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京都四条河原町醤油商近江屋にて2007年11月15日 09時45分55秒

坂本龍馬&中岡慎太郎
慶応3年(1867)11月15日、土佐藩邸と河原町通りを挟んだ醤油商近江屋の二階で、二人の土佐人が襲撃された。
坂本龍馬と中岡慎太郎。

刺客は面会人を装って坂本を訪ねてきたという。十津川郷士を名乗ったとも言われている。
応対に出た元相撲取りの藤吉は、龍馬に面会人の来訪を告げるために狭い階段を二階に上がろうとした。そこを後ろからばっさりと一太刀。
藤吉が音を立てて転げ落ちたのを、ふざけて暴れていると勘違いした龍馬は、「ほたえな!」と土佐弁で怒鳴ったらしい。騒ぐな、という意味らしい。
風邪気味だった龍馬はたまたま訪ねてきた慎太郎と二階の奥の部屋で軍鶏鍋をつついていた。
そこへ疾風のように駆け込んできた刺客に、龍馬は額に一太刀、慎太郎は後頭部をやられた。
龍馬は背後の刀掛けに掛けてあった差料(吉行といわれている)をとっさに取ろうとして背を向けたところをさらに一太刀浴びた。
龍馬は刀を鞘から抜く間もないまま応戦するが、さらに数太刀浴びて倒れた。頭を斬られながらも慎太郎に向かって「刀はないか、刀はないか」と言いながら気絶したらしい。

乱入してきた連中は刺客としては甘い人間だったのか、龍馬にも慎太郎にもとどめを刺さずに引き上げていった。

龍馬も慎太郎も殺されているのに、なぜ、この最後の瞬間のことがわかっているのか?
それは刺客がとどめを刺さなかったために、慎太郎がこのあと数時間生き続け、語ったからである。
慎太郎も数太刀切られて気を失っていたが、刺客が引き上げるとき、立ち去り際にさらに二太刀斬りつけられ、その痛みで蘇生した。蘇生したが、死んだふりをしていた。
気を失っていた龍馬もやがて意識を取り戻し、慎太郎と会話を交わした。
「手は効くか?」
「手は効く」
龍馬は廊下に出て家人に助けを求めた。が、脳をやられていた。
「もういかん」
と仰向けになり、ばたんと脚で畳を叩く音がして息絶えたらしい・・・・。
この日が32歳の誕生日だった。

一方の慎太郎は医者の手当てを受けた。
陸援隊の仲間も駆けつけ、一時は快方に向かっていた。
慎太郎も「焼きめし食いたい」と言うほど元気になっていたらしいが、やはり後頭部に受けた傷が致命傷になったのか、嘔吐を繰り返し17日に亡くなってしまった。享年29。

二人は東山霊山に葬られた。

いまだに歴史の謎として、
『龍馬暗殺犯は誰か』
ということが話題になる。
当時、土佐の人間は、犯人は新選組だと思っていたらしい。それは、刺客が座敷に乱入してきたときに「こなくそ!」と叫んだことと、引き上げたあと新選組隊士がよく利用する瓢亭の下駄と一本の刀の鞘が落ちていたからだといわれている。
刀の鞘を見た元新選組隊士が、
「これは原田左之助の差し料の鞘だ」
と証言したらしい。
原田は伊予脱藩の新選組幹部で、刺客が叫んだ「こなくそ」も伊予地方の方言だったことから、新選組犯人説が定着したようだ。このせいで、ひと月後にもう一騒動おこっている(天満屋騒動・新選組にやらせたのが紀州藩公用人だと勘違いしてその宿所に斬り込む)。
が、明治になって、実際の犯人は京都見廻組だった、という説が有力になった。
実際、その場に行ったものの証言が出てきたのだ。組頭・佐々木只三郎以下配下数人で龍馬を襲ったらしい。
実行犯は判明した。では、かれらにやらせたのは誰だ、ということになる。
京都守護職松平容保説、薩摩西郷隆盛説、まだまだ決着はついていないようだ。
襲われた当人の龍馬も慎太郎も、心当たりが多すぎてきっとわかっていないだろう。
それともあの世で再会して、
「やらせたのはおまんだったのかー!」
と驚きの声を上げているか・・・・。