富安陽子『盆まねき』偕成社 ― 2012年01月08日 10時04分09秒
この本、去年の12月下旬に読んだ本です。
小学校3・4年生からが対象になっている児童書です。
小学校3・4年生からが対象になっている児童書です。

春海の本を取り上げて読んだのか!?
違います。
戦史研究家のJさんにすすめられて読んだのです。Jさんもある人からすすめられて読んだそうです。そのある人も、また人からすすめられて読んだそうです。
要するに、口コミというか、読んだ人がことごとく感動して、次々に人にすすめていき、わたしが読むことになった・・・・というわけです。
ですから、いま、わたしは、直接すすめてくれたJさんだけではなく、Jさん以前に「この本、いいよ」とすすめてくれたすべての人に感謝しています。
もちろん、作者の富安陽子さんにも。
違います。
戦史研究家のJさんにすすめられて読んだのです。Jさんもある人からすすめられて読んだそうです。そのある人も、また人からすすめられて読んだそうです。
要するに、口コミというか、読んだ人がことごとく感動して、次々に人にすすめていき、わたしが読むことになった・・・・というわけです。
ですから、いま、わたしは、直接すすめてくれたJさんだけではなく、Jさん以前に「この本、いいよ」とすすめてくれたすべての人に感謝しています。
もちろん、作者の富安陽子さんにも。
帯には、
『富安陽子が描く日本の夏 毎年8月がくるとなっちゃんの家族はお盆をむかえにおじいちゃんの家へでかけます。』
と書かれています。
お母さんの実家に帰った小学校3年生のなっちゃんが、おじいちゃんであるヒデじいちゃんや、フミおばちゃん(おじいちゃんの姉さん)や、大ばあちゃん(おじいちゃんとフミおばちゃんのお母さん)から話してもらう、ホラか本当かわからない幻想的なお話を聞きながら展開していきます。
1章 おじいちゃんの話 ―八月十二日― ナメクジナメタロウ
2章 フミおばちゃんの話 ―八月十三日― 月の田んぼ
3章 大ばあちゃんの話 ―八月十四日― かっぱのふしぎな玉
4章 ―八月十五日― 盆踊りの夜
もうひとつの物語 ―さいごにほんとうのお話をひとつ―
なっちゃんのおじいちゃんちの仏間には、三枚の写真立てが飾ってあり、その中に一枚、若い男の人の写真がありました。
シュンスケおじさんです。
なっちゃんのおじいちゃん、ヒデじいちゃんのお兄さんです。
なっちゃんは大ばあちゃんに、
「ねえ、大ばあちゃん。シュンスケおじさんは、どうして死んじゃったの?」
と聞いてみました。
「シュンスケさんはね、戦争で死んじゃったんだよ」
おじいちゃんが話してくれたナメタロウのお話も、フミおばちゃんが話してくれた月の田んぼのお話も、子どもだった頃のシュンスケおじさんとの思い出です・・・・。
もしここまで読んで、「この本を自分で読んでみよう」と思われた方は、ここから先はいまは読まれない方がよいかも?です。
―本当のお話―
作者の富安陽子さんのお父さんは秀雄さんといいます。
秀雄さんのお兄さんは、昭和20年5月14日、第6筑波隊(零戦)として特攻出撃し、米空母エンタープライズに突入、大破させたことが判明している富安俊助中尉(予学13期・早稲田大)です。
大正11年、長崎県生まれ。
目がぱっちりと大きかったので、小学校と中学では「目玉」のニックネーム。
ハーモニカ、柔道が得意。
1943年3月 早稲田大学専門部政経科卒業
渡満して新京の日満商事勤務
9月 第13期予備学生として土浦海軍航空隊入隊
筑波航空隊
1944年 松山航空隊
岡崎航空隊
1945年3月 筑波航空隊
4月 721空(神雷部隊)戦闘306飛行隊(爆戦)
【富安俊助中尉】

父上様
母上様
姉上様
突然、某方面に出撃を命ぜられ、只今より出発します。もとよりお国に捧げた身体故、生還を期しません。必ず立派な戦果を挙げる覚悟です。
祖国の興廃存亡は今日只今にあります。吾々は御國の防人として出て行くのです。私が居なくなったら淋しいかもしれませんが、大いに張り切って元気で暮らして下さい。心配なのは皆様が力を落とすことです。
海軍に入る前に、当然死を覚悟していたのですから、皆様も淋しがることはないと思います。秀雄には便りを出す予定ですが、家からもよく言ってやって下さい。近藤中尉が訪ねて行く予定故、会ってやって下さい。
では 俊助
大いに頑張りますから、その点御安心ください。
20年5月14日
0525 鹿屋基地から第6筑波隊、第11建武隊、第8七生隊が発進
0610 エンタープライズのレーダー上に最初の敵機影が数個、南西方向に出現
0623 敵機数機、20カイリ圏内に侵入
0645~0649 エンタープライズ見張員、味方戦闘機が敵機3機を撃墜するのを水平線上
に望見
0653 エンタープライズの右舷雲間から1機の零戦出現(5インチ砲で砲撃)。雲を利用しな
がらエンタープライズを追尾
0654 エンタープライズ針路変更。
0656 エンタープライズさらに変針。このチャンスを待っていたかのように零戦が雲底から現
れ同艦めがけて突入開始。
0657 左舷後部上方から斜めに降下し、オーバーシュートして右舷に衝突するかのように見
える。零戦の操縦士もそう思ったのか、突入点から100~200フィート手前の飛行甲
板上方で左に急横転して背面になり、そのまま降下角度を40~50度に増加して、
ちょうど前部エレベーターの手前の飛行甲板に激突、エレベーター孔の中を落下。
爆弾(500キロ)は5層下方の甲板で大音響を挙げて炸裂。
(50番を抱いたまま背面状態になった突入寸前の富安機と、エンタープライズに大爆発が起こった瞬間の画像が、加藤浩『神雷部隊始末記』に掲載されています)
エンタープライズは大破。飛行甲板はゆがみ、エレベーターの穴が開き、飛行機の離発着が不可能になってしまいました(戦死14名、負傷者68名)。
3日前にバンカーヒルから移されたばかりの旗艦としての機能も失い、再びランドルフに移されることに。
修理のため本国へ戻ることになった空母エンタープライズの太平洋戦争はここで終わってしまいました・・・・。
突入した特攻隊員の遺体は、同艦乗組員と同様に水葬に付されたとのこと。
「エレベーターの孔の底で発見した遺体のポケットにかれの名刺が入ってた」(米側記録)
にも関わらず、その名前は正確に読まれず、長い間、「トミ・ザイ」として伝わっていました。
この「トミ・ザイ」が富安俊助中尉であると特定したのが戦史研究家の菅原完氏です。
調査の過程で、エンタープライズ元乗組員・ノーマン・ザフト氏がこのときの突入零戦の破片を所持していることが判明。
胴体の小さな破片と、プロペラブレードを3インチほどの厚さに輪切りにしたもの。
プロペラの輪切りの方は自分の記念として将来息子に譲りたい、が、胴体の破片の方は自分が持っているより富安中尉のご家族に差し上げた方が有意義だろうと、返還されたそうです。
※その破片は秀雄さんの希望により、2005年、富安中尉が最後に飛び立った海上自衛隊鹿屋基地の史料館に寄贈され、展示されている(2012年1月8日現在)。
秀雄さん
「兄俊助は、正式には1945年5月14日戦死と知らされた以外、どこでどうなったのか、消息はまったく不明であった。ただ、十数年前、エンタープライズに突入したのは、貴方の兄さんではないかという噂話はあったが、それもいつとはなく途絶えてしまった。突入時の模様が詳細にわかり、当時としては、出撃したからには必中を目指していたのだから、本人としても本望だっただろう。また、こうして兄俊助の最後を知り得たことは、家族としては望外の喜びであるが、一緒に出撃して消息不明の方々のご家族に対しては、本当に申し訳ない。皆さんが兄俊助一人の手柄のようにいわれるが、一緒に出撃した方々の支援があってはじめて突入できたのだから、手柄を独り占めにすべきではないと思う」
戦闘経過を読めばわかるとおり、富安中尉は最後まで冷静沈着。
おそらく最後の瞬間まで目を開き、操縦桿を離すことはなかったのでしょう。
たまたま突入できたのではなく、突入に対する執念があったのです。
『盆まねき』は児童書です。
難しい説明も、残酷なシーンもありません。
繰り広げられるのは、むしろ、ホラか本当かわからない幻想的な世界。
しかし、そこに託された陽子さんはじめ富安家の人々の想いというのは、いやというほど胸に迫ってきます。
一度死んでしまったシュンスケおじさんが、二度目の死を迎えないように・・・・。
自分が感じるものがあったからといって、他の人の共感を得られるかどうかはわかりません。
しかし、この本は、多少押しつけがましいかも知れませんが、このブログの来訪者の方々にもぜひおすすめしたい、と思い、紹介しました。
参考・引用
光人社『丸』2010年7月号 菅原完「空母エンタープライズに突入した「トミ・ザイ」を追え」
加藤浩『神雷部隊始末記』学研
海上自衛隊鹿屋基地史料館