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敷島隊の直掩隊2008年10月20日 07時39分15秒

西澤さんの最後の仕事、「敷島隊の直掩」に関して。

例によって例の如く、ママ妄想入っているので、最初にお断りしておきます。

敷島隊が最初に出撃したのは19年10月21日。突入を果たせず、その後も23日、24日と出撃・帰投、25日に敵空母に突入、ということになります。
敷島隊本隊自体は隊員の入れ替わりがあるのですが、今日の本題は「直掩隊」のほうなのであえて触れません。
(以下の編制は金子敏夫『神風特攻の記録』光人社NF文庫からの引用)


21日の直掩隊。
 谷口正夫飛曹長
 桜井幸一一飛曹
 政本利幸一飛曹
 森 某飛長
戦闘305ということなので201空身内からの直掩、ということでいいでしょうか。

23日の直掩隊。
 谷口正夫飛曹長
 桜井幸一一飛曹
 政本利幸一飛曹
 森 某飛長
21日と同じメンバーのようです。

24日の直掩隊。
 松本勝正上飛曹
 本多慎吾上飛曹
 管川操飛長
 馬場良治飛長
ここで直掩隊のメンバー全面入れ換え。(本では「松本勝正飛曹長」になっていますが乙9期なので上飛曹の間違いだと思われます。「本多慎吾上飛曹」は本では「本田」と書いてありますが、203空の行動調書ではほとんど「本多」なのでこちらに直しました)
メンバーは戦闘303の搭乗員で、201空とは全く無関係。元203空、10月24日時点ではT部隊762空ということになりますが、そこからの選抜です。
これ・・・・201空とは指揮命令系統も全く違うところから選んで来ている、ということでよいのでしょうか。

25日の直掩隊。
 西澤廣義飛曹長
 本多慎吾上飛曹
 管川操飛長
 馬場良治飛長
このメンバーで敷島隊の突入を見届けることになります。
前日のメンバーと比べると指揮官が松本上飛曹から西澤飛曹長に変わっている、ということです。

まず、どうして21、23日の戦闘305のメンバーから24、25日の戦闘303のメンバーに変更になったか、に関してですが。
どうも23日の発進時に、直掩隊指揮官の谷口飛曹長がグラマンに襲われ被弾負傷した、ということがあったようなので、それも一因のようです。
でも、谷口飛曹長1人が負傷しただけで戦闘305が直掩から手を引いたというのはちょっと不審・・・・。わかりません。

安部さんの手記では戦闘303は「10月24日、いよいよ比島進出の命令がくだって、―中略―岡嶋少佐を陣頭に全機は、鹿児島空をけって一路、フィリピンの空に向かって南下しはじめた」とあり、またさらに「(安部さんの)一番機の松本先任(勝正上飛曹)機が脚が入らず引き返していった」とあります。その後、台湾に一泊して25日にマバラカットに降り立った、となっているのですが、これだと日付が合わないですね・・・・。

直掩隊の編制表が本当なら、松本・本多・管川・馬場の四人は24日には確実にマバラカットにいたことになります。しかも、松本先任は脚故障でいったん(鹿児島に?)引き返しているのですから、安部さんより先着しているのはおかしいような・・・・?
何時に出撃したのかわからないのですが、24日の敷島隊直掩をやるためには前日にはマバラカットに到着していた、とみるのが自然かな、とも思います。

翌25日には松本上飛曹と西澤飛曹長が入れ替わっただけの直掩隊が敷島隊についていきます。
松本上飛曹に関しては、どうして直掩隊から外されたのかわからないのですが、安部さんや同期生の手記に「26日、西澤飛曹長と同じ輸送機に乗っていて戦死した」とあるので、26日にセブからマバラカットに向かっていたのは確実です。ということは、24日の直掩時に何か事情があって、本多・管川・馬場と一緒にマバラカットに戻らず、1人セブに降りたのでしょう、と推測。

この戦闘303の直掩メンバーですが。
わたしは25日のメンバーより、24日の方に違和感を感じています。
203空時代の編成表を眺めていると、同じ小隊の1番機・西澤、3番機・管川というコンビでよく一緒に飛んでいます。また本多・馬場コンビも同じ小隊の1・3番機で飛んでいることが多いです。しかも、西澤小隊、本多小隊は同じ中隊が多い。いわば、気心が知れてる仲(?)でしょうか。
松本先任は本多・管川・馬場とは、中隊でも小隊でもあまり縁があるようには思えないんですが・・・・。
何が言いたいかというと、24日の直掩隊も本当は西澤飛曹長が入るべきだった指揮官の位置に、何らかの事情で搭乗できなくなった西澤飛曹長に代わって松本先任が入ったのではないかな、ということです。ここらへん、バリバリママ妄想です。

いろいろ妄想した揚句、結局、どうして到着したばかりの戦闘303が敷島隊の直掩をやることになったのか、さっぱりわかりません。
心情的には・・・・同じ飛行隊から「特攻隊」「直掩隊」を出す非情を避けるため、とも考えられますが、以降もこれをやっていますからね・・・・理由にはなりませんね。

西澤さんの戦歴を見込まれた説、これであってほしい気もするのですが・・・・。
わたしが知る限り、西澤さんはこのときがフィリピン初めてなんじゃないかなあ・・・・。
でも、初めてのフィリピンで見込まれただけの大仕事をこなした西澤さん、さすがです。

いかんちゃあ(>_<)2008年10月20日 17時16分20秒

悪い顔よのう~
うちは午後4時以降はおやつ禁止なのに、たいやき食ってしまったwwww!!!!

初めてできたたい焼き屋なのに「名物」を名乗るとは、と文句言っていた例のたい焼き屋ですが、開店して間もないのに、すっかり町の名物になってしまっています。いつもすごい行列。
平気で15分、30分待ちですよ。

お母さん友達と会うと、必ず、
「あっこのたい焼き、食べた?」
「インド料理、行った?」
が挨拶代り。

いかにこの町にお店がなかったかがわかります(笑)。
でも、おいしいんだよ(^o^)、特に皮が。外がパリパリ(カリカリ?)なの。これならママにも食べられる。

今日、4時半ごろ、買物に行く途中で覗いたら並んでいる人が少なかった。
「待ち時間は?」と店員に聞いたら「10分ぐらい」とのこと。
やった、早いやん、と思って、頼んでおいてから買い物に行きました。

帰ってきたのは5時前。
そっから春海とふたり、我が家の「禁」を破って、たい焼き食っちまったwwwww\(^o^)/