一見して誰だかわかるのは後列の西澤兵曹、遠藤兵曹、中列の太田兵曹、坂井兵曹、前列の石川兵曹。この人たちは他の写真でも顔を見ているので、本人に間違いないと思われます。
残りの人は顔を知らないので、ちょっとわからないのですが、福森兵曹が「?」です。
台南空時代、582空時代と福森兵曹の写真は何枚か見ていますが、こんな顔と違うような・・・・。もっと肉付きがよく、3飛曹とは思えないようなふてぶてしい感じです。これ↑、福森兵曹かなあ・・・・? 台南空に来たばっかりでまだ初々しさを残した福森兵曹なのでしょうか?
あと、前列の山本1飛。この人もほかの写真で結構顔がよくわかる写真を見たことがあるのですが、かわいらしい感じの、しもぶくれの童顔なんだけどなあ・・・・。
この2人、ちょっと疑問です。疑問ですが、確認のしようがないので、「あっている」という前提で以下話を進めていきます。
時期と撮影場所について考えてみたいのですが、『日本海軍航空隊のエース』には「1942年、ラバウル」としか書いてありません。
坂井三郎さんの『写真・大空のサムライ』にも同じ写真が出ています。そこには「17年6月、ラエ基地」と解説がついています。
撮影時期。
乙10期の福森兵曹が写っているということは、乙10期がラバウルへやってきて以降ということになります。残念ながらママは乙10期がいつ実施部隊に出たのか知りません。
『日本海軍戦闘機隊』のエース列伝のホリブン(乙10期)の項に「(1942年)5月台南空に発令され、ラバウルに着任した」という記述があります。でもこれは羽藤兵曹のところでも引用したあれですので、本当かどうか・・・・。
ちなみに福森兵曹の名前が台南空の編成表に最初に出てくるのは6月29日、ホリブンは7月2日です。いくらベテラン勢てんこもりの台南空でもひと月以上も新人を遊ばせておくってのは「?」なので、発令は5月でも、ラバウルに到着したのはもっとあとなのかもしれません。
このメンバーの中で小林兵曹と大西兵曹が7月20日に戦死しているようです。
(『日本海軍戦闘機隊』にはそう書いているのですが、台南空の行動調書上ではママは未確認)
ということで、6月初めから7月20日までのこのメンバーの所在地を調査(?)してみました。
(2)につづく。
『空母瑞鶴』文庫版 ― 2008年10月23日 16時23分48秒
ここ数日、毎日K林堂に通って、これが出るのを待っていました。
今日行ったら、まだ並んでおらず「準備中」状態の神野正美さんの『空母瑞鶴』発見。
おねえさんに、
「これ、持って行っていいですか?」
とお断りして、本棚に並ぶ前に買ってきました。
単行本を読んだのですが、図書館で借りて読んだので、ぜひ、手元に置いておきたいと思っていた1冊でした。
もうすぐ瑞鶴がエンガノ沖で沈んで64回目の10月25日です。
10月25日は今年も橿原神宮で瑞鶴の慰霊祭をされるのでしょうか・・・・。
25日は瑞鶴だけでなくこの戦闘に参加したすべての乗員・搭乗員の健闘をたたえ、かれらのことをしのびたいと思います。
この本はわたしの超お勧め本です。
艦船苦手のわたしでも読めたぐらいなので、みなさんもぜひご一読ください。説明部分もわかりやすく書いてあるし、元乗員の方や関係者の方の回想などが多いのでとても生々しく、迫力があります。一気に読めます。一気に読みたくなる本です。
回天特攻隊・天武隊の隊長柿崎実中尉も少尉時代、この瑞鶴に乗り組んでいました。柿崎少尉の瑞鶴時代の写真も出ています。
今日行ったら、まだ並んでおらず「準備中」状態の神野正美さんの『空母瑞鶴』発見。
おねえさんに、
「これ、持って行っていいですか?」
とお断りして、本棚に並ぶ前に買ってきました。
単行本を読んだのですが、図書館で借りて読んだので、ぜひ、手元に置いておきたいと思っていた1冊でした。
もうすぐ瑞鶴がエンガノ沖で沈んで64回目の10月25日です。
10月25日は今年も橿原神宮で瑞鶴の慰霊祭をされるのでしょうか・・・・。
25日は瑞鶴だけでなくこの戦闘に参加したすべての乗員・搭乗員の健闘をたたえ、かれらのことをしのびたいと思います。
この本はわたしの超お勧め本です。
艦船苦手のわたしでも読めたぐらいなので、みなさんもぜひご一読ください。説明部分もわかりやすく書いてあるし、元乗員の方や関係者の方の回想などが多いのでとても生々しく、迫力があります。一気に読めます。一気に読みたくなる本です。
回天特攻隊・天武隊の隊長柿崎実中尉も少尉時代、この瑞鶴に乗り組んでいました。柿崎少尉の瑞鶴時代の写真も出ています。
羽藤一志3飛曹 ― 2008年10月21日 11時51分09秒
『日本海軍戦闘機隊』エース列伝より引用。
羽藤一志 2飛曹 NAP 2/C Kazushi Uto
台南空で「ポッポ」と愛称されていた白面の温厚な若年パイロットであったが、坂井三郎の列機をつとめ、地味にスコアを重ねていった。
大正11年愛媛県に生まれ、昭和16年10月乙9期飛練を卒業して、翌年2月台南空に配属され、4月ラバウル、ついでラエに進出して10日のモレスビー攻撃で初戦果をあげていらい、ニューギニア、ソロモンに転戦、9月13日のガダルカナル島攻撃で行方不明になるまでの半年足らずに、19機(公認)を撃墜した。
ネットで調べても、まあ、だいたい上と同じ内容の「羽藤一志」が出てくるわけです。ウィキペディアにもこう書いてあったなあ。ここが元ネタかな?とママは思っているのですが。
誰も突っ込んでいる人がいないので、ママが突っ込んでもいいかなあ?
別に「嘘ばっかしやんけ(怒)」と突っ込んでいるわけではなく、例によって例の如く妄想込みでの突っ込みなので、気を悪くなさらないでください。
どっから突っ込もうかなあ~(^o^)
まず名前! 苗字に”Uto”という読みがついているのですが、ママ妄想では”Hato”ということで。
坂井さんも『大空のサムライ』に書いていますが、かれの愛称は「ポッポ」。別に羽藤兵曹がハトに似ているとか、動きがハトっぽいというわけではないと思うんですよね~。ママは名前が「ハトー」だから「ポッポ」って愛称になったんだと思い込んでいます。
(「羽藤」なんて変わった名字だなあ、と思ったのですが、ネットで検索してみると、かれの出身地・愛媛県では割とメジャーな名字のようです。いっぱい引っ掛かりました)
一番突っ込みたいポイントはここ!!
「翌年2月台南空に配属」
これです。いったい、どこからこういう話になったのか、ママにはさっぱりわからないのですが、羽藤兵曹が17年2月に台南空に配属された事実は見当たりません。
羽藤兵曹が17年2月に配属されたのは「千歳空」ではないかと思います。ただ、正式にいつ配属されたのかは不明です。千歳空の編制表で最初に羽藤兵曹の名前が出てくるのが17年2月2日。この前、数日のうちに配属されたのではないでしょうか。
千歳空戦闘機隊とひとくちにいっても本隊(? 飛行隊長・岡本晴年少佐の所在地)はトラック、その他タロアやルオットにも分散していました。
このうちのトラック隊が瑞鶴・翔鶴でラバウルに運んでもらった、というグループなのです(西澤さんもいるよーん)。1月下旬にトラックからラバウルに移動しています。
その移動先のラバウルで、羽藤兵曹はじめ、新井正美、後藤龍助、熊谷賢一、木村裕、鈴木松巳、といった乙9期戦闘機専修の同期生が千歳空に合流したようです。これらの人たちはのち、4空経由で台南空になります。
2月下旬になって千歳空戦闘機ラバウル隊は4空戦闘機隊に編入されたようです。
翌3月も同じです。ところが、羽藤兵曹、どういうわけか4空の編成表に名前が出てません。
4月に台南空に編入された当初は、台南空本隊はまだ到着しておらず、元4空搭乗員だけで戦っているのですが、そこに羽藤兵曹の名前があるので、別によその隊に転勤になったというわけではなさそうです。病気でもして休んでいたのだろうとママ妄想。
というわけでママペディア的にはここは訂正して「17年2月ラバウルの千歳空に着任、その後、4空を経て4月に台南空」ということで。
「(4月)10日のモレスビー攻撃で初戦果をあげ」
自分で調べてみたのですが、4月10日のモレスビー攻撃(河合四郎大尉指揮)には羽藤兵曹の名前、ないんですよねー。10日は羽藤兵曹はラエで上空哨戒任務です。
翌11日のラエ上空哨戒中にP‐40を1機撃墜しているようなので、これの間違いでは?
坂井さんも「編制表と、実際の出撃メンバーは違う」みたいなことを書かれていましたが、確認のしようがないので、とりあず、ママ的には羽藤兵曹の初戦果4月10日説は却下して、翌11日ということで。
「坂井三郎の列機をつとめ」
たしかに坂井さんの列機として出撃していることもあります。しかし、しかしですね、ことさら「坂井の列機」と強調するほど列機だろうか、というのがママの突っ込みです。
基地上空哨戒や急な敵機邀撃をのぞいた、大規模な出撃や船団上空哨戒時、果たして羽藤兵曹はだれと飛んでいるのか、そこらへんママ独自に調査(?)してみました。
4月に台南空になってから、羽藤兵曹が一緒に出撃した小隊メンバーは別に固定というわけではなさそうです。
小隊長だけ挙げると、山口馨中尉、吉野俐飛曹長、宮崎儀太郎飛曹長、半田亘飛曹長、太田敏夫兵曹、西澤廣義兵曹・・・・まあ、いろいろいます。ちょっと吉野飛曹長が多いかなあ・・・・という気はします。千歳空―4空―台南空のよしみでしょうか。でも、羽藤兵曹が出撃を休んでいる間に、吉野飛曹長は戦死してしまいました・・・・。
6月下旬から7月初めにかけては高塚寅一飛曹長の列機として結構一緒に飛んでいます。
7月下旬は林谷忠中尉(海兵67期)に気に入られたのか、ずっと一緒です。
さて羽藤兵曹の「坂井三郎の列機」時代ですが、ママ調査では7月30日から坂井さんが怪我をして戦線離脱する8月7日まで3回、ということで!
それ以前は1回あるだけなので、集中的に列機として飛んでいるこの時期を「坂井三郎の列機」時代と名付けたいと思います。短いですよ(^_^;)
ちなみに坂井さんが戦線離脱してからは8月9から8月26日まで7回、笹井醇一中尉の3番機として出撃。
笹井中尉が戦死した8月26日のガ島陸攻隊掩護時も羽藤兵曹が3番機でした。
そのとき2番機だったのが大木芳男1飛曹ですが、笹井中尉の戦死後、羽藤兵曹が戦死する9月13日までの間は、大木1飛曹が小隊長として羽藤兵曹を列機にして6回出撃しています。
気に入られたら、とことん使ってもらうタチの人だったみたい、羽藤兵曹って・・・・。
「19機(公認)を撃墜した」
ここは調べていません。調べても無駄?
撃墜機数は把握していませんが、おもしろい撃墜例を見つけました。17年5月13日、3号爆弾でB‐17を不時着させたのではないか、という記録。ママにとっては「19機」より、こっちの方がおもしろかった。
結論!!
羽藤兵曹は技倆優秀で性格もよく、一度上官が気に入ると手放したくなくなる好青年だった!!
で、どうでしょうか?
もちろん、ママ妄想てんこもりで。
羽藤一志 2飛曹 NAP 2/C Kazushi Uto
台南空で「ポッポ」と愛称されていた白面の温厚な若年パイロットであったが、坂井三郎の列機をつとめ、地味にスコアを重ねていった。
大正11年愛媛県に生まれ、昭和16年10月乙9期飛練を卒業して、翌年2月台南空に配属され、4月ラバウル、ついでラエに進出して10日のモレスビー攻撃で初戦果をあげていらい、ニューギニア、ソロモンに転戦、9月13日のガダルカナル島攻撃で行方不明になるまでの半年足らずに、19機(公認)を撃墜した。
ネットで調べても、まあ、だいたい上と同じ内容の「羽藤一志」が出てくるわけです。ウィキペディアにもこう書いてあったなあ。ここが元ネタかな?とママは思っているのですが。
誰も突っ込んでいる人がいないので、ママが突っ込んでもいいかなあ?
別に「嘘ばっかしやんけ(怒)」と突っ込んでいるわけではなく、例によって例の如く妄想込みでの突っ込みなので、気を悪くなさらないでください。
どっから突っ込もうかなあ~(^o^)
まず名前! 苗字に”Uto”という読みがついているのですが、ママ妄想では”Hato”ということで。
坂井さんも『大空のサムライ』に書いていますが、かれの愛称は「ポッポ」。別に羽藤兵曹がハトに似ているとか、動きがハトっぽいというわけではないと思うんですよね~。ママは名前が「ハトー」だから「ポッポ」って愛称になったんだと思い込んでいます。
(「羽藤」なんて変わった名字だなあ、と思ったのですが、ネットで検索してみると、かれの出身地・愛媛県では割とメジャーな名字のようです。いっぱい引っ掛かりました)
一番突っ込みたいポイントはここ!!
「翌年2月台南空に配属」
これです。いったい、どこからこういう話になったのか、ママにはさっぱりわからないのですが、羽藤兵曹が17年2月に台南空に配属された事実は見当たりません。
羽藤兵曹が17年2月に配属されたのは「千歳空」ではないかと思います。ただ、正式にいつ配属されたのかは不明です。千歳空の編制表で最初に羽藤兵曹の名前が出てくるのが17年2月2日。この前、数日のうちに配属されたのではないでしょうか。
千歳空戦闘機隊とひとくちにいっても本隊(? 飛行隊長・岡本晴年少佐の所在地)はトラック、その他タロアやルオットにも分散していました。
このうちのトラック隊が瑞鶴・翔鶴でラバウルに運んでもらった、というグループなのです(西澤さんもいるよーん)。1月下旬にトラックからラバウルに移動しています。
その移動先のラバウルで、羽藤兵曹はじめ、新井正美、後藤龍助、熊谷賢一、木村裕、鈴木松巳、といった乙9期戦闘機専修の同期生が千歳空に合流したようです。これらの人たちはのち、4空経由で台南空になります。
2月下旬になって千歳空戦闘機ラバウル隊は4空戦闘機隊に編入されたようです。
翌3月も同じです。ところが、羽藤兵曹、どういうわけか4空の編成表に名前が出てません。
4月に台南空に編入された当初は、台南空本隊はまだ到着しておらず、元4空搭乗員だけで戦っているのですが、そこに羽藤兵曹の名前があるので、別によその隊に転勤になったというわけではなさそうです。病気でもして休んでいたのだろうとママ妄想。
というわけでママペディア的にはここは訂正して「17年2月ラバウルの千歳空に着任、その後、4空を経て4月に台南空」ということで。
「(4月)10日のモレスビー攻撃で初戦果をあげ」
自分で調べてみたのですが、4月10日のモレスビー攻撃(河合四郎大尉指揮)には羽藤兵曹の名前、ないんですよねー。10日は羽藤兵曹はラエで上空哨戒任務です。
翌11日のラエ上空哨戒中にP‐40を1機撃墜しているようなので、これの間違いでは?
坂井さんも「編制表と、実際の出撃メンバーは違う」みたいなことを書かれていましたが、確認のしようがないので、とりあず、ママ的には羽藤兵曹の初戦果4月10日説は却下して、翌11日ということで。
「坂井三郎の列機をつとめ」
たしかに坂井さんの列機として出撃していることもあります。しかし、しかしですね、ことさら「坂井の列機」と強調するほど列機だろうか、というのがママの突っ込みです。
基地上空哨戒や急な敵機邀撃をのぞいた、大規模な出撃や船団上空哨戒時、果たして羽藤兵曹はだれと飛んでいるのか、そこらへんママ独自に調査(?)してみました。
4月に台南空になってから、羽藤兵曹が一緒に出撃した小隊メンバーは別に固定というわけではなさそうです。
小隊長だけ挙げると、山口馨中尉、吉野俐飛曹長、宮崎儀太郎飛曹長、半田亘飛曹長、太田敏夫兵曹、西澤廣義兵曹・・・・まあ、いろいろいます。ちょっと吉野飛曹長が多いかなあ・・・・という気はします。千歳空―4空―台南空のよしみでしょうか。でも、羽藤兵曹が出撃を休んでいる間に、吉野飛曹長は戦死してしまいました・・・・。
6月下旬から7月初めにかけては高塚寅一飛曹長の列機として結構一緒に飛んでいます。
7月下旬は林谷忠中尉(海兵67期)に気に入られたのか、ずっと一緒です。
さて羽藤兵曹の「坂井三郎の列機」時代ですが、ママ調査では7月30日から坂井さんが怪我をして戦線離脱する8月7日まで3回、ということで!
それ以前は1回あるだけなので、集中的に列機として飛んでいるこの時期を「坂井三郎の列機」時代と名付けたいと思います。短いですよ(^_^;)
ちなみに坂井さんが戦線離脱してからは8月9から8月26日まで7回、笹井醇一中尉の3番機として出撃。
笹井中尉が戦死した8月26日のガ島陸攻隊掩護時も羽藤兵曹が3番機でした。
そのとき2番機だったのが大木芳男1飛曹ですが、笹井中尉の戦死後、羽藤兵曹が戦死する9月13日までの間は、大木1飛曹が小隊長として羽藤兵曹を列機にして6回出撃しています。
気に入られたら、とことん使ってもらうタチの人だったみたい、羽藤兵曹って・・・・。
「19機(公認)を撃墜した」
ここは調べていません。調べても無駄?
撃墜機数は把握していませんが、おもしろい撃墜例を見つけました。17年5月13日、3号爆弾でB‐17を不時着させたのではないか、という記録。ママにとっては「19機」より、こっちの方がおもしろかった。
結論!!
羽藤兵曹は技倆優秀で性格もよく、一度上官が気に入ると手放したくなくなる好青年だった!!
で、どうでしょうか?
もちろん、ママ妄想てんこもりで。
