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松本勝正上飛曹2008年10月26日 15時04分06秒

本間猛『予科練の空』光人社NF文庫 によると、松本上飛曹のことは、こう紹介してあります。
『愛媛県立西条中学から予科練に進んだのだが、彼の長身と端正なマスク、鋭い眼光は、当時からクラスのものが注目するところであった。戦闘機に進むや、彼の天性の操縦技術と、その不屈の闘魂は、太平洋戦争という檜舞台を得て遺憾なく発揮されたのであった。緒戦の勝ち戦はもとより、あの悪戦苦闘の連続となったソロモン戦線をはじめ、その後の幾多の空戦にも、敵機を叩き落として生き残った。レイテ海戦当時には、762空戦闘機隊の先任搭乗員であった』
本間氏は乙飛9期出身の水上機乗り(のち彩雲)。松本兵曹と予科練同期生です。

203空戦闘303の安部正治兵曹の回想「忘れざる熱血零戦隊」(本田稔ほか『私はラバウルの撃墜王だった』光人社NF文庫)。
『「おい、五十嵐、きょうは勝ったか?」
松本勝正(乙9期)先任は私と五十嵐保1飛曹を前にしてそういった。
「いやぁ、負けました」
五十嵐1飛曹(乙16)は、飛行帽の頭を一つかくと、半分笑って先任と私の顔を見くらべていた。
「おまえ、二番機が四番機に負けてどうするんか!」
しかりつける先任の口もとも半ば笑っている。』
安部さんは戦闘303北千島時代、松本先任の4番機でした。
戦闘303は夏になって北千島から北海道の美幌に戻り、安部兵曹はそこで盲腸の手術を受けたのだとか。入院中のある日、松本先任が見舞いに来てくれます。
『「オイ、安部、いまやったらお前に負けんぞ・・・・」
先任はニヤニヤとベッドの私の顔を見おろして冗談をいった。私は腹が痛くてとても笑うどころではなかったが、それでも顔をしかめながらも笑っていた。
それには、こういうわけがあったのだ。さきに松本先任は後輩の私を相手にした戦技訓練で、私が勝ったのでいい気になっていた私だったが、あとで松本先任が後輩の私に手ごころをくわえた空戦訓練をやって、「自信を持つように」指導してくれたことを知ったからであった。
「士はおのれを知る者のために死す」とか。それいらい私は、「よし、オレは先任のためにだったら、どんなに苦しい戦いでも突っ込んでいくぞ」―と、みずからの胸にそう言い聞かせていたのである』
ところが、そんな2人に永遠の別れの時がやってきます。
鹿児島から比島への進出時、松本先任の飛行機の脚が入らず、かれは編隊から離れ1人基地へ引き返したのです。安部さんにとって、それが松本先任を見た最後になりました。
その後、松本先任はどうも本隊より先に比島マバラカット基地に先着したようで、『神風特攻の記録』によると10月24日の敷島隊の直掩隊長として出撃しています。
いま、書いていて気付いたのですが、かれはもしかして敷島隊の関行男大尉(海兵70期)と顔見知りだったかもしれないですね。関大尉も愛媛県西条中学出身。
松本先任の生年がわからないので、同級生か先輩後輩かわかりませんが、とにかく同窓生・同郷であることには間違いありません。特攻隊隊長と直掩隊隊長として、お二人は何か言葉を交わすことなどあったのでしょうか・・・・。

安部さんはマバラカット到着後、一度も松本先任に会えないまま他の任務につきます。26日、菊池中尉、初島上飛曹、一戸1飛曹とクラーク、ルバング島と飛行し、27日、マバラカットに戻ってきて、「最悪の知らせ」に接しました。
松本先任だけではなく、西澤飛曹長、本多兵曹、馬場飛長の乗った輸送機が前日26日、ミンドロ島上空でグラマン2機に落とされてしまった―と。

『その直後、ちかくのバンバン川の川岸までひとり歩いた私は、「松本先任!」と川面に向かって呼んでみた。涙につまった、言葉にならない声がのどのおくからついてでた。くやし涙が胸からしぼり上げるように出てくる。さながら、自分の心の中の一部分が失われたようであった』

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